父のアルバム 5

 
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昭和30年代の南張 3/4

  南張浜の西側を写した一枚で、乳牛の親子をつれた人が人気の無い浜辺を散歩していて、父はこれは絶好の構図だと思いシャッターを切ったのではないでしょうか。

 海岸のはずれのの岩礁には波消しのテトラポットが置かれて、撮影した頃とはおもむきが異なっています。手前の岬の上には現在は国民年金保養センター 「はまじま」 があり、その下を南張トンネルがとおり宿田曽への道は昔と比べて大変近く便利になりました。

 小学一年生のときの担任をしていただいた川口いさ先生の家も牛を飼っていると聞き、同級生と一度歩いて訪ねていったことがあり、確か楠の宮の近くにご自宅があったと記憶しています。そのとき生まれて初めて目の当たりに牛を見て、その大きさにビックリしたことを覚えています。

 浜島の本町通りの街中を一度だけ馬が荷車を引いて、大きな馬糞をまき散らしながら荷物を運んで行くのを見たことがあり、その馬体とワラの混じった馬糞の大きさに子供は皆驚き大騒ぎでした。あの馬は何処から来たのでしょうか。また馬といえば伊勢市とか二見町へ行くと観光馬車があり、乗った記憶がありますが後ろの車に乗るので、馬の匂いが臭がった思い出があります。                                    


 
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昭和30年代の南張 4/4

 南張農家の牛小屋で小屋から顔を出しモーと鳴く声を聞き、父は思わずシャッターを切ったのでしょうか、今はもうこのような藁葺き屋根の建物を見ることはなくなりました。どちら様のお宅か解らないのに勝手に写しておいてなんですが「これは私の家だよ」との、メッセージが返ってくるとうれしいのですが。

 南張の前川上流にある奥山池には小学校の遠足で行ったことがあります。小学校の遠足では他に塩鹿浜や田杭川の奥の水源池、大山さんそれから当時は何も無かった御座の白浜などへ行きました。奥山池へ行ったときは池の近くでアクビ(あけび)を見つけましたが蔓が高くて取れませんでした。  

 私は低学年のときは身体がとても弱くいつも母が弟を連れ、行列の後ろから付き添ってきてもらっていました。その母も84歳になり視力が衰え、外へ出るときは手を引いてやらなければならなくなり、遠くにいて何もしてあげれない自分が情けないやら悲しい事この上もありません。  

 浜島から見ると南張の山は横に幾筋も線が見えましたが、あれはミカン畑だと聞いたことがありました。この頃から南張ではミカンや温室でのメロン栽培が始まったのでしょう。
 


 

 
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  昭和30年代の水産試験場

私の父が奉職していた三重県水産試験場の三景。  
 
 正面に車寄せの玄関がある建物が事務棟で、右手の建物は二階に丸窓が幾つも並んでいて中に標本室があり、私は何度も父の職場に遊びに行き標本室の中にも入りましたが、色々な海の生物の標本が大きなビンに詰められて並んでいました。その部屋は気味が悪く独特の匂いがして、あまり好きではありませんでした。
 
 写真には三本の鉄塔が立っていますが左の二本は四本足で事務棟の裏にあり、右の鉄塔は三本足で正面玄関の右手に立っていて、四本足の鉄塔よりも後年に建てられたと記憶しています。遠洋漁業の漁船との無線通信のための鉄塔で、奥の建物に無線室がありモールス信号の音がしていて、これによりもたらされる情報が町じゅうに拡声器で「第○ ○○丸は凪良く…」と放送されていましたが、この鉄塔はもうありません。
 
 水産試験場はもともと岩崎新地にあったものを、昭和7年にこの建物が新築されたとのことで、戦時中は館山海軍航空隊の水上飛行機がいたそうで、私の兄はその部品を拾ったことがあったと言っていました。  

 三葉の写真をよく見ると屋根の形が違っていて、上左の写真では四角の陸屋根ですが、後に雨漏り修理のためと聞きましたが、寄棟の屋根が上に載せられた形になりました。この建物の奥には渡り廊下(写真右下)で繋がったたくさんの建物があり、子供の私にはたいへん大きく見えたイケスもあり一部が鉄柵を境に海とつながっていました。
  
 この試験場の敷地の直ぐ前に祖父が所有していたモーター船の船引き場があり、引上げる時は家から押し車にコロの木材を何本も積んで運び、水辺からウインチのところまで並べ、ウインチは木材を縦にしたもので、穴に横棒を差込み押しまわしワイヤーを巻き船を引上げました。その後ウインチは鉄製の歯車のついたものを使うようになりました。
 
 父は私が高校進学時、新設高の尾鷲工業高校に無線通信を教える電子科が出来ると聞きつけてきて、そこへ進学するように勧めました。もしかしたら浜島の無線局に勤めさせたかったのかもしれませんが、尾鷲工業高校に進学後に無線通信士の国家試験を受験しましたが、1〜3級まであり在学中に3級無線通信士の免許は取得しましたが、無線通信士にはならず日本電信電話公社(のちNTT)に就職し、父の希望は叶えられなかったのかも知れません。その尾鷲工業高校も尾鷲高校と合併し校名は無くなってしまいました。



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三重県水産試験場事務棟浦の浜木綿

  水産試験場事務棟裏の渡り廊下横には建物に沿って花壇があり、天然記念物の浜木綿がたくさん咲いていました。私は浜島の町の花は浜木綿だとばかり思っていましたが、母から町の花は浜撫子だと教えられました。何時か種を持っていって桑名でも家の庭で咲かせようと思っています。

 私の父は昭和5年16歳の時に三重県水産試験場雑用夫、同10年に水産試験
場雇となり昭和13年24歳の時に、水産試験場に三重県農林主事補として判任官四等で正式採用になり、昭和43年三重県志摩土木事務所に移るまで6年間の軍隊生活を入れ38年間勤めました。

 祖母は任官時に「息子が判任官になった」と喜び、近所に言って廻ったそうです。判任官(今で云う地方公務員)とは戦前の雇の上の下級役人で、それに対して高等官は奉任官、勅任官と云い今で云うキャリヤー官僚のようなもので、その差は大変なものだったそうで、何においても差別があり父の遺稿には三重県庁へ行くと高等官用として別に便所が設えてあったと書いてありました。昭和13年頃の父の月俸は35円だったと書き残しています。 


 
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大矢取志摩灯台の傍

 左の写真は大矢取島の灯台の傍で写したものですが、肝心の灯台が写っていなく残念ですが灯台は昭和30年に建設されたそうで、それまではちょうど灯台の位置辺りに大木が立っていて (木の種類は松だったか?不明、横に広がった枝ぶりだった) それが大矢取島の特徴で、写生に行き大矢取島を描くときは必ずその大木を島の右上に描きました。小矢取島には木はなく当時は上のところに少しだけ草が茂っていて、その草もその時々により無くなったり茂ったりの繰り返しでした。

 右の写真は釜崎の突堤からの景色です。大矢取島の思い出には忘れられない事があります、それは灯台へ登る石段のある島の北側の海岸に機雷が上がったことがあり漁の網にかかったのか、うち上げられたのかは忘れましたが見に行ったことがあります。当時は島へ繋がる堤防は釜崎の突堤と同様に、途中二ヶ所切れかかった様に低くなっていて苦労してそこをよじ登りたどりつきました。

 その機雷は直径が約1メートル程で子供の私には両手を廻しても、半分にも届かないくらいの大きさで赤茶色に錆付いていて、上部に何本かの突起 (信管) の跡がありました。その機雷は自衛隊が処分したのか何時の間にか無くなっていました。


 
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三重県水産試験場所属の水産調査船 あさま丸

約200トン位の小さな船で、近海の水産資源を調査していたのではないでしょうか。



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三重県水産試験場所属の水産調査船 神威丸(じいまる)

 写真の神威丸は二代目か三代目のようで約300トンくらいあり、遠洋漁業の調査航海を行ったようで、初代は機帆船で父のアルバムに帆を張った写真を子供の頃に見た覚えがありますが、失われたのか見つかりません。その初代か二代目の神威丸かどうかは判りませんが、同名の船が戦争中の昭和19年に小笠原諸島の硫黄島付近で、アメリカ軍に沈められたそうです。  

 写真の船尾右側に二三人の人がいる所の四角い囲いが船の便所で、囲いの床に穴が開いていて直接海に落ちる構造でした。雨やシケの日は濡れ鼠で用を足していたのでしょうか。



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三重県水産試験場所属の水産調査船 大勢丸(たいせいまる)

 この船は、あさま丸、神威丸と違い鉄船で4〜500トンくらいはあったでしょうか。完成時に一般公開され見に行きましたが船橋の中で、自動車のハンドルのような小さな舵輪を見て、こんな大きな船がこの小さな舵輪で動くのだと説明され、他の鰹船の大きな木製の舵輪を見慣れた私には驚きでした。



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三重県水産試験場事務室内の石炭ストーブ

 水産試験場に勤務していた父は天気予報で雨になると報じていても、雨が降っていない限り滅多に雨具を持っていくような人ではなく、出勤後に雨が降り出すと私と弟が傘とゴム長を届けるのが役目でした。  

 二人で雨具を届けると父はいつもお駄賃に10円をくれるので嫌ではありませんでしたが、冬の寒い雨が降る日は早町(サマチ)の堤防道路では手先がちぢかみ辛いものでした。試験場の事務室に入るとそこは別世界のようで、石炭ストーブが焚かれ冷え切った身体を暫くのあいだ暖めることができました。

 ストーブの燃料は石炭やコークスで裏庭に積んであり、コークスはそれを頭髪にあてると小さな穴に髪の毛が引っかかって痛く、坊ちゃん刈りの弟の頭に当て頭髪を引っ張っていたずらしました。すると弟は何時ものことで親父に御注進で、私の頭に拳骨が飛んでくるのが常でした。

 当時一般の家庭の暖房は石炭ストーブや電気ストーブなどあるわけがなく、炬燵があるくらいで寝る時は炭火か豆炭を入れたアンカがあれば良いほうで、ゴワゴワのカーキ色の毛布(軍用?、救援物資?)や綿入れを頭から被って震えるえながら寝るのが常でした。

 写真をみると当時は黒色の足袋とゴム草履(アサブラ)を履いていて、セーターは化繊だったのか材質が悪かったのか首まわりがハシカクて慣れるまでたいへんでした。



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浜島の神祭 1/11

 10月は宇気比神社の神祭です。昭和30年代初めと思われる神祭の情景を写した一連の写真で、小さい頃はウキヒ神社と呼んでいましたか正式にはウケヒ神社だそうで、元々は八王子社と呼ばれていたのが明治4年に改称されたとHamajima Storyに記載されています。

 写真は神祭の情景で場所は横井屋さん、大木屋薬局さん、三善堂書店さん辺りのようで小さい子供は「ワッショイ」「ワッショイ」と掛け声をかけ、首から掛けた拍子木を「チョン」「チョン」とたたき大きい子供は神輿をを担ぎ宇気比神社まで行きお払いを受け、帰りは各所に立ち寄り菓子など貰う楽しい一日は今でも同じでしょうか。

 私は40年余りのうち一度だけ従妹が踊りを踊ると聞き、写真を写しに帰ったとき意外は神祭は見ていないので現在の様子は良くわかりません。



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2012.05.09.