028 始めての出陣
昭和十六年一月中のことだったと思う(日時に記憶無し)が、第二大隊の討伐があり
始めての出陣に参加である。地名や状況は我等新兵には一切わからないが当時を思い出
してみると、この時我等二等兵では現地人にあなどられるからと階級章を付けずに行け
と言われた。モロコンス方面から磨盤山方面へと行軍し、我が五中隊は尖兵中隊だった
ので山間路を先頭で進み、漸く平地に出たとき不意に前方山岳より銃声が起こり、数発
我等の隊に打ち込まれ「ピューン、ビューン」と音を立て少し離れたところに土煙が上
がったので、誰とも無く古兵が「敵だ早く散れ」と叫び、我等新兵は始めての敵弾に驚
き身の縮む思いである。素早く畦道の影に身を伏せたが恐怖から頭を上げることも出来
ず、敵が何処に居るのかも見当もつかない。(後になってこの時の様子を八月補充の斎
藤三年兵が、あの時「柴原の頭の下げ様と言ったら見られたものではなかった」と口癖
のように言っていたものだ)敵はしきりに撃ってくるが盲撃ちのようであり、直ちに黒
龍信号弾が打ち上げられ数刻もしない間に早くも野田大隊長が乗馬で到着し、馬から降
りると「敵はどこかネ」と言って遮蔽するでもなく悠然と双眼鏡で眺めていた。さすが
大隊長はたいしたものだと我々は驚くと共に感心をしたものである。自分等は恐ろしく
て伏せたままで、唯、地面に頭を押し付け震えているだけであるが、古兵達は敵情を偵
察していて敵弾は殆ど頭の上を飛び越しているようである。敵のいる山とは相当距離が
離れているため弾着は乱れていて、漸く自分も頭を上げる余裕が出来て前方を見たが敵
が何処にいるのかさっぱりわからない。友軍は続々と前方へ進撃を開始したので、その
勢いに乗じ我々初年兵も遅れじと走り出した。このような経験を積み重ねて自分等新兵
は一人前の兵隊になるのだろう。敵は何時の間にか早々と退却して行き、その内天候が
悪くなり雨が降り出したので近くの村の民家に入り雨宿りをしていたところ、どこから
獲ってきたのか二年兵達が鶏を数羽持ってきて、そのまま焚火に放り込んで丸焼きにす
ると臓物を除き乍食い出した。自分等は乾いた薪を集めるのに一生懸命であり四年兵か
ら順次古兵が食っていて、ちょうど猿山の食事で弱い猿が強い猿の食い終わるのを待っ
ている態である。古兵が「お前らも食わんか」と口にした頃には、既にあらかた食って
しまった後で骨と臓物ばかりが残っているだけで、それでもどこか食えるかと初年兵達
は群がり喜んで食った。
森池兵長が崖から飛び降りた際に自分の小銃を折ってしまい、使用出来なくなった為
その夜の夜襲に私の銃を持っていった。夜襲は軽装で村に装具を残置していくので、自
分等三人が夜襲に参加せず残り装具等の監視をするよう命じられた。我等は付近の木を
切り倒して鹿砦として防禦に備えたが、三人とも経験に乏しい初年兵ばかりで不安でた
まらず、もし敵が思わぬところから襲撃をしてきたらどうしようかと、心配だらけで恐
る恐る厳重に警戒をしていた。数刻して近くで物音がしたので腰を抜かすほど驚き、直
ちに誰何したところ「おお今帰った」と友軍の声にまずは一安心をした。
再教育期間中から森池兵長は私が病気上がりの弱兵であることを知っており、この
討伐中小休止の時には衛生兵に言って、強心剤の注射をするよう手配をしてくれた。
(今思って見ると後のビルマの戦闘時に比べ、中国大陸の日本陸軍における医療設備
および薬品等は、非常に整っていたと思う)また今度の夜襲には部落に残って装具の
監視をする様に計らってくれ何度も庇って下さった。私の銃は以前森池兵長が持って
いたもので、その当時から遊底覆いや木部等が弛んで程度の悪い銃であったと兵長は
言っていた。その後、幸か不幸か敵に遭遇することもなく行軍を続け、某部落に宿営
することになり直ちに装具を下ろし食料の収集である。住民は危険を避け村から逃げ
てしまい誰もいないので手当たり次第に鶏を集め黒豚を追いまわし、帯剣で何回とな
く突くが豚には中々か刺さらない。そこへ古兵が来て「豚を殺すのはこうするのだ」
と言って、素早く豚の足を持って引き転がし現地人の斧を振り上げて首を叩き切って
しまい、我々は成程と感心し豚殺しの忽を始めて覚えた。日暮れ近く薄暗くなってき
たクリークで米を砥いでいると、不意に「何をボヤボヤしているか」と横鬢太を二発
もらった。眼鏡が飛んでしまい暗い中捜したが見つからず困ったが予備を持っていた
ので助かった。中隊でも鬢太取りで有名な擲弾筒班四年兵の中川上等兵に、何か虫の
居所が悪かったのか殴られたのである。就眠は藁を集め藁の寝床に藁の蒲団であり、
それも物が積み重ねてある上で寝るので動く毎に下に落ちて行く。慣れぬ宿営で初年
兵は中々か眠れないのに、古兵が藁を一束一束持ち去ってしまうので我等の藁はなく
なってしまい、夜が更けるに従い寒さが一層身にこたえるが、古兵の持っていった藁
を取り戻すようなことは出来る訳がない。自分の藁はほとんど無くなった為それでも
散らかっているのを集めウトウトしていると、歩哨から帰って来た古兵の中村利夫一
等兵が自分のかぶっている藁を殆ど持っていってしまったのには全く困った。翌日は
行軍で帰隊したが何処をどう通ったか全くわからず、部隊の行軍について行くだけの
事であり全く記憶が無い。
中隊本部では食事後の食器洗いを衛兵所の前を通って行き兵営前のクリークで洗う
が、衛兵所の往来には古兵の敬礼しごきが必ずある。冬の食器洗いはクリークに張っ
た氷を破って洗うので冷たくいものである。食器は炊事場の前にある煮沸鍋の熱湯で
消毒するのではあるが、炊事苦力が一度沸かすのみで後はさめてしまい、何が熱湯消
毒かわからず衛生上をやかましく言っているが隊長や将校はこんな事を知っているの
か疑わしい。食器洗い場の陽が当るクリークの崖渕は少しの暇を同年兵が雑談をする
憩いの場であり、誰が言うともなく我々は年が往っているから(当時二十八歳)二十
一、二歳の者とは同じにはとても行動出来ないと話していたのを二年兵の胡麻摺りに
聞かれ、告げ口で四年兵にまで聞こえてしまい程なくして、十一月補充兵は全員擲弾
筒班に集合せよと号令がきた。何をされるのかこんな時は殴られるに決まっていて、
恐る恐る集合すると先日討伐の宿営時、自分が横鬢太を貰った四年兵の中川上等兵が、
自分等を二列に並ばせ「貴様等は歳が往っているから駄目だとか言っているようだが
弛んでいる」と向い合わせて対抗鬢太をさせられた。互いに同年兵は遠慮して強く叩
かずにいると「そんなことでどうなるか」と言って、自ら各自の頭を次々と力一杯で
殴り飛ばし「こうするのだ」と言って、また対抗鬢太のやり直しである。今度は心な
らずも互いに思いきり殴り合いをさせられていると、隣の班から某四年兵が来て「今
日はえらい良い音がするのう、餅つきでもしているのか」とあざけ笑っていた。(殴
る事で有名なこの四年兵は生還し復員したが戦後の連隊慰霊祭にも、後の戦友会にも
一度も出席したことがない)
自分等十一月補充兵が入隊した当時、軽機班の食器は全員の員数が完備していなく
飯器と皿器を混ぜて食事をしていた。このため直巷陣地等より連絡に来る兵があると、
彼等にも食事を用意し出さなければならない為、直ちに飯器が不足してしまう。従っ
て二、三名はその時皿器を使用して食事をする。ある日、夕食が終わったところ一人
分の食事が皿器に盛ったまま残っていたので、誰が食べていないのか調べたところ、
森池兵長が何処かへ行っていて居ないのがわかり、帰ってきて皿器に残っている食事
を見たらこれは大変な事になるぞと、食器を数えることも忘れ皆思案するばかりであ
る。はたして森池兵長が帰り食事をしようと食器を見た途端「こんなもの食えるか」
と怒って、飯を盛った皿を土間に投げ捨て出ていった。誰か他の四年兵が補充兵に注
意しようとしたところ、直ぐ古兵の津田上等兵が「自分がやりますから」と言って補
充兵を整列させ、注意もそこそこに全員鬢太を数発宛て受けた。
薜埠鎮に現地人慰安婦が数名来て部落の警察署の隣で開店をして古兵達が出かけてい
ったらしい。四年兵は我等初年兵にも行ってこいと、何度も言ったが誰も行く者はなか
った。その言葉を真に受けて行くようなことをすれば、後日古兵から貴様等その気にな
ってと鬢太をもらうのが落ちである。
衛兵勤務の時、夜間控兵として雑談をしていた四年兵の分部上等兵が入隊を前にして
志摩地方に旅行をして、自分の家で初めて遊んだ話をし「そうか浜島の一力楼は君の家
だったのか」と懐かしく思ったのか、その後私には割合と親切にして下さった。自分の
家が遊郭をしていることで親しみを寄せる人もあれば、絶対忌避をして何につけても意
地悪く当る上官もいた。
薜埠鎮を縦断して兵営の前をクリークが流れていて、民船が竿をさしながら荷物を
輸送している。時には一人の苦力が堤防の上でロープを肩にかけて引っ張り、船の上
で一人が竿を操って運航している。これらは大抵夫婦船員で夫が労務で妻が舵を取る
ような操業であり、子供を数人乗せた一家居住船の者もある。クリークでは小船に乗
った苦力が一生懸命クリークの底の泥を掬い上げて船の中に積み込み、これを田園に
入れ土肥料とする。これだけで肥料は充足するらしく南京米の無味なのもわかる様な
気がする。中支では何処でも山羊をたくさん飼育していて、その肉は冬場には食料と
するが夏場は臭いがきついので食料にはしない。また中国人は脂肪の多いのを好み、
豚でも皮のほうの脂肪肉を特に好み赤い肉はあまり好まないようである。街の片側に
は店舗が数軒あって豚の二つ割りを天井からぶら下げてあったり、また血液を凝固し
たものや小麦粉煎餅等も売っているが、何処も彼処も蝿が多くたかっているのには驚
いた。中支に来て最初に驚いたのは何処に行っても蝿が多く、白黒斑の烏がいたのと
豚は殆どが黒色をしていた等である。道路は大小にかかわらず石敷きで、一輪車など
の通行に便利なようにしてあ る。これから当地の生活に慣れるに従い色々と変わ
った風習もわかってくることだろう。
練兵場では時々教練があり執銃行進中の敬礼訓練で、殆どの兵が間違った動作をして
いたが自分は軽機関銃で行進中、直属上官に対する敬礼を良く出来たとの事で中隊長か
ら良く覚えていたとほめられた。
昭和十六年一月十三日、我等十一月補充兵はだれひとり漏れる者なく、全員無事に帝
国陸軍一等兵に進級した。また一月二十二日に一月分の俸給八円八十銭が、五中隊堀内
晃曹長より支給された。
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