柴原廣彌の遺稿 04


 
 戦陣の回顧

  021 応召

  第一期間の教育を中部第三十八部隊で終了し、除隊となって帰郷してから復職し約

 三ヶ月を経過して、既に予期はしていたところではあるが再度の臨時召集が下された。

 前回召集の時は町を上げての盛大な送別会を催してもらったが、今回は徐隊後間もな

 い日数で再召集のためか町役場から送別会の代わりとして料理が届けられた。



  出発に際しては町民および学校児童等の盛大な見送りを受け、港から船便で万歳の

 声に送られて出発した。前回召集の時は井上勇君もいたが彼は病気が治らず脱落した

 ので橋爪慶二郎君と二人である。地元の習慣では磯部町を経て逢坂山を越え伊勢神宮

 に参拝することになっていて、前回は病後の体力不足の為やむなく自動車で行ったが、

 第一期間の厳しい訓練で鍛えられたおかげで今回はなんとか徒歩で走破する事ができ

 た。



  家族の者は電車で先に到着しており一同共に伊勢神宮参拝をし、当日(昭和十五年

 十一月九日)は宇治山田駅前の春野屋旅館に宿泊し、親戚、知人一同と別れの宴会を

 した。夜、新道へ出かけて行きビーズの守り袋を買ったが、出征中この守り袋は常に

 身に付けており、銭の隠し入れにもなり復員の時まで持ち続けた。途中、元我家で働

 いていた町子という遊女が山田楼という遊郭にいて、何処から聞きつけてきたのか友

 達の女性と一緒に道路に出て別れを惜しんでくれたうえ、不自由な生活の中から選別

 まで下さった。


  翌日は朝早く旅館を出発し電車で久居町に着くと、召集兵と多数の見送り人で町は

 大変にぎわっていて、昭和十五年十一月十日、中部第三十八部隊に再入隊をした。入

 隊式には連隊長横田大佐から細々と注意を含めて祝辞が述べられたが、入隊の要領は

 再度の召集であるため割合と順調に進み、第三大隊第十中隊(川瀬隊)に所属となり

 大隊長は上田孝少佐である。入隊者の中には顔見知りの者もいたが殆ど他の中隊にい

 た者であった。一同軍服に着替え休憩後班長に引率されて練兵場に出て家族や見送り

 人と再会し私物を渡し、かねて用意をしてきた印刷葉書に所属隊名を書き入れ家族に

 渡した。家族との面会も終わり各々班内に帰り軍隊生活に入り、自分等は歩兵第五十

 一連隊の補充要員で、南京方面へ行くとの噂が何処からともなく伝わって来た。尚ほ

 かに歩兵第百三十三連隊の補充要員となる者もいるとの話もあった。 近日中に我々

 は戦地に出発するとの事でもあり召集兵も殺伐として、一期間の軍隊生活では考えら

 れない雰囲気であり、夜の点呼にも承知で番号を間違えるなど態度を悪くする者もい

 て、あまりのことに残念に思うくらいであり班長達も多分立腹していた事だろうが、

 彼らは戦地行きということから我慢をしているようで、これが一期間の教育の時だっ

 たら鬢太の雨であっただろう。その中で源口健太郎君と平山萬治君(昭和十九年ビル

 マで戦病死)
は特にはりきっており、班長の食事当番等は熱心に進んで動いていた。

 この両君は戦地に着任しても優秀な成績でいつも誉められてい
た。


  出発も近いので出征に際して各種軍装を整え、たしか覚えているのは上衣一、軍袴

 一、襦袢二、袴下一、腹巻一、靴下若干、背嚢(旧式)一、略帽一、巻脚袢一組、軍

 靴一足、帯剣一、帯革一、雑嚢一、水筒(旧式)一、携帯口糧、ナイフ、鋏等であり

 早速帯剣の番号を暗記するよう努めた。



  被服は戦地に行くときは全部新品が支給されると聞いていたが、皆古く程度の悪い

 寄せ集めのものばかりである。各分隊には小銃が全員それぞれに渡されるのでなく、

 一銃渡り前弾入れが一個付きを我等分隊は森本正次君(的矢村出身、ビルマで戦死

 が代表して銃を受けた。銃にはグリスが充填してあり皆が協力して手入れをした。



  一期間所属した九中隊へ挨拶に行くと第五班の古兵等は皆快く迎えてくれ、その後

 下士官室へも行き班長の駒田明軍曹と渡辺四郎伍長に会った。渡辺伍長は少し斜視で

 シャンガラ声をし乍「家に帰って三ヶ月の間二階で良い音を聞いていれば肥えてくる

 のう」と、私の家の家業をひやかし気分で話しかけてきて、鬢太をくれた小銃班の伍

 長もニタニタ笑っていた。



  昼間は准尉の指導で練兵場に出て軍用列車乗車順序の練習を行い、数日間は種々の

 出発準備と体操をするくらいで酒保に行って買い物をしたり、班内で休んでいる程度

 で手持ちぶたさであった。出発の日が十六日と決定し急いで家族に連絡をしたが、そ

 の時どの様な方法で連絡したのかおぼえていない。たしか前日には家族(両親、叔父

 様方、妻と二人の娘)が見送りのため来ていて、多分役場から連絡がいったのであろ

 う。三中隊にいる柴原時男軍曹の計らいで営内を見て廻ったのを記憶している。十一

 月十四日に二旬分の俸給二円二十八銭を川瀬隊林正造曹長より支給された。




 
 022
 出征

  昭和十五年十一月十六日午前、営内西側広場に出征兵総員整列し輸送指揮官笹山中尉

 の指揮のもとに出征式を挙行した。そのとき横田連隊長は入隊時に細々と話をしたため

 か、壇上に立つや「やあ苦労」と言っただけで終わってしまい、兵一同はあまりの簡単

 さにクスクス笑う者もいた。 軍装も凛々しくと言いたいところだが、それは指揮官の

 みで出征兵士は皆古物ばかりである。馬上の輸送指揮官を先頭にして在隊兵のラッパの

 音に送られて、軍靴の音も勇ましく営門を後にして一路阿漕駅へと行軍した。各小隊に

 は入隊した中隊の下士官が長となって随行し、途中二回ほど小休止をして阿漕駅に着い

 て大休止となり、先に駅前に来ていた家族と最後の面会をする事となった。彼方此方で

 呼び合う声が入り乱れて駅前は大騒ぎである。二人の娘は家族と一緒に面会に来ていた

 が次女弥生は、やっとヨチヨチ歩きが出来るくらいのときであった。突然足を踏まれて

 「イタイ」と叫んでしまい、誰が踏んだのかと見上げると一期間同じ中隊だったH君で

 彼とは学科試験になると何時も私と競い合った中であったが、混乱した中の面会時で落

 ち着いて話合う暇も無かった。乗車時刻も迫ってきてホームに入る家族の人選をし、

 の信は
身重であるうえ子供を連れているので、夕闇の混雑でもあり危険を避けてホーム

 には行かない事にし、駅前の広場で最後の別れをして信也叔父様が付き添って旅館へ連

 れていってもらうようにし、両親がホームに入って見送ってくれる事になった。


  順序良く列車に乗車をしたが、私の席はホームとは反対側の席だったため見送り人が

 よく見えなかったが、発車時刻が迫ると一同皆ホーム側へ一斉に寄って窓から頭を出し

 挨拶を交わした。両親も何か必死に口を動かしているのであるが周りの声にかき消され

 て良く聞こえない。母はつの悲しそうな顔と父弥兵衛の無表情の顔が目に焼け付いた。

 すでに宵闇も迫り人別さえわかりにくくなってきている中、突然一人の老人らしい人が

 急いで走って来たと思う間もなく、勢い余ってホームから線路上へ「うわぁー」と叫び

 乍落ちてしまい助け上げてもらっている。見送り人も夢中になり殺気だってきて、一人

 の見送り人が誰かの名前を呼び「わかったら鉄砲を上げろ」言うと、まるで昔芝居の一

 太郎やーいの真似のようで皆がどーっと笑った。万歳、万歳の声や軍歌が渦巻く中を軍

 用列車は汽笛を鳴らし発車し、乗船する港へ向かって走り出した。車中では四方山話や

 軍歌で夜遅くまで騒いでおり、ウトウトとしたと思ったら窓の外はもう白々と夜が明け

 始めていて、列車は山陽線を走行していて線路下では既に白い霜が降りた野原で子供達

 が焚火を囲み、出征兵士を乗せた軍用列車に日の丸旗を打ち振って万歳を叫んでいるの

 が見えた。



  早朝、広島駅に着いたが我々の軍用列車は一般のホームより少し離れた所に停車し下

 車後、直ちに割り当てられた市内の旅館に向かった。我等の分隊はかねて知った者が多

 くいて、その中に子供の頃井上速算学校の同級で共に学んだ鳥羽市小浜の楠井栄九郎君

 (インパール戦で戦死)もいた。一夜の宿泊であるから外出や飲酒は堅く禁じられてい

 たが、これが最後と思うと酒の一杯でも欲しくなり、皆で相談し食事の際に各自が割カ

 ンで銭を出し合い少し飲むことにし、旅館に依頼すると止められてはいるが気をきかせ

 て酒を出してくれた。見知らぬ地でもあり明朝出発に際し事故があっては困るから、絶

 対に外出はしないようにと厳重な注意があった。一同昨夜は車中でほとんど寝ていなか

 ったので、その疲れもあって直ぐに安らかな眠りについ
た。


  里美喜雄男君
さとみきお畔名村出身、インパール戦で戦死)は職業が船員であり、こ

 の地に時々入港し町の様子をよく知っていたのか、夜中に内密に一人で外出をしてしま

 ったようだ。ところが朝になっても帰って来なくて一同心配していた。その内出発の時

 刻が迫ってきて戦友一同は勿論、随行の下士官までも大変心配をし大騒ぎになるところ

 だったが、彼の装具も整え何時でも出発出来る様にして待っていると、出発間際になっ

 て帰ってきて一同安心したが下士官、班長にこってり絞られたことだろう。



 
 023 
乗船 出港

  急いで全員軍装を整え旅館から乗船港の宇品まで市民の歓呼の声に送られて行軍を

 した。宇品港では、これが故国最後の土地であり二度と生きて帰れぬかも知れないと、

 軍靴で岸辺の土を踏みしめて思いにふける者もいた。艀で沖合いに停船している御用

 船帝海丸(約三千屯級)に運ばれ乗船し、十一月十八日故国を後に出港し大陸へと向

 かった。



  下関の海峡を通過に際して船の速度がどうしたのか徐々に遅くなり、ついに停船をし

 てしまい色々と噂が始まり下関に仮泊するのではないかとの話も出てきた。関門海峡は

 通過船舶の数が多く通過時の事故を避けるため、その順番を待っていると云うのが真相

 のようだ。海峡の周りを見渡すと船側に外輪のある旧型連絡船が運行しているのを始め

 て見た。暫時して船は動き出し徐々に速力を増し玄海灘へと進み、長崎付近でも仮泊す

 るとの噂も立ったが、それもデマらしく一路大陸へと航海が続いた。航海中に見えるの

 は唯海ばかりで時々飛魚が両翼をひろげて飛び交う光景を眺めるのが何よりの楽しみで

 あり、中には百米位も飛ぶのがいて「今のはよく飛んだぞ」と皆驚いた。どこからとも

 なく目下流行中の「別れ船」の歌声が聞こえてきて、現実の思いに心迫るものがあり一

 層身に感じた。航海中の食事は海が荒れた時の船酔者を予想して幾分少なくしてあるそ

 うだが平穏な航海で船酔いする者も無く、少ない量の食事を皆不満に思いブツブツ文句

 をいう者が多くいた。船に備え付けの食器洗浄は海水で行い後で熱湯消毒や薬品消毒を

 した。甲板上に板囲いで便所が造ってあり船員が時間を定めて、海水ポンプで勢いよく

 溜まったものを大海に流してしまうと、海面は一面黄金色に変わり航跡と共に長く尾を

 引いた。



  航海中は上官の指示により兵は対潜見張りをすると共に、時々非常戦闘訓練をおこ

 ない乍航海を続けた。出港後二日位過ぎると海面が次第に黄色く泥水のようになって

 きて、聞くところによると揚子江の泥を含んだ水流のためこんな遠く迄海水の色が変

 わるとの事で、驚くと共に愈愈大陸に近づいたとの実感である。十一月二十日輸送船

 上にて十一月分俸給の追給分、六円五十二銭が五十一連隊広瀬主計中尉より支給があ

 った。



  十一月二十一日ついに大陸に到着し上海郊外呉淞沖を通過し、対岸が見えぬ程の広

 い揚子江の河口に入り上流へと遡航を続けた。川岸の始めて見る中国風景を眺めてい

 たが、この辺でも何時敵が攻撃をしてくるかわからないから、充分に注意をせよと言

 われたが、所々で日章旗が立っているのは日本の警備隊が駐屯しているのであって、

 何か平和なような感じと戦時の感が交錯した。




 中支派遣

 024 南京上陸

  十一月二十四日揚子江を三日かけて遡航して南京市に到着し我々五十一連隊補充要

 員は直ちに上陸した。尚歩兵一三三連隊補充要員は、船に残り更に上流へ航海を続け

 るとの事で、同郷の浜口三弥君は続航組であった。



  南京下関より本日の宿泊地である獅子山兵站への行軍の途中、郷里から出征してい

 る山崎源七君(私の勤める水産試験場で小使いをしている人の子息)、中村宗治君等

 と会った。兵站宿舎では炊事用品を受領して自炊をし、翌朝早々と朝食を済ませ急い

 で炊事用品をきれいに洗ってから返納した。



  出発準備もそこそこに我々は行軍を開始して南京下関駅に到着し当駅より貨車に分

 乗した。途中大陸の昿野を眺めこれが支那の戦地かと、愈愈来る所まで来たとの感で

 ある。丹陽駅で貨車を降りここからトラックに分乗し五一連隊本部のある金檀へと向

 かった。敵が度々出没するから周囲に充分警戒するよう注意があり、未舗装のため先

 を行くトラックが巻き上げる土埃の多い道を突っ走り、所々の部落には友軍警備隊が

 駐屯しているのか日章旗がはためいている。やがて巨大な城壁が見え隠れし乍近づい

 て来て、あれが金檀だと教えられ北門分哨を通って十一月二十五日金檀新兵舎に到着

 した。

 



父 柴原廣彌の遺稿へ

2011.10.14.