柴原廣彌の遺稿 02


 
005 行軍

  背嚢に四日分程度の糧秣を入れ始めは榊原温泉に行軍をし、そこで大衆浴場に入浴

 し帰りは雲出川の辺で飯盒炊爨をした。この時近くの村長様がキャラメルを各自一個

 宛、慰問に差し入れて下さった。中川を経て斥候と伝令の演習をし乍夜行軍となり、

 途中夜間の火点攻撃演習をしたが、夜間の陣地突入には秘計のため喚声を揚げない決

 まりになっている(歩兵操典記載)ところが調子に乗って「ヤー」と喚声を揚げた者

 が多くいて、小銃班下士官(自分が入隊直後便所で殴られた伍長)が要領良く「誰だ

 喚声を揚げたのは軽機班ではないか」と、大声で叫んで自分の小銃班の兵を庇った。

 この伍長は敏捷というか機転が良く利き、それに比べて軽機班の渡辺伍長は揚然者で

 あったので、帰営してから解散に際し教官から酷しく叱られ誰が喚声を揚げたか名乗

 れと詮議をしたが誰も名乗らない。喚声を揚げたのは殆ど全員であったのだが、直ぐ

 に言い出さないと後からは尚更申し出難い。教官は意地でも名乗らせようと許さず、

 何時までも詮議を続け解散をしないので、私は堪りかねて「自分ははっきりと覚えは

 無いが多分喚声を揚げたと思います」と申し出たところ、教官は「喚声を出していな

 ければ出てくるな」と言って逆に叱られた。召集兵で野戦帰り中尉の教官がこんな風

 にがんばっていたので、まさにああ言えばこう言うでその人格が疑われる。


  尚、この夜間突入につき中支に出征し現地で再教育を受けた時このような事があっ

 た。突入に際し皆が無言で突入したが教官は文句をつけて怒ったので、皆の兵は内地

 で元隊にいた時に喚声を揚げてはだめだと教えられた事を言ったところ、教官は更に

 「突入するのに喚声を揚げなくてどうするか元隊とは何事か貴様等の元隊はここだ」

 と大変な怒りようで、自分等は何が何だかわからずウロウロするだけだった事があっ

 た。



  二回目の行軍は松阪市へ行き、この時は衛生兵一名付き添いで行軍し松阪公園で休

 憩の時、本居神社前の石段で全員集合して記念撮影
をした。公園の売店で上官に隠れ

 て食べ物を買うのも一苦労で、またその買ったものを隠れて食うのにも一苦労であっ

 たが、上官は見て見ぬ振りをしていたのかも知れない。帰営の行軍は時節が暑い時で

 あり中々苦しく、背嚢の重さに背中が後ろへ引かれると、それにつられて顎だけが段

 々と前に突き出た恰好になる。上官からは「元気を出せ」「しっかりせよ」とたえず

 励まされるが、兵は皆この頃になると疲労が募り死に物狂いでがんばっているが、そ

 れでも二、三名は遂に落伍をして電車で帰された者もあったようだが、これらの兵に

 は帰営してからの恐怖の気合入れが待っているのである。


  高茶屋街道の直線道路では近くに見えた煙突も歩くほどに遠くなるような錯覚を起

 こし、顎は益々前に出てきて疲れは一層ひどくなる。助手の二年兵はこの辺で夜間演

 習になると横の梨園に偲び込んで、よく梨を盗んだものだと話していた。それでもど

 うにか落伍もせずに帰営することができ、自分より体力の落ちる者がいるのに驚いた

 ものである。この苛酷な鍛錬のおかげで後日外地に出征して長途の行軍にも堪える体

 力が出来たのである。





 
006 嫌な銃剣術  P037

  稽古の中でも一番嫌なのは銃剣術であり、防具を付けると暑さは一層酷しくなり更

 に面を付けると呼吸も苦しくなる。その防具たるやこれでも軍国日本の武器かとあき

 れる程の古さで破損のひどい物ばかりであり、程度の良いのは下士官や二年兵が付け

 る物くらいである。


  古兵の練習の間をみて補充兵は練習をするが、準備体操をし防具を付けて木銃を持

 ち営庭を駈足して体力を付ける。一人当て二年兵に稽古を付けてもらうが基本も何も

 あったものではない。大略要領を習い無茶苦茶でも突きさえすれば良く、兵が互いに

 仕合をし勝った者から面を取って休憩をする。自分は中々勝てず何時も後迄残ってし

 まうので、相手の不意を突くか変わった方法をとらなければ勝つ事はまずない。円陣

 仕合といって防具を付け円陣をつくり、その中で三人が仕合をし勝った者に誰でも掛

 かって行き、三人勝ち抜いた者は休めるのだが中々勝ち抜くことは出来ない。自分は

 普通の方法では三人に勝ち抜くことは到底出来ないので一計を案じ、まだ仕合の準備

 も意志も出来ていない近くの相手の者に不意に直突きをし、続いて横にいる者にも不

 意に直突きして勝ち抜き、おかげで三人を抜いたので休めた事があった。皆は唯茫然

 としていたが、渡辺伍長は「円陣仕合時ならばこれで良いのだ」と逆に誉められた。



  嫌な銃剣術は二年兵が稽古をしている掛声まで「イヤダーイヤダー」と聞こえてき

 て、また防具の下に着る肌着というのが上着の古い物で袖が無いのや背中半分無いの

 とか、よくもまあこんな破れ衣が世の中にあったものだと初年兵は皆驚いた。一見質

 素にしているように見えるが、既に日本はこの頃から物資は欠乏していたのだろう。




 
 
007 衛兵所と面会所 P039

  営門には衛兵所があり各中隊が交替で勤務をする。衛兵司令の下士官と歩哨係上等

 兵および古兵が勤務をし、勤務に就くのを上番と云い勤務が終わったときを下番と云

 う。勤務につく直前は週番司令の兵器、被服等の検査が厳しく、この時はさすがに古

 兵も背嚢を自分で形の良いように巻く。衛兵の交替はラッパ吹奏をして行い衛兵の食

 事は当番の各中隊から使役兵が届け、夕方になるとまた使役兵が仮眠のための寝具を

 持って来て翌朝それを受け取りに来る。



  この衛兵所を通過するのが問題で、敬礼のしかたが悪いと止められ何回もやり直し

 をさせられる。服のボタンひとつでも外れていようものなら、そのボタンを引き捩切

 られてしまい、こうなると班内へ帰り二年兵に報告をして、また気合を入れられ鬢太

 である。



  歩哨は表門、連隊本部(軍旗)、裏門、弾薬庫に立哨をし、歩哨係上等兵の引率で

 時間毎に交替をして、立哨が済むと一時間は控兵となり控時間が済むと休憩時間で仮

 眠をする。表門歩哨は上官の出入りに敬礼また敬礼の連続で大変であり、将校が出入

 りをする場合は敬礼と叫び衛兵全員が起立し、部隊長や将官の出入りおよび武装した

 部隊(実戦部隊)の出入りの場合には、衛兵は全員整列してラッパ吹奏の上敬礼をす

 る。
衛兵勤務中は巡察将校の質問があったりして少しも油断が出来ず緊張しずめであ

 り、衛兵下番となり班内に帰って来た古兵はさも疲れた様な態度で、寝不足のためか

 大変機嫌が悪く八つ当りが我等初年兵や補充兵に廻って来る。



  衛兵所の奥には営倉といって軍隊で悪事を働いた者を入れる留置場があり、ここへ

 入る者は衣服のボタンを全て取られて自殺の恐れがないようにし、その入倉者の食事

 は所属の中隊から使役兵が毎回届ける決まりになっている。衛兵所の外側に面会所が

 あり平日は昼食後の休憩中に面会が許されるが時間が短いので、この時は大急ぎで面

 会をしなければならない。日曜等休日ともなれば朝から多くの面会人で満員となり、

 殆ど外の草原や木陰に出て面会をする。面会人は自宅から色々と御馳走を作って持っ

 て来て一緒に食べるが、必ず御馳走の中から少しは残して班に持ち返り、古兵殿に食

 べてもらうことを忘れてはならない。これを怠ると後で必ず付けが廻ってきて、近頃

 弛んでいると気合を入れられる。


  各町村では外泊で帰る兵の手入れの行き届いた、こぎれいな服装を見慣れているた

 め家族等が面会に行き、隊内の平素の破れ服に藁下駄の哀れな姿で現れる兵を初めて

 目の当たりにしたとき、皆一様に大変な驚きを表している。





 
008 外出

  日曜ともなれば古兵は皆外出許可を貰って外出をするが、管内といって外出先は久

 居町と津市内のみに限られる。昼食は飴パンを携行するのであるが誰も持って行く者

 はなく班内に残っている者が喜んで頂く。しかし外出から帰って来た二年兵は酒気を

 おびている者もあり、酔った勢いで補充兵虐めが始まる。しかし中には優しい二年兵

 がいて食べ物を土産に買って来てくれたりする。この優しい古兵の中には僅かな軍隊

 俸給の中から幾等かを家庭送金して、生活費の足しにしている優秀な兵もいる。入隊

 後一ヶ月を過ぎた頃に我々補充兵も漸く外出を許されるが、始めは引率外出で下士官

 に引率されて津市に行き僅かの自由時間を過し、また引率されて事故の無い内に早々

 と帰営した。自由時間と言っても補充兵は必ず二人以上連れ立っていなければならな

 いが、二回目からは個人外出が許可になる。前日に外出簿に記入して許可を求め、当

 日の朝に外出証をもらい週番士官の注意を聞き、営門歩哨に外出証を提示して三、四

 名宛組んで町へ出て行く。この当時、久居町から津市阿漕までは軽便という極く小さ

 な汽車と、伊勢電という現在の近鉄伊勢線で津新町駅へ行く便があった。外出すれば

 我々二等兵は最下級兵であるから、出会う軍人は皆上官であり敬礼また敬礼の連続で

 ある。町に出ると殆どの時間が食堂廻りで久し振りの御馳走にありつき、何度か外出

 する内に我等四、五名の仲間は乙部の小料理店に行くのを覚え多いに英気を養ったが、

 それでも帰営の時間が頭にあり無茶は出来ない。小遣銭が欲しい時は、この店から実

 家に電話をして送金を願うが、公には家庭からの送金は禁止されている。封書が来る

 と事務室の准尉の前で開封し、読んで中を改められるが兵は色々と策を考え、私は父

 の従兄の子息である柴原時男幹候軍曹(浜島町長の柴原庄太様の御子息)が三中隊に

 いたので彼に頼み、そこを経由して親元から小遣銭を送って貰ったものである。



  外出の帰り津新町駅で石原円吉氏(二区代議士で志摩郡水産会会長をし職場へ時々

 来ていた)に突然出会ったので、挨拶をしたところ「ああそうか」と素っ気無い返事

 であって、私のような下っ端役人などいちいち覚えてはいられないようだ。また大門

 通りを戦友と連れ立って歩いていた時、三重師範学校に在学中の郷里の山本喜助様

 (浜島町ヤマモトヤ)と偶然出合った。入隊後の私のやつれた姿を見て大変驚いてい

 た。後日、山本様は話をする毎に私のやつれた面影に驚いた事や、その時うどんを御

 馳走したと言うが私にはそれを御馳走になった覚えはなく、ましてや戦友と二人でい

 るのに自分だけ別行動する筈がないので、山本様は誰か他の人と勘違いしていたので

 はないかと思う。やがて時間が進むに従い電車の時刻が気になり、帰営時間を頭にお

 いて皆早めに帰るが営門に入る時はみな何か哀れを感じ乍、営門歩哨に外出証を提示

 して営内に入る。また外出をしていない二年兵には土産を持って帰るのが習慣になっ

 ている。あるとき助手の二年兵櫛田一等兵から初年兵全員に注意があり、まちがって

 も親元へ炊事の釜を割ったなどと云うような手紙を出さないようにと言われた。これ

 は昔の出来事であるが初年兵が小遣銭欲しさに、親元へ軍の炊事釜を割ったから弁償

 するので銭を送れと手紙を出したところ、息子の不始末に驚いたその父は面会日に五

 升釜を背負って弁償に来たとの、笑い話にもならない逸話を言い伝えで聞いていると

 の
事で、昔も今もみな色々な手を使って小遣銭を手に入れようとしたようだ。


  ある日私の父が長女の容子を連れて面会に来た。何もわからない長女は面会所で私

 が父と話をしている間、ウトウトと居眠りをしていた。何も無かったが酒保で買った

 大きな飴巻きを持たせてあげた。また父の弟で網元の弥四郎叔父様が面会に来た時に

 は、甥がいじめられているのではと心配し、銭でも何でも上官にどんどん贈って受け

 が良い様にせよと言っていた。一度昼食後の休憩時に突然面会所から呼び出しを受け、

 誰が来たのかと怪訝に思って行ってみると、郷里浜島の佐市屋の奥様が来ていて久居

 町の実家に里帰りの節で、自分の家から托された預かり物を持って来て下さったので

 あった。




 
009 不寝番
 

  夜は不寝番と云って中隊内を二人で火災、盗難、兵の寝様等を監視を一時間交替で

 する勤務がある。夜の点呼後勤務割りが達っせられ、他の班の者に次を申し送る規則

 になっているので、その兵の寝ている寝台を良く覚えておかなければならない。一時

 間勤務をして次の番に申し送り、その後また寝るのであるが夜明け近い番に当ると、

 もう眠る事は出来ない。二年兵は除外して現役初年兵と補充兵で勤務するが、初年兵

 は我等補充兵より早く入隊しているので上級兵であるため、起こしに行っても中々か

 起きてくれず補充兵は困ることが多い。勤務中不意に巡察将校が廻って来て色々と質

 問する事があり、勤務状態が悪いと連隊会報に掲載されるので、勤務中は舎外から靴

 音が聞こえてきたら巡察だから、早く迎えて異状の有無を報告し、巡察将校の気分を

 良くするように努めなければならない。一度自分が物凄い雷雨の夜に勤務をしていた

 時、折り悪く巡察将校が入ってきた事があった。他の一名は反対側を見廻っていたた

 め自分は早速「勤務中異状はありません」と報告したところ、いきなり「今温度は何

 度か」と質問が来た。雷雨のため停電中で周りは真っ暗なので咄嗟のことで戸惑った

 が、おおよその温度を答えたところ、巡察将校は「こう暗い中でどうして温度計がわ

 かるか」と意地悪く聞いてきた。自分は答えに困ったが不意に思い付き「はい雷の光

 で見えました」と答えたところ、その将校は少しだけ笑い乍立ち去った。これが軍隊

 の要領というものかと思い、また何時の間にか要領を身に付けている自分に気がつい

 た。




 
 010 入浴

  何週間目かに大隊単位で入浴の順番が廻って来る。時間を決めて中隊別に入る事が

 出来るが、この時間内に入浴を済まさなければならない。入浴場の入口にはその中隊

 の週番上等兵が門番をしていて、他の中隊の兵が来ると追い返す。但し二年兵ともな

 ると顔がきき何時でも堂々と出入りが出来る。入浴中でも営内靴という下駄は盗まれ

 る恐れがあるので、ゆっくりと入っていられなく古兵は被服と一緒に隠している。燃

 料費の節約のためか始めに熱く焚いておき、後はもう追炊きはしない様である。この

 ため早い時間帯に入る者は熱過ぎてとても湯に入ることは出来ず、さっと湯をかけて

 出て来るくらいである。また遅い時間帯になると湯は少なくなっていて、湯には垢が

 浮かぶ中で芋を洗う様にして入浴をする。そのため疹癖、たむしが蔓延して殆どの者

 が罹病をしている。定められた入浴時間が過ぎてしまうと、他の中隊の兵が入って来

 るから早く出なければならない。その時間の心配と衣類盗難の心配で、入浴していて

 も気が休まるときがない。また入浴を済ませさっぱりした良い気持ちで帰り、うっか

 り他の中隊の古兵に欠礼でもしたものなら道端でこってり気合を入れられる。




 
 
011 酒保 P045

  酒保にはぜんざい、あべ川餅、飴巻き等食品のほか日用品を売っていて、酒は日曜

 のみ売り出す。平日は夕刻には開店しているが、我等補充兵は平日に行く暇など、と

 てもないが休日にはゆっくりと行くことが出来る。懇意な古兵がいると平日でも内密

 に買って来てくれるので、それを夜消灯後寝具の中で隠れて食うのだが、時には昼間

 の猛訓練で疲れて眠ってしまい、折角買って来てもらった飴巻き等を食うどころか体

 で潰してしまって、
翌朝寝具直しの時二年兵に見つかると大変だから、自分等同志で

 素早く隠して見つからぬように始末したものだった。酒保では冷酒を茶碗でぐい飲み

 出来るので、本当の酒好きな者には楽しみな場所である。酒保とはどういう意味の名

 称なのか解らず、古兵に尋ねても誰も知らないようである。




 
 
012 洗濯

  舎前にある洗濯場は隣の中隊と共同使用であり、一ヶ所の打ち抜き井戸から手押し

 ポンプで水を汲み上げるのだが、これが中々洗濯に充分なだけ水は出てくれない。班

 長や二年兵の洗濯物は、競って取って来て洗濯をさせてもらうのが軍隊の習慣であり、

 うっかりしていると水汲みばかりをさせられ、自分の洗濯をする暇が無くなってしま

 う。物干場は中隊毎に一箇所あって練兵休と云う病気で訓練を休んでいる兵が二、三

 名で洗濯物の監視をしているが、員数を無くした兵が常に物陰から狙っていて、ちょ

 っとの隙を狙って素早く他人の物を盗んで行くので気が抜けない。同じ中隊の者でも

 盗り合いをするから安心しておれず、何ひとつ盗られても盗り戻すのには大変な苦労

 である。盗られたら盗り返せで物が無くなっても連隊内で次々に方々を廻っているの

 で、何処かで順繰りに盗み廻って員数がそろうのである。




父 柴原廣彌の遺稿へ

2011.10.14.