父のアルバム 6

 
a@051
浜島町の神祭 2/11

 宇気比神社に着き境内で記念写真を撮影。私の家の組、十番組の神輿は
他の組の神輿と少し趣きが違い黒塗りで一見地味でしたが、今思うとそれ
は威厳があり立派に思えます。各組とも趣向を凝らした特徴のある神輿を
作り、他の組と競い合いました。

 集団の後ろには孫の姿を見にきたのか、私の祖父の顔も見ることができ
ます。私は最前列で肉屋の丸虎さんの井上虎洋君(同窓)の右横で従兄と一
緒に写っています。  

 右の写真は当時の私と弟の神祭衣装で、水色の法被に丸八の胸当て手ぬ
ぐいで鉢巻をして黒い股引をはき拍子木を首からさげ、赤や青のタスキをかけ腰にはカラフルな帯を巻き、顔は白粉を塗りたくられ眉毛を描かれ頬紅までつけられましたが、不思議にそれが恥ずかしかった思いはありませんでした。足元を見ると、この日のために新調の下駄だったか草履だったかは思い出せませんが、普段の履物とは違いカラフルな鼻緒が見てとれます。



a@052
浜島町の神祭 3/11

 十番組の神輿。昼間は子供中心の神輿で可愛らしい声が満ち溢れていましたが、夜になると青年団の大きな船神輿が豆電球を点灯し町じゅうをねり廻り、大人も混じり一杯気分のため荒っぽくて大団扇は地面を叩きボロボロになり、子供には恐ろしいくらいで怖いもの見たさで、逃げ廻りながら見物しました。



a@053
浜島町の神祭 4/11


 投稿者:Uさんあなたの組、九番組の行列ですよ。大団扇に寿と九番組と書かれています。場所はやはり大木屋薬局さんと三善堂書店さんのあたりですね。まだ歩けない子は母親に抱かれ、また足が生えて如何ほども経たないような、小さな子供は拍子木を叩きながら一生懸命ヨチヨチと歩いています。  

 ところで投稿者:Uさんの実家のお宅の外壁はあずき色に塗られていたと記憶していますが、どうだったでしようか?。


 
a@054
浜島町の神祭 5/11


 石川商会さん前での一休み。右手に立っているのは隣の庄七屋の柴原強一さんで、石川商会さんの建物は現在「まちなみ活性塾・わんさかわんさ-右写真」になっていて、写真は今は無き旅館「一文寿」のほうから写したものです。



a@055
浜島町の神祭 6/11


 やはり横井屋さんと大木屋薬局さんのあたりで、中学校の森先生の「ワッショイ」 「ワッショイ」と掛け声が聞こえてきそうです。先生は何番組だったのでしょうか。



a@056
浜島町の神祭 7/11


 見えにくいですが一人の子供が着ている法被の襟に十六番組と書かれています。地面には大きな石ころが転がっていて場所は何処なのでしょうか。最初に私が考えたのは遠くに見える大きな建物は浜島の街中では一番大きなほうに入る四日市屋で、するとこの場所はこすま屋さんのあたりだろうかと思いましたが、少し下り坂になっているように見え当時この場所が坂になっていたか甚だ疑問だったのです。

 ところが1999浜島防火防災協会発行の冊子 「浜島町の伊勢湾台」83ページに浜島港の田中石油前の写真があり、兵丹屋さんの向こうに四日市屋さんが写っていて屋根の形が陸屋根で、今回の写真の寄棟屋根とは全く違っていました。

 次に考えたのは小坂商店さんの三つ角ではないかと思い、だとすると左の店は西田商店さん、後方の大きな家は台湾屋さんになります。また右の建物は田岡さんから谷源自転車店さんとなるのでしょうか。先頭を歩く子供の顔の位置右にわずかに見えるフェンス状のものが、小坂商店さんのウィンドウの外側にあったように記憶していますが断定はできません。

 文中の四日市屋さんの建物は数年前に取り壊され、また谷源自転車店 さんは火災で焼失しました。



a@057
浜島町の神祭 8/11


 ここも56の写真と同じところですが場所ははっきりしません。子供たちは何番組か判りませんが花笠をかぶり着飾っています。私の推理が正し
ければここは西田商店さんの前ということになりますが…。



a@058
浜島町の神祭 9/11


 大団扇に 「町内安全 二十番組」 と書かれています。場所はわかりませんが岩崎商店街のどこかと思いますが地面が平らに見え、もうこのころはアスファルト舗装がされていたようです。  

 雨が降ると泥んこになった未舗装の本町通りがアスファルト舗装されたとき、ローラー車で平らに固められ未だ湯気が立っていた道路を歩いて、工事のおじさんに「未だ固まってないから歩いたらあかん」と怒鳴られた思い出があります。しかし実也叔父さんがそこをどうどうと歩いているのを見ても、その人は何も言わなかったのを見て複雑な気持になったものです。

 当時の舗装は雨水が両側に流れるように、道路のまんなかが少し高くなった蒲鉾形になっていたように思います。  

 トンガリ帽子のピエロも見えますが、私は神祭のときにピエロを見た記憶はありません。ところが今年見に帰った神祭では、はからずも十六番組などで、ピエロが行列の中にいるのを見ることができました。確実ではありませんが写っている建物は四日市屋さんの向かい、紀文旅館と三光楼のあたりではないでしょうか。
 



a@059
浜島町の神祭 10/11


 私の実家、遊郭「一力楼」の神祭花飾り。私の家では商売柄神祭が近ずくと、竹と板で作った道具で和紙をシワ状にし、赤や青の色を霧吹きで彩色し竹の棒に刺して、何本も二階の軒下に並べて窓には提灯を吊り下げ毎年飾り祭を祝いました。

 大正の初期に建設されたこの家も痛みが激しくなり、今年解体されて立
て替えられましたが、屋根裏の梁はたいへん太い木材を使っていて、業者は解体に苦労していました。解体のときに建設時のタテマイに使ったらしい、竹製の札が屋根裏の柱に打ち付けられているのが出てきました。解体から建替えまでの経過を私は武叔父さんと二人でビデオとカメラで一部始終を撮りました。  

 私がほんに小さい頃、浜島に大相撲の巡業が来たことがあります。各部
屋の力士は旅館や遊郭に別れて宿泊し、旧浜島小学校の運動場に土俵をこしらえ相撲興行が催され町じゅう大にぎわいでした。私の実家には立浪部屋一行が宿泊し、当時の部屋頭だったのか時津山が階段の上から両手を差し出して、抱いてやろうと 「おいで」「おいで」をしてくれましたが、私は怖くて母にしがみついて行きませんでした。力士に抱いてもらうとその子は強くなると言われていました。その関係で引退するまで私は時津山のファンを続け最高位は関脇まで昇進し、一時は若の花と優勝を争ったこともあり、確か一度は幕内優勝もしたと記憶していますが確実な記憶はありません。
 
 当時の力士は確か横綱が鏡里、吉葉山、東富士、千代の山などがいて、他には松登、大内山、三根山の関取が幕内の上位を占めていて、若の花、栃錦が台頭してきたのはその後だったと思います。


 
a@060
浜島町の神祭 11/11


 十番組の名物じいさん。平田の末吉じいさんで鉢巻に日の丸の扇を持ち
楽しそうな顔をしています。
 投稿者:Uさんも盆には岩崎の海岸で、このじいさまが鈴を鳴らし念仏を唱え精霊さんを送っているのを見たことがあるのではないでしょうか。
 右の写真は50でも少し書きましたが、私が未だ20代の頃に従妹が神祭で踊ると聞いたので、浜島へ帰り写したものでこの40年の間に神祭を見たのは一・二度のみで、平成12年には姪の娘が出ると云うので帰りましたが、生憎の雨で神輿は見ることができませんでした。
 


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2012.05.10.