父のアルバム 2


011
昭和30年前後の浜島中学校運動会 2/4


運動会での応援風景のひととき。男子は詰襟にタスキがけで手には日の丸の扇を
かざし、女子は袴姿で自分の組を応援しています。             .

校舎の屋根の向こうに見える丘は菅田や広見と云い、頂上に私の家の畑や清六屋
さん、岩じ屋さん、金べ屋さんなどの畑があり親が耕作していた以前は、この写
真のように良く手入れをされていましたが、年老いてからは荒れるに任せるまま
で今では雑木林のようになって畑の面影は全くなくなってしまい、帰郷するたび
にこの畑や菅田の畑や田、桧山路の田等を見には行きますが、どれも荒れるに任
せたままで自分には手の施し様も無く心が痛みます。浜島を離れて他所で生活し
ている人の中には私の様な気持の人がいるのではないでしょうか。      .

2008年より菅田や広見地区の公図見直しのための地積調査が始まり地主は雑木、
雑草を刈り払い杭打ちをし志摩市により測量が行われましたが、殆どの田や畑は耕
作放棄地で荒れ放題のため地目は山林に変更されました。           .




012
昭和30年前後の浜島中学校運動会 3/4


中学校の運動会では見物席の南側に色々な店が出ていて見物に来る子供たちの
楽しみのひとつでした。写真の綿菓子を作っている人は私の親戚の柴原通成さ
んです。                               .

写真は東側から写したもので後方に体育用具を入れてあった小屋があり、その
右側が正門になっていました。従って左側は田杭川をはさんで現在の汐見成団
地ですが、当時はバス停のあたりに一、二軒の家があるだけで他は田と山林だ
けでした。                              .




013
昭和30年前後の浜島中学校運動会 4/4


浜島中学校校舎の西側玄関付近。中学校の玄関を入ると下駄箱が沢山並ん
でいて校舎は平屋建てで南北に二棟並んでいました。その間を東、中、西
と渡り廊下が繋がり廊下の間には花畑が作られていました。東端と西北側
に便所があり北校舎の北側には東西に長く自転車置き場があり、当時から
殆どの生徒は自転車通学をしていましたが、道路が未舗装だったため汐見
成(当時、汐見成と呼んでいたか記憶無し)や大方の坂道を上るのは、切
替ギヤなどない自転車だったので大変でした。            .

また雨の日は制服の背中までハネが飛び、すれ違う自動車からは容赦なく
泥水を浴びせられ全身泥だらけになったものです。写真の位置は南の正門
に対し裏門にあたり、未舗装の道路に沿って土塁が盛ってあり、崩れ防止
のためか数段草が植えてありました。                .

私たちは昼食のご飯だけを弁当箱に入れて持って行き、毎日むかいのコス
マヤなどの店でコロッケを買いオカズにしました。店の人はコロッケを皿
に注いだソースにジャボッと浸けて新聞紙に包んで売ってくれました。 .

何時だったか昼食中に水源地の方が山火事になり、最初は食事が済んだら
消火の手伝いにと言っていたのに今すぐ行けとなり、皆で駆けつけ松の木
の枝などで叩いて消火の手伝いをしたこともありました。       .






014
昭和30年前後の大矢の浜 1/5


もう直ぐ伊勢海老祭とのことですので、会場になる大矢の浜の写真を投稿して
みます。宮山の下の磯あたりから写したもので、最近の情景と比べると隔世の
感です。しかし私は悲しいことに伊勢海老祭は一度も見たことがなく、祭りの
開催に努力されている町民の方々には申し訳なく思っています。この祭りが何
時までも続き全国に知れ渡ることを念願します。             .




015
昭和30年前後の大矢の浜 2/5


宮山から堤防を下りた付近より写したもので、波が堤防の近くまで寄せてい
ます。大矢の浜は場所により砂のところと玉砂利のところが交互にあり、夏
の日光に焼かれた玉砂利は裸足では歩けないほど熱かった思い出があり、ま
た砂のところも少し掘っただけで直ぐに下からは砂利が出てきました。この
ころの大矢の浜は漁師の仕事場で網が干してあり、遠方には漁船が何隻か引
上げられています。                         .




016
昭和30年前後の大矢の浜 3/5


海水浴風景です。大矢の浜では宮山の下と弘法井戸の下、それから現在の浜島
大橋付近が砂も小さく、自然と集まり海水浴をしました。その間には磯があり
私は宮山の下の今はえびっさん釣堀辺りになっている磯で、海女眼鏡をつけて
岩場を泳いだり潜ったりして遊びましたが、今思い出してみると波が渦巻くあ
のようなところでよく泳いだものだと冷や汗ものです。          .

磯で潜ると岩と岩の間にウニがたくさんいて、海女眼鏡で見るととても大きく
見えて鉄棒などで取り、浮き上がって見ると手のひらに乗る位に小さくてがっ
かりしたものですが、それでも石で叩き割って中の黄色い身(卵巣)を指でホ
ジリ出し生で食べたりしました。また岩場を歩いている時にウニを踏んずけて
しまうと、踵に何本もトゲが刺さってしまい痛いのですが、ウニのトゲはほっ
ておけば筋肉になると聞かされていて特に治療などしませんでした。    .

この頃の浜島では小学校で許可されていた海水浴場は、大矢の浜と札場から水
産試験場までの早町海岸の二ヶ所でしたが、早町海岸は舟も多く海底には割れ
たビンなどが多く危ないとのことで、私は殆ど大矢の浜で泳ぎましたが小学校
の高学年になると、札場に係留されていた鰹船の舳から飛び込み巡航船乗り場
の桟橋まで泳いだりしました。                     .
 
小学校の水泳の時間も大矢の浜へ行き泳ぎ、終わると宮山の下にある洗い場で
、冷たい水に身体を震わせながら塩水を落とし、教室で着替えるのですが女の
子が先に教室に入り着替えをし、その後男の子が教室で着替えるのでしたが女
の子は出て行かず、私どもは教室の隅にかたまって後ろから女の子にからかわ
れながら、尻丸出しで素早く着替えたのを覚えています。モモ○さん覚えてい
ますか。あなたは「見せてやるからこっちへ来い」と言って純真な私をからかっ
たことを。                              .
 この海水浴場で毎年伊勢えび祭が開催されるのですね。




017
昭和30年前後の大矢の浜 4/5


大矢の浜から目戸の南風荘下の突堤を写したもので、現在の写真(角度が違います
が)と比べてみると、当時の突堤は数ヶ所切り離されていて先端までは行けません
でした。毎年台風がくると何時も高波が突堤にぶつかり大きな音とともに10〜20
mも立ち上りました。ここではしませんでしたが大矢の浜から城山までの堤防で
も、テトラポットが置かれていないところでは波が立ち上り、私たちは次の波が
来る間隙をぬって駆け抜けて遊びましたが、タイミングを誤ると頭から海水をか
ぶり全身濡れねずみになったものでした。                  .

この城山までの堤防は昭和28年9月25日(1953年)の13号台風でズタズタに破壊
され、その後再建されたもので堤防の道幅が広くなったと記憶しています。この
台風で浜島の低い土地は高潮のためほとんど浸水してしまい、私は祖父に頭から
毛布をかけられおぶってもらい元地の畑にあった小屋へ避難しましたが、途中祖
父に頼み外を見せてもらうと一面水浸しで、祖父は腰まで浸かり水をかき分け歩
いていました。次第に風が強くなり心配した後に養父になった伯父さんが様子を
見に来て、ここはあぶないからと下の家に頼みそこで一晩過ごしました。   .

この時に母の実家では避難した時に仏さんを忘れ、叔母さんが取って返し位牌を
口に咥え泳いで取ってきたそうで、床から1m位だったと思いますが、その時の
海水の高さを示す跡が後々まで残っていました。台風が去って水が引いた後で帰
ってみると、岩崎の海岸から100mも離れているのに家の前に舟が置かれていた
のには驚いたものでした。                        .

私としては小学校の教室が潰れた昭和34年の伊勢湾台風よりも、この13号台風
のほうが怖かった思い出があります。                  .




018
昭和30年前後の大矢の浜 5/5


16 昭和30年前後の大矢の浜 3/5で紹介しました海水浴風景のうち目戸の
部分を拡大して現在の模様と比較してみました。ちょうど浜島大橋のところに
なります。目戸は現在は殆ど平坦な住宅地等になっていますが、この頃は岡あ
り谷ありの一面畑で細い畑道があるだけで、現在の郵便局あたりは低地になっ
ていて田んぼがあり、バス停から鯨望荘へは一応広い地道があり宝来荘や南風
荘へ行くにはその中間あたりから南へ曲がり迂回して行きました。     .

その道を各ホテル所有の大型の外車が客の送迎のために土煙を上げて走ってい
ました。そのころ町で見かける自動車と云えば三輪トラック(バタバタ)くら
いで、 私たちは一度はあんな立派な自動車に乗ってみたいと思ったものでし
た。私のお気に入りの自動車は鯨望荘の屋根が黒のレザー張りでボディーがこ
げ茶色の車でした。                          .

この目戸と出湯は私が小学生の頃に耕地整理で、毎日ブルドーザーやグレータ
ー、スクレーバーが走り廻り地面を削り取り谷を埋めて平らにして宅地化され
、そこで工事車両の間を駆け抜けたりして遊びました。         .

実家の元地の畑も無くなり4〜5本あったビヤ(ビワ)やミカン、グミの木も
切り倒されて、13号台風の時に非難した小屋だけが残り、現在の小学校校庭
の下に埋もれてしまいました。その小屋も月日がたち朽ち果て倒壊し今は当時
を偲ぶものは何もありません。確か昭和34年の伊勢湾台風の頃には工事は終わ
っていたと思います。 間違っていましたらすみません。正しい時期を教えて
ください。                              .






019
昭和30年前後の浜島港 1/4


投稿者:Uさまへ、あの鯨望荘の自動車はマーキュリーだったのですか。巡航船
乗り場には何時も鯨望荘や宝来荘それから南風荘の送迎用の自動車が止まってい
ましたが、他の車はどんな色をしていたか記憶はありません。私は小さかったた
めかその自動車が大変大きく感じたものです。                .

今回の写真は巡航船乗り場の桟橋から、現在の勢南石油さんの方を写したもので
ホテル太平洋の看板が見えます。確かホテル太平洋は他のホテルよりも後に出来
たと記憶しています。                          .

この写真の左側に巡航船の切符売り場がありました。この頃の港は防潮扉等は無
く、気をつけないと直ぐにドボンと海に落ちてしまいそうです。       .

そう言う私も一度堤防に立てかけられていた船に降りるための木製の梯子で遊ん
でいて、足を滑らせ海に落ちたこともあり幸運にも近くにいた大人に助けられ、
危うく命を落とすところだった経験があります。              .
 
写真には大勢の人が写っていますが、誰かを迎えに来たところでしょうか。当時
遠洋鰹漁船が出漁する時は家族や親戚等の人が五色のテープで見送り、テープが
切れると船員がその束をマストに登りくくり付けたのを見たことがありますが、
プロ野球で優勝した時にスタンドからグランドに投げられるテープを見るたびに
その光景が思い出されます。                       .

ところで各ホテルの自動車はどの道を通っていったのでしょうか。現百五銀行の
四つ角も松波湯の四つ角も、とても当時の道幅では曲がれそうにもなく、多分巡
航船乗り場を西に行き左に小堀鉄工所や小埼医院の前を通り、正面の迫子屋とヨ
ハチヤ、丸虎の三叉路を右に本町通りへ曲がったのではないでしょうか。当時は
今よりも道も狭く舗装もされていなく、運転は大変 だっただろうと思います。



 
020
昭和30年前後の浜島港 2/4


巡航船乗り場の桟橋です。このころの桟橋は現在のコンクリート製ではなく、御覧のように
木製の厚板を横に並べ両脇と真中を縦板で固定したもので、横板には少しだけ隙間があり、
そこから下を覗くと海底をワタリガ二がノソノソと歩いていて、ヒシで突いて獲っている人
もいました。                                   .
 
写真の左上に一部が見えていますが、桟橋の両側には観光用の塔が立っていて、記憶にはあ
りませんが多分「歓迎・浜島」とか「ようこそ浜島へ」とか書いてあったのではないでしょうか。
桟橋の左側には浜島ではおそらく始めての公衆便所があり、それも水洗であり一般の家庭では
いわゆるボットン便所が普通であり大変珍しいものでした。しかし水洗便所の汚水は直接海に
垂れ流しで、その汚水に魚のカイズが群れていて、桟橋で釣りをする人はそのカイズを釣り上
げて、それを食卓に上げていたのか思い出すと「オエッ」とします。あの頃は衛生上とか環境汚
染等今ほどうるさくはなかったのですね。                       .

浜島港にはこの桟橋のほかに田中石油の前にも少し小ぶりの桟橋があり、船に燃料を補給する
ための桟橋だったのか、油に汚れていました。またこの桟橋から紀文旅館までの間は、横長の
階段状になっていて楽に海辺に下りることができました。                .

写真の後ろ向きの子供が私で弟と母がいて、その後ろに顔が写っている人が姉の友達の喜富寿
司のサッチャン(幸代さん)で、 私と弟は実の姉弟のように可愛がってもらい、私の結婚式にま
で娘さんを連れてお祝いに来てくれました。このアングルから父は桟橋に横付けされた船(たぶ
ん巡航船)から写したと察せられます。                         .



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2012.05.04.