きままだより 51.〜60.

 きままだより 51.  2011.1.  きままだより 52.  2011.2.


  みかんの花咲く丘  
 
   
 応募数2800、当選ペア20組の、「スーパーぎゆうとら」と「南勢養鶏 」企画のみかん狩りに参加できた。五ヶ所湾を見下ろす南伊勢町内  瀬のみかん畑で、みかんがり・バーベキュー・バームクーヘン手作り・ 卵積みゲームなど両社社員のいたれりつくせりの接待とお土産
 付きで素晴らしい秋の一日を楽しんだ。一月になって、その時のスナ ップ写真が届き、テレビでも放映された。繁盛を願う業者の顧客サー ビスに驚かされたのである。                       

 童謡 「みかんの花咲く丘」 は昭和21年のラジオ放送以来愛唱され   ている名曲である。この歌の誕生は、放送前日に加藤省吾と海沼実 の 運命的な出会いがあって、その日のうちに作詞作曲ができたと言 うエピソードが語り継がれている。 敗戦直後の人々の心を癒し、明る くした歌詞とメロディーが 一日にしてできたというのも驚きだよね・・・ 。     



  
    わが人生に悔いなし  


 銀座の鯉の物語、二人の世界、赤いハンカチ、夜霧よ今夜も有難う、粋 な別れ、夕陽の丘、嵐を呼ぶ男、夜霧の慕情、ブランデーグラス、港町・ 涙町・別れ町、恋の町札幌など
裕次郎の歌には好きな歌が多く、リタイア した頃によく歌ったものである。                            
 「
わが人生に悔いなし」は裕次郎が闘病中にレコーディングして、 没後に 発売されたものである。彼はどんな心境でこの歌を歌ったのであろうか。 国民的な人気の中で、太く短く生きた彼にふさわし い歌であるとは思うが ・・・、せつない。                                      


  僕の友人・Tさんは、裕次郎のような男っぽさはないが、医者知らずのタ   フな八十二歳である。尺八、手品、安来節や観光案内などでボランティ  ア活動を続けている。彼の芸達者と健脚ぶりには恐れ入るばかりである。僕が競合できるものを強いてあげれば、ともに 「良い歯8020受賞者」で あり、「長寿大学OB」 である。そして、特に、裕次郎最後のヒット曲 「北  の旅人」 を好む昭和一桁の同士である。


 きままだより 53.  2011.3.  きままだより 54.  2011.4.


    おれの小樽    


 
・・・「銀恋」もよいけれど、「おれの小樽」はぼくの持ち歌のひとつです 。昨年、「小樽運河」 も見なければ、歌うとき失礼かと思い、かあさん と北海道へ「トワイライト・エクスプレス」で旅行に行ってきました・・・     

 
毎回のように返信をくれるTさんからです。                 一昨年、第二の職務を勇退するときには。・・・いよいよ私も「遊び人  」としてデビューしたく思っています。 俳句もやりたいし、山歩きもした い し、ゴルフもしたいし、「恋」 もしたいし・・・と。               
 彼の七十歳からのセカンドライフは、夫婦同行の「遊び人」 しているよ
 うで、至福の日々でしょうか・・・。
 さて「おれの小樽」 は未知の歌だったので、早速パソコンで聴いてみ ました。小樽の風物や情景など、少年時の裕次郎の想いで出そのも のの歌詞と裕次郎調の曲に惹き込まれました。北原ミレイの「石狩挽 歌」 や東京ロマンチカの「小樽の人よ」 とともに愛唱歌の一つにした  いと、くりかえし聴いている昨今であります。                     


    元寇

 東日本大震災から一ヶ月以上になった。被害の全貌があきらかになるに つれ、未曾有の大災害であることが分かってきた。とりわけ、福島原発事 故はチェルノブイリに匹敵する重大事故である。漸く収束までの 「工程表 」 が東電から出されたが、まだまだ予断を許さない現状だと誰もが思って いるのではないだろうか・・・。                        

 さて、今回の 「元寇」 の歌を知っていますか? 文部省唱歌だったとは、 知る人ぞ知るであるが、格調高い歌詞と軽快な曲なので軍隊でもよく歌  われたと聞いている。蒙古襲来の歴史事象が分かりやすく 「歴史唱歌」  の代表と言える優れた歌である。                        

 原発事故は 「日本沈没」 になりかねない。「平成の国難」である。日本人 が一丸となって収束しなければならない。そして、今後の増設や継続は見 直すべきであろう。安全神話を奉じて、反対派や慎重派を抑えてきた政  界、官界、産業界、学会の責任は重且つ大と言うべきである。


 きままだより 55.  2011.5.  きままだより 56.  2011.8.


  わかば     


 風薫るこの季節になると、思い出す歌あり。               

 目に (は) 青葉 山ほととぎす 初がつお       素堂       

 志摩に居た頃、魚市場に初鰹があがると、「刺身」「茶漬け」
「てこね  寿司」 にしてよく食べたものである。                     

 
あらたふと 青葉若葉の 日の光           芭蕉       

 
「奥の細道」 の大旅行で日光東照宮へ参詣したとき、初夏の日差し  にさんさんと照り輝く青葉若葉、華麗な建造物、荘厳な神域に感動し  た芭蕉の名句の一つである。                             
 そして、今回とりあげた 「わかば」
の歌。緑に染まった周辺の里山を 眺めると自然に歌いだすぐらい好きな歌である。全国のどこにでもあ った懐かしい日本の原風景が、爽やかに表現されていて気分がすぐ  れる歌である。 戦時中の昭和十七年 「国民学校初等科音楽二」に載 った唱歌だったとは・・・。

 春から初夏へ、さくらの花から青葉へ、周りの自然も自分の行動も変 わらないのに、今年は 「うしろめたいようなきもち」 になることがある。 原発被災地の方々が故郷を取り戻すこと、故郷に帰れる日が来るこ  とを祈るばかりであります。

  
  おまえに   

 作曲家・吉田正が、陰で支えてくれた夫人に対する感謝の念をこめて「おまえ に」を作った。歌詞は、吉田夫妻と親交のあった岩谷時子が 「おしどり夫婦」   の仲睦まじさをイメージして書いたと言われる。フランク永井の低音にマッチし て大ヒットした。僕もカラオケをやった頃にはよく練習したものである。     

 「異国の丘」 「街のサンドイッチマン」 「誰よりも君を愛す」「潮来笠」 「いつ でも夢を」 「傷だらけの人生」 「美しい十代」 「子連れ狼」など2300曲に及 ぶ 「吉田メロディー」 は国民に夢と希望と潤いを与えた功として 「国民栄誉  賞」 に輝いている。

 数日前、伊勢ジャスコで「フランク永井ベスト(20曲)」のCDを買ってきた。  「おまえに」 「有楽町で逢いましょう」 「君恋し」 「羽田発7時50分」 「夜霧 の第二国道」 などが入っている。冷房の聞いた部屋で、吉田メロディーや古 賀メロディーの鑑賞、そしてフランク永井の低音の魅力に浸りたいと思ってい る。

 きままだより 57.  2011.8.  きままだより 58.  2011.9.


   知床旅情   

   「・・・地域の夏祭りで 「知床旅情」 を歌ってきた。これまでは何気なく
  歌っていた「ピリカ」 って何だろうと思って調べたの・・・。」 数年前に体
  調を崩して地域や同好会での活動も車の運転もやめて、引っ込みがち
  だったM子さん(80)の元気な電話だった。                 

   我が仲間も高齢で体力の衰えや病気も増えたが、巧く対応しながら長
  生きしている人が多い。医者や薬に頼りながらも、「病気は、気から」 を
  大切に、明るくありたいものです・・・、「心に太陽、唇に歌を」と、誰かが
  言ったっけ・・・、いいですね。                        

   「知床旅情」 は誰からも愛される歌である。森繁久弥が映画 「オホー
  ツクの老人」 のロケで羅臼村に滞在し、終わって帰る際に、村の人々
  への感謝をこめて即興で作った歌と言われている。森繁が紅白で歌っ
  たこともある。加藤登紀子に歌い継がれて、今や 『日本の名歌100選』
  の上位にランクされている。
  森繁節のように、ゆったりと、歌ってみませんか・・・、自分流で。    


  


 涼しくなったら、33ヶ所めぐりを完結させようと予定していた。ところが  当日 (9月14、15日) は残暑厳しい日になってしまった。有馬温泉に泊ま って一乗寺、清水寺、花山院、勝尾寺、中山寺、総持寺、四天王寺を巡 り、奈良の薬師寺にも立ち寄った。巡礼を始めた頃と比べて脚力が極  端に劣化していることを思い知らされる今回だった。だから本堂までエス カレーターで登れる寺があるのには驚くやら、ありがたいやら・・・。残る は、元慶寺、革堂、今熊野となった。永観堂にも寄りたいので紅葉の頃 にと思っている。満願後は、より気ままな小旅行をと願っている。       
                             (平成二十三年九月末)
  「声に出して読みたい日本語」を読んでから数年「おくのほそ道」の暗誦
  を続けている。芭蕉が心血を注いで推敲したといわれる紀行文、何十 回繰り返し読んでも飽きることはない。「読書百篇意自ずから通ず」と実 感しながら楽しんでいる。 序章「月日は百代の過客にして、行きかう 人もまた旅人なり。舟の上に生涯を浮かべ、馬の口とらえて老いを迎う る者は、日々旅にして、旅を晒す。古人も多く旅に死せるあり・・・」は全 編を代表する格調高い書き出しである。学校で暗記させられた人もいる のではなかろうか。                                  
 今回は、『立石寺』(第31章)を取り上げてみた。参詣の動機、境内の雰 囲気など簡潔に表現して完璧である。暗記してみたら如何かな
・・・。   

  「山形領に立石寺という山寺あり。慈覚大師の開基にして 殊に清閑の 地なり。一見すべきよし。人々のすすむるによって、尾花沢よりとって返 し、その間七里ばかりなり。日いまだ暮れず。麓の坊に宿かり置きて、  山上の堂に登る。岩に巌を重ねて山とし、松柏年ふり、土石老いて苔滑 らかに、岩上の院院とびらを閉じて物の音聞えず。岸をめぐり岩を這い て仏閣を拝し、佳景寂寞として心すみ行くのみおぼゆ。

 「閑かさや 岩にしみ入る 蝉の声」 旅程を変更してまで、28キロも戻  って立石寺に参詣する芭蕉さんの意欲と健脚には驚くばかりである。  「おくのほそ道」 の名句中の名句の蝉は何ゼミか長く論争されたがニイ ニイゼミで落着いている。現在は芭蕉・曽良像、句碑、芭蕉記念館も設 置されているそうである。                                    

 


 
今回の山形県 立石寺は平成二十一年八月に訪ねました。一人娘を山形県に嫁がせて毎
のように孫娘に会いに米沢市へ出かけ、東北地方の観光地を周遊しています。この寺には大変な石段 (500段とか800段とか) があると娘に聞いていたため、孫娘はどうせ 途中でダッコと言い出す覚悟をして登りだしましたが、私は貧血症のため不覚にも途中の仁王門あたりでダウンし、30分程休息をとるはめになりました。ところが当時三歳の孫娘は元気ハツラツとうとう最後まで登り切ったのには驚かされました。孫娘の言うには 「ジジちゃんつかれるねぇ。ジジちゃんつかれるねぇ。」でした。八月の暑い時期のこと汗だくになりながら、何とか登り切りましたが五大堂からの景観はまた格別でした。しかしあまりの疲れからか蝉がどんな声で鳴いていたのかは記憶に無く、芭蕉・曽良像、句碑、芭蕉記念館も何処にあったのか???。      
下の写真はその時の二葉で孫娘だけが元気いっぱいでした。その孫娘も今年一月に弟が出来てかわいいお姉さん振りを発揮しています。                           
                                                                                                  HP管理人

    

 きままだより 59.  2011.10.  きままだより 60.  2011.12.


 「・・・歌も大好き俳句も大好き人間で、毎回興味深く読ませてもらって  います。今回の「立石寺」へは数年前に千数百段の石段を登ってきまし た。「閑かさや・・・」 の句を刻んださりげない石が石段の途中に据えら れていました。長寿大学卒業後、仲間十名で施設へ歌の慰問を続けて おります・・・」

 
津市のKさんからです。
 摩市のKさんは毎回の 「きままだより」をホームページに掲載し、 今回はコ メントもしてくれています。一人娘さんを山形に嫁がせて いるKさんのサー  ビスでしょうか。「立石寺」に旅行した人は意外に多く、返信の電話や葉書が 続きました。                                      

 「おくのほそ道」は、芭蕉さん四十六歳の時、江戸から奥羽・北陸を回って大 垣までの六百里、百五十日間の行脚 (旅行) の紀行文です。今回はその最 終章の 「大垣」 を取り上げました。 

 (大垣) 「露通もこの湊まで出で迎いて、美濃の国へと伴う。駒に助けら れて大垣の庄に入れば、曽良も伊勢より来り合い、越人も馬をとばせ て、如行が家に入り集まる。前川子・荊口父子、その外したしき人々日 夜とぶらいて、蘇生のものに合うがごとく、かつ悦びかついたわる。旅 のものうさもいまだやまざるに、長月六日になれば、伊勢の遷宮おが  まんと、また舟にのりて蛤のふたみにわかれ行く秋ぞ 」

 弟子の露通が敦賀まで迎えに行き、旅の結びの地・大垣まで付き添い曽良、越人など多くの弟子たちが毎日集まってくる様子からは、師弟の絆 の強さ が伝わってきます。旅の疲れも癒えないのに伊勢へ向かう芭蕉さん、漂泊  の詩人の面目躍如と言うところでしょうか。弟子たちとの別れをハマグリの  蓋と身を離すことと 「二見」 にかけての有名な俳句にも親しみを感じて、暗 誦も楽しんでいる昨今であります。                        




 小話@ 昭和十七年、 島の国民学校高等科二年生は夏休み前のある日の  体操の時間、学校の下の浜で水泳となった。一回めが終わるとき担任が、「今か ら泳げるものは「ムカバタ」まで泳いで行っていいぞ」と宣言した。六十人近い全  員が歓声をあげて飛び込んだ。数百メートルほどの対岸に泳ぎ着いたのは、「カ ツ、サボ、イサ」の三人だけだった。島の仲間に大声で叫んだが豆粒ぐらいにし  か見えない。砂浜に大の字に寝た直後、漁船が来た。担任が心配して漁師に頼 んで迎えにきたのである。三人は凱旋将軍の気分で仲間のところへ帰った。

 小話A 昭和四十五年夏、菅島小学校に勤めていた「イサ」はある日曜日に、 PTA会長さんから海女漁に誘われた。漁場に着いて、海女さんたちから少し離  れたところへ「イサ」も潜って見た。アラメ、ホンダワラなどの海草がびっしり生え た海底である。何回か潜ったら腰に提げていた袋はアワビでいっぱいになってし まった。後日、「あの先生は連れてきたらあかんな。」と、海女さんたちから、会長 さんはさんざん言われたそうである。                                      

 小話B 昭和四十九年夏、 田丸小学校で「イサ」は高学年の水泳の時間、一 回目の休憩時に「先生が今から、五十メートル潜るから見てくれるかな。」と児童 に呼びかけてプールに飛び込んだ。二十五メートルの壁で水中ターンしてスター ト台の下まで潜水で泳ぎきった。水面にゆっくり顔を出すとすごい拍手が耳にと  びこんできた。

 (※勝吉(カツ)は二十歳半ば、海底火山爆発に巻き込まれた遠洋漁船で海難死 した。※三郎(サボ)は定年後も元気でカラオケ、ドライブ、恋愛など楽しんでいた が、六十歳半ば、頚部にできた腫瘍で急逝した。人の運命はさまざまですね。)さ て、八十三歳の誕生日を目前にしたイサ(勇)は「ついに来るものが 来たか」との 岐路ら立たされた心境になっている。少年の頃から肺機能には自信があったの に、酸素吸入器なしでは外出も侭 ならぬ身になるとは。いっときは悲愴な気持 ちになってしまった。しかし「メガネ、補聴器、ぺ−スメーカー、透析などと同じよう に酸素吸入も身体機能を補強する一つだ。」と考えればコレまでどおり何でもで  きるような気になっているのであります。きままだよりも六十号、一応の区切りと 思っていますが・・・。佳いお年をお迎えください。                               

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2011.12.19.
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