父のアルバム 7


061.
浜島幼稚園の記念写真

 昭和27年5歳のとき幼稚園での記念写真で私はミドリ組で、入園式の日に
6年生のお姉さん方に緑のリボンを上着の胸に縫ってもらった記憶があります。デブ竹校長(失礼)とイト先生、上甲(ジョウコウ)先生は覚えていますが、右端の先生の名前がどうしても思い出せません。名前で呼んでいたと思うのですが先生すみません。誰か教えて。
 
(同級生に教えてもらった マサコ先生だった)  
 当日休んだため別枠で写っている女の子は松尾てつえさんで、彼女は大変
活発で男勝りな子だったので、誰言うとなく「女ターザン」と呼ばれ人気者で
した。  

 小学校の玄関が写っていますが、この玄関の両側には鉄の棒で校舎の窓の下へ行かぬように仕切りがしてあり、鉄棒の先が剥き出しで皆が登って遊ぶため、今から考えると非常に危険な物でした。 弟が私と一緒にこの鉄棒に登って遊んでいて眉間を突っつき、ポッカリ穴が開く大怪我をし顔面血だらけで家に泣いて帰り、それを見た母が血相を変え弟を抱きかかえて高山(浜島病院)へ走ったことがありました。この時、母は私を睨みつけ「のーがやったのか!!」と疑われ大変迷惑したものでした。  

 玄関の下の石段右側にはコンクリートで四角に仕切られていて、多分雨水
を集めて貯水する防火水槽だったのではなかったかと思いまが、下部に水抜きの穴があり普段は水が溜まっていたのを見た記憶はありません。また玄関の右は校長室で音楽室も更に右側にあり、幼稚園は東端の一教室があてがわれていました。校舎の北側は廊下が東西に貫いていましたが、幼稚園の教室は板で廊下が仕切られていたと記憶しています。
 



062.
浜島幼稚園の記念写真

 この写真は大正の終りか昭和の初め頃、私の叔母さん(三太郎屋)が幼稚園のとき宮山(みやま)への上り口での記念写真です。これが園児全員でしょうか時代的に多いのか少ないのかは解りませんが、結構教育には熱心な家庭が多かったのでしょう。また数えてみると児童は97名で、この大勢の子供を三人の先生で見ていたのでしょうか。たいへんだったのでしょうね。

 みんなの園児がお揃いのエプロンのような胸当てをしていて、これが当時の幼稚園の正装だったのでしょうか、まだまだ着物姿の多いなかで叔母さんは縞模様の洋服を着ていて、皆から羨ましがられたそうで当時の風俗が垣間見ることができます。



063.
小学三年生の記念写真

 宮山(みやま)のえべっさん東側にての記念写真で、小学三年の私たちの担任は橋本美和子先生で、先生は伊賀上野市の出身だったと記憶していますが、髪の毛が染めていたのかどうかは判りませんが、今で云う茶髪のような色の髪と顔立ちから、あだ名が「外人先生」でとても優しい先生でした。 女の子はみんな足を揃えて良い子にしているなかで、さすが女ターザンのてつえさん(最前列左から三人目)は面目躍如です。一クラス47名で女子児童22名と男子児童25名で各学年3〜4クラスありました。  

 伊勢湾台風前の宮山で中央後方にえべっさんや稲荷さんの鳥居もわずかに見え、もぐり込んで遊んだ雑木林や松の大木もたくさん残っていました。

 三年生の時の思い出で今でも悔やんでいることがあります。それは同級のてるみさん(最前列右から二人目)が風邪をひいて休んだ時に、風邪引きの危険性を理解できず悪ガキ等と一緒に「風邪くらいで休んで!」とはやし立ててしまったことです。後年になりの時の自分の未熟さに気付き、不用意な発言が相手をたいへん傷つけることをおもい知らされました。てるみさん申し訳ありませんでしたと今ごろ謝っても遅いのですが....
 後悔 ---------- あとでくやむ ----------- あとでくやまぬため少なくとも自分は、常に相手の立場にたって考え発言する。を出来る限りモットーにしてきましたが、それをやり遂げることは中々むづかしいことです。  
 

 
064.
姉の子守風景

 私の長姉の年恰好から多分昭和22〜23年の頃と思われ、おぶってもらっているのは私のようで、この頃はまだ専用のおび紐は使わずありあわせの帯等を使っていたようです。姉とその友達が写っていてアルバムに貴子、容子、京子、周子と名前だけが書かれていて、もうみなさん六十?歳のはずです。
 
 当時の子守りの様子がうかがわれ、私の姉は帯だけでおんぶしていますが、左の貴子さんはおぶった上に綿入れのオイネを着て、赤ちゃんを寒さから守っていて時代の風俗を真に写しています。今の時代は少子化の関係もあり弟や妹の子守りをすることなど無くなったのでしょうか。  

 場所は現在の酒康さん(旧しまや旅館)の北側にあった修理工場のとこ
ろだと思います。板囲いの塀に見覚えがあり、写真の右手が大衆楽食堂で大謙の仕事場もあり「かっちゃん」、「とっちゃん」と呼ばれていた兄さんたちが働いていて、紙のような薄いカンナ屑や木の切れ端を「これおくれ」と言って貰い遊びました。その隣には同級生の柴原よし子さんの家があり、更に道を海岸の方へ行くと同じく同級生の西飯美也子さんの家があり、彼女の家はたしか和菓子を作っていた松寿軒だったと思います。

 この当時、弟や妹の子守りを姉や兄がするのは当たり前のことで、学校
から帰ると何時も子守りが待っていたそうです。明野屋の信也おじさんが
大正時代に学校から帰ると、甥である私の父をおぶって子守りをしたのに
「先に逝ってしまって」と父の葬儀のときに涙を流しながら話していました。
 信也おじさんは親戚内では最高齢で、たしか九十五歳を過ぎているはず
です。また娘さんの小夜子さんは歌が大変上手で昔、浜島観光の活性化の一環として作られた「浜島音頭」を歌いSP盤にレコーディングしました。

 私の実家にもその貴重なSP盤のレコードが残っています。
  B面は「浜島エレジー?、小唄?」 (浜島小唄でした!)

 浜島音頭  志摩のな〜 浜島ホテルの窓で…  ほんによいとこ 
       みなでおいで  おじゃれ〜 おじゃれござって 
       みな踊れ   
                          だったかな?


065.
大正〜昭和初期時代の若い衆の集まり

 前列右側の人が私の養父で、職業は船大工で戦前は満州(現中国東北部)の黒龍江省牡丹江へ行ったと話していました。写っている人達は仕事仲間か親友でしょう。既に殆どの人は鬼籍に入られたと思われます。  

 身に付けている印半纏の袖にはハッキリとは読み取れませんが、「馬糧
○成吉商店」 「志之原?」 「尼崎鴻池組」 「土木請負大嶋」 「株式會社
阪神鉄工所」 「高級常設三楽館」 「浜口組」が読み取れます、50〜60歳
代の人のおじいさんの若い頃の写真だと思いますので、浜島の人だとした
ら見覚えのある方がいるのではないでしようか。

 この時代に写真を写すのは、個人でカメラを持っている人は殆ど皆無だったので、山崎写真館で写すのが常で私の実家に残る先人の写真には、殆
ど山崎写真館のアルファベット押し印が押されています。唯、この写真が浜島で撮影されたのかどうかは不明です。遠い満州(中国東北部)かも.....
 私の養父は井上一夫と云い伴三屋の隠居の出で、おおさ屋へ婿養子に入
り従って伴三屋の井上はるお先生の叔父にあたると母から聞きました。



066.
神祭に立てた丸八の旗

 私の養父が歩いている場所は、手前から喜多畳店(同級生の喜多久美
さんの家)次は丸ツ山本商店、柴原理容店、三階建のやすば商店で、やすばと四日市屋は三階以上あって浜島の街中での高層建築でした。

 喜多畳店には神祭の法被を着た子供が二人写っていて、大きい子が久美(ひさみ)さんかも。喜多さんの右が私の家のおおさ屋で、現在志摩
電化に借りてもらっています。また向いには墓石や石碑を作っていた伊藤さんの家があり、年中御影石を削る音が響いて絶える事がありません
でした。

 祭になると各家は写真のような旗を立てまして、今もたてているかな?。養父は私が養子に入る前の事ですが町美化センターの近くで桧山路にある田で、農作業中に昼食の準備に火を起こし、それが山に移ってしまい山火事となり大騒ぎを起こした事があり、一緒にいた養母(私の母の実姉)は腰を抜かし母が駆けつけた時、近くの長楠屋さんの農具小屋
でショックのため動けなくなっていて「あのクソジジがえらいことしてしもて」と半泣きで言ったそうで、皆さんには大変迷惑をかけました。

 その田の辺りも今年から新しくバイパス道路が出来る事になり、工事が始まり、ゆくゆくは桧山路橋から塩鹿の浜まで繋がるとの事です。

 養父が亡くなったとき、葬儀の日に家の前を通った女の人が「ああ、あの山を焼いたったおじやんか」と言っているのを聞いた事があり、山を焼いた事で有名だったようです。また年老いてから志摩病院に入院中若い頃の癖で、看護婦さんを呼ぶときに「こら!アマ」と言ってしまうので何時も叱られていました。
 
 養母が先に亡くなったとき、養父は若い頃に町の若い者と喧嘩をして怪我をし、たまたま通りかかった養母に手当てしてもらったのが知り合うきっかけだったと、涙を流しながら話していて大正時代にしては嘘かまことか、夫婦の馴初めはまるでメロドラマのようだったみたいです。  
 しかし親戚の人に言わせると結婚してから満州(黒龍江省牡丹江)へ渡ったまま便りは無いわ、金は送ってこないわ、帰って来てからも働かないわ、博打はやるわと放蕩を尽くし博打に負けると、私の父に借金を頼みに来たそうで散々の悪評判でしたが、実子が無く(その間の経緯を私の知っている限り詳しく書くとひとつの悲しい小説になるかも)私を小さい頃から養子にと狙っていたようで、私には何時もニコニコと優しい人で、遊びに行くと何時も「来たか来たか」と言って十円くれて、皆さんからは「かずおじ」と呼ばれていました。



067.
竹山(たけやま)の海岸

  岩崎海岸の対岸、鴻住から東に伸びる半島にある竹山の岸辺で、遠方に大崎半島が見えのちに日本楽器が進出して合歓の郷ができました。竹山には実家の畑があり麦やサツマイモを作っていて、よく祖父につれて行かれ備中(鍬)で畑の畝起こしの手伝いをさせられましたが、子供心にいやでいやでし
ょうがなかった。  

 この頃の我家の主食は米と麦を混ぜた俗に云う麦飯で、ついて一本線の入った平たい麦を水でふやかし米と混ぜて炊き、炊き上がった釜の蓋を開けると麦が上に米が下に分かれていて、突き棒で何箇所か突っつき穴を開け再度蓋を閉めて一度蒸らしてからシャモジでかき混ぜて、暖かいうちは美味しく食べられましたが冷や飯になるとグチヤグチャになりマズかったのを覚えています。

 この為にご飯を入れたお櫃は寒い時期には藁で編んだフゴのような容器に入れ、更に上から古い綿入れの着物等で包み保温しました。この容器には同じく藁で編んだ蓋があり、上からスッポリはまり密閉できました。  

 竹山の海岸は写真のように瓦礫ばかりでカキガラが付着していて、少し掘ると黒い土が出てきてお世辞にも綺麗な海岸ではありませんでしたが、母や姉はよくこの海岸へアサリ採りに来ており、十番組の真珠母貝養殖の作業場もこの写真の左手にあり、何時も竹山へは実家のモーター船で渡りました。

 また鴻住あたりから山道や海岸沿いを歩いても行けましたが、今は通行できるか解りません。真珠母貝養殖組合も真珠輸出が好調な時は大変収益もあり、暇になると京都や日光等へ慰労の旅行に行きその写真も残っていますが、やがて真珠生産過剰時代を迎え収益も減少し経営方針の相違から仲間割れになり、祖父は数人の仲間としばらくの間続けましたが老齢も重なり何時しか事業も立ち消えになったようです。


 
068
アサリ取り

 たぶん竹山の海岸でアサリを採ってきたところを写したと思われ、母と二人の姉は寒い日だったのか綿入れのハンコを着て、首には防寒のテヌグイを巻いています。今はもう農業でも漁業でもこのような仕事着は着なくなったと思います。この時に母が「こんな大きいのが採れた」とカメラを構える父に、カゴから取り出して見せていたのを覚えています。

 写真に写っている竹を編んだカゴももう使われなくなりました。他に竹製のザルもありました。アサリは塩水で砂を吐かせてから殆ど味噌汁の具にして朝食に食べましたが、ときにはイソモンをどっさり採ってきて、ゆで上げてジャラジャラとザルへあけ子供の頃は爪楊枝で中身を取り、人よりも余計に食べようと夢中で身もワタも丸ごと口の中に放り込みましたが、今ではサザエでもトコブシでもワタは食べる気になれず取り除いて食べています。  
 
 イソモンは色々と種類があって小さな巻貝は二種類あり、貝の蓋が薄い平らなものとサザエのように半球形に盛り上がっているものがありました。またクネクネと筒が曲がりくねったような貝もあり、穴に口を付けてすすって中身を「ズルッ」と飲み込みましたが、子供だったから出来たもので今飲み込めと言われても、何が口の中に飛び込むか解らないものをとても出来ません。貝にはそれぞれ固有の名前が付いていたのか覚えていません。

 また遊び道具のオハジキの貝殻は大矢の浜へ行けば、砂利や砂の中からいくらでも拾い集めることができました。あの頃は何が好き嫌いなど
と言える時代ではなく、何時も腹を減らしていて出される物は何でもガツガツ食べたものでした。

 後年に従兄がトヨタ自動車に就職し、寮生活でその副食の種類の多さには本当に驚いたと言っていました。私も就職し寮生活に入り同じ経験をしましたが、それまでレタス等の洋野菜など食べた事もなく、店に売っているのを見た事もありませんでした。ご飯は前にも書いた麦入り飯で、時にはそれに小さく切ったサツマイモも入っていて嫌と云うほど食べたので、今、妻や娘はサツマイモを美味しいと良く食べますが、私は見たくも食べたくもなく何時の間にか贅沢になったのでしょうか。



069
ちゃなばら

 子供の遊びと云えばすぐに出てくるのはちゃんばらと戦争ごっこや水鉄砲の撃ちあいでした。小さい頃には浜島座では東映や松竹の厚化粧でド派手な市川歌右衛門や片岡千恵蔵、台詞が何を言っているのか解らない大河内伝次郎や鞍馬天狗の嵐寛寿郎と美空ひばりの杉作、少し経ってからはカッコいい中村錦之介(萬屋錦之介)やその影に隠れて損な役回りばかりの東千代之介、カラカラ笑いの大友柳太郎などの時代劇の映画が全盛期で、水戸黄門で正義の味方の月形龍之介は忠臣蔵の吉良上野介などの悪役専門でした。

 平和劇場では東宝、新東宝や日活の活劇を上映していました。私ども子供は映画を見るとすぐに真似をしてタオルや風呂敷で覆面をして鞍馬天狗になり、棒切れや板に波紋をマジックで書き入れた刀を振り回しちゃんばらをしました。

 写真は弟と裏庭でちゃんばらをしているところで、兄の威厳で何時も弟に切られ役を押し付けました。また宮山の雑木林の中や出湯(現浜島小学校あたり)の畑道を走り廻り、ちゃんばらや戦争ごっこをしたり壊れた唐傘の竹の骨と糸で弓を作ったりもしました。ゴジラの映画が来ると私がゴジラで弟には「ゴジラの逆襲」に出てくるアンギラスの役をさせ、鳴き声がどうも解らず「二ャ―ゴ、二ャ―ゴ」とわめかせました。もちろんアンギラスは何時もゴジラに押さえつけられ負けていました。

 また木製のミシンの椅子を横に倒してその中に入り、飛行機の操縦席に見立て遊びましたが、身体が小さかったから出来た事でした。その後ラドンやモスラも続き、怪獣の決闘では何時も弟を負け役にしました。しかし、それが祟ったのか結婚も子供が出来たのも、娘の結婚も弟のほうが先になってしまいました。

 小さい頃に浜島座に旅回りのなんとか一座が来た事があり、母に連れられて時代劇を見に行きましたが、舞台は佳境に入り悪人が切られ動かなくなった後に主役の男女が抱き合っているのを見てドキドキしたり、ピカッと光る刀を見て本当に切られたと思い、早く医者につれて行かなければ死んでしまうと本気で思い、主役の二人に憤りを覚え母を見ると、母は煎餅をポリポリ食べていて「そんなことしてて」と思ったことがありました。  

 浜島座は正面右側に切符売り場があり入口の右側で切符を渡し入場するとすぐに土間で、客は履物を脱ぎ手に持って席へ行きました。確か入口の左手に便所があり映写室をはさんで右手と左手の隅が二階に昇る階段となっていて、舞台の左右に花道が有り全てが坐る席で厚い板で枡形に区切られていて、私たちはその上を走り廻りました。映画が始まる前に係りの人や客が協力してカーテンではなく、雨戸を閉めてから上映が始まりました。

 平和劇場は全席が木製の椅子で遮光カーテンだったと記憶しています。小学校や中学校の時は文部省選定や特選か、盆や正月でないと許可にならず映画館へ入るのは禁止で、学校から揃って見に行くとガヤガヤやかましく、浜島座は換気が悪くおまけに屁をヘル奴が多く臭気が漂い、それがまた臭くて私はすぐに頭痛に悩まされるのが常でした。また劇場の中に売店があった様な気がしますが、それは平和劇場だったかも知れません。  

 これは浜島座か平和劇場のどちらだったか、たぶん平和劇場だと思い ますが「明治天皇と日露大戦争」と云う映画がきたとき、旅順203高地の攻撃の場面で日露戦争に従軍したらしい老人が、バタバタ倒れる日本兵の場面に怒り興奮し舞台に駆け上がり、持っていた杖でスクリーンに映るロシア兵を二度三度と突き刺し穴をあけてしまい、それ以後ずっとスクリーンに補修した部分が四角の形で大小二ヶ所残っていました。後日その老人がコナカ(へそくり)を持って弁償に来たが、心情を察し劇場側はとれなかったとの話を聞いた事があります。  

 母の叔父(父親の弟)井上善七という人が日露戦争に陸軍工兵二等卒として従軍し、名古屋の陸軍病院で戦病死し龍江寺の卵塔場の一等地に場所を貰い、浄心院節道惠忠居士の墓碑が、私の祖母の実家清代屋の前の坂を上った直ぐ左に立っています。昔は出征し戦死、戦病死すると国家に対する功績を称えられ院号の付いた戒名を貰い特別扱いされたそうです。  

 子供の遊びでひとつ思い出した事が有ります。これは男の子だけだったと思いますが地面に這いつくばって、粘土質の黒い土をかき集め唾をかけて練り上げ地面に盛り上げて、指の先で根気良くこすりつけるとやがて土は徐々に硬くなり、しまいにはカチカチに固まり黒光りしてきて、その光り具合を競う他愛も無い遊びがありました。

 その他の遊びとしては鬼ごっこと缶蹴り、釘打ち、パンパン(めんこ)、ビーダマ、胴まい等がありましたが胴まいは危険だと学校では禁止になりました。女の子はよくゴム遊びをしていましたが、スカートの端を下着のパンツに挟んで太股丸出しでするので、色気づいてきた男の子は目のやり場に困ったものですが、自然に目はそちらへいってしまいました。



070
早町(さまち)海岸からの風景

 多分、写真の位置から見て水産試験場の前、我家の船引き場あたりから湾内を写して貨物船と小向の先平七鼻の八百竹さんの建物が写っています。またその左手丘の上には何も見えませんが現在ホテル紫光が建っています。

 手前の船引き用のウインチは金属製ですが、我家のウインチは木製で穴に横棒を差込み押して回し、ワイヤーを巻き取りました。右端には竹山の海岸堤防が見て取れます。現在の早町海岸を囲む堤防は未だ見当たりません。
 



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2012.05.10.