柴原廣彌の遺稿 01


 
第一期教育訓練 

 001 応召前の病気

   昭和十四年十二月三十一日、午後より職場の人達と恒例の伊勢神宮越年参拝に行

  くため準備をしていたところ、急に激しい頭痛と発熱におそわれ旅行どころでは無

  くなり早々床につき医師の往診を受けた。医者は一通り診察をしたが病名がはっき

  りしないまま多分風邪だろうと自宅で休養をしていたが、年が明けても発熱が数日

  続き一向に治る様子も無く、その上身体の節々が痛み出し異様に喉が涸れて、苦痛

  のため床で身体を動かしてばかりいたためか床擦れをおこし尻部の皮膚が剥がれて

  きた。このような状態が数日続いたが、どうにも熱が下がらないので伊勢市の日赤

  病院に行き医師の診断を受けることにした

   私の乗車したタクシーが日赤病院に着き下車した時、後で解った事であるが同じ

  職場の水産試験場に勤務していた保田技師が同病院で病死し、県関係の職員が病院

  へ詰めかけ表門から出てきたところで私と顔見知りも何人かいたが、彼等一同は私

  の姿を見掛けても誰一人として声すらかける者もいなかった。それ程に当時の高等

  官と判任官末席の者の差は甚だしいものであっ
た。

   日赤病院の医師の診断で病名は猩紅熱(
しょうこうねつ)と言われ、これは伝染病

  のため直ちに隔離病棟に入院する事になった。入院中余病の多発性関節炎を併発し

  大変な痛みが連日続いたが、治療の経過も良く三月末日全快退院することが出来た。

  三ヶ月の入院治療後、四月初めから職場復帰を果たし勤務に就いたが、余り体力の

  回復も無く養生を兼ね杖をつき歩いての通勤であった。

 



 
002 臨時召集

   四月二十四日頃であった。家から勤務先へ電話があり町役場から予め電話通知

  で召集令がきた事を知らされた。早速事務の引継ぎをし諸手続きを行った後、自

  宅に帰り数刻して始めて見る臨時召集令状という赤枚を受け取った。私は生来身

  体虚弱で徴兵検査でも甲種合格にならず現役徴集を受ける事も無く、この年(二

  十六歳)まで軍隊とは無縁の存在であったが、日華事変の様相も激しくなり愈愈

  (
いよいよ)自分のような者にまで召集がかかる時節になったのである。

   親戚や近所の方々は早くも何処からか聞きつけ、入れ替わり立ち代り挨拶に来

  てくれるがお祝いとも言い難く、また悔やみとも言えず変な気持ちの言葉ばかり

  である。入営まで一週間程の余裕があったので応召の準備をしながらも、当地の

  しきたりで各神社仏閣に武運長久祈願の参拝をした。先ず町内の人々と共に氏神

  の宇気比(
うきひ)神社で祈願祭を行い、その後は南張(なんばり)の楠御前八柱

  神社(
くすごぜんやばしら)、御座の金毘羅不動尊、鳥羽市の青峯山正福寺(あおの

   みね
)と参拝をした。正福寺の若い僧が中支に行ったことがあり「当地は大変水

  の悪い所だから充分注意をしなさい」と、さも知った振りをして説明をしていた。

   在郷軍人服に
「赤べた」の襟章をつけて各近所や親戚への挨拶廻りをし、長髪

  も切り落とし記念の写真を山崎写真館で撮影しておいた。出発の前日は夕刻から

  浜島小学校の教室の仕切りを取り外した講堂で町主催の送別会が催され三名の応

  召者、井上勇君(浜島町桧山路地区)、橋爪慶二郎君(浜島町タイワ)と私は上

  段に席を設けられ膳分を用意されたが、それぞれ集ってくれた方々は物資の少な

  い時節がらスルメと蜜柑だけであったが、ある程度の酒も用意してあった

   町長、漁業組合長、小学校校長、在郷軍人会会長等の祝辞が続き、各々有志は

  私共応召者の席に入れ替わり立ち替り杯をさしにくる。暫時して誰からともなく

  軍歌の合唱が始まり、それは何曲も止めどもなく続き、送別会終了後は楽隊を先

  頭に皆が声を張りあげて軍歌を歌い乍、町内を行進し各々自宅迄送られ万歳万歳

  を叫んで散会をした

 (カタカナ書きは浜島町での屋号) 



 
003 郷里出発

   昭和十五年四月三十日、朝より浜島小学校の校庭へ町内一同集合していただき

  代表者の挨拶を受けたあと幟旗を翻し、楽隊と共に軍歌を叫んで送られ船着場に

  至り、ここで万歳を後に船で迫子(
はざこ)に向かって出発した。迫子に着くと、

  ここからは迫塩(
はくえん)小学校の児童も加わり磯部との中間にある二本松迄送

  ってもらい、皆様に御礼の挨拶をして徒歩で磯部村(現磯部町)に向かった。川

  辺(
かわのべ)橋の上では、ここまで付き添って来てくれた極親しい方々に別れの

  挨拶をして、普通ここからは当地の慣例で山(現伊勢道路)を徒歩で越えて内宮

  に至り武運長久の参拝をするのであるが、何しろ病後の私は当時杖をつき歩いて

  いた程で到底山道を歩き続ける事は不可能なので磯部から自
動車で出発したが、

  病後間もないため軍務に絶えられるか覚束ないくらいで町内の人々もあの身体で

  は即日帰郷で帰されるだろうと言っていた。

   両親、親戚の人達と共に伊勢神宮参拝を済ませ、その後、津市に着き親戚であ

  り浜島町長の柴原庄太様(父の従兄弟)の計らいで市内の「たなせ」旅館に私と

  井上勇君が宿泊をした。私は三重県職員なのですぐ県庁に挨拶をするため、木炭

  車タクシーで出かけたが途中でエンジンが故障となり急ぎ徒歩で県庁に行ったが、

  既に退庁時間後だったので水産課には属官が一人いただけで、挨拶をしたが「あ

  あそうですか」と素っ気無い言葉が返ってきただけであった。この時代は高級官

  と下級役人の差は全くひどいもので、総てに差別があり県庁の便所でさえ高級官

  便所として別にあるくらいであった。こんな事ならわざわざ挨拶に来る迄のこと

  は無かったと、旅館までの道々をトボトボ歩きながら悔んだ。旅館に帰ってから

  夕刻に岩本利一様のご厚意で、私と井上勇君夫妻がタクシーに乗り津市内の要所

  を見せて廻らせてもらった。

 



 
004 歩兵第三十三連隊入隊

   昭和十五年五月一日、津市から久居町迄は多くの応召者で電車は混雑するものと

  予想し、タクシーに分乗して入隊する連隊のある久居町へ行った。出頭場所である

  歩兵第三十三連隊の練兵場に着くと、多くの応召者が見送り人と共に時間の来るの

  を待っていた。

   わいわい騒がしい中暫時待って漸く営門から軍帽に白帯をした係官が出てきた。

  常日頃から軍隊には全く縁が無く練兵場なんて来た事も無く、これから何が始まる

  のか恐々としていた。

   始めに各中隊別に氏名を呼ばれ、その中隊毎に振り分けられて、それぞれの中隊

  に掌握され私は第九中隊で大久保中尉以下数名の下士官兵がいた。次に現在私のよ

  うに伝染病に罹ったことのある者や病気中の者は目印の赤いテープを胸に付けられ

  たが、補充兵としての徴集なので思った以上に赤テープの人が多くいた。健常者は

  各中隊毎に引率されて営内に入ったが、赤テープ付きの者は衛生兵に付き添われ医

  務室に行き軍医の診察を受けたが、その診察とはまったくの名ばかりの極めて簡単

  なもので殆どが合格となってしまった。このため中隊兵舎へ入ったのは他の者より

  相当遅れた。第五班に編入され室内に行くと既に先に入った者は軍服に着替えて休

  憩をしていて、棚にある手箱には各自の名札が貼ってあった。郷里出身の井上進

  兵(現役)がいて話しかけてくれて、私は知らなかったが井上様は私のことをよく

  知っておられた。


   寝台が隣同士である係の二年兵が私の衣服、軍帽、軍靴を体に合わせてくれ一応

  支給を受けたが、体に合わすと云うよりも被服に体を合わす
感であり、また営内靴

  といって代用品の藁縄鼻緒の下駄を与えられたのには驚いた。私服をまとめ風呂敷

  に包み下士官に引率されて再び練兵場に行き、そこで待っていた両親、親戚の方々


  と最後の面会をした。所属は第九中隊第五班であることを知らせ予め印刷をしてき

  た挨拶状の葉書に書き入れて発送の準備をした。面会の時間切れと共にまた下士官

  に引率されて兵舎に入り、今日は入隊祝いのため昼食は赤飯であったが、米が少な

  く殆どが麦で独特な匂いがして馴れぬため喉に通りにくかった。昼食までは何事も

  無く済んだが、午後からは直ちに軍隊生活に入り激しく躾を教えられた。井上勇君

  は同じく第九中隊の四班で橋爪慶二郎君は第一中隊に配属になった。

   連隊長は横田大佐、第三大隊長は上田孝少佐(後に中佐となり歩兵第五十一連隊

  長に昇進しビルマのミンゲ戦線で戦死)で、第九中隊長は日高中尉であり中隊長は

  毎日自転車通勤をしていた。中隊の編成は一、二班は小銃班、三班は擲弾筒班、四、

  五班は軽機関銃班で、六班は下士官候補生であり郷里出身の二年兵谷口昇伍長勤務

  上等兵(浜島町桧山路地区)がいる。第五班班長は駒田明軍曹と渡辺四郎伍長であ

  り、第五班の先任兵は小洞伍長勤務上等兵である(後に制度改正で兵長となる)そ

  の後、在隊中に連隊は中部第三十八部隊と呼称が変わり、また襟に付けていた33

  の金文字襟章も廃止となって階級章に替った。

   舎前に我等補充兵は全員整列して中隊長からの小銃交付式があり、早速、銃と帯

  剣の番号を覚えるよう指示された。但し、この銃は訓練用の古い銃で銃身に白線で

  印がしてあった。営内広場において入隊兵全員が整列し、軍旗を前にして横田連隊

  長の訓示と共に入隊式を行った。



   連隊の正門には衛兵所があり営門歩哨が常時立哨をしていて、その奥には営倉

  (監獄)がある。衛兵所の外側には休日等の面会所があり正門に向かって右側は連

  隊本部で、ここでは軍旗歩哨が常時立哨していて、この前を通る時はかならず敬礼

  をしなければならない。左側には通信中隊と歩兵砲隊があり、兵舎に沿った柵は軍

  馬の繋留場になっており更に西方より第一大隊で前から第一機関銃中隊、第一、二、

  三中隊で次に第二大隊で第二機関銃中隊、第五、六、七中隊とあり更に東側に第三

  大隊で第九、十、十一中隊となっている。兵舎の西側に中隊長室、将校室、下士官

  室および事務室がある。これらの兵舎の裏側には将校集会所、下士官集会所、炊事

  場、浴場、酒保がある。裏門、およびその近くに弾薬庫があり、ここでも常時歩哨

  が立哨している。連隊本部の東側には医務室があり、ここから細い道を通って行く

  と連隊と隣り合わせで歩兵第三十旅団司令部があり、郷土出身の柴原多聞中尉(リ

  ンマツヤ)が旅団副官をされている。またこの近くに衛戌病院があり連隊内の病人

  がたくさん入院している



   班内では廊下を境にして南北に部屋が分かれており、室内の廊下面には銃架があ

  る。寝台は各隅に八名の二年兵が占めて、その間に初年兵(現役)の古兵が十四、

  五名入れられ互いに隣の兵を戦友と呼んだ。一緒に入隊した補充兵も内、半数は若

  い二十二歳で後は我等の二十七歳(呼年)であり、両者の年齢差は行動のすべてに

  おいて体力等相当の隔たりがあった。
補充兵教育の教官は召集の野戦帰り中尉で、

  我等軽機班の助教は渡辺四郎伍長で助手は五班の櫛田一等兵と四班の大東一等兵で

  ある



   入隊日の夜から古兵のしごきが始まり噂には聞いていたが軍隊で一等兵、上等兵

  がこれほど偉いものとは思いもよらぬことであった。まず班に出入りの時は大きな

  声で「誰は何処へ行きます」と、また「誰々は何処から帰りました」と報告するが

  少しでも声が小さいと二年兵が「声が小さい」と言って、やり直しを何度も何度も

  やらされる。他班の廊下の前を通る時は班毎に敬礼をして通り事務室、下士官室、

  士官室に入室する時はノックをし、返事を待ってから中に入り「誰々は何々をしに

  参りました」と、また退室する時も同じ様に大声を出して出入りをする。各典、範、

  令教本をまとめて購入し多忙の中でも必死に勉強をする。軍隊に入って最初に驚い

  たのは盗人の多い事で、盗むと言うのではなく所持品の員数を付けると云い盗まれ

  た者が悪いということになる。それでも盗まれたという言い訳は絶対に通用しなく、

  盗られたら盗り返して来いである。廊下から出入りする時も下駄箱はあるが、入れ

  て置けは間違いなく無くなるので必ず持って入り寝台の下に隠しておく。古兵のな

  かには自分の履物は常に隠して置いて初年兵のものを取り上げ使用している者がい

  た。いくら無くなっても、その物は連隊内から外へは出ないので次々と廻り盗りし

  ているから、取り戻すのに苦労はするが必ず員数は付けられる。洗濯物は指定の物

  干場で乾かすが、盗られぬよう練兵休といって病気で休んでいる者が監視の役をす

  る。



   起床、点呼、食事、消灯等はすべて衛兵のラッパを合図で行うが、特に消灯ラッ

  パの音色が「兵隊さんはかわいそうだねまた寝て泣くのかね」と聞こえ、寝具を被

  って泣いている初年兵が多くいた。夕食が済むと夜の点呼までは少しの自由な時間

  があるので、その時は学科の勉強や被服の繕いをする。内務班ではタバコを吸う暇

  も無く、演習の休憩時だけがタバコを自由に吸うことが出来る。各班で初年兵と補

  充兵が三、四名宛で内務当番、食事当番、兵器当番を一週間交替で勤め、点呼前に

  はその日の異状の有無を二年兵に報告し、一週間勤めた後は下番と上番が揃って二

  年兵立会いの上で申し送りをし交替をする。入浴は大隊別に日を決めて時間割に従

  って中隊単位で入浴する。



   朝の点呼は起床と同時に各班別に舎前に整列して行うが、夜の点呼は兵舎班内で

  行い先任兵長がまず事故者の有無を調べ班長に報告する。班長は番号を取り一班か

  ら順次点呼を続け、事故者の有無を週番将校に報告し週番将校は威厳をもってこれ

  を執り行う。点呼で番号を間違えるとか不都合があれば後で二年兵に物凄くしごか

  れる。この時軍人勅論とか操典等の学科や兵器の名称等を諮問されると共に、二年

  兵による気合入れ、すなわち鬢太が始まる。彼らはあらゆる欠陥を捜し出しては注

  意と共に鬢太を飛ばし、欠陥のある時は仕方もないが何もない時でも面白半分に気

  合を入れ、特に兵器係の服部上等兵は意地が悪く鬢太とりで古兵の中でも有名であ

  った。



   軍隊では一日でも早く入隊した者を古兵として崇めなければならない。その古兵

  の中には人により要領を作り補充兵の欠点を捜しては二年兵に告げ口をする兵もい

  て、毎夜点呼の済んだ後は何をされるかと気が気でない。点呼が済むと消灯までに

  我先にと便所へ走るので、舎前の細い道は大混雑になる。便所はたれ流しの小便所

  と御影石の踏み板の大便所である。



   入隊二日目の夜に点呼が済んで皆一斉に便所へ駆け出した時、私は真っ暗の中を

  便所  へ走る途中で突然うしろから鬢太を飛ばされた。このため眼鏡は飛んでしま
  い、捜そうにも混雑の中どうにも見付からず困ってしまった事があった。これは小

  銃班の伍長が便所から帰って来た時に、私が欠礼をしたという事で気合を入れられ

  たのだが、理由も何も言わずいきなり殴ってきたので他の者からの注意でやっと欠

  礼のためとわかった。便所から帰り班内に入ると小田上等兵が「柴原先ほど小銃班

  の班長から鬢太をとられただろう」と言われ、事の次第が既に上官に伝わっていた

  のである。小田上等兵は二年兵の中でも特に良い人であって「夜でも充分気を付け

  ていないと、よくやられるから注意をしろよ」と教えてくれた。本来なら他の班の

  上官から注意を受けた時は自分の班の先任兵にその経緯を報告し、ここで二年兵に

  気合を入れられるのであるが、小田上等兵の恩情でこの時は注意のみで許され助か

  った。



   軍隊には独特の軍隊言葉というのがあって、うっかり地方言葉(方言)を使おう

  ものなら厳しく叱られると共に容赦なく殴られるので、言葉のひとつひとつに気を

  付けなければならず、軍隊では初めから殴られるものと思っていなければならない。

  中隊長の訓話、教官の学科教育が度々あり雨の降る日などは殆ど学科と試験であり、

  この時が一番眠くなるので自分も尻を抓って我慢したが、これで済めば良い方で終

  わってから何かと理由をつけて気合入れにあう。



   演習は各個教練から始まり敬礼、早足行進、分列行進等の基礎教練を行い内務班

  では小銃、軽機関銃の各部の名称を覚えると共に機能や手入れの方法を古兵から教

  えられる。何事も始めてのことであり中々覚えられず名称を聞かれ答えに詰まった

  り間違えたりすると、二年兵が持っている小銃の槊杖(
さくじょう)で容赦なく殴り

  つけてくる。



   朝食が済むと食器洗いや食缶返納を済ませてから演習の準備をする。背嚢(はい

   のう
)巻き等は二年兵助手の物も初年兵や補充兵が行う事になっていて、我先にと

  下士官室に行き班長の背嚢を持って来て巻くのであるが、馴れぬ事のため中々形が

  良く出来ない。二年兵がそれを見ていて「そんなもの班長のところへ持っていける

  か」と巻き直しをさせられる。演習時間は刻々と迫り集合が掛かると慌てて、自分

  の準備もそこそこに脚胖(
きゃはん)を巻くが慌てているため、これがまたうまく巻

  けない。巻いているうちに解けてきて、また始めから巻き直して舎前に駆け付ける

  が要領の悪い者は何時も決まって遅れてくる。演習が終わって舎前で解散となると、

  まず助教班長と助手二年兵の脚胖を我先にと取って巻き、班長が下士官室に帰るや

  補充兵は自分の事は後にして班長の軍靴、背嚢、兵器を取って来て手入れをする。

  助手の二年兵の物も同じように手入れをし少し馴れたところで二年兵全員の装具、

  兵器も同じ様に手入れをしなければならない。これらは上官に追従する訳ではない

  が、これを進んでしないと弛んでいると二年兵から鬢太をもらうのでしない訳には

  いけない。



   将校や准尉、曹長には各々伝令という当番兵がついて世話をしている。将校は営

  外居住であり伝令は公用証を持って外出し、夕刻にはその宿舎に行って雑務をして

  くる。町でなければ手に入らない物が必要になると、その伝令に頼んで外出時に買

  って来てもらうが、これがまた値打ちをもたせて中々頼みを聞いてくれないので機

  嫌をとるのに苦労した。のちに中国へ出征時に自分もその当番兵を経験する事にな

  る。



   二年兵は演習が済んで解散となると軍靴のままで班内に入って来る。すると補充

  兵や初年兵は「御苦労様でした」と大声で迎え、我先にと巻き脚胖を取り軍靴を脱

  がせに行く。二年兵は口先では「
いいよいいよ」と言っているが、補充兵は一生懸命

  脚胖を巻き取り軍靴の手入れ整頓をしている間、二年兵は腰掛けに扮反り返ってタ

  バコを吸っている。要領の良い初年兵は何人もの二年兵の脚胖を取って、気に入ら

  れるよう必死に努める。



   補充兵は第一期教育のため、古兵(現役)とは別に教育を受け徒手帯剣の行進、

  敬礼から執銃教練と進んで一通り済むと我々は軽機関銃の操作を習う。演習中休憩

  となっても休む余裕もなく操典や要務令を出して勉強をする。



   練兵場のすぐ横を名古屋と宇治山田間の電車(現近鉄)が日に何回となく通過し

  ていて休憩中それを見ては、あの電車に乗れば家に帰れるのだがと、里心が出てボ

  ーと考え込んでいる内に号令がかかり演習が再開される。



   演習場では方々で各中隊別に教練を行っていて西から東へ約五百米程あるが、こ

  れを胞伏前進するのは大変で肘が擦り剥けて血が滲むので、靴下等布をあて袖の中

  に縫い付けておくがあまり効果は無く、それでも痛いなんて言っていられず治りか

  けても傷の上に傷ができて治る暇がない。



   数日して射撃の初期練習を練兵場の東端射撃場で初体験した。最初は枕を台にし

  た委托射撃をするが、自分等の銃は白線入りの廃銃同様の教練銃であるため実弾射

  撃になると二年兵の銃を借りる。自分は小田上等兵の銃を借りる事になり、弾丸五

  発宛委托射撃で撃ち数米先にある的の傍で渡辺伍長が弾着をみている。この射撃は

  銃固有の変微と各個人の癖を見出し、それを記憶させるために行うので、従って弾

  丸の装薬も少量で危険の少ない物である。自分は五発撃ったところ三発は集合して

  当り、そのうち二発は同じ穴に入っており渡辺伍長は「これは良く当るぞうまいも

  んだ」と言って誉められた。次に委托無しで射撃をしたが、この時は弾着がバラバ

  ラであった。自分の照準点の変微は斜め右肩であると教えられた。射撃教練が済む

  と銃の手入れで硼砂を湯で溶かした液を洗浄器に入れ、洗管で銃身及び各部品をよ

  く洗った後、水分を拭いとりコーチ油を塗布して爆発ガスを取り除き、その後スピ

  ンドル油を塗布して洗浄が終了する。
班内に帰って更に小銃の点検をするが銃の各

  部には同じ番号が付いていて、他の銃の部品と混同しないようになっている。諸岡

  君の借りた銃は市川二年兵の銃で点検のため熕杆を引いたところ、部品が他の銃と

  間違っていたためか遊底が落下してしまった。手入れの際に取り違えた様であり、

  市川二年兵は大変な剣幕で怒って諸岡君は相当鬢太をもらった。誰の銃と取り違え

  たのか全銃を分解して調べるよう命じられ、私も借りた銃を分解してみると番号が

  違っていている部品を見つけ驚き、これは大変な事になると思い乍申告したところ、

  小田上等兵は「俺の銃は始めから違っているのだ」と言ってくれたので安心した。

  市川二年兵は怒ったが、これも部品が初めから違っているのを知っていたのではな

  いかと思われ、意地悪く鬢太の材料にしたのではないかと初年兵は誰もが疑いを持

  ったものである。(この人の従弟で市川という二年兵が中支で五中隊にいてよく話

  をした)



   内務班では古兵の初年兵と補充兵は二年兵から何時もしごかれる。同年兵で一人

  でも失敗があると皆が整列して鬢太をもらい、また対抗鬢太といって同年兵同志を

  向い合わせて鬢太の殴り合いをさせるのもあり、手心をし力を抜いていると更に激

  しい鬢太が飛んでくる。ある日、夜の点呼前に兵器係の服部上等兵が一人黙々と鉄

  帽の手入れをしていた。既に経験のある初年兵は服部上等兵が手入れを自分でして

  いたら、後で必ず皆の検査があるから気を付ける様にと教えられていたので、皆が

  目の色を変えて一生懸命鉄帽の手入れをする。果たして点呼後に検査があり、始め

  から気合を入れる心算であるのだから少しの汚点でも指摘をする。なお他の二年兵

  の物も調べ「戦友の貴様等は何をしているのか」と言って鬢太である。自分の落ち

  度で叱られるのならば納得出来るが、これではたまったものではない。日曜外出を

  してきた夜には酒気をおび帰って来た二年兵は、面白半分に気合をいれるのには非

  常に困った。鶯の谷渡りをやらせようと言い寝台を並べて、それを登ったり下りた

  りさせられて、その都度ホーホケキョと鳴き声をさせられる。また机を二脚置きそ

  の間で両手をつき両足を上げて自転車を踏む所作をさせられ、横で二年兵がタバコ

  を吸いながら見ていて「そうら坂だしっかり踏め」と言われると、一層力を入れて

  激しく踏まなければならないのだが、次第に疲れが増して堪えきれずついに肘をつ

  いてしまったり、足を床に付けてしまったりすると「こら何をするか」と鞭が飛ん

  でくる。また廊下側に銃架があって全員の銃が並んでいるが、その銃の間を遊郭の

  格子に見立てて、遊女が客を呼ぶように銃の間から首を出させ「チョイト兄様寄っ

  てて下さい」等と叫ばせ二年兵は手を叩いて喜び楽しんでいる。その他銃架の柱に

  登らせて腰を振り振り蝉の泣く様子を演じさせられたりもする。



   銃の手入れの悪い時は、小銃を両手で頭の上まで持ち上げさせられて「三八歩兵

  銃様自分の手入れが悪く申し訳ありません御許し下さい。以後は決してこういう事

  はいたしません」と言って銃に謝まらせ四瓩程の銃でもその姿勢を長時間続けさせ

  られるので、持ち上げていた手が疲れて段々と下がってくると即気合を入れられる。

  銃の扱いは常から安全を旨とするので、手入れをしても後で必ず薬室を確かめ引金

  を引いておく様に躾られている。二年兵は時々銃架の銃の引金を引いて廻り、若し

  忘れている場合があると撃針の落ちる「カチッ」と云う音がするので、銃の番号を

  言って所有者を呼び初年兵や補充兵は直ぐ気合を入れられる。二年兵の兵器手入れ

  や被服の補修、洗濯は皆初年兵と補充兵が戦友という責任で行う。



   十一年式軽機関銃の取り扱いを教本に従って教えられ分解手入れ組み立てを二、

  三名宛で行う。また夜間や暗闇でも操作が出来るように目隠しをして分解、組み立

  ての操作を練習する。軽機関銃等の原理は教えずまず操作から始め、馴れるに従い

  自分で覚えていくのである。



   朝の点呼が済み朝食迄に前稽古といって古兵は銃剣術をし補充兵は営内を駈足で

  廻るが、私は七人兄弟の長男後継として生まれたため過保護に育てられ、竹馬に乗

  るのさえ危ないと禁止されたくらいだった為か生まれつき身体虚弱で、今までに本

  格的に走った記憶も無く駈足するのは大変である。この時、一緒に召集された同郷

  の井上勇君が自分の二、三人後を駈足で走っていたが突然倒れてしまい遂に入院す

  る事になった。自分は入営前に関節炎で手足に力が入らず体操をしても人並みには

  動作が出来なかったが、軍隊ではそんな事情は認められる訳がなく、努力して他の

  者に付いていくように励むより他ない。板塀を乗り越える時や金棒へ上がる等は、

  到底出来ないので何回となく続けさせられる。横木渡りは高い横木(平均台)の上

  で両手を広げて渡るのであるが、これには参った。恐る恐る漸く渡り終わったあと、

  二本の斜木に足を絡ませて滑り降りるのだが手足に力の無い自分は堪えきれず、地

  面に滑り落ち尻と腰を嫌と云うほど強打してしまい、痛みが激しかったため衛生兵

  につれられて医務室へ行ったが、軍医からはこんなもの何でもないとろくに見もせ

  ず、治療さえもしてもらえずそのままで痛みを我慢した。



   四班の兵で入営までは名古屋で暴力団にいたという金森くんは厳つい顔をして身

  体一面に刺青を入れていて、裸を見ると大変迫力があったが本当は人並み外れた臆

  病者で、この横木渡りは見た目にもわかる位ブルブルと震えるばかりで、遂に最後

  まで出来ず二年兵から「そのざまでは刺青が泣くぞ」と言って笑われていた。

   歩哨の教練は練兵場の東端の茶碗焼という所で行い、また高茶屋街道にある合祀

  碑付近でも時々行った。歩哨は守則を覚えるのが一苦労であり、また歩哨と斥候の

  演習は久居町新地の遊郭裏から前面の山林に向かって行うが、助手の下士官や二年

  兵は休憩時にふざけて遊郭の窓から見える遊女に向かって手を振ったりして楽しん

  でいた。



   分隊教練となり歩兵の傘型散開練習をするが、十六師団では師団長石原完爾中将

  がソ連火点攻撃を目的とした独特の戦法を考案し、歩兵操典には無い切込隊戦法の

  演習を行い軽機関銃班四名と以下小銃班で一個分隊十三、四名で編成をし、分隊別

  に分隊長(助手の二年兵)を先頭にして演習をする。途中分隊長事故を想定し分隊

  員より代理を名乗り出させ敵陣に肉薄攻撃をし、助教の渡辺伍長は鞭を持っていて

  「ソーラ弾だ」と言って鉄帽の上を叩く。叩かれる我等は炎天で鉄帽の中はむれて

  熱くなっている時に上から叩かれると信じられないかも知れないが、頭の中がガー

  ンとなり大変こたえる。姿勢を低くし遮蔽地に体を隠し乍、前進をする時など小銃

  手はまだ良いが、軽機射手は十二瓩程の十一年式軽機を持って前進するのは大変で

  ある。擲弾筒班は別に分隊毎の演習を行い演習地は吉江高地、野村高地、風早高地、

  諸戸山等兵舎より遠く離れた所にある。また築城演習は円匙と十字鍬を持って陣地

  構築を教えられ、演習後はまた元通りに埋め戻して次の隊の演習に支障の無い様に

  しておく。



   実弾射撃は数粁離れた半田という所に射撃場があって、そこへは行軍で行く。射

  撃場の両側は高い土手が築かれて場外への危険を予防してあり三百米、四百米、五

  百米と土盛りをした斜場ができており、土手の近くには電車が通っているので通過

  の時は音が聞こえまた里心が頭をもたげる。自分等軽機班は軽機と小銃両方の射撃

  演習を行うが、まず弾薬の数を確認し射撃後は薬莢の数を確認して報告し、実弾散

  在をして事故を起こさぬよう充分注意をする。射撃が終わると的場へ合図を送り結

  果を待つ。小銃は左眼を瞑って右眼で照準をするのであるが、兵の中には生来左眼

  を瞑ることができない者もいて照準が出来ず困っていた。



   十一年式軽機関銃は左眼の前に弾庫があって前方を遮っているため両眼を開いて

  照準をするが、軽機には一人補助者が付いていて俗に蝉取りと云って、網をもって

  軽機の横に付いて飛び出す薬莢を受けている。擲弾筒班は別の場所で練習用弾を使

  い近距離の射撃演習をし、小銃班、軽機班、擲弾筒班全員が小銃射撃演習を行う。



   的場には地下壕があって的係は交替して入り、射場からの合図があると上の鏡で

  受けて上下二連の的を回転させて弾痕を調べ、直ちにチコン杆という棒で弾着を示

  すと共に弾痕を紙で貼り次の射撃に備える。傍で見ていると威勢の良い音が続いて

  いるが、射撃をする本人にしてみれば暑い中で土埃にまみれ命中率が悪いと鞭で叩

  かれ、後は銃の洗浄手入れとたまったものではない。射撃場の外側には半田の民家

  が点々とあり内密に菓子や餅等を置いていて、兵は射場と的場の係交替や使役の合

  間に立ち寄り、菓子や餅を買って見つからないように隠れて急いで口の中に放り込

  むように食う。上官からは堅く戒められているが隠れて食うそこが魅力で止められ

  ないのである。



  射撃後は殆ど駈足訓練で帰営をし、軽機関銃は四名が交替して担ぐが走りながら

  軽機交替するのは大変であり、疲れてきて我慢ができず軽機と共に転倒する者もあ

  り、こうなると助教渡辺伍長から大目玉をもらう。



   軽機関銃手と擲弾筒手は戦闘装備には拳銃を携帯するので、この実弾射撃を拳銃

  射撃場で行い、人型の的を数米離れて十四年式拳銃で五発宛撃ったが自分は三発命

  中であった。拳銃の手入れはまた難しいもので、軽機の構造を知っている者は両者

  の構造はよく似ているため割合と覚え良い。練兵場で火点攻撃の演習をした時、自

  分は西端の掩蓋壕の上で対抗部隊となって小銃で空包を撃っていたところ、何時も

  の事で注意をしていたはずだが薬莢一個を見失ってしまった。すぐ捜したが深い草

  の中では中々見つからず、仕方なく助教から教官にと報告し全員で捜したが見つか

  らなかったので、夕食後もまた全員で暗くなるまで捜したが、やはり見付からず教

  官から大変叱られ薬莢一個の事で戦友に大変迷惑をかけてしまったが、その後の始

  末はどうなったか別に罰せられはしなかった。



父 柴原廣彌の遺稿へ

2011.10.14.