きままだより 41. | きままだより 42. | |
早春賦 (大正2年小学唱歌三) 「桃の節句」「お水取り」「春分・彼岸」と、三月のカレンダーから季節の ことばを並べてみました。「暑さ寒さも彼岸まで」とか、「お水取りが住 むまでは・・・」とか言われるが、三月ともなれば、春が近づいてくる のを感じて明るい気分になれますね。 土中で冬眠していた生きものたちが出てくると言う「啓蟄」の頃から、 僕も冬篭りをやめました。そして、庭に出て花壇の手入れなどをボツ ボツ始めています。今日は隣町の「明和シネマ」へ出かけて、映画「お とうと」を観てきました。 さて、例年のことですが、立春を過ぎると 「春は名のみの風の寒さ や・・・・・」と口ずさむことがあります。「早春賦」は安曇野での作詞 とされています。漢詩調の文体がいいですね。中田章の作曲で一世紀 にわたり愛唱される名曲誕生となったのです。 中田章は 「夏の思い出」 「ちいさい秋みつけた」 「雪の降る街を」 などを作曲した 「中田喜直」の父であり、俳優 「中田喜子」の祖父だ ったとはオドロキですよね・・・。 (三月十一日) |
鎌倉 (尋常小学唱歌 明治34年) 「文部省唱歌」 にも名曲が多く、歌い継がれている。勝手に 分類すれば風景唱歌、物語唱歌、歴史唱歌その他となろうか。 「桜井の訣別 「青葉の笛」 「元寇」 「水師営の会見」 「牛若丸」 「薩摩守」 「児島高徳」 などは歴史唱歌と言えるだろう。昔の 小学校では、唱歌が歴史の理解や記憶にも役立ったと、思って いるのは私だけであろうか・・・。 唱歌 「鎌倉」 は新田義貞、源実朝、静御前など歴史上の人物 や建長寺、円覚寺などの社寺を現在まで覚えさせてくれた歌で、 歴史唱歌の最たるものである。また、この歌は格調高く懐古的な 歌詞とメロディーで多くの人に愛唱された。さらに、今風に言え ば 「鎌倉市のご当地ソング」 であろう。 |
きままだより 43. | きままだより 44. | |
茶摘 明治45年 「尋常小学唱歌」 ※ 唱歌「茶摘」は、昭和十年代までは女の子の遊び歌としてい つも耳にしていた。・・・八十八夜トントン。若葉が茂るトント ン。と、手を打つスピードを緩急自在に楽しく遊ぶ光景が懐かし いですね・・・。 片道十数キロメートル、「宮川」 に沿って、美しい茶畑を見な がら「度会町」へと車を進める。教え子の理容店へ通う楽しいドラ イブが20年ほど続いている。最近は 「運転できる間は来るから な。たのむで。」と言って帰る・・・。 度会町は伊勢地方では知られた 「度会茶」の産地である。宮川 が流れる山間地で昼夜の温度差が大きく、霧の多い土地が茶の木 の栽培に適しててるので、香りが良く、美味しいお茶ができると いわれている。ホントウデス・・・。 三重県は 「静岡」 「鹿児島」 に次ぐ全国第34位の茶の産地 である。三重県産のお茶を総称して 「伊勢茶」 という。水沢、 亀山、大台、度会などが県内の主産地である。宇治茶や静岡茶と 並んで全国版のブランド品となることを期待したい。 |
若いおまわりさん 好きな歌である。 口ずさむと 「おーい中村君」 「東京のバスガ ール」 「ああ上野駅」 「スーダラ節」などを思い出すことがある。ど れも昭和30年代の歌である。 「戦後社会の混乱や貧困」 から、「所得倍増。高度成長期」 へと 向かい始めた頃である。更に、「新幹線・東京オリンピック」 から、 やがて、「大阪万博」へと発展してゆく 「昭和のよき時代」 であっ た。歌にも当時の明るさや人間関係の温もりが反映していたよ うである。若原一郎、ミスコロンビア、井沢八郎、植木等らの顔とと もに「昭和時代の歌謡曲」 を懐かしむ昨今である。 当時に比べて、現在のギスギスした人間関係や不安定な社会は ・・・。政権交代で経済不況や閉塞感からの脱却を期待したのに、わ ずか半年で迷走状態に陥っている。清廉潔白で剛毅果敢な政治家 が出て 「基地なき日米関係」だけでも実現してくれないものだろうか。 いや、どの県も町も拒否する基地だから、基地撤廃の国民運動でも 起こればいいのだが・・・。 |
きままだより 45. | きままだより 46. | |
夏は来ぬ (明治29年新編教育唱歌集五) 平城遷都1300年を記念して復原された「大極殿」に登って、 朱雀門までの広大な 「平城宮跡」 を見渡しながら 「あおに よし はな・・・」の和歌を思いだしていました。 「きままだより」 で交流のあるTさんに誘われた「平城宮跡・ 興福寺見学ツアー」 は好天候に恵まれて大満足の一日となり ました。阿修羅像にも会えました・・・。 伊勢から奈良までの道すじでは、白い 「卯の花」 を何回も見 かけ、平城宮跡の散策では、「諌の花」と「雲雀」を見る幸運にも めぐまれました。 我が家では居ながらにしてホトトギスの鳴声を聞けます。そし て、時にはほととぎす はやもきなきて・・・と口ずさみます。 「唱歌。夏は来ぬ」は、日本の初夏の美しい風景輪を彩るウノハナ ・ホトトギス・サミダレ・サオトメ・タマナエ・タチバナ・ホタ ル・オウチ・クイナ・ユウヅキ・サツキヤミ・サナエなどを、短 歌調で謳いあげた名歌で、百年も歌い継がれてきました。「日本 のうた・心のうた」と言っても過言ではないかと思っています。 |
踊子 歌いだしは覚えているが、何んという歌か・・・とKさんから聞か れた。小説や映画で知られた 「伊豆の踊子(原作・川端康成)」 の歌だと思い出して、久しぶりに聴いてみた。 三浦洸一の澄明 な歌声を聴きながら、懐かしい映画の場面が走馬灯のように蘇 った。 (高橋英樹と吉永小百合り青春コンビだったか。) ところで、私の楽しみの一つに 「探し歌、尋ね歌」がある。 メロディーや歌詞の断片は覚えている歌の題名や歌詞全体を調 べることである。記憶の糸を手繰ったり、人に尋ねたり、そし てインターネットで調べたりする。解決した時の快感はえもい えない。これまでに「薩摩守」「霰三題」「家路」など探り当てたこ とがあったので、Kさんの質問をたのしんだ。 「踊子」のように昭和の歌には我々を楽しませ、心を癒してくれ る歌がいっぱいあった。岡本敦郎、灰田勝彦、藤山一郎等々の 伸びやかな声で・・・。 |
きままだより 47. 2010.8. | きままだより 48. 2010.10. | |
岸壁の母 「岸壁の母」 のモデル「端野いせ」はシベ゛リア抑留者の引揚 げ船が着くたびに、東京から舞鶴港の桟橋に行き、息子の帰り を待ち続けた。戦死の公報があっても、引揚げ船が終了しても、 息子の生存を信じたまま生涯を終えたという。 作詞家・藤田まさとは「端野いせ」に直接インタビューして「岸 壁の母」を書き上げた。菊池章子のレコードは日本中を感動の渦 にまきこんだ。さらに二葉百合子の浪曲調は大ヒットして、今 に至っている。 舞鶴の「引揚げ船記念館」には、シベリア抑留や引揚げについ ての資料が展示されている。七月十九日に舞鶴を訪ねていろい ろと知ることができた。4歳上の兄(故人)が潜水母艦「長鯨」の 乗組員で、終戦後に「引揚げ船」として帰還が遅れたと聞いてい たが、この記念館に「長鯨」の写真を発見して、兄の話が事実だ ったことも確認できた。我々世代にとっては、八月は、鎮魂と 反戦の思いが蘇る。「異国の丘」 「長崎の鐘」でも歌ってみたい ・・・ |
瞼の母 セリフ入り歌謡の名曲に、「瞼の母」 「傷だらけの人生」 「子連れ狼」 「味噌汁の詩」 「浪花恋しぐれ」 などがあり、 私も愛唱する一人である。「すみだ川」 「湖畔の宿」 「大利根無情」 のセリフも懐かしい。また、詩吟とか浪曲 入りの歌謡も三波春夫・二葉百合子・村田英雄などの名 調子はいつ聴いてもいいものである。 中村美津子の 「瞼の母」 氷川きよしの「番場の忠太郎」 がヒットを続け、3月引退を発表した二葉百合子が浪曲歌謡 「瞼の母」を熱唱している。 「セリフ入りの歌」 にも、「日本の歌・心の歌」 として百年後 にも歌い継がれるものが多くあるのではないだろうか・・・。 |
きままだより 49. 2010.11. | きままだより 50. 2011.1. | |
ふるさと NHKドラマ 「ちりとてとん」 や 「オバマ大統領」 の出現 で「小浜市」 の名が全国に広まった。前々からぜひ行きたい と思っていたので一泊で出かけた。途中で立ち寄った「三方 五湖・山上公園」のスピーカーから、流れていた五木ひろし の「ふるさと」 だった。 「しぐるるや若狭に多き仏たち」。小浜市内には古刹が多 く、寺院めぐりのバスもある。本堂と三重塔が国宝の「明通 寺」、二月堂へのお水送りの行事をする「神宮寺」などをま わり、港近くの宿に泊まる。次の日は、市内の「重伝建地区」 を散策して、江戸時代から港町として栄えた小浜市の一面を 探った。また、日本海の海産物や若狭塗り箸などの買い物を 楽しんだ。 帰途は「鯖街道」や琵琶湖西岸道路を走って、「熊川宿」 「白鬚神社」 「近江聖人中江藤樹記念館」に立ち寄った。 ※@熊川宿は国指定の「重要伝統的建造物群保存地区」 A白鬚神社は、長女の現姓名が「白鬚恭子」なので興味 があった。 |
黄金虫 新年おめでとうございます おかげさまで 「きままだより」 も第50号です。 今年もグラウンドゴルフ・運転・旅行・演劇鑑賞など 楽しみながら 「きままだより」 も続けたいと思って いるのであります。 童謡 「こがねむし」 は明るいテンポのよい歌で、 正月にふさわしいかと思います。『健康と労働と金 と愛情で一家団欒』 を歌いあげています。人間社会 こそ、豊かになってほしいものですが・・・。 平成二十三年 元旦 |