柴原廣彌の遺稿 03

 
 013 整理整頓

  寝台の後にある整頓棚には木製の手箱が各自一宛あって、日用品はその中に入れ

 手箱の横へ被服を形状良く定められた順序に下から積み整理整頓をするが、その形態

 が悪いと古兵から気合を入れられる。何回となく積み直しをさせられ自分のだけでな

 く、隣の二年兵の物まで責任を持たされるのである。時々他班の二年兵が廻って来て

 形の悪いのを見つけると意地悪く木銃で突き落として行く。



  一度自分の戦闘帽が無くなり何度捜しても見付からないので、隣の初年兵の古兵

 (現役)に聞いても知らないと言う。三中隊へ行き柴原時男軍曹に事情を話し都合を

 付けてもらうよう頼んだが、さすがに軍曹でもどうにもならないと言われ困り果てた

 が、数日して隣の古兵初年兵が「整頓中紛れ込んでいたようだ」と言って出してきた。

 自分は腹が立って腹が立って仕方なかったが相手は古兵であるので文句も言えず、礼

 を言って返してもらったが内心殴り付けたい気持ちであった。毛布や敷布等も定めら

 れた通り畳んで寝台の後に全員一列に並べておき、夜の点呼が済むと初年兵と補充兵

 とで一斉に敷く。夏の事でもあり蚊が多く蚊帳を吊る直前に補充兵は寝台の下にもぐ

 り、被服を打ち振るって蚊を追い出してから素早く蚊帳を吊る。下士官室の寝具も我

 々が自分の班長の物を扱うが、蚊帳を吊るときは全班の補充兵が共同で同様に蚊を追

 い出してから蚊帳吊りをする。下士官室へ入る時はノックをして返事があってから入

 るが、中には声の小さな下士官もいて、その返事が聞き取れない時に何回も繰り返し

 てノックをしていると「馬鹿野郎」と大声が飛んで来る。




 
 
014 食事

  食事の時になると週番上等兵が「飯上げ集まれ」と呼びにくる。班にいる初年兵は

 進んで食事受領の使役に出て、週番上等兵に引率されて炊事場へ行き食事を受領し、

 食缶を提げて中隊へ帰り各班別に分配をして、各班では机の上に配給をし二年兵に報

 告をして食事をするが、二年兵が食った後その食器を補充兵は率先して受取り洗わな

 ければならないため、我々は落ち着いて食ってもいられなく何時もあわててかっ込む

 食事である。下士官の食事は各班長の土造り膳がそろっていて、それに配膳の上で下

 士官室に持って行き食事が済む頃を
見計らって下げに行く。食器洗いが済んで暫時す

 ると「食缶返し集まれ」と呼出しがある。この食缶返しがまた大変な事であり、炊事

 場にいる古兵は皆壮々たる恐ろしい兵ばかりで、食缶を一個宛よく点検
し飯粒一個で

 も付いていると物凄く気合を
いれらりる。炊事場には上残飯と下残飯を捨てる所があ

 って、上残飯は未だ手の付いてない良い残飯で腹のすく初年兵は内密に摘み食いする

 者がいる。



  軍隊には雲脂飯(ふけめし)と云う言い伝えがあり嫌な下士官や将校に食膳を持って

 行く時、密かに食事の上で頭髪を掻き回し雲脂を振りかけておくと、何も知らずにそ

 の飯を食った上官は気分が悪くなり、それ以上食えなくなると古兵から聞いた。



 
 
015 使役

  時々週番上等兵から各班あて使役を出せと呼び出しがくる。使役は営内の草取り、

 掃除、その他臨時の雑役があり我等補充兵は兵器、被服の手入れ繕いに洗濯や軍靴の

 手入れ、また食事の後始末等次から次へと雑務が多く、そのうえ使役に出ると自分の

 事が遅れてしまうため困るが、それでも使役には進んで出ないと二年兵から弛んでい

 ると気合いを入れられ、よく使役に出ると二年兵に認められると共に班長の覚えも良

 くなる。兵器庫や被服庫使役の時など係の二年兵が良い人ともなれば、時には雑務に


 託して初年兵や補充兵に休養をさせてくれる事もあり、当然皆がその係の二年兵の使
 役となると出たがるのである。




 
 
016 給料と貴重品

  兵の給料は十日毎に支給されるので中隊事務室から達しがあると、各自認印を持っ

 て事務室に行き給与係曹長から支給される。二等兵の一回分支給は二円余りであるが、

 そのとき印章が汚れていたりすると大変叱られるので給料前にはだれも予め印章の掃

 除をよくしておく。



  現金、腕時計、万年筆は貴重品となっているため常に身に付けていなければならな

 い。入浴や銃剣術の時は貴重品箱にそれらを入れ、事務室へ持って行き保管をしても

 らう。内務検査で手箱に貴重品等が入れてあるのを見つかると大変叱りを受ける。現

 金は財布に入れ更に紐の付いた貴重品袋に入れて、その紐を襦袢の第二ボタン穴に通

 して首に掛け、襦袢のポケットに入れるという大変めんどうな規定になっている。




 
 017
 検閲

  入隊後三ヶ月を過ぎると愈愈一期間の教育が終わり検閲を受けるのであるが、この

 検閲により連隊内の成績序列が決まる。検閲は千草の演習場で行うので一週間程連隊

 を離れての参加となる。この検閲の成績により中隊の教官や、助教下士官の成績にも

 関係するらしく上官も一生懸命である。自分は検閲の出発前日に腹痛をおこし発熱も

 して寝込んでしまい班内に残され、とうとう検閲を受ける事が出来なかった。検閲が

 済むと補充兵も一応一般(一人前)の兵隊となり古兵と共に演習をすることになる。

 七月の終わり頃には我等補充兵は近く戦地に出征するとか、一時除隊となり帰郷出来

 るとかいろいろな噂が流れ始めた。



  中支派遣軍の歩兵第三十三連隊が部隊凱旋をして来て、郷里の同じ職場に勤務して

 いた森文基(浜島町ブンラク)、井上徳吉(浜島町タイヘイラク)両衛生兵が面会に

 来てくれ、戦地での苦労話や郷里の話等を互いに時の過ぎるのを忘れ話し合った。



  将校室から自分に呼び出しがあり何事かと心配し乍行ってみると、郷里から出征し

 ていた柴原貞男中尉(浜島町ヨハチ)が凱旋をして、面会に来てくれていて「ここで

 はそう堅くならなくても良いから気易く話をせよ」と言ってくださった。柴原中尉は

 自分等と一緒に入隊した井上勇君の義兄であり、井上君が入隊後間もなく病気で入院

 をししまった事を非常に残念がっていた。この時教官と柴原中尉の話によると我等補

 充兵は一時除隊をし、次の召集兵の教育が済んでから一緒に出征する様な噂があると

 話しをしていた。



  柴原中尉は大陸において戦闘指揮中に敵弾を受け負傷した事があり、この時中尉は

 鉄帽を「こんな重たいもの被ってられるか」と背中に背負って指揮をしていたが、敵

 弾は左胸から心臓をかすめ肺を貫通し背中に抜け、更に背負っていた鉄帽をも内側か

 ら外側へ貫通した。中尉の治療をした軍医はあと数ミリの差で即死するところだった

 と驚いていたそうである。(なおこの時の穴のあいた鉄帽は、記念に持ちかえったラ

 ッパと共に現在も御子息様が保存していられる)柴原貞男中尉は昭和十五年凱旋帰還

 し、その後は志摩町和具にある志摩水産学校の配属将校を勤め、生徒の軍事教練に活

 躍しその厳しい指導は有名であった。戦局が逼迫してきた昭和十九年になり本来なら

 ば大陸での負傷により再召集を免れ得たが、部下を多数戦死させた責任から自ら進ん

 で激戦地への配属を願い、家族には生きて再び帰らぬことを告げ戦地へ赴き、五十一

 連隊に赴任し昭和十九年五月十七日ビルマのトングー、モチ街道にて第一大隊第一中
 隊長として英国戦車部隊との戦闘指揮中壮烈な戦死をされた。



  八月十日になり急に召集解除の話が出て八月十三日除隊と決まったので、早速家に

 連絡をして前日までに私服を届けてくれる様に手配をした。




 
 
018 召集解除

  昭和十五年八月十三日、舎前に古兵等の見送りを受け喜び勇んで営門を後にした。

 思いもよらぬ除隊は何と云って良いかわからぬ程に言葉に表せない嬉しいものであ

 った。



  家に帰り親戚や近所に挨拶をして廻り、入営に際し武運長久を祈願した神社仏閣

 に無事除隊のお礼参りをしたが、何日先になるか間違いなく来るであろう次の召集

 が案じられた。





父 柴原廣彌の遺稿へ

2011.10.14.