父のアルバム 10


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父の出張 6/6


左の建物には「芳喜旅館」の看板を見ることができます。飯坂温泉のHPで街
の中央を摺上川が流れていると知りました。写真の川は摺上川でしょうか、
観光用のボートが客待ち顔で繋がれています。また飯坂温泉を検索し「芳喜
旅館」を探しましたが、見つけることは出来ず写真を写して50年の間にこ
の旅館は無くなったのでしょうか・・・                .

そう云えば私の実家も父が定年後に両親で細々と旅館と食堂を営んでいまし
たが時勢に勝てず客足も減り何時の日だったか廃業してしまい、想い出の残
る建物も一昨年建替えのため解体し今はもうありません。父は逝き母は寄る
年波には勝てず最近風邪をこじらせ肺炎になり昔、私が浜島病でお世話にな
った高砂に何度目かの入院をしました。                .

ここでひとつ訂正です。以前に高砂=日赤志摩病院と書きましたが、現在は
県立志摩病院と名前が変わっています。                .

 父はどこかの旅館の窓際からどんな感慨で温泉街を写したのでしょうか。  
伊達政宗の側室「飯坂の方」は、この地の出で伊予国宇和島10万石の藩祖、
伊達秀宗の生母とのことです。秀宗は政宗の長子として生まれましたが庶
子のため仙台62万石を継ぐことが出来ず、徳川家康より宇和島を与えられ
名君であったと伝えられています。したがって正室(三春、田村氏)から
生まれた次子の忠宗が仙台伊達家を相続しました。         
.



092

奉安殿


12でも紹介しました親戚の柴原通成さんが小学生のころ過ごした、
朝鮮(現韓国)全羅北道にあった南原(ナムオン)尋常高等小学校全校
生徒の写真とのことです。                    .

 通成さんのお父上の弥太郎爺様は私の祖父の弟でたいへん頭が良く、学校
の先生もしていたそうですが敗戦により全てを失い帰国し、私が子供の
頃は頑丈な重量自転車に御座(和具?)の笹野軒の菓子箱を何段も積み、
毎日のように宿田曽まで未舗装道路の坂道をトボトボと和菓子を運び家
族を養っていました。弥太郎爺様の顔はおぼろげながら覚えていますが
、最近会った通成さんの顔が爺様そっくりになってきました。    .

 後方に見える建物をみなさんご存知でしょうか。戦前に育った人達には形
ですぐにわかると思いますが、天皇制国家を浸透させるために日本全国
の小学校はもちろん、朝鮮半島にまで造られた「奉安殿」で中には天皇、
皇后両陛下の御真影(写真)が納められていて全児童が毎日拝礼をした
そうです。野外に建てられたものを「奉安殿」と云い、講堂など室内に設
けられたものを「奉安庫」と云ったそうです。通成さんに教えてもらいま
した。                              .

平成15年8月7日の中日新聞夕刊に「壁の中から戦争遺跡」として、愛知
県江南市の滝学園講堂の壁に塗り込められた「奉安庫」が見つかったと.
云う記事が載っています。また検索エンジンで「奉安殿」を検索すると、
より詳しく教えてくれます。各地に神社や倉庫として残っているところ
もあるそうです。                        .

旧浜島小学校の大運動場西南隅には砂場があり、砂場に滑り降りるよう
に滑り台がありましたが、この滑り台のコンクリート製台座辺りが浜島
尋常高等小学校のちの国民学校にあった奉安殿の跡だと母が言っていま
した。そのコンクリート製の台座も現在は撤去され道路になっています。




093

父の浜島尋常高等小学校初等科記念写真 1/2


懐かしい二階建て西校舎の前。父は大正3年生まれなので、この校舎が建てられてから
10年くらいの経った頃の写真でしようか。この校舎の窓際に沿って時代によって木が
植えられたり、花壇になったりしたのが他の写真から伺えます。          .




094

父の浜島尋常高等小学校高等科記念写真 2/2


当時の記念写真は西二階建校舎の職員室前辺りで撮影するのが恒例だったようで、
この写真は昭和4年のものだそうです。                    .

私も小中高校や就職後など種々の記念写真がありますが、小学校時は三年生のとき
に宮山で橋本美和子先生とクラス全員を撮った写真が2枚と、関西へ修学旅行に行
った時の法隆寺、平安神宮、大阪城の記念写真がありますが卒業写真はあったのか
見当たりません。                              .

中学校では卒業アルバムが作成されましたので、学年のクラス別記念写真があり、
修学旅行では東京の皇居の二重橋前で写したクラス記念写真があり、それぞれの写
真をデジカメやスキャナーで複写し拡大写真にしたり、パソコンに取り込んで往時
を偲び楽しんでいます。                          .




095

旧浜島小学校西二階建校舎


既に小学校は出湯の浅間山麓に新築された新校舎に移り、伊勢湾台風での破損部分を
直した二階建校舎も空家となり、窓と云う窓は雨戸や板を打ち付けられて見る影もあ
りません。                                 .

下の写真は中心部分を拡大したもので、校舎の西側は補強のためか斜めの柱木で二ヶ
所が支えられていて、たしか裏側も同じ方法で補強されていたと思います。多分、昭
和40年代の半ばの写真と思われます。校舎の窓際にはコンクリートで東西に長く仕切
られた花畑が造られていて、その東端の職員室前には浜島簡易水道が完成後だと思い
ますが、水飲み場も作られたのでした。                    .

 役割を終えた小運動場では漁業関係の人が漁網の手入れをしているようです。左隅に見
える大木は写真でもわかりますが根元が穴になっていて、子供の頃によく中に入って
遊びましたが一度中を覗いたら白骨化した猫の死骸があるのを見てしまい驚き、その
日は一日中気分が悪く以後そこでは遊ばなくなった思い出があります。写真では枯れ
たように見えるこの大木も今はもうありません。                 .

拡大写真をよく見ると後方には高山(浜島病院)の建物が見え、祖母のハツ婆様はこ
の病院の二階に入院したまま70歳で亡くなりましたが、そのとき和具から嫁してきた
祖母の死を悲しみ、叔母や従妹が「ワンワン」泣いていたのを覚えています。また入院
のとき担架で運ばれるのを見た近所の小童どもが「死んだのか」「死んだのか」と喚いて
いるのを聞き、側に付き添っていた私は子供とは云えその無神経な声に無性に腹が立
ったのを覚えています。                           .

病院は坂を上って行くと蘇鉄だったかが植わった前庭があり入口を入ると右側が受付
と診察室で、中央の廊下をはさんで左側が待合室で窓に沿って長椅子があり、その奥
が薬局で正面廊下の奥には二階への階段と手術室があり、子供の私には何か恐ろしい
感じがしました。レントゲン室もあったと思いますがさだかではなく、記憶違いがあ
るかも知れません。またこの時代は一度薬袋を貰うと節約のためか、次回に来院の時
は薬袋を持ってくるように言われました。                    .

私は小さい頃に右腹がズキズキ痛み診察の結果、慢性盲腸の疑いがあるとして明日に
も手術と言われ、生きたここちがしなかったことがありましたが、翌日にはケロッと
治って危うく腹を切られそうになり、言っては悪いけれど藪のお陰で大変な恐怖を味
わったことがあります。そのとき何時も恐ろしいばかりの父が「大丈夫やで、大丈夫
やで」と励まし、勇気付けてくれたのを覚えています。             .

父の遺稿を読むと父も軍隊時代に出征した中国で軍医の誤診により、特異体質で盲腸
が左にあるとか屁理屈を言われ、危うく腹を切られそうになったことがあったために
、あの優しい言葉になったのかと後になって思いました。            .

学校の西門の両側に石柱が立っていたようで、すっかり忘れていましたが思い出して
みると石垣に沿って低い石柱が立ち、その間を二段の鉄管でつないであったような気
がします。この門の石段を下りて行くと右手の細長い建物で和船を造っていて、あの
狭い道を完成した船を大矢の浜まで運べるのかと余計な心配をしたものです。   .

2の写真に写っている玉転がしの紅白の玉や、綱引きの太く長い綱それに体操用具
を入れてあった体操小屋はすでに無く、そこには懐かしいマツダの軽自動車キャロル
が止まっています。                              .

2003年11月19日付け中日新聞の「あの日あの時」に「秋の大運動会浜島」として、昭和
17年の運動会の様子を井上博暁さんが校舎のほぼ全景が写った写真を提供しています。
この写真では西校舎の前は大きな木が植えられ、しっかり枝を広げ葉を付けているのが伺
えます。                                   
.



096

旧浜島小学校大運動場と宮山


新校舎へ移転した後の幼稚園だけが残った大運動場の様子で、子供達が休日なのかソフトボール
を楽しんでいて、古タイヤで道路と仕切りをしてあります。伊勢湾台風で倒壊した教室はきれい
に撤去され、そこには幼稚園の遊具なのかブランコ、すべり台、ジャングルジム、ウンテイ等が
設置され便所、小使室があった建物、改修された二階建て西校舎が写っています。      .

写真の西校舎東端は本来は小使室の建物と同様に寄棟の屋根でしたが、伊勢湾台風での損傷修理
時に放送室を撤去し、切り妻の屋根に造り直されています。                .

宮山(みやま)の崖の崩壊も相当進んでいたようで、崖に沿って運動場に立っていた鉄棒や崖の
中央部に造ってあったゴミ焼き場も見当たりませんが、右端に僅かにすべり台の階段が見えます
。山に林立していた松の大木は一本も見えず、ただ西行法師の歌碑だけがポツンと寂しそうに佇
んでいます。父のアルバム 9、27、29の写真に多数の松の大木が写っていますが、その
変わりようには目を疑います。                              .

この運動場に溢れんばかりの子供達が毎朝、授業が始まる前や昼休み放課後にいくつもの集団を
つくり大声をあげ、鬼ごっこや胴まいなどをして駆け回っていたのが目に浮かびます。またここ
は宮山を削って造成した運動場のようで、所々に岩が剥き出しのところがあり勢いあまって転ぶ
と膝や肘を擦りむいてしまい、東西校舎間の奥にあった保健室へ行き赤チンを塗ってもらいまし
た。                                         .

私どもが小学生だった50年程前の団塊の世代は一学年が四クラス程で、一クラスで50人近くの鮨
詰め学級で、桧山路から通って来る児童は弁当持参でした。 朝礼は毎日だったか週一回だったか
覚えていませんが、みんなが背の低い順に前へならいをしてそれぞれ一列に並び、私は阪東の稔之
さん(トッチャン)がいたので何時も後ろから二番目でした。                .

校長先生や他の先生の話を聞き終ってから運動場いっぱいに広がってラジオ体操をしたあと、全員
で数分間の校庭の石拾いをしましたが拾っても拾っても元々岩肌のため、次々に石が湧き出てきて
尽きることがありませんでした。あの拾った石ころは何処へ捨てたのか全く覚えていません。  .

私は、この崖の上から模型飛行機を飛ばしたり、祖母が持っていた和紙を貰い糸を糊付けして直径
1メートルほどのパラシュートを作り、おもりを付けて投げ下ろしたりして遊びましたが、パラシ
ュートは風に乗ると高く舞い上がって何処かへ飛んで行ってしまいました。          .

伊勢湾台風時に潰れた教室へもぐり込んで取り出してきて作り直した飛行機は、左に曲る癖があり
ましたが思った以上に良く飛びました。                           .

私は、初めて購入したマイカーの三菱ミニカ70で浜島へ帰り、この運動場へ持ち込みスピンターン
の練習をして、デフとショックを破損し取り替える羽目になり思わぬ出費を強いられたことがあり
ました。この車は2サイクル2気筒360ccのエンジンで、フルアクセルで走るとモクモクと白煙を吐
いて走りました。今の軽自動車と違い全長3メートル、全巾1.3メートルで燃費はリッター7キロし
か走りませんでした。ほかにスバルR2、スズキフロンテ、ダイハツフェローと四サイクルエンジ
ンのホンダN360それからマツダのキャロルはアルミ四気筒エンジンを売り物にして、これらの自
動車が日本のモータリゼーションを担い街を走り廻っていました。              .




097

旧浜島小学校(幼稚園)のすべり台


浜島小学校のすべり台は大運動場の西南隅に、大鉄棒に対面したコンクリートの台座
(旧奉安殿?)から砂場に向かって三本設置されていて、子供が喜んで遊ぶ遊具でした
が何時の日か宮山への登り坂に三本とも架け直されたようで、このすべり台も浜島幼
稚園が立て替えられたときには撤去されたようで何時の間にか無くなりました。  .

宮山への登り坂の下部は全面がコンクリートで固められていましたが、写真のように
10メートル程登ったところの側面から、グルリと砂場のところまでの崖は岩肌がむき
出しになっていて、今でもその痕跡がわかります。それからゴミ焼き場の左手は崖の
窪みを伝って、また旧すべり台の隅は剥き出しの木の根っ子を伝ってそれぞれ宮山へ
登ることができました。                           .

この坂を登りきった角の崖下の中間2メートル程の高さのところに1〜2メートルの横
長の段があり、私たちは崖を攀じ登りその削れた段のところでも遊びました。  
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釜崎 (鎌崎)突堤の変貌


釜崎の変化が解るので比較写真にしてみました。上の写真では未だ岬をグルリと廻る
堤防が出来ていません。この時に南風荘が出来ていたのかどうかは写っていないため
解りません。また突堤に二ヶ所あった切り欠きも明確に見ることができます。    .

中の写真には既に堤防が出来ていて、その上には何棟かの海女小屋が建ち並び、小屋
の中では磯から上がった海女さんたちが、冷えた身体を焚き火で温めて休め世間話の
笑い声が聞こえていました。                          .

南風荘は工事中か北側に足場が組まれています。また堤防は外側をグルリと廻って造
られたのではなく、岬の先端の一部をくりぬくように削りとって造られたようで堤防
の左側に取り残された岩の塊が見られます。                   .

下の写真は現在の様子を写したもので堤防は目戸からビン玉道路となり、突堤はきれ
いな遊歩道状になり手摺も出来、付け根部分も大きく変わっています。しかし、観光
ホテルの衰退はたいへん残念なことです。                   .

最近、南風荘の庭にあった古墳跡を探しに行きましたが、その荒れ様は大変なもので
雑草のため入るのも困難な状態でした。                   
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099

釜崎突堤の岩塊


釜崎の堤防が出来たことにより取り残された岩の塊の変貌が解ります。岩塊の先端
には僅かに草も生えているのが見え、その下部は堤防と繋がっています。     .
下の写真は最近のもので、岩塊の柔らかい部分は長年の風雨や波浪のため喪失した
のか、最上部と堤防に接した部分が無くなって岩塊は独立しています。また沖には
防潮のためのテトラポットが長く設置され、目戸の海岸を台風の波浪から守ってい
ます。                                  .

下の写真では満ち潮のため解りにくいのですが、磯の形状は良く見ると昔と変わら
ないようです。                              
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2012.05.14.