父のアルバム 3




021
昭和30年前後の浜島港 3/4


札場から大西製氷の方向を写しています。                 .

漁から帰り荷おろしした漁船は写真の右側の岸壁に並んで係留されていて、その艫(船尾)の片側に
四角く木の囲いがあり底板に穴が開いていて、それは船の便所だと教えられました。       .

魚が上がると今でもそうでしょうが漁協のサイレンが鳴り、札場では足の踏み場も無いほどの鰹が並
べられセリが始まって大変にぎわっていました。漁船が出航ともなると今の漁船のように冷凍設備が
整っていなかったため、写真に見える大西製氷の櫓のようなところから、ガラガラと氷を積込んでい
ました。                                         .

大西製氷には浜島で唯一のエレベーターがあり、勿論それは氷を運ぶためのものです。 実家には氷で
冷やす表面を銅板で張った冷蔵庫があったので、時々バケツをもって氷を買いに行くと、一階の保存
庫から出してきた氷を大きなガンドウで少し切れ目を入れ、ガンドウの背を切れ目に入れコンと突き
出すとスパッと割れて、その手際の良さに感心しました。                   .

志摩郡でエレベーターと言えば鳥羽市の駅前に、日和山公園へ登る物があるくらいで、遠足等で鳥羽
に行くとよく乗りました。                                 .

道の向こうには紀文旅館と、我家の親戚でオオシキ網元の弥四郎屋が写っています。札場と早町(さ
まち)の間のところで、父はよく夕方釣糸を沖に投げておき次の日の朝、引上げると鰻がかかってい
て、父は俎板の上で鰻の頭を錐で突き刺し固定して庖丁で「サァー」と手際よく開き、蒲焼にして家族
でよく食べました。                                    .




022
昭和30年前後の浜島港 4/4


浜島港には時々鳥羽の海上保安部から巡視船が入港しました。写真の船は巡視船「はまちどり」の船
橋で、他にもっと大型の巡視船「こうず」も来て、学校からの体験航海では英虞湾の外まで行き、熊
野灘の荒波のため船酔いに襲われ気分が悪くなり、甲板にうずくまったままで航海を楽しむどころ
ではなく散々な目に遭ったことがありました。                        .
 
巡視船には放水銃や機関銃、大砲が搭載されていて、おまわりさんの拳銃以外見たこともない私は
興奮を抑え見入ったものでした。                             .
 
私の父の遺稿によると戦前、戦中出征兵士は浜島の宇気比神社、南張の楠の宮(正式には楠御前八
柱神社、父の遺稿で初めて知った)御座の金毘羅不動尊、鳥羽の青峯山正福寺に詣で、浜島小学校
で激励をうけ港から船で迫子浦まで行き、そこから迫塩小学校の児童にも見送られて、徒歩で二本
松(桧山か夏草)と云うところを通り磯部に至り川辺橋の上で見送りの人達と別れ、逢坂山を越え
(伊勢道路のことか?)内宮で武運長久を祈願し久居の歩兵第三十三連隊に入営するのがしきたり
だったそうで、内宮に着いた時は足が棒のようになっていたと書かれていました。       .
 
私の父は昭和15年11月に出征し歩兵第55連隊補充兵として中支からビルマへと転戦し、九死に一
生を得て昭和21年6月に復員しましたが、一緒に出征した橋爪慶二郎様(タイワ)はビルマ(現ミ
ャンマー)の土となり帰って来ませんでした。また戦死されたヨハチヤの柴原貞男様(ビルマ)、
チョウスケヤの柴原楠成様(ビルマ)、キンスカの親戚の柴原章様(中国)、柴原喜多雄様(ビル
マ)、迫子の岡野弥比知様(中国)の方々とも戦場で関わりを持ったそうです。        
.


 
023
昭和30年前後の浜島目戸 1/3


宝来荘から南風荘へ向かう道の中間で、宝来荘方向を写した写真で左側へ行くとホテル太平洋です
が、この時出来ていたのか写真に建物が写っていないので判りません。この左側に目戸山古墳(浜
島古墳)があります。                                  .

18でも書いたように現在のバス停と鯨望荘の中間あたりから左に曲がると、左手は田んぼで右手
には豚小屋があり、現在の郵便局のあたりを更に左に曲がると宝来荘に行き当たり、そこを通り越
して進むと写真の場所に至りました。 その道を各ホテルの送迎乗用車が土煙をあげて走っていま
した。 この迂回路の周辺は低地で田んぼでしたが、そこから東側は少しずつ標高が高くなり一面の
畑地で、現在でも傾斜の面影が国道260号線の坂から感じられます。             .
 
その頃の目戸の様子が平成14年4月3日付中日新聞「あの日・あの時」に、浜島町の目戸山地区として
昭和29年2月の写真が井上博暁様の投稿で掲載されています。                 .


 
024
昭和30年前後の浜島目戸 2/3


南風荘の敷地内奥に浜島古墳群があり、その中の一つは盛土が紛失し石室の入口が露出した状態で
中に入ることが出来ました。中は子供の私でも背を屈めなければならないくらい狭く、昔ここには
鬼が住んでいたと聞かされ、奥には火を焚いた跡がありましたが昔のものとも思われず誰かが焚き
火でもしたのでしょう。                                 .
 
先日、現地に行ってみたところ場所を間違えたか埋もれてしまったのか、石室はどうしても見つけ
ることが出来ずこんもりとした土盛りがあるだけでした。どなたかご存知の方がいましたならばお
教えください。                                      .




025
昭和30年前後の浜島目戸 3/3


目戸山古墳の隣に多分観光客のために造られたのだと思いますが、小さな公園があり池のそばにブラ
ンコと誘導円木がありました。                               .
以前に 5で浜島小学校に誘導円木があったと書きましたが、私の思い違いで小学校には無かったよ
うで目戸山の物と混同してしまったようです。                         .

話は変りますが私は目戸の海岸だったか鯨望荘の向こうの黒崎海岸だったか思い出せませんが、岩の
あいだから機関砲の不発弾を拾ったことがあります。そのときはそれが何かも知らず二段ロケットだ
と言って弟と振り回して遊んでいましたが、そばを通った大人の人に 「そんな物で遊んでいると爆発
して手が吹っ飛んでしまうぞ」 と言われ、びっくり仰天し直ぐに役場の隣にあった警察の派出所に持
っていきましたが、生憎おまわりさんは不在で正面のカウンターに置いて帰ったことがありました。.

また小学校の保健室の隣にあった物置小屋で、小銃の槓粁(ボルト)が数本針金で巻き束ね置いてあるの
を見たことがありました。当時はそれが何かは判りませんでしたが未だ戦争の余燼が彼方此方に残って
いたようです。戦争中は学校では配属将校による軍事教練が行われ、軍隊から小銃が払い下げられたと
聞いていますので、その一部だったのかも知れません。                     
.


 
026
昭和30年代の宮山(みやま) 1/3


鉄棒をしっかり握り締めて足を踏ん張っている私は、父にそこに立てと言われ怖かったけれど渋々
立ったところを写されました。今はもう取り除かれてありませんが50代、60代の人は覚えている場
所だと思います。                                    .

旧浜島小学校の大運動場東端に宮山へ登る坂道があり、それを登りきったところに西行法師の歌碑
(昔と形が違う)があります。その後ろに崖に突き出て鉄棒の枠で出来た床に板を敷き詰めた構造物
があり、その一部が四角に切りかかれていて崖の下に堤防が出来る前にここがゴミ捨場だったと聞
きました。またこの右手の崖は少し窪んでいて堤防に降りることが出来ました。        .

平家物語にも出てくる西行法師は鳥羽上皇の北面の武士で、名を佐藤義清と云い誤って恋する女性
を手にかけてしまい、武士を捨て出家し諸国をめぐり歌を詠んだとのことです。        .

はなれたる しららの浜の沖石を くだかで洗う 月の白波



027
昭和30年代の宮山(みやま) 2/3

宮山のえべっさんの近くで三脚を立て一連の写真を撮影した父と私と弟、それから従兄弟(現在豊田
市在住)の四人で松の木の根元で写しました。                        .
36の西行法師歌碑とゴミ捨場は左後方の奥にあり歌碑が小さく写っています。よく見ると歌碑の
下部が四角い台座になっていて、今との違いがわずかにわかります。             .

宮山にはご覧のように松の木等の大木がたくさん茂っていましたが、昭和34年の伊勢湾台風で大木
の殆どは倒れてしまい、その先は運動場にまで倒れこんで私たちはその幹を伝って運動場から宮山
登って遊びました。                                   .

松の木の幹からはマツヤニが滲み出ていて、それを指につけ服を挟むようにして引張ると「ビュー」
と服が破れるような音がして、当然服がマツヤニで汚れ母に叱られました。倒れた木はそのうち撤去
されましたがえべっさんの東側に倒れた木の根っこが何時までも残されたままで、根っこの一本が長
く伸び私たちはその形が象に似ているといってはその近くでで遊び廻りました。         .

昔はこの太平洋側にゴミを捨てていたようで、ゴミではありませんが宮山の下の磯で私は黄色い犬の
死骸が打上げられているのを見たことがあり、その犬は野良犬で町内を暴れ廻りある人は「おれの家
の鶏が100羽も食われた」と怒り心頭で追い掛け回し、たくさんの人が棍棒などを持って出てきて追
い掛け回し、最後に明治屋さんの裏にある離れの縁の下に追い詰めたけれど、奥のほうに逃げ込んだ
ため手が出せなくなったため誰かが空気銃を持ってきて狙い定め「バシッ」と撃つと「キャイン」と
鳴き叫ぶ犬の声が聞こえました。犬はどこかへ逃げてしまったようでしたが、そのうちに何処かで捕
まって殴り殺され海に捨てられたのか、ムシロに包まれて磯に打ち上げられていました。
    .



028
昭和30年代の宮山(みやま) 3/3


今も昔も変わらぬえべっさん(鼻欠け恵比寿)                      .
えべっさん自身は変わりませんが昔はその周りに石柱が立っていて、写真で私と弟が跨ってい
るのがえべっさんの前に二本立っていた大きいほうの石柱で、それぞれが鎖で繋がれていたと
記憶しています。私はえべっさんの烏帽子の上にまで登ったりして遊びましたが、さぞえべっ
さんは迷惑だっただろうと思います。                         .

何時見てもえべっさんの鼻が欠けているのが不思議でしたが、そのうち誰かに漁師がお守りに
削っていくのだと教えられました。またえべっさんの前には今も石碑が立っていて多分えべっ
さん建立に関する経緯の文章が刻まれているのでしょうが、昭和七年と読めるだけで裏に廻る
と発起人一同と思われる先人の名前が刻まれています。                 .

名前の中には実家の親戚にあたり戦前、戦中浜島町町長をされた柴原庄太様(ショウタ)や私の
祖父の名前も辛うじて読むことができますが、ほとんどの文字は読むことが出来ません。この
石碑と西行法師の歌碑は共に昭和七年に建てられたようです。              .

ここで浜島町長様並びに町会議員、町と職員のみなさまにお願いがあります。ぜひ現地を見て
いただき苔むしたこの石碑と西行法師の歌碑ともども刻まれている文字の復元をお願いできな
いでしょうか、毎年一月も終わりの頃になると民放テレビのニュースでは決まって鼻欠け恵比
寿の初笑いが放映されます。浜島町の発展は観光を抜きにしては考えられず、町村合併前に実
現することを懇願し貴重な観光資源として何時までも保存されることを希望します。    

また浜島墓苑右手丘の上にある戦没者慰霊碑につきましても一部判読不能の戦没者名がありま
すので、こちらの修復もあわせてお願いしたく思います。たまにしか帰ることのない者が勝手
なことを申しましたが、私のような者には余計に目についてしまうのかも知れません。お気に
触る方がいましたならばご容赦のほどお願いします。                  .




029

昭和七年宮山西行法師歌碑除幕?

この写真は祖父のアルバムにあったものを父が保管していた一枚で、写真の説明は何も書かれてな
くどういう時の写真かは判りませんが、周りの松林の状況から宮山だと思います。左側に写ってい
る白いものは西行法師の歌碑ではないでしょうか。                     .

この祭儀用法師の歌碑は浜島の歌人、田中稲花氏により昭和七年に建立されたとのことで、この写
真が昭和七年のものだとすると歌碑建立の記念写真かも知れません。四角い枠で写っている人が田
中稲花氏でしょうか。ご存知の方はお教え願います。写真の左から二人目の人物は私の祖父に似て
いますが、昭和七年とすると少し年を取り過ぎのように感じられます。以上、この写真については
全くの私の推測です。                                   .


 
030
昭和30年代の浜島〜鵜方道路 1/3

桧山路川と桧山路橋を見る。                           .
私は父から22インチのアズキ色の子供用自転車を買ってもらいました。チョッとしたこと
で拳骨が飛んでくる恐ろしい父でしたので、いまだになぜ父がこの自転車を買ってくれた
のか判らず、特に学業が優秀だったわけでもなくたまに努力賞を貰うくらいで(当時学年ご
とに、優等賞、努力賞があった)
図画で何かの表彰を受けた事があったので、その褒美だっ
たのかも知れません。                              .

この頃に子供用の自転車を持っているのは浜島では数えるほどもなく最初、両方に補助輪
を付け慣れると片方(左側?)を外し、すぐに乗れるようになりました。みんな大人用自転車
の三角のフレームの間に片足を入れて、車体を斜めにして上手に乗っていました。今では
滅多に見かけませんがハンドルに乾電池入りのブザーを付けている自転車が多く、ベルの
代わりにボタンを押すと「ブー」と音を出して走り回りました。            .

写真は父と弟の三人で鵜方まで今で云うサイクリングをした時に桧山路橋を写した時のも
ので、橋の幅は自動車が一台やっと通れるくらいの幅で欄干は非常に低く、自転車で渡る
ときは怖かったので降りて押して渡った記憶があります。この時、弟は父の自転車の荷台
に新聞紙を敷いて乗っていましたが、舗装もしていない道でさぞ尻が痛かったことだった
だろうと思います。                               .

この橋は昭和39年に架け替えられ現在の桧山路大橋が完成し、最近同じ場所に行って見ま
したが草木が高く茂っていて道路から橋を見ることが出来ませんでした。ちょうど写真の
左側は実家の持ち山で当時台所の燃料は殆どが薪で、センジの竈から外に煙突が伸びてい
て食事時になると何処の家でも煙突から煙がたなびいていました。          .

冬になると毎年写真の右手の山と左手の崖下の雑木を切り出しにつれていかれ、自家のモ
ーター船に薪を山と積み込み岩崎の海岸まで運び、中庭でガンドウで切りオノやナタで割
り薪を作り輪にした針金で縛り、我が家の中の家と裏の家の間に山のように一年分が積み
上げられていました。一度など祖父と叔母等は木を積みすぎて船が沈んでしまい、丁度通
りかかった巡航船に助けられ、船の中の炭火で身体を温めたそうです。        .

この山は保安林のため木の伐採は基本的には出来ませんでしたが、戦前から燃料確保のた
め特例として戦後まで伐採は黙認されていたそうです。また叔母さんの三太郎屋では左の
屋敷に針金で巻いた薪を山のように積み上げて販売していました。子供の私と従兄弟はそ
の上が遊び場でした。                              .


父のアルバムへ

2012.05.05.