浜島の石碑 (01〜04)

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浜島の碑 1

01 第三幸喜丸海難者霊位之供養塔


昭和39年、世は東京オリンピックを10月にひかえ日本中が期待に沸きかえって
いる中、2月10日に浜島港を一隻の遠洋鮪延縄漁船が出港して行きました。二度
と帰ることのない船出とも知らず船長以下24名の乗組員の中に私の同窓生である
片出隼人君と柴原薫君もいました。その船名は第三幸喜丸でオーストラリア西海
域のインド洋で、不幸にもサイクロンに遭遇し3月27日夜半の通信を最後に消息
を絶ち、乗組員全員が帰らぬ人となりました。               .
写真は浜島墓苑入口の道路南側に船主の方により、昭和44年に建立された遭難者
の供養塔です。中学卒業後2年も経ないうちの2人の同窓生の死に直面し、たいへ
んな衝撃を受けたのを覚えています。                   .




写真は第三幸喜丸海難者霊位之供養塔裏面で、遭難にいたる
経緯が詳細に記されていますのでここに転記紹介します。 .


第三幸喜丸海難者霊位之供養塔

霊標記載の二十四名は第三幸喜丸(鋼船一七九屯)に乗り組み昭和三十九年二月
十日浜島を出港一路南下して三月上旬印度洋のオーストラリア西海域に達し鮪延
縄操業を開始した その後順調に操業を続けたが三月二十五日頃から付近にサイ
クロン(暴風雨)が発生し天候は次第に悪化した 同船は警戒しつつ回避したが
これに遭遇し三月二十七日午后SOS(遭難信号)を発信し同日夜半の通信を最後
にその消息を絶った。遭難推定位置は東経一一四度二五分南緯一七度二五分であ
る この為付近操業中の僚船 航行中の各船舶及びオーストラリア政府派遣の航
空機等海空一体の捜索活動を展開したが 一人の乗組員の救助も一人の遺体の発
見も果せず僅か遺留物少々を回収しえるのみであった 斯くして乗組員二十四名
の尊い生命は乗船第三幸喜丸と共に印度洋深く没し去った痛恨の極みである茲に
思いを遠く印度洋に馳せ諸子の健闘を讃えさの冥福を祈り永遠の供養の印として
此の塔を建立する。                           .
               昭和四十四年十一月二十七日
                 第三幸喜丸 船主 谷水喜惣兵衛
        焚香敬白合掌



  
  写真の第三幸喜丸海難者霊位之供養塔の下部は、第三幸喜丸殉難者霊標で
殉難者全員の氏名が記されていますのでここに転記紹介いたします。  .


第三幸喜丸殉難者霊標
 漁労長 濱岡信夫  船長  井上 敏
 機関長 山本由一  通信長 岡本治喜

岩本 篤 岡本正文 浜口正幸 井上幸弘 柴原増也
井上 弘 柴原弘行 浜岡 敏 永田庄一 西尾義隆
浜口 弘 西飯一俊 浜岡碩樹 谷水良秋 井上総壽
 西飯正美 西飯澄夫 片出隼人 柴原 薫 谷水喜代一




浜島の碑 2

02 鹿港丸殉難者之墓


函館の山崎汽船所属鹿港丸(ろっこうまる)は、大正10年9月26日浜島港湾内
にて暴風のため遭難し、乗組員34名が犠牲になった。           .
旧墓地北端の林に囲まれた一画に鹿港丸の慰霊碑がありました。小さな砂利が
敷き詰められた中に石で横に長方形のサークル状のものがあったのを記憶して
いますが、写真のような碑があったのかはまったく記憶になく私が混同してい
のかも知れません。私ども子供のあいだでは死んだ馬を埋めたので横長の形
に石が並べてあるのだと話合いました。                 .

墓碑の所在について浜島墓苑造成後にその最上部に移転したことを一言居士さ
んから浜島町ホームページ内掲示板わいわい広場で教えていただき、浜島有縁
無縁
墓碑の後ろにある墓碑を撮影してきました。             .

  
  
殉難者之墓の碑文

函館區山崎汽船株式曾社所有汽船鹿港丸
於濱島湾大正拾年九月貮拾六日
遭難之際為殉難者建立之汽船株式曾社


甲板部
廣瀬藤三郎 尾崎恒仁  乃村初太郎 野澤興三郎 佐藤譲太郎
安藤 悟  仲澤 林  石田原秀良 八木清吉  給前康太郎
 安坂孫一  工藤茂吉  恒岡兼太郎 大野 恵        .


司厨部
花岡徳太郎 田中文一  下西喜助  佐藤 一  久保田利夫

機關部
黒瀬忠一  佐藤忠吉  松下新吉  石川佳吉  岡田信三
畠山喜八  黒川慶治  古谷寅一  佐々木秀治 菅原亀吉
姜守坤   李卯生   佐藤末吉  濱田政一  大森伊八




浜島の碑 3

03 宮山 恵比須碑


宮山にのぼるとすぐ目につくのが日本一大きいエベッサン別名鼻欠恵比寿
で、その鼻は大漁のお守りとして漁師に削り取られるごとに補修され、正
月の初恵比寿には町民が集まり一同「ワッハッハ」と初笑いの様子が今年
は新聞の一面をカラー写真で飾りました。また、あるテレビではその模様
を放映し十べ屋の親父さんが画面いっぱいに「ワッハッハ」と大顔を映し
ていました。なお住宅地図に早町海岸道路を少し南に入った十べ屋さんを
ナベヤと誤記されているのがありました。              .

そのエベッサンに向かい合うように立っているのが恵比寿碑で、この地に
恵比寿像を建立した経緯と恵比寿像再建会員名と青年有志奉仕者、篤子奉
仕者、発起者のそれぞれの氏名が記されています。          .





恵比寿碑 碑文(表)

古来、恵比寿碑尊の本像を安置し漁商の神として崇敬せし所なりしが其像遂に腐枯
して今や形を存せず これを遺憾とし當地の畳職なる辻村定吉氏尊像の再建を思ひ
立ち 約半年の心膽を練り自ら技工を凝らして漸く其大成を見るに至り 恵比寿講
の日をトして其除幕式を擧げたり 有志相諮り再建會を組織して辻村氏を援助し 
猶地に青年會員及び篤志者の奉仕に依り輪環の美を装ふ仍て碑を建つ      .


                昭和七年十一月十七日 徳山 柴原庄太 書
※ なんと恵比寿碑の再興を思い立たれたのが畳職の辻村さんだったのですね。
その辻村畳店は今は無く浜島診療所(旧浜島座)の東隣の「まちなみ活性塾・わんさ
かわんさ」になっていて、温泉の足湯でにぎわっています。          .

          浜島町長 柴原庄太氏の号と思われる





恵比寿碑 碑文(裏)

恵比寿像再建會員 會員加入順
田中新太郎 井上友蔵  柴原庄太  井上勇平  水谷徳松 
 井上民三  谷水甚作  山崎俊一  松尾平兵衛 西飯楠次郎 
石川重部  宮木善七  松尾一三  山崎淳一  井上善代 
森 新助  林 雅一  柴原藤栄門 井上三吉  山崎楠松 
 柴原多市  森 一雄  中西富太郎 岩本庄助  酒井弥太郎 
 井上重吉  濱田正義  井上栄太  柴原繁三  森 藤太郎 
 小崎周三  柴原常三  岡本長太郎 芳森信一  柴原弥兵衛 
竹内壽一  柴原和助  山本芳輔  磐田文利  濱岡市郎 
井上勇吉  岩本兼助  谷田伴治  柴原良助  岩崎耕治 
  豊永健次  井上善六  共吉丸   小坂春吉  浜口新右衛門 
 谷水喜平治 柴原久四郎 松尾平三郎 松尾平十郎 井上楠太郎 
山崎英二  井上留吉  谷水佐太郎 豊永三治郎 鰯網組合 

谷水利松  小崎一雄  比賀掃部  上野篤次  片岡勇男 
山崎楠之丞                       .


青年有志奉仕者
岩本得助  井上善吉  村田喜平次 
山崎貞一  柴原謙次  森 藤弥 .

篤志奉仕者
濱口仙四郎 中村恒太郎 

発起人
柴原庄太  田中新太郎 井上友蔵  井上勇平 

石工 伊藤楠松 


※ 恵比寿像再建會員名のなかには私の父方の祖父と母方の祖父の名前も
  あり、そのまま屋号になった人の名前が見られます。さあ、あなたの
家のお爺さん孫爺さんの名前もありますか。         .




浜島の碑 4

04 宮山 西行歌碑

  

碑表

碑の歌は風化が進み甚だ判読困難のため一言居士さんのHP(田中征也の
はまじまん)内の夢海道ぶらり散歩にある西行上人の碑に記載の歌をお借
りします。                           .


「はなれたる しららの浜の沖の石を くだかで洗う 月の白波」




碑裏

昭和七年壬申春華甲記念
田中新○郎 建立 石○刻

建立者名と石工名の○印は判読不能ですが、田中稲花という
人が西行法師に思いを馳せこの地に建立したとのことで、建
立者名の本人は恵比寿碑の恵比寿像再建會員と、発起者に名
を連ねていられる田中新太郎さんではないでしょうか。一言
居士さんと同姓ですので、もしかすると御親戚でしょうか。




05 水産試験場建築記念碑



-A・)v 2005年4月21碑
井上さん こんにちは〜 今朝、見つけました。

-A・)vさん、お久しぶりです。お元気ですか。
水産試験場建築記念碑ですね。水産試験場は明治31年岩崎新地が埋立完成後に
明治34年木造で建設され、 西行歌碑が建立された同じ年の昭和7年に鉄筋コン
クリート造りの旧水産試験場に移転し、更に昭和59年に水産技術センターが臨
海土地造成地に完成し、この碑も水産試験場の歴史そのままに現在の三重県水
産技術センターの庭に移動してきたのですね。              .


私の亡父は昭和5年に16歳のとき初めて水産試験場に関係し、昭和43年に県土
木事務所に転出するまで38年間奉職した関係上、子供の頃には何度となく試験
場に遊びに行きましたが、 この碑が旧試験場の何処に建っていたのかは記憶に
ありません。ただ写真の右側に写っているシュロの木かな?、このような木が建
物正面の車寄せの前に植わっていたような気がします。          .


一言居士 2005年4月24日(日)10:33
田中稲花は現田中石油の先々代で、私の祖父であります。三重歌壇の佐々木信綱
に師事していた関係で還暦記念に碑をたてたそうです。華甲とは還暦のことだそ
うです。                                .


旧の水産試験場は我々世代に懐かしい場所です。標本室や飼育プールなど子供心
に興味を覚えるものがありました。私にとって浜島の中の都会が水産試験場であ
ったかも解りません。記念碑についての記憶が甦りませんが、正門の左手に小さ
な庭があったと思うので、そのあたりにあったものでしょうか。よく解りません。



浜島の石碑へ

2012.2.13.