父のアルバム 4


031
昭和30年代の浜島〜鵜方道路 2/3

 この写真も浜島〜鵜方道路ですが、父が道路横の高い位置から写してるので迫子と塩屋の中間辺りでしょうか、記憶にありませんが下り坂でスピードを出し過ぎタイヤを砂利にすべらせ転びましたので、そのあたりだと思います。
 
 
写真のように未舗装の狭い道路を鵜方〜浜島間の定期バスが走っていました。それはエンジンルームが前に出ているボンネットバスで、運転手と車掌が乗っていて車掌はバスに揺られながら足を踏ん張り、切符を売りハサミで切っていました。この路線は私が生まれた昭和22年に運行が開始されたそうです。

 その頃の浜島のバス停は丸山通りにあり、目戸のバス停はあったか覚えていません。そこには旧墓地へ上る南の道がありました。伊勢市へ行った時に運転席と乗客の座席が別々の車体になっている、珍しいトレーラーバスを見たことがありました。巷では初代コロムビア・ローズの「東京のバスガール」や中村メイ子の「田舎のバス」が流れていました。  

 前回の投稿30で書き忘れましたが、写真の左手を少し行ったところに峠の頂上があり、川側に小さな広場があり大きな赤松が茂っていて木を切りに行くと、何時もそこで持ってきたヤカンで湯を沸かし昼食をとりました。学校の教科書に木の枝を折り箸にする話がありましたが、家では箸はちゃんと持って行きました。
 
 ちょうど一緒に作業に来ていた従兄弟は、学校が許可した中村錦之助主演の宮本武蔵の映画を見たくて、歩いて浜島へ戻り浜島座で映画を見て、後で宍戸梅軒の鎖鎌を回す音がすごかったと話していました。


 



032
昭和30年代の浜島〜鵜方道路 3/3

 鵜方の海岸で、ちょうど現在のスケートボード場か料理店「ひのえ」辺りから迫子方面を写した写真で、1/3でも書いたように写っている自転車は父が乗った大人用で荷台に新聞紙が挟んであり、弟はここに乗って浜島と鵜方を往復したのでさぞ尻が痛かったことでしょう。父の自転車のハンドルにもブザー警音器が付いています。

 海岸側の道路はどこも石積みだけで、今のような堤防等はなく自転車で走るには危険でした。また山並みの線も年月を経て変わっているようです。鵜方へ着くと私と弟は駅の隣の貸家でパンと牛乳を買ってもらい、お腹を満たしました。

 当時の志摩電の鵜方駅は踏み切りを越え少し行くと現在と違って入口は北側にあり線路の南側は殆ど家らしきものはなく、鵜方の町は線路から北側に高砂病院の方に広がっていました。幼稚園のときだったと思いますが、私と弟は俗に云う浜島病に罹り高砂に入院し、入院と同時に腰が抜け寝台に寝たままとなり、毎日リンゲル注射を両太ももに交互に注射されました。町中の幼児がたくさんこの病気に罹り入院病棟は満員で端から順番に注射が廻ってくるため、その病室から泣き声が聞こえてくると次は自分の番だと皆が泣き出しました。

 縦長のガラス瓶に入れたリンゲル液を看護婦さんが持ってきて、ものすごく太くて大きな注射針を赤チンをぬった太ももに突き刺され、その痛さは子供には半端ではなく悲鳴をあげ泣いたもので、付き添ってくれた母や二人の姉が注射でパンパンに腫れ上がった太ももを濡らしたタオルで冷やしながら揉んでくれました。私はその様子を絵日記に書いた記憶があります。それは注射のためまるく膨れ上がった太ももと、泣きじゃくる自分の絵でした。

 はっきりとは記憶していませんが病院内の食事は自炊だったようで、母や姉が作ってくれたような気がします。一度オカズのために置いてあった鰹の生節にかじった跡があり、私の仕業と疑われたことがありました。それは入院中はお腹が空いて堪らず、何日か前にこっそりビスケットを食べたのを窓の向こうの他の病室にいた母に見つかったことがあり、その為あらぬ疑いを掛けられたためでした。

 確かこの病気 (赤痢?) がきっかけで浜島にも簡易水道が引かれる事になったはずです。一緒に入院した弟などは、この病気で再度入院しました。

 少し話はそれますが鵜方の病院を当時は 「高砂-たかさご」 と呼んでいましたが、なぜ高砂と云うのか知りませんでしたが、同地に前身である高砂病院が大正15年に出来たことからと聞きました。また、投稿者:Uさんが言うように現在の浜島第一保育園の場所にあった浜島病院を 「高山-たかやま」 と呼んでいたのは、大正15年に高山尚徳氏が高山医院を開業したことから通称として呼ばれるようになったとのことです。

 私の子供の頃に浜島には、浜島病院のほかに真岡医院や片山医院、小崎医院があり、また酒井歯科と実家の近くの岩崎には中西歯科があったと思いますが、何時もそこで治療を受けたので、その歯科のことを歯医者と呼んでいたため名前をよく覚えていませんでした。

 小学生になると乳歯が抜け始めますが、父に捕まるとグラグラした歯を触られながら「まだ抜くのは早いな」 と油断させておいていきなり 「ゴリッ」 と引き倒すようにして抜かれるため飛び上がるほど痛く、できるだけ歯が動き出しても父に見つからないようにしていました。その点、叔父さんは親指と人差し指でシッカリと歯を挟み、上下に 「サッ」 と引き抜いてくれるので痛みも少なくアッという間に終わるため良かったのですが、当の叔父さんは遠洋マグロ漁船に機関長として乗り組んでいたため半年に一度くらいしか帰ってこず、肝心のときには間に遭わずほとんど父に抜かれるはめになりました。

 対岸の御座には耳鼻科の有名な医院 (お寺だったと記憶) があり、私は小学校の頃に右耳を患ったため母から巡航船代と治療費 (50円くらい?) をもらい、朝一番で何度も御座へ渡り治療を受けてから取って返し登校しましたが、たまに行ってみるとお医者さんは釣が趣味のため休診で無駄足を踏んだことも何度かありました。その治療と云うのが脱脂綿に赤チンを付け、耳の穴に詰めるだけのもので自分でもこれ位ならできると思ったこともありました。



033
冬の家事手伝い 薪造り

 30でも書きましたが昭和30年前後は、今と違い家庭の燃料はご飯を炊いたり味噌汁を作るときはカマドで薪を焚き、ヤカンで湯をわかしたり魚などは七輪で炭をおこして焼きました。またカマドの中の周囲には段が造ってあり、そこにさつま芋を置いて焼き芋にしました。

 親戚の弥四郎屋や三太郎屋では薪や木炭を売っていて、プロパンガスが一般家庭の燃料になったのは、ずっと後だったと記憶しています。冬になると一家総出で私の家では、桧山路の山へ木を切り出しに行きました。
 切り出してきた木は裏庭に積み上げて、私は学校から帰ると何時も舟の古い錨を支えに木を置き、おが屑だらけになりガンドウで一定の長さに切り、太い木は台に沿わせ立てて父や兄がナタやヨキ(手オノ)を振り上げ割り切り、針金で造った輪に詰め込み入らなくなるとヨキの背で叩き無理やり叩き込み、やり過ぎると針金が切れて薪は「パン」と音がして放射状に飛び散り、またやり直しの失敗を繰り返し出来ると中の家と裏の家の境に積み上げておき、そのうち生木は自然に乾燥して一年間の燃料になりました。

 燃料に薪を使っていた関係で煙突のスス落しは父や祖父の仕事で、火を使った後の釜や鍋の底に付いたススを古くなった庖丁等でカキ落すのが何時も母の仕事でした。センジ(台所)の天井はカマドから出る煙のため何時もススで真っ黒でした。カマドに残ったオキ(真っ赤に焼けきった木)は消し壷に入れて密閉しておくと、軽いスカスカの消し炭になり火付きが早いので炭の付け火に使いました。

 また薪だけでなく焚き付けのシバ(葉の付いた枯れた木の枝)も束にして物置にたくさん積んであり、焚き付けにマッチで火を付けるとパチパチと音をたて燃えました。 センジには帽子を被った紳士がマッチで煙草に火を付ける絵が貼り付けられた大箱のマッチが置いてあり、箱の側面四方に貼り付けられた摩擦面で擦り火を付けました。

 カマドに溜まった灰はその都度取り出し裏にあった小さな畑の肥料に撒きました。 私の家には裏に井戸があり、飲用にはなりませんでしたが洗濯や食器洗いに使いました。風呂の水くみには、滑車に吊るした鎖の両端につけた釣瓶 (ツルベ)で汲み上げタンクに溜め、薪を使って風呂の底に組み込まれた銅製の風呂釜で湯を沸かしました。時々湯船に水を入れ忘れたまま焚いてしまったため風呂釜を壊してしまったことがあり、祖父が 「捨ててしまえ」 と烈火のごとく怒ったことがありました。

 母はタライと洗濯板で固形石鹸を使いゴシゴシ洗濯をしていましたが、タライは始めは木製でしたがその内に金属製になりました。洗濯板は表裏が逆にカーブ状に切り込みが入っていましたが、どのように使い分けていたのかは覚えていません。

 時々ドジな野良猫がその井戸に誤って落ち溺れて死んでいるのか見つかると、おなごし等は悲鳴を上げ「水が使えない」と叫び、そうなると何処からかエンジンポンプを借りてきて井戸の水を全て汲み替えました。


 
034
昭和30年代の迫子浦 1/4

 2002年4月8日966のわいわい広場で掲示板担当者さまも同じ位置から写していますが、父はずっと昔に写していました。迫子浦から浜島の町と志摩町の前島(さきしま)半島御座岬を望む写真です。今と同じように英虞湾には真珠養殖の筏が浮かんでいます。

 この時代は真珠養殖が最も盛んな頃で、各番組ごとに組合を作って真珠母貝の養殖を行っていて、祖父もその仕事に携わり対岸の竹山に作業場があり、その年の仕事が一段落すると組長が集まり伊勢神宮参拝をしたり、組で慰安旅行に出かけたりしていました。  

 私が中学生のころは夏休みになると真珠養殖業者のアルバイトに行き、こづかい稼ぎをしましたが、あちらは一日いくらだからとか木曜日にはケーキのおやつがでるとかで、彼方此方行きました。一日のヒヨ(賃金200〜300円?)がいくらだったかは覚えていませんが、高卒で真珠養殖に就職すると給料が約一万円だったと聞いたことがあります。

 一度など朝出かけた時は海も凪いでいて英虞湾も静かでしたが、帰る頃になり台風が接近してきて海が荒れだし、湾内は大波となり五トンくらいの船の中に帰る人が10人程いて、上は板が並べて閉めてあるだけで波がかかると水が入ってきて、船は家の天井くらいの高さを常時上下して海底に吸い込まれるようで、横波でも受けたら転覆で絶対に助からないだろうと両手を握り締め、震えながら浜島の港に着くまでジッとしていた思い出があります。

父のアルバム


035
昭和30年代の迫子浦 2/4

  旧迫塩小学校校門側より校舎東端の一部と迫子川、奥の八柱神社を望む。旧迫塩小学校の校舎は二棟あり東側の校舎は浜島小学校と同じく、昭和三十四年の伊勢湾台風で倒壊し、新校舎が出来た後は迫塩幼稚園として使われたとのことです。

 現在は2002年11月10日掲示板担当者さまが写されたように更地になっていて、私が写した写真の左奥にも緑の葉を茂らせた銀杏の大木が写っています。

 父がこの写真を写した日は旧迫塩小学校の運動会だったようで、たくさんの人が見えます。川に架かる橋は現在と違い橋桁が二本だったようで現在の橋のようにガードレールも欄干も無い簡易なものだったようです。投稿者:-A・)vさま 8月9日投稿の迫子川は、さんしょう川と云うのですか。写真の奥が旧迫塩小学校と八柱神社ですよね。



036
昭和30年代の迫子浦 3/4


 35の写真といっしょにアルバムに貼り付けてありましたので、旧迫塩小学校運動会の風景だと思いますが、私は記憶がありませんので旧迫塩小学校の校舎だとは断定できません。  

 1999年浜島防火防災協会発行の冊子「浜島町の伊勢湾台風」43頁に、迫塩小学校旧校舎全壊の写真が二葉掲載されていますが、東西校舎とも窓枠が白く写っていて今回の写真とは異なっているため疑問に思います。35の写真では白い窓枠が写っています。地面に映る机の脚の影からこの建物は南向きと思われますが、これもご存知の方はお教え願います。 校舎の前に机を並べ観戦していますが、父は誰か知り合いがいたのでこのスナップを写したのではないでしょうか。もしかすると隣町の何処かの学校でのことかも知れません。


 
037
昭和30年代の迫子浦 4/4

 前回の写真と同じ日に撮影したのか、私と弟が迫子川(さんしょう川)の周りで遊んでいるところですが、私は迫塩小学校の運動会を見に行った記憶はなく鵜方サイクリングの時の服装とも違うためはっきりしません。
 
 右写真の後方に見える建物は相当大きなものですが、まわりの状況から迫塩小学校ではないようで、こわごわ山羊に近づいて見ていて護岸も今よりも自然石を積み上げた荒い造りできれいな水が流れていました。



038

 34でも少し書きましたが 昭和37年 真珠母貝養殖組合班長による伊勢神宮参拝時に五十鈴川にかかる宇治橋のたもとでの記念写真で、50〜60歳代の方のおじいさま方が写っていますでしょうか。みなさんの家の古いアルバムの中にも、この写真は眠っているのではないですか


 
039

昭和30年代の南張 1/4

 南張の入口、城之橋のたもとで橋の南詰か北詰かは記憶にありませんが、たぶん南詰の磯笛岬から坂を降りてきた場所だと思います。現在はすぐ上流に南張橋があり、城之橋は前川の水門橋になっています。
 
 父に連れられて楠の宮の祭に行ったときの写真で、このころは浜島から祭に出かける人は殆どが行列をなし歩いて行き、塩鹿浜から磯笛岬を越えて坂を下ると写真の城之橋にたどり着きました。

 子供たちは正月に貰ったお年玉を貯めておき、祭の出店で玩具などを買うのが楽しみで毎年、竹細工の猿はじき等をよく買って南張小学校の運動場で遊んだ思い出があります。  

 私が子供の頃は磯笛岬と呼んだ記憶はなく、またツバスの鐘も無く後年に付けられたのではないでしょうか。それよりもこの峠は幽霊が出ると云って有名で、ご存知のように峠の下は断崖絶壁で何度か自動車が運転を誤り転落し、死人が出たことがあり夜間この峠を自動車で通ると、フロントウィンドの上からいきなり幽霊の手が出てきて、運転手はビックリ仰天して逃げ帰ったと何度も聞いたことがあります。あまりに幽霊を見たと云う噂が広がり、坊さんやら禰宜さんやらが出て霊を鎮めたとも聞きました。

 幽霊と云えば現浜島第一保育園(旧浜島病院−高山)下の墓地で、私の叔父さんは若い頃にヒトダマ(火の玉)を見て、腰を抜かしたと話しているの
を聞いたことがあり、子供の私たちはその話を聞き震え上がったもので、そ
こは大矢の浜へ出る途中にあり、夜はそこを通ることができず遠回りをしま
した。


 
040

昭和30年代の南張 2/4

 南張浜で遊ぶ私と弟を父はローアングルで写しています。今は黒崎や塩鹿浜と共にサーフィンのメッカになっています。
 
 私はこの写真の浜辺を近年まで塩鹿の浜だとばかり思っていましたが、先日現在の様子を写真に写すため現地へ行き、塩鹿浜から東を見ると石亭がありどう見ても写真と一致せず、南張の浜で遠くに見える山並みから、この写真は南張浜であることがわかりました。 

 楠の宮へ行った時に南張浜へ寄ったのだと思いますが、私は楠の宮の正式名称が「楠御前八柱神社」と云うのを近年まで知りませんでした。それを知ったのは父が死去したあと書き残していった戦争体験記を読んだときで、楠の宮の前に行けば石柱にしっかりと「楠御前八柱神社」と記されていますが、子供の頃は前を通っても気がつきませんでした。父は出征する前にここ南張の「楠御前八柱神社」にも武運長久を祈願しに来たそうで、それが浜島町のしきたりだったそうです。


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2012.05.06.