柴原廣彌の遺稿 06

 
 
029 溧陽方面の討伐

  年兵は近々内地帰還するので出動はしなく、十四年五月入隊以降の兵による編成で

 あり自分の所属は堀内小隊の高坂分隊である。天王寺まではトラック便で行き、そこ

 から磨盤山に沿って青竜山陣地を左に見て南方へ行軍を続けた。漸くして敵陣近くの

 獅子山に到着してここに陣地を築いたが、敵は早くも気がつきチェッコ機銃で乱射を

 してきた。愈愈我等も始めて敵弾下での進撃であり何か恐ろしい気持ちがするが、こ

 こまでくれば不思議と諦めもつき先ず高坂分隊長が先頭を切って飛び出して行った。


  味方の重機関銃や歩兵砲は敵の陣地に向かって激しく援護射撃の攻撃を続け、我々

 補充兵は始めての経験であり古兵の指導で発進し、日頃教えられたように敵銃声の間

 隙をぬって走り続ける。背嚢には数日分の食料や予備弾薬(六十発)等を入れ、更に

 初年兵は古兵の分までも余分に持たなければならず、走ると言っても重い装具で遅々

 として進めない。走っては伏せて伏せては走り漸く目標の墓地に息を切らせて辿り着

 くと、先に来ていた高坂分隊長は墓地の影でタバコを一服吹かしていて正に余裕シャ

 クシャクである。後続の隊員の到着するのを待って全員一息入れてから、愈愈敵陣の

 山に向かって進撃である。山の西北麓から登り始め中腹を斜めに進み東方山頂に向か

 って攻撃を続けた。敵はしきりにチェッコ機銃を撃ち続け、やがて迫撃砲弾も飛んで

 きたのに対し友軍の重機関銃と歩兵砲も援護射撃で応戦を続け、我等歩兵の頭上を弾

 丸が飛んで行く。敵情はどうなっているのか我等新兵には知るべくもなく、唯分隊長

 の命に従って進んで行くだけである。山が敵射撃の遮蔽になった所に進んだのか、射

 撃が始まったときのような激しい敵弾は飛んで来なくなった。その中敵は退却したの

 か漸く頂上を占領することが出来たが既に夜明け近くなり、自分等には情況はよくわ

 からないが敵軍は相当多いらしく、敵の逆襲に備えて頂上に壕を掘らなければならな

 いが、掘るための器具も少なく何でもよいから出来る限り深く掘れとの命令で、軍靴

 の踵まで使って掘り続けたが土質は岩盤でありいかほども掘れなかった。


  夜明け近くになり敵の反撃が始まりチェッコ機銃と迫撃砲で激しく逆襲してきて、

 敵はどんな風なのかと思ってそっと頭を上げて見るも、始めてのことで敵を見付ける

 事は出来なかった。夜が明けてしまい敵の大部隊の逆襲に友軍は持ちこたえられなく

 なり、撤退する事になったが自分達の小隊が最後まで残り退却の援護をする事になり、

 軽機関銃手平井武夫二年兵はしきりと援護射撃を続け自分は弾薬手で射手の傍に最後

 までついて弾薬を補給していた。敵の反撃は一層激しくなり愈愈我等分隊も山を降り

 始め、山の中腹まで降りて来ると松村中隊長と堀内小隊長が待っていて「早く降りよ」

 と励ましてくれた。下山後数粁離れた部落まで来て小休止となり軽機関銃の点検をし

 たところ、長時間に渡り最後まで撃ち続けたためか薬莢膠着を起こして動かなくなっ

 ていた。平井二年兵は色々と故障排除を試みたが薬莢は中々取れなく、最後に大河原

 兵長が槊杖を銃口より入れて槌で叩いて漸く薬莢を取り去り故障を直した。


  部落の民家には直径が二米程の大甕(おおかめ)がたくさんあって中にタップリ水飴

 を仕込んであり、未だ時期が早いのか味は薄かったが皆喜んで舐めた。自分はもった

 いないと思い水筒に一杯詰めて携行したが、行軍の途中小休止のときに堀内小隊長は

 喉が乾き、水が欲しいと言って私の水筒から飲んだところ、中身が水飴だったので

 「何だこれは行軍中にこんなものを入れてはだめだ」と注意されてしまった。また別

 の大甕には菜葉の漬物がたくさん漬けてあり、味が良いので一房を帯革の間に入れ歩

 き乍一本宛噛んだが後で喉が乾いてきて困った。日時は覚えていないが陽に入り、

 以前ここは五十一連隊本部も駐留していたとの事で何度も戦闘により占領したので古

 兵には馴染みのところである。我等補充兵や十五年入隊の初年兵は始めてのところで

 街を見周って見たが驚く程荒れ果てていて、家屋も石柱のみを残し内部はことごとく

 破壊され瓦礫の山である。街外れのクリークの傍にある木造民家に宿営をしたが、降

 雨のため泥水ばかりで炊爨の水が無く民家の甕に溜めてあった水で炊事をし湯を沸か

 したが、どうも埃臭く我慢をして飲んだが朝になって甕の中をよく見たところ、現地

 人が避難する時仕舞ってあった埃まみれの皿や丼を水甕の中に入れ、隠していったの

 で水が埃臭くなっていたのだった。


  討伐を終わって?陽の北へと行軍をしたが、通った道は我等にはさっぱりわからなか

 ったが薜埠鎮に直通しており、他の中隊はトラック便でここからそれぞれの各駐屯地

 へ帰っていった。この討伐で自分等と共に初年兵も始めて戦争らしい戦いを経験した。



 
 030
 薜埠鎮付近の警備Ⅰ

  中隊本部で警備中炊事用や暖房用の薪切りの使役によく出掛けた。鍋底山の西南二

 粁程のところに一時友軍が警備していた陣地跡があり、すでに廃止になっているが望

 楼や建物がそのまま残っていて、付近には立木があるのでそれを切り倒して薪にし道

 具は現地人の弦鋸や青竜刀を借りた。自分は立木を切るのに郷里の山で木を切った時

 の習慣で、谷側を下に山側を上に表裏を段違いに切ったところ、古兵から「そんな切

 り方は表と裏が合わないではないか」と注意されたが、四年兵の山口己吉上等兵が木

 の切り方を良く知っており「立木を切るのはそれで良いのだ。こうすれば立ち木は自

 然と谷側へ倒れるのだ」と言って他の古兵に説明をした。帰りは住民をただ働きで使

 役して薪を一輪車に積ませ持ち返った。



  鍋底山分哨勤務となると望楼内の生活が一週間続くので、全員が全ての兵器に熟練し

 ていなければならず、軽機関銃や擲弾筒の手入れをすると共に操作の練習をした。楼上

 には手榴弾がたくさん備えてあり敵襲になると手榴弾戦となるが、自分は腕力が弱く遠

 くへ投擲することが出来ず、かえって自爆の恐れがあり危険だと思った。



  夜間一名は陣内を動哨し、もう一名は控兵として階下でストーブを焚き乍、有線電話

 で中隊本部と連絡を欠かさないようにする。昼間は望楼上に監視兵一名を置き初年兵は

 兵器の手入れや陣地の補強作業をし、また廃止になった不用木材を薪にするが道具が無

 いので十字鍬を使ったり、石を台にし木を斜めに置き重石を上から落として折り切り暖

 房用薪を確保した。食事は中隊本部から使役兵二名が飯盒に入れて運んでくれ、山の北

 側の池には鴨が数羽いて時々銃で撃って獲ることもある。二月二十二日に二月分の俸給

 八円八十銭が支給された。



  昭和十六年二月十一日紀元節の日、坪兵長が分哨長となり自分も鍋底山分哨勤務につ

 いた。坪兵長は北海道の漁師であって相当酒が好きらしく「今日は中隊本部では祝日で

 御馳走だがなあ」と言って、山麓の部落の小輩に軍票を持たせて街へ老酒を買いに出し

 た。数刻して小輩が老酒をビール瓶に入れて持ってきたが、坪兵長が一口飲んだところ

 水っぽく「駄目だ」と言って小輩を調べると、軍票を隠して持っており中国幣で老酒を

 買い、少ない分をクリークで水を足してきたと白状したので小輩は叱られ鬢太をくわさ

 れた。



  中隊の酒保は連隊本部との連絡があった時は色々と品物もあり甘み品も持ち込まれる

 が、常は何も無く初年兵は甘い物をほしがっていた。食器棚に肝油の糖被球が置いてあ

 ったが何時の間にか皆が喜んで食ってしまった。時々古兵に連れられて薜埠鎮の街へ出

 かけたが、色々と変わった風景も見られた。茶店では陽気な老若遊人が話しをするでも

 なく、ゆったりと茶を飲んでその片隅では四角い机と腰掛で麻雀を楽しんでいる組もあ

 り、また老婆どうしが花札のような古い札で小博打をしているが何処も彼処もやはり蝿

 が多い。



  食品店では甕を焼器として下で火を焚き、甕の内側に練り上げた小麦粉を張り付けソ

 ーピンという煎餅のような物を焼いていた。また饅頭も売っていて、これらは二種類あ

 って中に何も入ってないのと、豚の脂片を入れてある物があり貧しい人たちは主食とし

 て食っている。



  中隊付き朝鮮人通訳が街中に居住しており方々に立ち寄り情報を集めている。この通

 訳は現地人の間では相当の権力を持っている顔役らしい。



  中隊に電話室があり夜間は電話当番が付いて、連隊本部をはじめ直巷陣地や鍋底山と

 常に情報連絡をとり、時には他の中隊とも連絡をする事がある。磨盤山方面の陣地(十

 一号橋でなかったか)を撤収のためトラックで出動した時、帰途トラックの車輪取付ボ

 ートが折損し運転不能に陥り、仕方なく敵襲を警戒しつつ全員で数粁の行程を車を押し

 て帰った事があった。積雪の時は雉の足跡をよく見かける。雉は両足が直線状に歩くの

 で直ぐにそれとわかり、トラックを止めて小銃で撃とうとするがエンジンが動いている

 と、その振動で中々当たらないためエンジンを止めるが、何時もの事で雉もよく心得て

 しまい直ぐに飛び去ってしまう。それでも時々古兵は雉を獲ってきて炊事場で材料を貰

 いすき焼きをしていた。



 
 031
直巷陣地警備

  我等初年兵も分屯に勤務する事になり、近く内地帰還する予定の四年兵と交替で直巷

 陣地に勤務を命じられた。同年兵でも世古吾一君は陸軍糧秣廠に勤めていた関係もあり

 適役として連隊本部糧秣庫勤務となり、長谷川武雄君(ビルマのモール飛行場の戦闘で

 戦死)は商業学校を卒業しているので経理室詰めとなった。



  直巷陣地警備隊長は矢島辰之輔少尉である。陣地は周囲が全部塹壕となっており、数

 ヶ所の要地は掩蓋銃座を備えた壕内居住室で一ヶ所に五、六名が警備居住をしている。

 外周は鉄条網が十数米の奥行きで張り巡らされ、空缶等を数個宛所々に吊るして鳴子代

 りにしている。手動発電探照灯(敵押収品)があり時々方々を照射し監視するが、敵の

 狙撃目標になるから充分注意するよう古兵から教えられた。



  陣地の中央に兵舎と炊事場があり、また野砲の砲座もあったが数日して野砲隊と機

 関銃小隊は引き上げてしまい、我等一小隊のみの警備となり、後には日露戦争で鹵獲

 した旧式砲が一門残してあり早速取扱いの練習をしたが、古兵の話しではこの砲はあ

 まり撃った事もなく前に試射した事があったが、とんでもない所へ飛んでいってしま

 い使い物にならない頼りの無い砲だとの事である。南側中央には鹵獲品の水冷式重機

 関銃があり、弾薬一箱と冷却用の水を一升瓶に入れて傍に置いてある。始めての兵器

 なので早速取扱いの練習をしたが、この重機は弾薬の補充さえつけば相当な威力があ

 るだろうが、一箱の弾薬だけでは瞬時の内に撃ち尽くしてしまう。この陣地では誰も

 が、どの兵器でも使用できるように常に取り扱いの訓練をしていた。



  夜間は遠く近くの民家で飼い犬が吼え続けている。この陣地に来て直ぐの頃、東側

 の歩哨に始めて勤務した時の事で、近くの集落で大きな爆発音がたて続けにあって驚

 き敵襲かと思い、衛兵所に通じる報知器(缶詰空缶を数個吊るして紐を引くと異状を

 知らすようにしてある)で知らせた。その音で松本二年兵が様子を見に来て「何かあ

 ったのか」と聞くので、現況を報告したところ「あれは支那の爆竹で毎日のように鳴

 っているのだ」と教えられた。南側の動哨勤務の時に夜明け近く三十分程過ぎた頃、

 疲れていたので少し腰を下ろしたところついウトウトと眠ってしまい交代の中野二年

 兵の足音で眼がさめ、ハッとし素早く立ち上がったが既に遅く眠っていたのを見られ

 てしまった。中野二年兵は何も言わず歩哨を交替したが勤務が終わってから入浴をし

 ていたところ、後から中野二年兵が入ってきて「俺はみな知っているのだ、それなの

 に礼の一つも言わないのか」と大分ネチネチと責められた。



  いつの日であったか遠くで砲声がしていて、矢島辰之輔隊長は割合と用心深いという

 か小心というのか、早くも軍装を完備し長靴を履いて隊長室の入口で寝転んでいた。直

 巷陣地勤務になり数日後に突然四年兵が交替にやって来た。中隊本部に帰ると近く作戦

 出動があるためであり、四年兵の内地帰還も延びたそうである。三月二十七日に三月分

 俸給八円八十銭を支給された。



 
 032
 浙東作戦

  第十五歩兵団長赤鹿理少将(赤鹿支隊)の編成でわが五十一連隊第二大隊(大岩隊)

 と第一大隊(阿部隊)が出動した。作戦編成では第一小隊長矢島辰之輔少尉、第一分隊

 長小林利一郎軍曹で自分はその軽機関銃手で弾薬手は中井一等兵である。第二大隊長は

 野田中佐に代わり大岩三雄少佐が就任して部隊は金壇に集結の上、昭和十六年四月十二

 日丹陽駅から汽車で出発した。貨車はやはり軍馬を輸送した後なのか馬糞が至るところ

 に転がっていて、その中に詰められるため臭くて我慢が出来ず貨車の戸を少し空けて空

 気を入れ替えた。上海を経由して杭州に到着し直ちに行軍で富陽に進み夜は民家に宿営

 した。四月十六日銭塘江北岸に集結し敵前渡河の時を待つ事になり、軍靴は背負い袋に

 結び付け地下足袋に履き替え河渕の家屋の蔭に体を休めて出撃の準備を完了した。


  時々敵陣地からはチェッコ機銃の威嚇射撃をしてくる。友軍の機動野砲隊がトラック

 でゴムタイヤの機動野砲を索引して、何輛も勢い良く走り去り援護射撃の準備を急いで

 いる。敵は対岸の動静を見て既に攻撃が始まるのを察知している模様であり、夕刻が近

 くなり工兵隊が大発艇を回航して来たが敵はそれを目標に単発射撃をしてくる。大発艇

 は岸辺の遮蔽地に着岸し愈愈歩兵の乗船が始まり、各自は小銃に着剣をし自分は軽機関

 銃射手だから艇の一番前に乗り込んだ。大発艇には軽機関銃の脚を取り付ける銃座が造

 ってあり、銃をそれにすえ付けてネジで締め付け固定し、これで何時でも射撃が出来る

 準備を完了した。


  大発艇のエンジンの音が一段と大きくなり愈愈出撃である。友軍の野砲や重機関銃の

 援護射撃が始まり、その発射音が入り混じり周りは物凄い音に包まれる中、工兵隊の運

 転で舟艇は銭塘江の流れの中を対岸に向かって出発した。友軍の砲弾が空気を切り裂き

 我等の頭上をキューンと飛んで行き、重機関銃も連続射撃で敵陣を撃ちまくる。敵陣地

 が爆煙に包まれる中敵も益々激しく撃ち返してきて銃弾が頭上を飛んで行き、我等は舟

 艇の舷に身を低くして遮蔽し弾丸を除けているだけである。


  河の中ほどを過ぎた頃舟艇のエンジンに故障が起きたらしく、急に音が変になり速

 力が落ちてきた。自分は舟艇の?に取り付けてある軽機の脚のネジをゆるめて、何時で

 も外せるように非常時の用意をしておいた。どうしたのかと思っているうちに舟艇は

 停止してしまい、河の流れに沿って流されて中洲の浅瀬にガリガリと船底がつかえて

 しまった。全員が河に入り舟艇を手で押して進んだが、完全武装でその上着剣をした

 小銃を持っての行動で自由に動くことが出来ないでいると、その内段々と河底が深く

 なってきた。自分は子供の頃から舟には馴れていたので、これはあぶないと思い素早

 く船尾に回り軽機関銃を船内に放り込み一番に船上に這い上がった。そうしているう

 ちに水深が深くなり、全員が慌てて乗船しようとするが河底に足がつかなくなり、重

 い装具をつけているため舷からは中々乗れなく古兵、新兵を問わず「揚げてくれ」「

 助けてくれ」と舷側にしがみつき乍叫び、敵弾と友軍弾が頭上を飛び交う中で大騒動

 となった。自分は工兵と一緒になって一生懸命一人ずつ引き上げ乗船した兵もまた次

 々と引き揚げていったが、なにしろ夜のことであり着剣した小銃が入り乱れて危険こ

 の上なくて大変である。エンジンは焼けてその上へ登ると、地下足袋がジュウジュウ

 と音がして底が熱くなる。それでも漸く全員が乗船でき、その後どんな運航をしたの

 か覚えはないが敵陣地の前だから事前の地形観測も充分出来てなかったようで、また

 工兵隊との時間の打ち合わせの違いもあったらしい。


  すぐ下流の方でも事故があったのか、やかましくなり「助けてくれ」と言う声が聞こ

 えていた。六中隊も同じように中洲に乗り上げ下船をして深みに足を取られたらしく、

 純真な初年兵が常々教えられたとおり兵器を大切にし小銃をしっかりと抱いて河底で死

 んでいたとの事で、六中隊は作戦開始早々数名の犠牲者を出してしまった。あの時自分

 が素早く乗船して工兵とともに引き揚げにかかったから良かったものの、そうでなかっ

 たならば我が隊も相当な犠牲が出ていた事だろう。


  対岸に上陸と同時に索敵しつつ、地下足袋を軍靴に履き替える余裕もなく前面の山へ

 進撃を開始した。軽機関銃を持って山へ登って行くが既に夜中となり分隊長の命令も伝

 わらず唯、山へ向かって駆け上るのであるが軽機の交替者の中村一等兵も見当たらず、

 疲労は一段と重なり苦しくなってくる。暗闇の中、敵のチェッコ機銃弾は側方から光の

 スジを引き乍しきりと飛んでくる。山の中腹まできたが疲れるばかりで、もうどうにで

 もなれ弾丸も当らば当たれと居直って、岩場にドンと腰を下ろし一息と思う瞬間ピュー

 ンと頭上に敵弾が流れ、やはり命はほしく首がすくむ。これはいかんと元気を取り戻し

 てまた駆け上り戦というのは頂上を占領した方が勝戦であるから、漸くして頂上に着き

 疲労の余り岩場に腰を下ろすと何か座り心地がグニャッとするので見ると、それは岩場

 ではなく敵の戦死体で驚き慌てて場所を替えて休んだ。隣では八月補充の古兵が「こい

 つらのためこんなえらい目に合うんだ」と言って、転がっている敵の死体を蹴とばして

 いた。敵は夜が明けるまでに退却し我が軍は山を越え次の山へと進撃を続け、下り道と

 なったのは夜明け方だった。ここで漸く地下足袋を背負い袋に結び付け軍靴と履き替え

 た。軽機の交替者の中村一等兵も見つかり安堵をしたが、次の山への進撃中に自分の身

 体が変調をきたし非常に具合が悪くなり行軍も耐え難くなって来た。今度は軽機の交替

 も自分が遅れ勝ちになってきて、中村一等兵に持ってもらう事が多くなった。歩くのも

 やっとと云うくらいであり、後でわかったが既にこの時マラリヤに罹っていて、この病

 気との運命の出会いで繰り返し発病し、終戦までの長い付き合いとなり生きて故国に帰

 れた因ともなったとも云える。



  何時の日か田園の畔で小休止をしていると一中隊が通りすぎて行き、同郷の岡野弥比

 知
君(浜島町追子地区)が「えらいえらい」と言い乍、挨拶もそこそこに走り去って行

 ったが、それから数日も経たない四月二十一日に無念にも戦死をされたと後で一中隊の

 兵に教えられた。一つの山を占領し頂上に達し周りを見廻すと、そこには廓があり中を

 覗いて見ると既に住民は逃げてしまった後で、炊事場の甕にすえた鍋があり料理の最中

 に逃げた模様で、底で湯を沸かし鍋の内側に数個の団子を押し付けて蒸し焼きにしてあ

 った。私は始めて見た物で毒でも入っていないかと思い、古兵に知らせると彼らは「こ

 れは良い物があるぞ」と言ってわれ先にと全部食ってしまい、最初に見つけた自分には
 一個も廻ってこなかった。こんな事なら誰にも知らさずに先に食ってしまえばよかった

 と後で悔んだ。初年兵の自分等にはわからない事ばかりで日時や場所等もまったくわか

 らなく、特別な事だけが朧げに記憶がある。


  どこの攻撃であったか土手に遮蔽をして分隊長を先頭に待機をしていた時、夜中に流

 れ弾が不意に飛んできて不運にも近くにいた初年兵(氏名は記憶がない)に命中し、彼

 は「ううーん」と言ったのみで即死であった。まことにあっけないもので我が中隊始め

 ての戦死者である。英霊は二人の苦力に担送させ行軍し、途中の部落で宿営することに

 なり大きな家に入った。外は大雨であるため堀内小隊長が「仏様はどこにあるのか」と

 英霊の所在を案じたところ、苦力が軒下に放置したままだったので小隊長は大変怒り苦

 力を叱りつけていた。



  攻撃行軍中、大隊長が兵用地図を見ながら「連山鞍部に竹林があるはずだがあるか」

 と聞いていたが、前方を偵察していた某将校が「あるある竹が十本ほどある」と報告を

 した。平時からこんな他国の山奥迄も密偵が調べていたのかと感心した。



  部隊は諸曁に入った。停車場前の広場に岩塩の大きな山積みが三ヶ所もあり、民家に

 宿営をしたが大雨のため岩塩が解けて一面塩水が流れ、炊爨の水が無く大変困り真水の

 井戸を捜して遠く迄水汲みに行った。宿営中に私は携帯口糧の乾パンに混ざっている金

 平糖を袋から取りだし内緒に食っていたところ、三年兵の黒沢一等兵に見つけられ「な

 んだそんなにひもじいか」と言って叱られたが、その場限りで内密にしてくれた。自分

 はマラリヤのためか次第に身体が衰弱したため戦闘部隊から外され苦力監視に廻わされ

 た。二年兵の中村政次朗一等兵(ビルマで戦死)が主となり病弱の初年兵二名とで、五

 中隊所属の中国人苦力約百人程を監視して行軍を続けた。


  付近の山には友軍が配置されていたが、相当有力な敵部隊に包囲されているとの噂

 があり、地名や情況は我等初年兵にはまったくわからないが、苦力隊は盆地に入り夜

 になり行軍を停止し、白壁の大きな家の軒先で苦力と共に小休止をしていたが、連日

 の疲れと体調不良から自分でも注意をしていたつもりだったが、私は、ついウトウト

 と眠ってしまい「ハッ」と目覚め立ちあがり周りを見廻したが、付近には誰も居なく

 「しまった」眠ってしまい置いてきぼりになったのだと気がつき全身からすーと血が

 引く想いで、早く部隊を捜さなければならないと、昼間ここへ来た時の記憶を思い起

 こし隊の進んだ道路の方向を考えて、体調の悪いのも忘れ走り出したが何しろ慌てて

 いたため、方向を間違えアッと云う間にクリークに飛び込んでしまい、なんとか背負

 い袋の浮力で浮いていた。必死にもがき乍岸に這い上がり身体中ずぶ濡れのまま別の

 方向へまた走ったが、そのうち突然道が無くなってしまい山中へ入り込んでしまった。

 辺りは真っ暗闇で情況がさっぱりわからず気は焦るばかりで、あちこち駆けずり廻っ

 ているうちに、やっと谷間に沿って道があるのを遠目に見つけ「道だ南側が道だ」と

 判断して、夢中で麓へ駆け下りたところ足に何かがひっかかった。よく見るとそれは

 電話線であり「しめたこの電話線をたどって行けば友軍に会える」と思い電線を頼り

 に引っ張りながら進んでいったが、しばらくするとカラカラと音がして土手の上から

 電話機が転がり落ちて来るではないか「なんだこれは」と、よく見るとこの電話機は

 敵が退却の時に捨てていった物のようである。身体中の力がどーと抜けてしまい、今

 まで何をしていたのだとがっくりであるが、このままでは駄目だと思い直し、また慌

 ててもと来た方向へ戻ったが、足元が不意に断崖となっていて足をすべらせ十メート

 ル程も転げ落ちてしまった。気が動転していて何も解らない状態であったが幸いにも

 身体に怪我をした様子もなく(後で気が付いたのだが、今迄身体に付けていた成田不

 動山の守り札が真っ二つに割れたのはこの時だと思う)このままでは何時敵と遭遇す

 るかわからないので、最後の時はと覚悟を決め手榴弾の安全栓をすぐに抜けるよう準

 備をし何時でも自爆できるように備えた。山中の静寂の中で自分の吐く息だけが大き

 く聞こえ、一人だけの寂しさとそれに恐怖が募り、カッコーカッコーと鳴く鳥の声が

 自分にはなんとも哀れに聞こえ、カッコーと鳴いているのにその鳥の名前が思い出せ

 ない。全身がずぶ濡れになっていることなどすっかり忘れ、ただ道を捜すのに一生懸

 命である。あちこちさまよい乍数刻過ぎ疲れが募りもう駄目だと思った時、ふと耳を

 すますと何か囁くような小さな声が前方の草叢の方向から聞こえてきた。友軍か敵か

 どうにも判別がつかないので、そっと近く迄しのび寄って行き覚悟をきめ、手榴弾を

 握りしめ思い切って「日本軍か」と声をかけたところ「おおっ」と言う返って来た返

 事で、瞬間目の前がパーと明るくなった思いで、これで生き延びられたと胸を撫で下

 ろし地獄に仏で一安心し、地面に座り込んでしまいそうな自分を必死にこらえた。

 彼らは他の中隊の兵で小休止をしているところとの事で「どうしたのだ」と聞かれた

 が、まさか眠ってしまい置いてきぼりに会ったとは言えず「クリークに落ちて上った

 が道がわからなくなった」と答えると、古兵達は心得たもので「どうせ眠ってしまっ

 たのだろう何中隊か」と聞かれ「五中隊だ」と答えると「五中隊ならもっと先にいる

 から早く行け」と言って教えてくれた。礼もそこそこに急ぎ先へ先へと進み、追いか

 けて行くうちに全部隊が行動を開始したらしく周りが騒々しくなり、まだ苦力隊の所

 在もわからず五中隊を目標に探して進んだ。どこの攻撃だったかわからないが、戦闘

 部隊は悪路を進み峻険を攀登り云うに云われない苦労をしている。重機関銃や歩兵砲

 は分解して兵はその銃身や砲身、銃架や砲架を背中に担ぎ搬送をして、道も無い山や

 断崖の急勾配を足元を確かめつつ、木の枝や草の根元を捉えつつ一歩一歩と登って行

 く。涙の出る程いたましい姿であるが、それと同様に自分の姿は実に哀れなものであ

 る。漸く山上に着いたところ五中隊の矢島小隊が整列して出発しようとしていた。や

 っと本隊を見つけ私は先程来の行動や恐怖から気持ちが茫然としていたが、つかつか

 と小林分隊の列に入っていった。小林利一郎分隊長が目敏く自分を見付け「お前は苦

 力監視じゃないか中村が捜しているぞ早く行李へ行け」と言われ、苦力隊は後方との

 事でまた引き返して苦力隊を捜した。ようやく苦力隊を見つけ駆け寄ると、中村二年

 兵が自分を見るなり「どこへ行ってたのだ」と言って叱りつけられた。まさか眠って

 しまったとも言えず崖から落ちたとか、クリークに嵌まって遅れたと苦しい言い訳を

 した。苦力達も連日の行軍で大変疲れており、既に硬直している英霊を担送している

 苦力も大変な苦労であり、ややもすると放棄せんとするのを励ましたり怒ったりして

 元気付けた。



  ある部落に入って宿営する事になったが眠るでもなく、炊爨をして明日の準備をす

 るだけである。敵の攻勢は相当激しく、これ以上英霊を担送するのは困難との判断に

 なり、衛生兵が英霊の手首を切断して荼毘に付し遺体は土葬にした。



  小休止の際に飯盒炊爨をし豚の脂肪を火で溶かし乾パンを粉にして、トンカツを揚

 げることを中村二年兵から教えられた。苦力隊も糧秣は自給徴発をするため村内を隈

 なく捜すが、若い住民は皆逃げてしまい残っているのは老人と子供だけである。ある

 古兵は気性の荒い人で子供の中から十二歳くらいの姑娘を見つけて捕まえ、空家へ引

 きずって行き無理やり着ている物を剥ぎ取り、なんと強姦してしまい「こいつを生か

 しておいては後々の為に良くない」と恐怖に慄き泣きじゃくる姑娘の胸を、うむを言

 わさず銃剣で一突きに刺し殺してしまった。ところがそこへ孫の身を案じたのか姑娘

 の祖父らしい老人が出てきたので、その古兵は「こいつも生かしておいては後の為に

 悪い」と言って、その老人も容赦無く刺し殺してしまった。それも自分の剣では汚れ

 るからと「剣を貸せ」と初年兵の剣を使い刺殺した。我等初年兵は酷いことをするも

 のだと驚き呆れ、茫然とその場に立ちすくんでいたが古兵に向かって何も言えなかっ

 た。この古兵はインパール作戦で戦死している。



  私は身体も大分良くなったので小隊に復帰し、今度は小林分隊の小銃手として行動

 した。ある夜、山の斜面で小休止をし待機している時に小林分隊長は面白い話をする

 人で、子供の頃の猥談等をして分隊の兵を笑わせていた。そうこうしているうちに行

 動開始となり行軍中、矢島小隊長が何か小林分隊長に強く注意していたが、小林分隊

 長は「何を言っとるか小隊長は恐ろしいばかりで一番に逃げるではないか」と小声で

 言ったのを、小隊長が聞いてしまい「上官を侮辱するのか」と言って小林軍曹を殴っ

 た。その山上で矢島小隊を後備として頂上に残して中隊は下山する事になり、その時、

 松村中隊長は「下から合図をするからその後下山せよ」と命令して降りて行ったが、

 小心の矢島少尉は恐ろしいのかソワソワして気が気ではない。中隊長が未だ下の集落

 に到着しないうちに「合図があった、ああ合図があったあった」と、一人納得して小

 隊全員に下山を命じて下りてしまった。中隊長は「あれ程言っておいたのに合図をせ

 ぬうちに下りてくる奴があるか」と、叱っていたが小隊長はそんな小言を平気で聞き
 流していた。



  行軍中、前方に数名の斥候らしき敵兵が現われ「それっ」と言って皆が競って小銃で

 狙い撃ちをしたが、重い装具を付けて行軍中の時でもあり中々命中しないもので取り逃

 がしてしまった。作戦中大隊の対空班は常に対空標識を持って友軍機に連絡を取ってい

 るが、谷間で大休止となり夕食の炊爨をしている時、不意に友軍機が低空に舞い降りて

 我部隊に機銃掃射を始めた。現地人苦力が多くいるため敵軍団と間違ったのだろうか、

 突然のことで周りに弾着の土煙りが上がり友軍は大混乱となり、大慌てで遮蔽すると共

 に堀内小隊長は「早く日の丸を振れ」と大声で叫び、兵は方々で日章旗を振り対空班も

 急いで対空連絡を取っている。友軍機はそれに気が付いたのか何も無かったかのように

 飛び去っていった。



  ある日行軍中また斥候なのか数名の中国兵が前方に現れたので、射撃をするとあわ

 てて逃げ出したため分隊全員で追跡を開始した。私が田園の中を必死で逃げる一人の

 敵兵に追い付いた時、後ろから古兵が「柴原銃剣で刺せ」と叫ぶ声が聞こえた。敵兵

 は慌てていたためか足を縺れさせて転び他の敵はそれに見向きもせず逃げて行き、私

 はこれこそ好機と銃剣で突きかかるが、転んだ時に銃を落とした敵兵は銃剣を突き出

 すごとに死にもの狂いで両手で払いのけようとする。このため腕や顔ばかり突いてし

 まい致命傷を与えられない。それに敵兵は支那軍特有の綿入れの分厚い軍服を着てい

 るため銃剣が中々突きささらず、そのうち敵兵の腕や顔が傷つき血で真っ赤に染まり

 死から逃れようと必死であり、その物凄い顔つきは今だに忘れることは出来ない。う

 しろからまた古兵が「しっかりやれ」と急き立て、どうも我等初年兵のお手並み拝見

 をしているようである。

 何回突いても直突き出来ないでいると、誰かが「一発撃ってやれ」と言ったので熕杆を

 引き弾丸を装填し小銃を構え、至近距離から眉間を目がけて躊躇なく引金を引いた。肩

 にかかる衝撃と共に一発で弾丸は敵兵の頭部を貫通しガクンと崩れ落ち、あっけなく死

 んでしまった。これまで遠くから敵陣に向かって銃を撃ったことはあるが、戦争とはい

 えついに目前で人を殺害してしまい、その興奮は暫く収まらなかった。戦闘が終わった

 後、銃剣に付いた敵兵の血を田園の水で洗らおうとしたが、その血糊の汚れは中々落ち

 ないのを始めて知らされた。



  作戦も終わりに近くなり帰路大きな河に着いたところ工兵隊が舟橋を造るので舟集め

 に苦労していたため、各隊も手分けをして方々で舟集めをするよう命令が来た。我等は

 前方のクリーク中洲に小舟が数隻繋留してあるのを見付け、取りに行く事になったが泳

 げる者でなければならない。隊員は泳げないのか、それとも泳げても名乗らないのか誰

 も申し出る者はない。私は浜育ちで泳げるのを皆知っている事もあり、私は私で今まで

 の弱兵の印象を挽回しようと思い申し出て衣類や兵器を戦友に預け、褌ひとつで河に飛

 び込み一気に対岸の中洲へ泳ぎ着き、舟を二隻繋いで曳き泳ぎ向う岸の工兵隊に引き渡

 した。わたしの行動を誰も誉めてくれる者はいなかったが、それでも戦友が装具等を持

 って迎えにはきてくれた。



  暫時待つうちに工兵隊は舟橋を完成して部隊は渡河を開始した。行軍を続けるうち

 に私は泳いで疲労が溜まったのか、マラリヤが再発したようで行軍に堪え難くなって

 きた。気を張り詰めてがんばったが、ついに道路脇に崩れる様に倒れてしまった。小

 林分隊長はこれは熱射病のためだと言って裸にされてクリークに全身を漬けられた。

 そこへ偶然工兵隊の将校が通り掛かり、その様子を見てこれまでの経緯を覚えていて

 くれたのか乗馬を貸してくれて乗るよう言ってくれた。しかし自分は生まれてこれま

 で馬に乗ったことなど全くなく、どうも億劫なのでためらっていたが折角の好意だと

 古兵にせかされて乗せてもらった。中隊とは別に工兵隊と共に行動したが裸のままで

 馬に乗せられたその様子は、まるで時代劇に出てくる罪人が死罪になるため市中引き

 回しにされているようで何とも情けない体であった。始めて乗った馬だが乗り心地は

 非常に良く、ややもすると睡魔が襲ってくるので眠ってしまって落馬でもしたらそれ

 こそ大変だと思い気を張って眠らぬように努めた。しかし乗馬の経験が無い悲しさで
 次第に鞍が傾いてきて乗りにくくなってきたのには困った。



  やがて友軍の警備隊の駐屯している街に到着し、そこの医務室で休養して我が中隊が

 到着するのを待つことにした。工兵隊は先に出発して行き、暫くして衛生兵が装具を持

 って迎えに来てくれた。その後部隊は粛山に到着して、そこで革製品を除きすべての装

 具を熱風消毒し、身体は消毒液の入った急造の風呂に漬けられ検疫を済ませた。その日

 は銭塘江に掛かる六亜橋を渡り抗州西岸の集落に宿営し、翌日有名な西湖の景色を眺め

 乍行軍をし、杭州駅から鉄道便で貨車に詰められ丹陽駅を経て金壇に帰隊した。五月二

 十二日に四月と五月分の俸給合わせて、十七円二十六銭を五中隊浦島富次曹長より支給

 された。



  薜埠鎮へ帰ると愈愈四年兵は内地帰還である。別れの言葉を互いに交わし小銃班長の

 羽田伍長が「俺は津の銀行に勤めているから君達も帰還する事が出来たら尋ねてくれ」

 と言っていたのを覚えている。入隊するまでは普通出征しても二年経過すれば一旦内地

 帰還すると聞いていたが、自分等の場合は未だ三年兵が残っている現状では何時になる

 やら見当もつかない。




父 柴原廣彌の遺稿へ

2011.10.14.