柴原廣彌の遺稿 05

 
 
025 金檀 歩兵第五十一連隊に到着

  金檀の五一連隊兵舎は表二棟が煉瓦造りで、営外に出ると街はすべて割石を敷き詰

 めた道路で、民家はみな瓦葺煉瓦造りで建ち並んでいる。


  到着したばかりの我々は街中の中央にある連隊本部の広場に整列し、斎藤春麿連隊

 長から訓示を受け軍旗の前で入隊式を行った。新兵舎の練兵場で各中隊に配属を命ぜ

 られ、私は第二大隊第五中隊(松村保中尉隊)に配属され市岡潔伍長に掌握された。

 第一大隊と第三大隊に配属された者は直ちにトラック便で各駐屯地に出発した。同郷

 の橋爪慶二郎君(浜島町タイワ・ビルマで戦病死)と岡野弥比知君(浜島町追子地区

 ・淅東作戦で戦死)は第一中隊に配属された。私の配属された第二大隊と連隊直轄部

 隊の兵は金檀で当分の間教練を受けることになったが、自分等五中隊の初年兵は総員

 二十二名である。



  第二大隊長は野田哲中佐、大隊副官は青木五三郎大尉で第五中隊長は松村保中尉

 ある。松村中隊長から各自に対し小銃が付与されたが自分の与えられた銃は、遊底覆

 いの弛んだ極めて程度の悪い銃であった。各自早速銃の番号を覚えるのに一生懸命で

 ある。五中隊(松村隊)の主力は薜埠鎮という所に駐屯していて、金檀兵舎の西側一

 室に五中隊出先である連絡所があり、増田幸雄三年兵(ビルマのミンゲ戦で戦死)が

 常駐していて連隊本部や二大隊との連絡等に当たっている。



 
 026
 現地再教育
  
  金檀では各中隊合同で再教育が始まり、教官は久田正夫中尉(三重五一会会長)

 で我等第五中隊の助教は阿迦井寛三軍曹である。起床と同時に点呼が済むと駆け足で

 城壁周囲や城外を廻り、金檀周辺の地形を覚えるようにした。早朝の凍った石敷きの

 道を鋲底の軍靴で走るのは、よく滑るため転倒の危険があり一通りの苦労であった。

 体操の他教練は殆ど城外で行うため、何時敵が襲撃してきてもよいように常に実弾を

 携帯していた。



  内地で一期間教育を受けた時は当時十六師団長石原寛爾中将の対ソ戦を想定した、

 石原特有の戦法で切込隊を主とした訓練を行ったが、隊が変わったから少々異なった

 訓練をするようである。赤く塗った廓を仮の敵陣地と見たて攻撃の訓練を毎日行った。

 夜間演習時、敵陣へ突っ込むのに全員無言で突入したところ、教官から喚声も揚げず

 に突っ込む奴が何処にあるかと叱られた。内地では歩兵操典どおり夜間の突撃は声を

 出さないように教えられたので、誰かが「元隊では声を出しては行けないと教えられ

 ました」と言ったところ、教官は怒って「声を出さずに突っ込む事が出来るか、元隊

 とは何事か貴様等の元隊はここだ」と一喝され、野戦の酷しさを思いしら
された。


  金檀には連隊本部を始め直轄の通信中隊、歩兵砲中隊、第二機関銃中隊、第七中隊

 と第八中隊の一部、糧秣庫、憲兵隊、野戦病院療養所、野砲隊等の配属隊がそれぞれ

 駐屯している。第二大隊本部
と一緒に大隊医務室と連隊医務室がある。各隊の兵舎は

 殆どが大きな廓を改造して居住しており、炊事は各隊毎に別個に行っている。我々の

 教育隊は各中隊毎に別棟兵舎に居住し、炊事は新兵舎全部をまとめて東側の炊事場で

 相当古い兵が数名で賄っていて、食事受領や食器返納の時油断していると徹底的に気

 合を入れられ、炊事場に行くのは何時も恐る恐るである。


  我等中隊の源口健太郎君は何時もハキハキとした元気の良い声を炊事要員に認めら

 れ、やがては中隊本部まで噂が届き余り教練や学科の成績は良いほうではなかったが、

 後々まで上官の覚えが良く上等兵進級も早かった。軍隊では些細な事でも認められる

 と進級にまで影響するのである。



  金壇では新中国軍(汪精衛軍)湲靖隊と警察隊が自警の守りに付いている。城外で

 演習中に近辺の民家で飼育している山羊の泣き声が、子供の泣く声によく似ているの

 で度々と驚くことがある。六中隊が駐屯している下新河に演習で行軍した時、途中に

 敵新四軍が南北通過をする道があるので、何時敵襲があるかわからないからと注意を

 受け警戒を厳重にし乍、我々新兵は緊張して行軍したものである。行軍中の昼食は飯

 盒に飯を貰い、副食には鉄火味噌を数人で一個宛分けて食った。野戦へ到着後始めて

 の行軍であり大変であったが、それでも演習をし乍全員無事帰隊をする事が出来た。



  阿迦井軍曹から七中隊に同郷の柴原喜多男軍曹(浜島町・ビルマで戦病死)が居る

 と教えら
れ、その時、話しの途中に君達は言葉使いが悪いと言われたので、私は「自

 分等の町は皆言葉が悪いのでつい悪くなるのです」と言い訳すると「ばか者自分で悪

 いと言う奴があるか」と叱られた。ある日一人の戦友がどんな失敗をしたのか阿迦井

 班長に呼出され蚊帳の外で注意を受け、やがてパチンパチンとスリッパで殴るような

 音が聞こえてきた。我々は気合を入れられていると思い一同どうなることかと案じて

 いたが、あとで聞いたところによると班長は注意をした後、自分の手をスリッパで叩

 き殴っているように皆に思わせたようで班長の恩情であった。



  兵舎の表右側は民家が立ち並び、その近くにかなり大きな池があって住民はここで

 洗い物をして時々漆塗りのきれいな桶を洗っていたが、あれは中国の便器であると古

 兵が話していた。



  城外の墓地付近での演習の時、傘型散開の教練について阿迦井班長が二、三の兵に

 質問したところ誰も答えることが出来なかった。突然「柴原教えてやれ」と言われ、

 いきなりで慌てたが学科には相当自身があったので、得意になって答えたところ班長

 より良くおぼえていると誉められた。阿迦井軍曹は途中帰隊し後任助教に森池兵長と

 橋井多次助上等兵が到着した。橋井上等兵は志摩郡安乗村(現阿児町)の出身である

 が数日して大坪武男上等兵と交代した。大坪上等兵も僅かの日数で帰隊し森池兵長一

 人が助教として残り演習を指導した。



  演習も熱が入ってきた頃に直渓橋方面の敵情により大隊討伐が計画され、教育隊も

 久田中尉の指揮で参加することになり行軍で直渓橋に行き、そこに友軍の分屯隊がい

 て糧秣等を支給され近辺の民家に宿営したが、我ら初年兵は始めての出動のため色々

 と注意を受けた。藁を集めて寝床を造りそれを頭から被って一夜を過し、夜間交代で

 立哨をしたが遠く近くで犬の泣き声が聞こえるだけで、敵情も変わりは認められず一

 日で討伐は終了となり帰隊する事になった。帰路は五中隊の駐屯している薜埠鎮へ立

 ち寄り、そこの酒保で黒パンや羊羹を買って食べた。薜埠鎮からはトラック便で金檀

 へ帰った。班長に引率され団体行動で連隊本部の酒保へ二回程行ったが安倍川餅、ぜ

 んざい、羊羹等を売っていた。煙草はコンパスとスペアが一般兵用として一個十銭で

 あり、また将校用としてはマーシャル等があった。教育期間も終わりに近くなったあ

 る日、兵舎の前で久田中尉を中心にして記念撮影をした。





 第五中隊に到着

 027 薜埠鎮付近の警備

  昭和十五年十二月末に現地教育が終了し、それぞれは各中隊に配属されることになり

 自分は五中隊で、中隊本部は大隊討伐時に立ち寄った薜埠鎮という寒村にあり村の東部

 外れに廓を改造した中隊の兵舎がある。営門左側に衛兵所があり表に「まつむらたい」

 の看板が出ている。その奥に事務室、電話室があり事務室西側付近に別棟となって隊長

 室、将校室、准尉室、曹長室があり、その外れには五中隊に派遣されている自動車運転

 手の詰所がある。この詰所の横に小さい出入口があり、ここが営外に出る道の裏門であ

 る。事務室の階上に下士官室があるために木製の長い梯子を上って行く構造で、下士官

 の食事当番は片手に食事を持って梯子を上らなければならず大変である。営門右側に炊

 事室があり一部が経理室となっていて、この近くには浴場もあって雇われた現地人の炊

 事苦力が風呂焚きをしている。営内は周囲をレンガ塀で囲こまれていて鍋底山に通じる

 出入り口も別にある。部隊入口が北門で営門前東部にある水取場等の要所は、銃座を備

 えた掩蓋壕となっており手榴弾が数個常備してある。



  事務室の北側には広場を隔てて各兵舎があり軽機班、小銃班、擲弾筒班の兵舎が並ん

 でおり、その西側の数棟は空き室で以前ここには機関銃隊や野砲隊等配属部隊がいたそ

 うである。兵舎の東部は練兵場になっており、その一隅に酒保があり時々連隊本部酒保

 から日用品や甘み品が持ち込まれる。酒保の隣に現地人苦力が居住していて四年兵達が

 洗濯を頼みに行くのを時々見たことがある。古兵の洗濯は初年兵が競ってするはずなの

 に、なぜそこへわざわざ持って行くのか不思議に思い、何かうまい理由があるのだろう

 かと初年兵同士で話しあった。十二月二十二日に十二月分の俸給八円八十銭が、五中隊

 堀内晃曹長より支給された。



  薜埠鎮部隊の南方五百米位のところに小山があり、そこは鍋底山と呼ばれており頂上

 に望楼を築き周囲は鉄条網を張り巡らした所謂砦であり常時四、五名の分哨が詰めてお

 り、食事はその都度中隊本部から使役兵二名が運んでいた。以前ここに敵襲があり分哨

 の数名で防戦するも、中隊本部からの援軍が間に合わず全滅したそうである。更に部隊

 南方数粁のところに直巷陣地があり、ここには約一個小隊と機関銃隊、野砲隊の一部が

 常駐していた。この他主要な橋梁付近には必要に応じて陣地を築き、分哨が出ていて金

 壇方面への公路の三叉路地点には哨舎があり、バス連絡を兼ねて昼間二名の歩哨が出て

 いる。



  軽機班での自分の席は銃架の傍で宇野弘兵長の隣であり中隊には四年兵、三年兵(十

 四年五月と八月の補充兵)、二年兵(十四年十二月現役兵)等古兵が数多くいた。兵営

 生活の毎日は兵器手入れ、衛兵、薪切り、有線電話の保線等で、野戦といっても出動の

 ほかは平時と変わりなく従って内務班は酷しい。また電気が来てないので無電灯のラン

 プ生活であるため、ガラス製のランプホヤ掃除は壊さぬように特に気をつけなければな

 らない。衛兵は昼間表門一名、屋上展望哨一名、公路バス停に二名の歩哨が出ており夜

 間は表門一名、東陣地一名(動哨)、の歩哨が出て一時間勤務、一時間控え、一時間仮

 眠をとる。衛兵所前の南出入り口には拒馬を置き常時閉鎖している。昼間の展望哨立哨

 では付近の動静を刻々衛兵所に報告し、特に公路上の車輛や銃声には注意を払わなけれ

 ばならない。時々非常呼集の演習があり非常の場合は起床と同時に服装はそのままで迅

 速に行動し、兵器を持って常から定められている所定の陣地配置に就くのである。



  五中隊の幹部は中隊長松村保中尉、将校は直巷陣地隊長の坂中尉、池田六郎中尉、酒

 沢重信少尉、矢島辰之輔少尉のほか山本龍輔准尉、浦島富次曹長、経理担当の堀内晃曹

 長で
ある。


  五十一連隊は略称「祭七三七〇部隊」で左袖に伊勢神宮を模したマークを付けてい

 た。中隊長の精神訓話および将校の訓話が度々あり、この時には鍋底山分哨敵襲によ

 る全滅の話や、谷渕将校斥候の美談等をいつも聞かされた。中隊長は射撃教練になる

 と口癖の様に「メイでは駄目だ名古屋のナでなければならない」と、すなわち名人の

 名を言い聞かせるのである。



  モロコンス方面の粛正出動をした時の出来事で、雨上がりの泥道でゴム長靴を履いて

 いった某上等兵が、人影を見て敵と思い咄嗟に発砲したところ、それは現地の中国人主

 婦で即死であった。宇野兵長は幾らかの軍票をその家族に渡して話を付け解決をしてし

 まい、戦地とはいえ一命の軽さに驚きであった。この地方は粛正地区であり敵性地区で

 もあるので住民は大変な迷惑であり、茶の名産地でもあり帰りに紅茶を数袋もらうとい

 うか半分巻き上げてくるようである。帰途自分の軍靴は泥道ばかり歩いていたため縫い

 糸が腐り段々程度が悪くなり、泥道に突っ込んだ時に踵の糸が切れてポッカリ口が開い

 てしまい、仕方なく縄で絡げて歩ぎ続け帰隊後で被服係に修理を頼んだが「早い内に修

 理に出さないでグズグズしているからこうなるのだ」と叱られてしまった。



  昭和十六年一月となり、正月の夕食に祝酒が下給になり古兵に勧められて少々呑んだ

 ところが、しばらく呑んでいなかった酒のためか急に酔いが回り、夜の点呼で営庭に整

 列したとき急に口一杯に突き上げてきて、すぐハンカチで受けて物入れにしまったが班

 長が気づき「柴原大丈夫か」と言って気を使ってくれた。私は「何とも無いです」と我

 慢をし点呼が終わるのを待って便所へ駈け込み、胃の中の物を全部吐き出した。


  昭和十五年末入営の初年兵が金壇で一期間の教育を受けていて、郷里から柴原楠成

 (歩兵砲中隊・ビルマあけぼの村で戦死)、柴原義廣(七中隊・生還)、柴原章(通信

 中隊 浙?作戦時五峯山で戦死・我家の親戚キンスカのまた親戚)の三名が来ていると

 聞かされた。



  雪が降りしきり一面銀世界となり雪の積らない郷里で育った私には始めて見る景色で

 ある。この頃になると決まって各隊との連絡のための有線電話が不通となる。電話線は

 竹を立て先に絶縁をしたビール瓶やサイダー瓶の口部を傘状に付け、それに単線を結び

 付けてあり、これを馬弁と云い風雪で馬弁が倒れると、電線が切れたり絶縁不良になる

 為に電話が不通となる。電話が不通になるとトラックに乗って保線に出動するが敵はこ

 の気に乗じて襲撃をしてくる時があるので、保線隊は一部兵を警戒にあて次々と弁竿を

 立て直して補修をして行く。雪中の作業なのでときには手指が黄色くなり凍傷の寸前と

 なる事があり、被服等で擦り摩擦熱で予防をしていると、しばらく作業を続けている間

 に体温も上がってきて汗も出てくる。降雪の都度電話が不通になるために保線出動があ

 る。



  金壇での初年兵教育隊の初行軍が薜埠鎮へやって来て、先記三名柴原楠成君、柴原義

 廣君、柴原章君の郷里出身兵にも会えて久し振りに郷里の話しを聞かせてもらえた




 
 028
 始めての出陣

  昭和十六年一月中のことだったと思う(日時に記憶無し)が、第二大隊の討伐があり

 始めての出陣に参加である。地名や状況は我等新兵には一切わからないが当時を思い出

 してみると、この時我等二等兵では現地人にあなどられるからと階級章を付けずに行け

 と言われた。モロコンス方面から磨盤山方面へと行軍し、我が五中隊は尖兵中隊だった

 ので山間路を先頭で進み、漸く平地に出たとき不意に前方山岳より銃声が起こり、数発

 我等の隊に打ち込まれ「ピューン、ビューン」と音を立て少し離れたところに土煙が上

 がったので、誰とも無く古兵が「敵だ早く散れ」と叫び、我等新兵は始めての敵弾に驚

 き身の縮む思いである。素早く畦道の影に身を伏せたが恐怖から頭を上げることも出来

 ず、敵が何処に居るのかも見当もつかない。(後になってこの時の様子を八月補充の斎

 藤三年兵が、あの時「柴原の頭の下げ様と言ったら見られたものではなかった」と口癖

 のように言っていたものだ)敵はしきりに撃ってくるが盲撃ちのようであり、直ちに黒

 龍信号弾が打ち上げられ数刻もしない間に早くも野田大隊長が乗馬で到着し、馬から降

 りると「敵はどこかネ」と言って遮蔽するでもなく悠然と双眼鏡で眺めていた。さすが

 大隊長はたいしたものだと我々は驚くと共に感心をしたものである。自分等は恐ろしく

 て伏せたままで、唯、地面に頭を押し付け震えているだけであるが、古兵達は敵情を偵

 察していて敵弾は殆ど頭の上を飛び越しているようである。敵のいる山とは相当距離が

 離れているため弾着は乱れていて、漸く自分も頭を上げる余裕が出来て前方を見たが敵

 が何処にいるのかさっぱりわからない。友軍は続々と前方へ進撃を開始したので、その

 勢いに乗じ我々初年兵も遅れじと走り出した。このような経験を積み重ねて自分等新兵

 は一人前の兵隊になるのだろう。敵は何時の間にか早々と退却して行き、その内天候が

 悪くなり雨が降り出したので近くの村の民家に入り雨宿りをしていたところ、どこから

 獲ってきたのか二年兵達が鶏を数羽持ってきて、そのまま焚火に放り込んで丸焼きにす

 ると臓物を除き乍食い出した。自分等は乾いた薪を集めるのに一生懸命であり四年兵か

 ら順次古兵が食っていて、ちょうど猿山の食事で弱い猿が強い猿の食い終わるのを待っ

 ている態である。古兵が「お前らも食わんか」と口にした頃には、既にあらかた食って

 しまった後で骨と臓物ばかりが残っているだけで、それでもどこか食えるかと初年兵達

 は群がり喜んで食った。



  森池兵長が崖から飛び降りた際に自分の小銃を折ってしまい、使用出来なくなった為

 その夜の夜襲に私の銃を持っていった。夜襲は軽装で村に装具を残置していくので、自

 分等三人が夜襲に参加せず残り装具等の監視をするよう命じられた。我等は付近の木を

 切り倒して鹿砦として防禦に備えたが、三人とも経験に乏しい初年兵ばかりで不安でた

 まらず、もし敵が思わぬところから襲撃をしてきたらどうしようかと、心配だらけで恐

 る恐る厳重に警戒をしていた。数刻して近くで物音がしたので腰を抜かすほど驚き、直

 ちに誰何したところ「おお今帰った」と友軍の声にまずは一安心をした。



  再教育期間中から森池兵長は私が病気上がりの弱兵であることを知っており、この

 討伐中小休止の時には衛生兵に言って、強心剤の注射をするよう手配をしてくれた。

 (今思って見ると後のビルマの戦闘時に比べ、中国大陸の日本陸軍における医療設備

 および薬品等は、非常に整っていたと思う)また今度の夜襲には部落に残って装具の

 監視をする様に計らってくれ何度も庇って下さった。私の銃は以前森池兵長が持って

 いたもので、その当時から遊底覆いや木部等が弛んで程度の悪い銃であったと兵長は

 言っていた。その後、幸か不幸か敵に遭遇することもなく行軍を続け、某部落に宿営

 することになり直ちに装具を下ろし食料の収集である。住民は危険を避け村から逃げ

 てしまい誰もいないので手当たり次第に鶏を集め黒豚を追いまわし、帯剣で何回とな

 く突くが豚には中々か刺さらない。そこへ古兵が来て「豚を殺すのはこうするのだ」

 と言って、素早く豚の足を持って引き転がし現地人の斧を振り上げて首を叩き切って

 しまい、我々は成程と感心し豚殺しの忽を始めて覚えた。日暮れ近く薄暗くなってき

 たクリークで米を砥いでいると、不意に「何をボヤボヤしているか」と横鬢太を二発

 もらった。眼鏡が飛んでしまい暗い中捜したが見つからず困ったが予備を持っていた

 ので助かった。中隊でも鬢太取りで有名な擲弾筒班四年兵の中川上等兵に、何か虫の

 居所が悪かったのか殴られたのである。就眠は藁を集め藁の寝床に藁の蒲団であり、

 それも物が積み重ねてある上で寝るので動く毎に下に落ちて行く。慣れぬ宿営で初年

 兵は中々か眠れないのに、古兵が藁を一束一束持ち去ってしまうので我等の藁はなく

 なってしまい、夜が更けるに従い寒さが一層身にこたえるが、古兵の持っていった藁

 を取り戻すようなことは出来る訳がない。自分の藁はほとんど無くなった為それでも

 散らかっているのを集めウトウトしていると、歩哨から帰って来た古兵の中村利夫一

 等兵が自分のかぶっている藁を殆ど持っていってしまったのには全く困った。翌日は

 行軍で帰隊したが何処をどう通ったか全くわからず、部隊の行軍について行くだけの

 事であり全く記憶が無い。



  中隊本部では食事後の食器洗いを衛兵所の前を通って行き兵営前のクリークで洗う

 が、衛兵所の往来には古兵の敬礼しごきが必ずある。冬の食器洗いはクリークに張っ

 た氷を破って洗うので冷たく
いものである。食器は炊事場の前にある煮沸鍋の熱湯で

 消毒するのではあるが、炊事苦力が一度沸かすのみで後はさめてしまい、何が熱湯消

 毒かわからず衛生上をやかましく言っているが隊長や将校はこんな事を知っているの

 か疑わしい。食器洗い場の陽が当るクリークの崖渕は少しの暇を同年兵が雑談をする

 憩いの場であり、誰が言うともなく我々は年が往っているから(当時二十八歳)二十

 一、二歳の者とは同じにはとても行動出来ないと話していたのを二年兵の胡麻摺りに

 聞かれ、告げ口で四年兵にまで聞こえてしまい程なくして、十一月補充兵は全員擲弾
 筒班に集合せよと号令がきた。何をされるのかこんな時は殴られるに決まっていて、
 恐る恐る集合すると先日討伐の宿営時、自分が横鬢太を貰った四年兵の中川上等兵が、

 自分等を二列に並ばせ「貴様等は歳が往っているから駄目だとか言っているようだが

 弛んでいる」と向い合わせて対抗鬢太をさせられた。互いに同年兵は遠慮して強く叩

 かずにいると「そんなことでどうなるか」と言って、自ら各自の頭を次々と力一杯で

 殴り飛ばし「こうするのだ」と言って、また対抗鬢太のやり直しである。今度は心な

 らずも互いに思いきり殴り合いをさせられていると、隣の班から某四年兵が来て「今

 日はえらい良い音がするのう、餅つきでもしているのか」とあざけ笑っていた。(殴

 る事で有名なこの四年兵は生還し復員したが戦後の連隊慰霊祭にも、後の戦友会にも

 一度も出席したことがない)



  自分等十一月補充兵が入隊した当時、軽機班の食器は全員の員数が完備していなく

 飯器と皿器を混ぜて食事をしていた。このため直巷陣地等より連絡に来る兵があると、

 彼等にも食事を用意し出さなければならない為、直ちに飯器が不足してしまう。従っ

 て二、三名はその時皿器を使用して食事をする。ある日、夕食が終わったところ一人

 分の食事が皿器に盛ったまま残っていたので、誰が食べていないのか調べたところ、

 森池兵長が何処かへ行っていて居ないのがわかり、帰ってきて皿器に残っている食事

 を見たらこれは大変な事になるぞと、食器を数えることも忘れ皆思案するばかりであ

 る。はたして森池兵長が帰り食事をしようと食器を見た途端「こんなもの食えるか」

 と怒って、飯を盛った皿を土間に投げ捨て出ていった。誰か他の四年兵が補充兵に注

 意しようとしたところ、直ぐ古兵の津田上等兵が「自分がやりますから」と言って補

 充兵を整列させ、注意もそこそこに全員鬢太を数発宛て受けた。



  薜埠鎮に現地人慰安婦が数名来て部落の警察署の隣で開店をして古兵達が出かけてい
 ったらしい。四年兵は我等初年兵にも行ってこいと、何度も言ったが誰も行く者はなか
 った。その言葉を真に受けて行くようなことをすれば、後日古兵から貴様等その気にな
 ってと鬢太をもらうのが落ちである。

  衛兵勤務の時、夜間控兵として雑談をしていた四年兵の分部上等兵が入隊を前にして

 志摩地方に旅行をして、自分の家で初めて遊んだ話をし「そうか浜島の一力楼は君の家

 だったのか」と懐かしく思ったのか、その後私には割合と親切にして下さった。自分の

 家が遊郭をしていることで親しみを寄せる人もあれば、絶対忌避をして何につけても意

 地悪く当る上官もいた。



  薜埠鎮を縦断して兵営の前をクリークが流れていて、民船が竿をさしながら荷物を

 輸送している。時には一人の苦力が堤防の上でロープを肩にかけて引っ張り、船の上

 で一人が竿を操って運航している。これらは大抵夫婦船員で夫が労務で妻が舵を取る

 ような操業であり、子供を数人乗せた一家居住船の者もある。クリークでは小船に乗

 った苦力が一生懸命クリークの底の泥を掬い上げて船の中に積み込み、これを田園に

 入れ土肥料とする。これだけで肥料は充足するらしく南京米の無味なのもわかる様な

 気がする。中支では何処でも山羊をたくさん飼育していて、その肉は冬場には食料と

 するが夏場は臭いがきついので食料にはしない。また中国人は脂肪の多いのを好み


 豚でも皮のほう
の脂肪肉を特に好み赤い肉はあまり好まないようである。街の片側に

 は店舗が数軒あって豚の二つ割りを天井からぶら下げてあったり、また血液を凝固し

 たものや小麦粉煎餅等も売っているが、何処も彼処も蝿が多くたかっているのには驚

 いた。中支に来て最初に驚いたのは何処に行っても蝿が多く、白黒斑の烏がいたのと

 豚は殆どが黒色をしていた等である。道路は大小にかかわらず石敷きで、一輪車など

 の通行に便利なようにしてあ  る。これから当地の生活に慣れるに従い色々と変わ

 った風習もわかってくることだろう。



  練兵場では時々教練があり執銃行進中の敬礼訓練で、殆どの兵が間違った動作をして

 いたが自分は軽機関銃で行進中、直属上官に対する敬礼を良く出来たとの事で中隊長か

 ら良く覚えていたとほめられた。



  昭和十六年一月十三日、我等十一月補充兵はだれひとり漏れる者なく、全員無事に

 国陸軍一等兵
に進級した。また一月二十二日に一月分の俸給八円八十銭が、五中隊堀内

 晃曹長より支給された。




父 柴原廣彌の遺稿へ

2011.10.14.