父のアルバム 11


a@100

釜崎突堤


釜崎突堤の付け根にあった階段から東の方向を見たもので、突堤にあった
二ヶ所の切り欠き部分が黒く横線になって見えます。子供の頃の私たちは
突堤の先端へ行くのに、これが最大の難関で切り欠き部分を下りた後よじ
登るのに背が低すぎて
大変苦労しました。               .
 
現在の突堤はご覧のように巾も広く切り欠き部分は無くなり、コンクリー
トむき出しだったのがタイル状に綺麗に張りつめられて、両脇は手摺が設
けられ安全にも配慮され容易に先端まで行けます。あの切り欠き部分は子
供が危険な突堤の先端部分へ行かないための配慮だったのか、それとも突
堤の強度上の構造だったのでしょうか。              .
 

先端は防潮堤のテトラポットと繋がり、遠く四国の四万十川から運ばれて
きたと聞く大矢の浜の砂浜を守っています。遠くには矢取島と城山の一部
が、その向こうに合歓の郷がある大崎半島が見えます。突堤の巾が広がっ
た分だけ北側の磯が少なくなったようです。            
.




a@101

釜崎突堤先端より南風荘を見る


釜崎突堤の先端部分から西方向をみたもので、上の写真は二枚の写真を繋ぎ合せ
ました。目戸の町並みや南風荘周囲の樹木の繁り具合の変化がわかります。また
突堤付け根の北側(右手)は大きく変わって船着場となり、かつて弘法井戸下の
浜に引上げられていた漁船(14.15.投稿)はこちらに移動したのでしょうか。
右手に建っている大きな白いビルはホテル志摩石亭の寮で、遥かその後方に浅間
山と大山さんが重なって見えます。                     .

夏休みになると弟は大矢の浜からこの突堤まで泳いで往復していましたが、私は
残念ながらそんなスタミナは持ち合わせていませんでした。とにかく運動はまっ
たくダメでした。しかし上には上があるもので大正時代の話ですが、私の祖母の
はつ婆様は和具から嫁いで来た人で、その親戚の子供が英虞湾を横断して泳ぎき
り遊びに来て饅頭を食べて、また泳いで帰っていったと聞いたことがあります。
今でもそんな無茶なことをする子供がいるのでしょうか。           .

以前のわいわい広場で浜島町と志摩町の伊勢海老漁獲量について激しいやり取り
がありましたが、昔は両町の間でこのような交流が何度もあったのではないでし
ょうか。浜島の生徒もたくさん通学している志摩水産高校は戦前には志摩水産学
校と云い、ヨハチヤの柴原貞男さん(陸軍中尉、昭和20年5月ビルマで戦死、父
はその直前まで一緒に行動)が配属将校として軍事教練を指導されたそうです。




a@102

釜崎突堤より矢取島遠望


城山先端と矢取島、両方をつなぐ堤防が見え小矢取島は大矢取島に重なって見えま
せん。両者の間には防潮のためのテトラポットが設置されているので、向こう側の
堤防は見えません。以前この堤防も釜崎の突堤同様に二ヶ所が切り欠かれていたよ
うに思いますが、写真ではそれは確認できず私が双方を混同しているのかも知れま
せん。                                  .

私たちが子供の頃は城山と矢取島間の堤防北側は、ウツボがいて危険だから泳い
ではいけないと言われていましたが、現在はその中ほどまでは埋め立てられ鴻洲
埋立地となり、水産センターの施設等が建ち並んでいます。         .

私は小さい時に祖父と何日もかけて釣りの用意をし、矢取島の北側へ釣に行った
ことがありましたが、その日は生憎のシケで波が荒く直ぐに船酔いを起こしてし
まい、何度か矢取島へ降ろしてと言いかけましたが、祖父もこれはだめだと思っ
たのか早々に帰ったことがあります。                   
.



a@103

無線鉄塔と城山


庭口から三本松その後方に水産試験場と漁業無線局の無線鉄塔そして城山と続き、
この城山は本丸、二の丸、三の丸と別れていて掘割や土塁もあるとのことですが今
はそれを確認する術はありません。                     .

 浜島の城跡としてはこのほかに高山(旧浜島病院、現第一保育園)の場所が古城の名
称であります。                              .

庭口には実家の畑が今もあり荒れないよう頼んで耕作してもらっていますが、叔父
さんの話では城山にも昔所有地があったとのことです。釜崎突堤と手前の浪消しテ
トラポットにより、現在の綺麗な白砂の大矢の浜が護られています。       .

 100から103の古い写真はたぶん昭和40年代と思いますが、突堤の先まで来て写
真を写す発想はどこから出てきたのでしょうか。              .






a@104

大矢取島から小矢取島、釜崎を見る


大矢取島の灯台の位置より小矢取島をはさんで目戸方向を見る。この灯台の建っ
ている場所に灯台が出来る前に、大木が枝を大きく広げて矢取島の特徴となって
いて、冊子「浜島町の伊勢湾台風」の昭和28年の13号台風後を写した写真には、
その姿がはっきりと写っていて健在だったようです。          .  

13号台風のときか伊勢湾台風のときか覚えてはいませんが、台風の目が志摩半
島の真上を通過し、確か真夜中だったのに空が物凄い黄色になったのを、家族か
ら「見ておけ」と促され見た覚えがあります。小矢取島の周りは意外と岩礁が多い
のわかります。                             .

目戸の後方は浅間山と大山さんそれから南勢町、南東町の山並みと続きます。
102でも書きましたが釜崎と小矢取島、大矢取島は直線上にあるのがこの写真で
良くわかります。                            .

下の写真の小矢取島は昔と違い年々少しずつ形が変わってきています。3月13日
に南勢町のスコールさんが撮影した島の写真をSHOさんのHPで見せていただき
ました。SHOさんが言うとおり大矢取島と小矢取島です。スコールさんはこの島
の名前を知らなかったようで、これまで何度かこの島についても「父のアルバム」
で書きましたが、説明不足を反省しています。               .
 
大矢取島のアングルは子供の頃に巡航船や、真珠のアルバイトの行き帰りに何時
も船上から見ていた光景でした。また上記のとおり大矢取島灯台のところに昔は
大きな松の木?があり、その真下の海辺が機雷の引上げられていた場所で、それ
は直径が1メートル以上の球形のもので、赤さびた上部に信管の跡らしい四個の
出っ張りがあり、上がったとの話を伝え聞き飛んで見に行きました。    .
 





a@105

祖父の奈良、吉野旅行


この写真は私の祖父が大正15年に奈良から吉野へ旅行した時のもので、当時の
浜島の友人達(遊び仲間?)の集まりのようです。プライバシーに関わるかも
知れませんが浜島町先人の写真としてあえて紹介しますのでお許し願います。

上の写真の裏には奈良県吉野 五郎べ茶屋 大正十五年四月十八日と書かれて
います。                              .
  下の写真後列左より(敬称略、カッコ内は屋号)
  山嵜楠之丞(しまや)、平賀新一、柴原増蔵、柴原彌兵衛(やへいや=私の祖父)、山嵜英二(いわさきや)

  前列左より
  柴原和助(わすか−柴和、魚和)、森 藤吉、三好野政子、柴原源三郎(みなもとや)、小野忠五郎、井上嘉三郎(めいじや)

私が各人々の屋号を知るわけも無く、大垣に住む 叔母さん(父の妹)に
五名の家を教えてもらいました。さて三好野政子なる女性は何者なるか?
、当地の観光案内嬢でしょうか。                .  

おもしろいことに各人とも和装、洋装それぞれですが帽子をかぶりステッ
キやコウモリ傘を持っています。大正末から昭和初め頃のモダンボーイの
スタイルでしょうか?。祖父に聞いたことで若い頃に親にコウモリ傘を買
ってくれと頼んだところ、親は訪ねてきた人に「近頃の若い者はあんなもの
を買えと言うのだ」と言っていたそうです。             . 

下の写真は同じく大正十五年四月十七日に奈良の三笠山(若草山)にて写
したものです。各々の屋号の家にはこれらの写真が古いアルバムに残って
いるかも知れません。50〜60歳代の方のお爺様になると思いますが、こ
の人達の屋号を知っている方は御教授お願いします。        .
 



a@106

明治から大正初期頃の家族写真


この写真も傷みが相当広がり傷がいたるところにありましたが、デジタル時代
の恩恵で何とか修正が出来、見たことの無い実家の先祖の人々の顔が見れる写
真にすることができました。                      .

柴原しも :私の祖父の母親。私の父の妹(叔母)が名をもらった。            .
        昭和15年頃に浜島町長をされた柴原庄太さま(しょうた−現柴原格さま家)の従姉妹。
柴原彌兵衛:(やへいや)私の祖父。                          .
柴原彌太郎:(やたろや)12 柴原通成さんのお父さん。                 .
柴原彌四郎:(やしろや)柴原勝さんのお父さん。網元料亭八代。              .
柴原信也 :(あけのや)南国柴原満也さんのお父さん。                  .
柴原八重 :柴原彌兵衛の妹。27歳で死去。                       .
柴原すみゑ:柴原彌兵衛の妹。油谷(あぶらや)の養女となり油谷すみゑ。         .
柴原はつ :(きんすか)阿児町国府から(やへいや)へ養女に入るも、実子誕生により.  
     (きんすか)へ嫁入り。当初スエをハツに改名し私の祖母と同姓同名になる。
中学校の運動会で会ったことがありその時の写真が残っている。
  柴原金一 :(きんすか)柴原はつの子供で、柴原光雄さんの兄さん?。詳細不明。       .

柴原信也爺さまは親戚中で最高齢者でしたが、残念なが2004/3/22に死去されました。 
たしか明治42年生まれで享年95歳でした。写真では生後歩き出して間もない頃と思われ、
明治末の写真と想像されます。                           
.



a@107

小矢取島の変遷


スコールさんが気に入られmさんが最近の写真を投稿してくれた、小矢取島には
ぺんぺん草が生えているのですか。私が子供の頃にも島のてっぺんには草が生え
ていましたが、台風や嵐が来て海が荒れ狂い大波が押し寄せると、その草はどこ
かへ吹き飛ばされて無くなっていました。                 .

三枚の写真は多分、昭和40〜60年の間の姿だと思われ見る位置が異なるため一
概には言えませんが、小矢取島の島影の変化を見ることができます。上の写真
に比べて下の写真では上部が相当崩れ失われています。          .

 右下の写真は近年私が写したものです。この107は当初は投稿予定にはありま
せんでしたが、当方の都合により追加投稿しました。           .
 



a@108

浅間山 (せんげんさん)より目戸方向を見る


父のアルバム1の浅間山から見た浜島全景の写真を見て、私はここ迄登ってなぜもっと
別方向の写真を撮らなかったのか疑問に思っていましたが、やっと同じ日に写したと思わ
れる二枚の写真を見つけました。                        .  

一枚は1の写真を少し右に振って薬師さんの杜が写っていてフェリーが少し左に進んで
います。もう一枚は更に右に振り目戸の全景を写したもので、つないでパノラマ写真にす
るつもりだったのかも知れません。遠く御座と白浜も見えます。           .

下の写真は中心部を拡大したもので若い人は知らないと思いますが、なんと旧墓地が写っ
ています。出湯や目戸の耕地整理が始まる前の旧墓地は街の西の外れで、ここより西は田
や畑ばかりで遠く鯨望荘があるだけでした。墓地への道は水産倉庫の横(左下横長の建物
、現第三銀行のあたり)を通り左手の木が繁っているあたりから坂を登って行くのと、右
端バス停近くの細道を登って行く二ヶ所があり、また元地(もとじ)の畑の方からも畑の
畔を通って行くことができました。                        .

元地(現小学校)方向から行くと途中に横長の大きな墓があり、私たちはその形から馬が
埋めてあると言ったものですが、 それは大正10年に浜島沖で遭難し34名の犠牲者を出し
た鹿港丸(ろっこうまる)の慰霊碑でした。                    .

墓参の人々は墓へ行く前に確か旧バス通りの東側(現井上清一さま宅辺り)に共同井戸が
あり、そこで水を汲んでから行ったと記憶しています。                .

昔の浜島の葬儀は自宅から親戚や参列者で行列を作り、竹竿の先に付けた竹を編んだカゴ
に和紙で包んだ小銭を入れ、辻々でカゴを揺すり振って小銭を撒きながら、お坊さんのチ
ン、ドン、ジャンに続き水産倉庫の南側の広場に至り、そこで最後のお坊さんのお経をい
ただき、親戚代表が会葬のお礼を述べてから埋葬のために墓地へ登って行きました。  .

私も他所の葬式があると予め狙いをつけておいた辻で待ち構え、そこで撒かれないと葬列
の後を追いかけ先回りし、大勢の子供と団子になって「ジャラ、ジャラ」と撒かれる銭を何
度となく拾い、拾った銭は家に持って帰ってはいけないと言われていたので、直ぐに駄菓
子やおもちゃを買うのに使ってしまいました。                    .

我家では昭和37年に死去したハツ婆様、それから母の実家の昭和43年死去のヨネ婆様の葬
儀までは土葬でした。また埋葬のために土をかけていると火葬されていないため、先祖の
遺骨が土に帰りきれず出てくることがありました。  浜島に火葬場(大方の新墓苑)が完
成後、昭和55年に死去した彌兵衛爺さまの葬儀では喪主の父が焼却炉のスイッチを入れた
ところ、炉が故障のためか点火せず参列者は狼狽し「彌兵衛爺焼かれるのがいやなんや」と
ザワめき、仕方なく隣の炉で火葬をしたのを覚えていますが、移し替えるために炉から取
り出した棺には焼却用の油がべっとりと付いていました。               .

現在の葬儀の棺桶は横長の寝棺で火葬されますが、昔は土葬の関係で墓地の面積にも制限
があったためか1メートル程の縦長の座棺でした。膝を折って両足を立てそれを両手で抱
かえ頭部をその上にうずくまる様な形で棺にいれるため、遺体は前日からそのような形に
なるように紐で縛り固定し布団をかけて寝かせてあったのでそれは痛々しい情景でした。

 墓地へ向かうときは棺を霊柩車(自動車ではなくリヤカーに神輿を乗せたような形のもの)
に乗せ、行列の人々が霊柩車の紐を引いて行きました。遺族や親戚の大人や子供がそれぞ
れの役の物を持ち、故人の子は白、孫は赤、曾孫は黄のサラシの布を首に巻くのは現在と
同じです。                                    .

盆になると初盆の家では寺での迎えダンボや送りダンボに出ますが、そのなかの役に子供
が二人参加(太鼓の上で死者の戒名などを読む)します。私も一度その役が回ってきたこ
とがありましたが、人前に出たり文を読んだりするのが大の苦手だったので、絶対に嫌だ
と言って拒否したことがありました。                       .

 さて中央右の四角い建物は旧郵便局の局舎で、移転したあと現在は「産業交流館:ちちろ」
になっています。それから私が子供の頃の郵便局は、同級で仲の良かった柴原弘和さんの
「みなもと屋食堂」の道路をはさんで西にありましたが、そこは一時水産試験場だったこと
もあるそうです。
                                  .



a@109

浜島のパノラマ


三枚の写真をつなぎ弁天島の左から目戸の宝来荘あたりまでのパノラマ写真にし
てみました。便利な時代に居合わせたものでパソコンで簡単に三枚の写真をつな
ぐことができました。昔は浅間山からこのように展望がきいたのでした。   .
  
まだまだ目戸や出湯の町並みは今と違い、住宅の数も少ないようで手前には新小
学校の体育館が見えますが、伊勢湾台風で旧小学校校舎が倒壊したとき6年生だ
った昭和22年生まれの私たちは、中学校の教室を間借りしての授業で一度もこ
の新しい校舎で勉強は出来ませんでしたが、昭和24年生まれの弟はなんとかギ
リギリで学年の途中から入れたようでした。                .

体育館横の運動場は元々深い谷になっていて下は田んぼだったのを埋め立てたも
ので、その谷に沿って実家の元地の畑があったところで、替地について頑固一徹
の祖父は町役場と意見が合わず大変怒り、しまいには小学校の運動場に杭を打つ
と息巻いて、叔父さんたちは手伝えと言われ困ったと言っていました。しかし小
学校のあたりに畑をもっていた人の替地が、国道際になったとかの不合理な噂も
何度か聞きましたので祖父は怒ったのでしょう。              .

先日、浜島へ帰った時に同じ場所からの現在との比較をしようと浅間山へ登って
みました。驚いた事に昔とちがい中腹の尾根まで自動車が一台しっかり通れる舗
装路が出来ていました。尾根を右手に行くと大きな円筒の配水池もできていて、
自動車も数台なら置けるほど門前は広い敷地になっていました。しかし、写真を
写したと思われる場所(中腹旧配水池四角なコンクリート?のところ)へは、残
念ながらバリケードと雑木が繁っていてたどり着けず、また雑木が道路わきから
高く繁っていて浜島の景色は枝の間から数箇所で僅かに見える(下の写真)のみ
でした。                                .

私は28で宮山の西行法師の歌碑や恵比須さんの石碑等について希望を投稿の中
に書きましたが、ここで浅間山についても希望を述べさせてください。私の住む
桑名市の北に今度合併する多度町があり、同町は多度大社のあげ馬神事や流鏑馬
で有名なところです。この多度大社は多度山の麓にありますが、多度山には狭い
ながら自動車が山頂まで走れる道路があり、山頂には数台置ける駐車場や広い公
園もあり小学校児童も遠足に行き、展望台からは木曽三川から濃尾大平原はもち
ろん名古屋のツインタワーや三河の猿投山や恵那山、木曽御岳まで望むことがで
きます。                                .

浜島町においては磯体験施設や学習体験施設等を町活性化の一環として建設した
ようですが、夢海道からビン玉道路に続く遊歩道として浅間山を整備できればい
いですね。中腹までは自動車で行けるので自然を著しく破壊しない程度に中腹を
利用して横山展望台のような、浜島の街を一望できるだけではなく英虞湾や前島
半島、大崎半島の合歓の郷まで見える展望台を建設できれば貴重な観光施設とな
り、老齢の方でも楽に街を見て楽しむことが出来ると思うのですが・・・。ただ
浅間山が個人所有の土地だとむづかしい問題もあるかも知れませんが、城山につ
いても同様な可能性があると思います。                  .

私どもが子供の頃は狭い地道の登山道を登ると何処からでも街が見え、山頂の祠か
らは浜島全景を望むことが出来、山頂下をグルリと周回する道では大山さんやまわ
りの山々や熊野灘の荒海を見ることが出来ました。また山頂の祠も現在は幟旗を立
てて信仰の対象になっているようですが、宗教問題を超え破損消失の事態が生じな
いよう、町の文化施設としての保存も合わせてお願いしたいものです。それから希
望ついでに言うと登山道を広げ春の桜、秋の紅葉を植樹できればすばらしいですね

浜島では桜は見ますが紅葉は見たことがなく、潮風の多い土地に紅葉は育たないの
でしょうか。ただ登山道へ行くには小学校があり、児童への配慮が生じると思いま
す。                                   .

  
その小学校も平成22年に浜島墓苑ならびに消防分署
   
北側の新校舎(76.77)へ移転しました。      .





a@110

父の愛用カメラ


父は初めは職場の二眼レフカメラを借りて私ども子供等を写していましたが、
ついにマミヤ−6と云うカメラを購入してから何処へ行くにもそのカメラを持
ち歩いて写しました。1から108までの写真は父のアルバムと、祖父から
父に引き継がれたアルバムに残っていたもので、古い写真は殆どが写真館で写
したものでしょう。                          .

昭和30年代以降の写真は主に父が写したものと思われますが、人から
貰った写真もあるのでしょうが今となっては確かめ様がありません。.
また前にも書きましたが膨大な量の写真のネガが全く見当たらず、父が
カビを生やして処分したのか残っていればデジタル化して、綺麗な写 .
真に出来たのに残念です。                    .


 「父のアルバム」最終にあたり父が愛用していたカメラ「マミヤ6」について
紹介させていただきます。                   .

カメラ名    マミヤ−6                   .
  レンズ     コパル(SETAGAYA KOUKI SEKOR)      .
レンズ仕様   1:3.5   F=7.5cm              .
  シャッター速度 B.1.2.5.10.25.50.100.300. セルフタイマーあり
絞り      3.5.4.5.6.8.11.16.22.         .
使用フィルム  ブロニー版  6×6、6×4.5 切替可 手巻き式
ピント調整   二重像合致式補助光               .
F端子接続のフラッシュ撮影  .
アクセサリーシュー       .

通常レンズはボディーに折り畳まれていますが、上部のボタンを押すと蛇腹
の先に付いたレンズが出てきます。シャッター、絞り、セルフタイマー、F
端子ともレンズ周辺に配置されています。               .
ピント調整はボディー右後ろの歯車を回転させて、 左右に動く二重像を合
わせます。ボディー裏蓋を開けるとフィルム通過部左右にフラップがあり、
開けておくと6×6で閉じておくと縦長の6×4.5で、それぞれフィルム1
本で10枚と12枚撮影出来ます。フィルム巻取りは手巻きで裏蓋にそれぞれ
の枚数を覗くオレンジ色の窓が付いています。             .

このカメラは今では常識の露出計がついていないため、別途購入の露出計でシ
ャッター速度と絞り値を決めなければなりません。しかし、フィルム面が大き
いので四つ切に引き伸ばすと、 35mmフィルムでは味わえないきめ細かいす
ばらしい写真が出来ます。                      .
 
昨年4月18日より投稿させていただきました「父のアルバム」は、今回110を
もちまして終了させていただきます。その間、貴重なスペースを割いていただ
いた浜島町HP担当者や激励をいただいた皆々様に、ここで改めまして深く深
く御礼申し上げます。また南勢町のスコールさまには特にお世話いただき、H
Pに保存していただいた上に英訳版まで作成していただき感謝にたえません。
ありがとうございました。                       .

最後に今年末に予定されている町村合併で我が故郷の浜島町は志摩市となり、
浜島町HPもどうなるのか解りませんが、引き続き運営されることを期待し当
HPが浜島の更なる発展に寄与されることを、遠く桑名よりお祈り申し上げる
次第です。                             .
 


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2012.05.14.