柴原廣彌の遺稿 07

 
 
033 連隊本部勤務

  昭和十六年六月初旬、自分と鈴木信彦一等兵(敗戦直後戦病死)が連隊本部勤務の命

 を受け、二人で金壇に行き連絡所の増田幸雄三年兵(ビルマ戦線で戦死)の指示と注意

 を受けた。初年兵が連隊本部へ行くと衛兵所でよく絞られるから気をつけるようにと注

 意を受け、出来れば横に細い路地があるからそちらを行くほうが良いと教えられた。ま

 ず大隊本部へ行き堀岡辰男曹長の指示を受けた後、連隊本部へ行き横にあるという細い

 路地を探したが、どうにもよく見つけられず仕方なく正門から二人で入って行ったとこ

 ろ、果たして衛兵所でコッテリ絞られ敬礼のやり直しを何回も繰り返しさせられた後、

 本部事務室へ行ったところ鈴木一等兵は伝令勤務で何も問題は無かったが、自分は五中

 隊から来ている暗号班の前場三七上等兵の交替要員であると言われ、自分は暗号教育な

 ど受けていないため帰隊させられる事になった。連絡所の増田上等兵から中隊本部へ連

 絡してもらい、命令が来るまで待つ事になったが同年兵の福井政久君も連絡所に来てい

 た。



  この時連絡所に郷里の自宅から手紙が届いていて六月九日に私の長男が出生したとの

 便りであった。(長男の名前について私は出征時、生まれてくる子供の名前を申し置い

 て来なかったため、の父である井上善六様の提案により一宏と名づけられたと書いて

 あった)



  連隊本部の炊事場の横に入浴場があり夕刻一人で入浴にいったところ鏡の前に腕時計

 が一個置いてあり、軍隊では衣類とか何か他人の物は手に入れば失敬するのが常識とな

 っているため、盗むという観念でもなく入浴場を出しなに当然のように手を伸ばし持っ

 てきてしまった。ところがこの時計は隣兵舎の将校のものであったらしく兵舎をあげて

 捜索を始めおおごとになった。自分はどうしたら良いやら困ってしまい隠したままにし

 ていると、入浴した者を順次調べ廻し遂に自分にまで周って来て、当然入浴時の事を根

 掘り葉掘り古兵が聞きに来た。始めに白状してしまえば良かったが、一度知らぬと言っ

 てしまったからもう取返しがつかない。しかし古兵は自分を目当てに的を絞ってしきり

 と聞きに来たが、自分も意地になりガンして知らぬ存ぜぬを徹して白状しなかったが、

 その夜仕方なく皆が寝静まったあと不寝番の隙を見て、隣兵舎に忍び込み入口の靴箱の

 上に時計を置いて急いで逃げ帰った。その後その将校に時計が渡ったかどうかは知らな

 いが捜索の騒ぎは収
った。もしこれが古兵が拾った時には絶対に出て来なかったであろ

 う。



  中隊本部へ帰ると山本准尉は転出し土屋慎一准尉が着任しており、意地悪そうな顔を

 して「金壇でウロウロしていないで早く帰ったらよいのに今迄何をしていたのだ」と叱

 られ、これで新任の准尉の印象は一発で悪くなった。六月二十二日、六月分俸給八円八

 十銭を五中隊浦島富次曹長より支給された。


  昭和十六年五月三日第五十一連隊第二代連隊長斎藤春麿大佐に代わり第三代連隊長と

 して、尾本喜三雄大佐が就任された。




 
 034
 金壇療養所入院

  中隊本部で警備の勤務につき七月になったある日急に腹痛を起こしたため、衛生兵に

 申し出て金壇医務室へ診察を受けに行くよう言われたが、案の定、事務室では土屋准尉

 に小言をもらった。後でわかったが自分のマラリヤは始めに腹痛が来ることが多いよう

 であり、谷口軍医の診断の結果やはり病名はマラリヤで七月四日野戦病院金壇療養所に

 入院した。金壇療養所の内科は南病棟で寝台ではなく普通兵舎の床である。また外科病

 棟は北側にあって、ここは鉄製寝台で治療に便利なようになっている。伝染病病棟は内

 科に続き手術室を隔てて東側にあり鉄条網を境にしてその外は民家である。夜になると

 現地人の中華そば屋がチャルメラを吹き乍車を引いて商売に来るので、伝染病患者でも

 内密に鉄条網をくぐって中華そばを買って食うのを見受けたが不衛生な事この上もなく

 驚いた。内科には津市出身の紀平正生軍医が治療をしていて、看護婦は日赤から五名来

 ているが婦長は相当の年齢と見受けた。衛生兵は皆四年兵の古兵ばかりで馴れた古参の

 衛生兵は小さい手術ならば軍医に代って行っているくらいである。



  マラリヤの治療にはバグノン注射と云うのをするのだが、この注射をすると体内血液

 の動きの関係とかで患者は大変な苦しみを味わい、大抵の者は悲鳴を上げて「助けてく

 れー」と叫んでしまうそうで、その治療が始まると室内の者は「そうら始まるぞ」と言

 って笑い出す。他の兵の叫びを聞いた後なので自分も注射をされる時、あんな情けない

 叫びは絶対にしないとがんばっていたが愈愈右腕にその注射を打たれて、未だ注射針が

 刺さっているうちに心臓の鼓動が急に激しくなり、まもなく身体中の血液が逆流したの

 ではないかと思うくらいに苦しくなり、どうにも我慢が出来なくなり記憶は無いが「助

 けてくれ」と大声で叫んだそうである。暫時のうちにその状態は収まるのだが戦友は皆

 大笑いしていた。注射のため右腕は張れ上がり痛くて暫くは自由が利かなくなり、敬礼

 も左手でするくらいであった。



  堀内曹長も何の病気かは解らないが手術室側の個室に入院していた。郷里の自宅から

 送られてくる小包は一週間くらいで到着し、入隊前はそれほど美味いと思っていなかっ

 たアズキ缶詰や羊羹が非常に美味く感じうれしかった。入院中は古兵と新兵の差別はあ

 まり無く心身共に休める事ができた。古兵で永く入院している者が退院を渋る時は、検

 温の時毛布で体温計を摩擦して温度を上げ、高熱の様に誤魔化して病院に居座るのであ

 る。



  連絡所の増田上等兵が俸給(七月分八円八十銭)とか手紙等を持って時々連絡に来て

 くれ、その時「君は胸膜炎だよ、もうすぐ内地送還だ」と言った。病院ではそんな病状

 を言われた事もなく、マラリヤ三日熱と診断されているので増田上等兵の言った話しが

 真実ならば、それはむしろ喜びたいくらいであるが、そんなことはないと思う反面そう

 であってくれれば内地送還になるがと変な気持ちである。古兵の話では今入院している

 と一選抜の上等兵進級はまず見込みはないと言われたが、それはもう入院したときに覚

 悟は出来ている。看護婦は日曜になると交替で外出をするので、その時に頼んで酒保品

 を買って来てもらうが、内科の患者は余り頼みを聞いてもらえない。そのため看護婦の

 機嫌を取るのに一生懸命である。一ヶ月余りの入院治療でマラリヤは全快し退院となり

 内地送還は夢と消えて、言った本人の増田上等兵がバツ悪げに衣類等を持って迎えに来

 てくれた。




 035
 薜埠鎮付近の警備

  薜埠鎮の中隊本部に帰ったところ中隊は討伐出動中で隊内は閑散としており、四年

 兵が内地帰還したあと三年兵のほとんどが分屯勤務で二年兵が威張っていた。辻次朗

 上等兵は名古屋市の呉服店で番頭をしていたとかで、自分にはどう気に入ったのか特

 に親切であった。しかし他の者には相当激しく当たったので初年兵達は皆恨んでいた。

 同年兵の福井政久君(大王町波切出身)と二人が昼間バス停の衛兵勤務で警
備につい

 ていた時の事で、昼食後自分は前の田園で働いている現地人農夫に残飯を進上してい

 たところを、バス停へ連絡に来ていた辻
上等兵と山出実上等兵に見られた。今迄古兵

 と勤務した時など控兵は時々付近を歩いていたので、その時はなんとも思ってなかっ

 たが勤務下番となり班内にいたところ、両上等兵から呼び出しがあり「貴様ら今日の

 勤務は何事か勤務中場所を離れるやつあるか」と言って、自分は山出上等兵に鬢太を

 数発やられた。福井君は辻上等兵に帯革の金具の部分で相当殴られ顔は紫色に張れ上

 がった。山出上等兵は内地にいた時は、どこかの通信社に勤めていたらしく、背の低

 い何となく嫌な感じの人であった。(両上等兵ともビルマで戦死をしている)また同

 年兵の里 美喜男君は陣地で二年兵の岸本与三郎上等兵にずいぶん殴られ片耳が聞こ

 えなくなってしまった。里君は「今度やられたらどんな罪を受けてもよいから、やり

 返してやるんだ」と言って相当恨んでいた。彼は郷里にいた時から三等機関士免状を

 持っていて、船員生活をしていた関係上そのあとに大隊本部勤務となって、ヤンマー

 船乗組員となったがビルマで戦死をしている。また岸本上等兵はこの後の浙贛作戦で

 戦死をした。八月二十二日に八月分の俸給八円八十銭の支給があった。




 
 036
 大隊本部医務室勤務

  自分は九月十八日他の勤務交替者と共に金壇に行き、大隊本部勤務医務室の竹内司郎

 軍医見習士官の伝令を命ぜられた。前任者川際英雄二年兵から勤務要領や拳銃、軍靴、

 軍刀等の手入れの要領を引き継いだ。大隊医務室は連隊医務室と合併しており、連隊の

 高級医官篠崎大尉と大隊の軍医坂巻良男中尉がいて竹内見習士官は最近着任したようで

 ある。事務室には連隊の小日向曹長と大隊の吉田長生曹長および佐々木三年兵がいる。

 同じ曹長でも小日向、吉田両曹長の間には格段の開きがあるようだ。炊事室には海老原

 三年兵が現地人苦力二人を使い、医務室勤務兵と入室患者の炊事を行っている。医務室

 では金壇在隊の第七、八中隊、二機関銃中隊と連隊直轄中隊、および野砲隊の衛生兵が

 詰めており、時に応じてその他中隊の衛生兵または代用衛生兵が勤めることが
ある。


  坂巻軍医の伝令は同年兵の岡村一等兵であったが森下一等兵に変わり、岡村一等兵は

 他部隊に転属したようである。自分等は医務室に居住し点呼や食事も医務室でする。軍

 医の食事は朝夕とも大隊本部で将校が揃って会食し、昼食は休日を除き金壇の将校全員

 が連隊本部で会食をする。大隊本部の炊事係は五中隊から来ている三年兵の小林富次一

 等兵である。大隊の将校食事は一般兵食の他に将校特別食を作るので、炊事係は大隊副

 官より規定の食料費の他に幾らかの中国幣を渡されているが、到底賄いきれず一般兵食

 を削って苦力を使い食材交換をして確保しなければならない。その苦労のため何時も小

 言ばかり言っており、その不平が将校伝令に廻ってくる。将校の食事は炊事係から受取

 り伝令が配膳をし将校の集合を待って個々に給仕をするが、その時は殆ど毎回晩酌をし

 ていて飲むのは日本酒ばかりである。


  食事が済むと食器洗いと整理をするが食器も一般兵と違い茶碗、湯呑、大皿、小皿

 等皆日本物である。自分等は全部終わってから医務室で食事をとるから大変遅れる。

 自分の当番担当は朝の将校用便所の掃除であり、前任者の引継ぎで掃除のため朝の点

 呼には出ない事が慣例になっている。そのあと大隊本部へ食事の用意に行き、他の将

 校が揃う直前に医務室へ戻り竹内軍医を起こし、洗面の用意をしてから再度急ぎ大隊

 食堂に戻り、将校食事の給仕をし食事が終わると食器洗い等を済ませ、その後の時間

 は常は割と暇がある。軍医居室の掃除、衣服の洗濯等雑務を済ませてから自分の兵器

 手入れをする。伝令は常に伝令用公用証を所持しているので、何時でも思う時街へ出

 て行くことが出来る。


  酒保で購入する軍医の煙草や日用品は記帳制になっており現金は使用しない。竹内

 軍医は酒は飲まないが煙草は大変好きなので「絶対切らさないでくれ」と常々言われ

 ており、特にマーシャルの確保に気をつかった。大隊本部伝令勤務で五中隊から来て

 いる暗号班の向原上等兵が、自分と岡村一等兵を伝令室に呼び出し「五中隊から来て

 いる当番兵は弛んでいる」と、何も理由を言わず鬢太を数発宛殴られ、その上ヤンマ

 ー船係の三年兵にも謝まらせに廻らされたことがあった。(向原氏は戦後の戦友会で

 も会った事があるが、そんな話しには触れようともしなかった。大分身体も悪くして

 いるようで毎年の戦友会にもあまり出席しない)



 
 037
 大隊副官の思い出

  将校会食の時、大隊副官S中尉が「柴原は料理店だから討伐になったら甘い食事が出

 来るだろう」と言った。古参中尉の食い気の卑猥さにはあきれ「自分は料理店ではあり

 ません」と答え、県の職員ですと口まで出かかったがぐっと堪えた。この事が気に入ら

 なかったのか、その後副官は身上調査票を見てきたらしく会食の時大隊長に耳打ちをす

 るように、しかも人に聞こえる声で自分の父が遊郭をしている事を笑い乍知らせている

 のが聞こえた。父の経営する遊郭が後々まで自分の軍隊生活に影響がつきまとい、それ

 から副官の自分を見る眼が違ってきて何かによらず強く当る様になった。この副官は人

 により依怙贔屓がひどく集団の長となる資格の無い者と思った。また二階廊下の手檑に

 置いてある副官所有の菊の植木が枯れた時、副官が言うには「一中隊長をしていたとき

 は皆良く気をつけていたので元気良く成長していたのに、枯れたのは当番が気を付けて

 いないからだ。貴様等世話をしたくないから煮え湯でもかけたのだろう」と、自分の将
 校伝令がいるのに私に向かって筋違いの文句を怒鳴った。



  朝の自分担当の将校便所掃除を将校が起きて来るまでにするので、点呼には出ず掃除

 にかかるのが慣例になっていた。ある日掃除中に副官が来て、知ってか知らずか「点呼

 を受けたか」と言った。自分は点呼を受けず掃除をするのは慣例で正式な規則でないた

 め、点呼は受けなくても良いことになっているとも言い難く「はい受けました」と嘘を

 言ってしまったが嘘はすぐばれて大変叱られ、それから先は大隊本部で必ず点呼を受け

 るように決められ、このため点呼時は医務室から走って本部へ行くことになった。副官

 は何につけても自分を見るのも嫌うようになり食事の時、給仕に行くと肘で跳ねて拒ん

 だりして、まるでだだをこねた子供のような態度をとるようになった。あまりに副官の

 当りがきついので思い余り、自分の上官である竹内軍医に事情を話したところ「一度話

 しておく」と言ってくれたが、竹内軍医も迷惑だっただろうと思う。しかしその後も副

 官の態度が変わる事はなかった。



  その後副官は他部隊に転属となり、その日自分と同年兵の伊藤上等兵(ビルマで戦

 死)が荷物を棒で担いで街を歩いていたところ副官に出合い、彼は私に之見よがしに

 「伊藤よ俺は転属するが元気でやれよ」と、猫撫で声で伊藤上等兵の肩を叩いて別れ

 を告げ立ち去った。軍隊生活中で一番嫌な思い出である。(このS副官は生還し、戦

 後に五一連隊生還者により結成された五一会の会報に何度も立派な文章を仰々しく投

 稿している)




 
 038
 衛生兵麻雀荘襲い

  医務室勤務になって未だ日も浅い頃に次のような事があった。仮に名をNとしてお

 くが三年兵か四年兵くらいの他部隊から来ている上等兵がいて、彼は私が軍医の伝令

 であり公用証を常に持っているのを知っていて、ある日、今夜付いて来いといわれ初

 年兵の自分には何もわからないが、余り良いことではなさそうだったが断る事も出来

 ずそれに従った。その夜N上等兵はどこで用意したのか支那服を着込み金壇の華街付

 近に行き、自分を外に待たせておき麻雀荘に入り賭博取り締まりを装い、牌を押収し

 て出てきて自分にそれを持たせ更に次の麻雀荘へ行き同じように二、三ヶ所を襲って、

 その都度自分は牌を受取り最後にその上等兵に手渡した。自分は始めての事でもあり

 何をしているのかさっぱりわからず、後でその経緯を炊事の古兵に話して聞いたとこ

 ろによると、その牌を炊事苦力が仲介をして銭を取ってから返すのだそうで、それを

 聞いて自分はえらい事に関わってしまったと毎日ビクビクしていた。その礼としてN

 上等兵からは外出の時、おじさん食堂で焼きそば一皿を御馳走になっただけであり割

 に合わない手伝いをさせられたものである。後になりこの事実が表ざたになったがN

 上等兵と同年兵の幹候中尉が大隊本部にいたので、どうやら揉み消してもらったと聞

 いた。そのためか自分に対する咎めもなく、このように無茶を平気でする上官がたく

 さんいて兵を困らせていた。


  金壇にはおじさん食堂という名の食堂があり、二人の姑娘が働いていて初年兵が外出

 時の飲食の溜まり場となる店であった。その近くには慰安所があり通称日の丸は日本人

 と現地人の店で、その他朝鮮人や現地人のみの店をピー屋と称した。また華街には劇場

 があって時々演芸等が催された。その付近には将校専用の迎賓館があり現地人の写真店

 も一軒あった。この街には火力発電所があり軍施設にはすべて送電していて、また街の

 要人や富豪者にも特に配線をしていた。金壇の街ではクリークを挟んで雑貨店や食料品

 店が多くあり赤紙を貼り値段を表示し、道路の所々には理髪屋や歯治療屋が出張ってお

 り、壁に當(あたり)と表示してある店は質屋である。またある店の二階では弓の弦の

 ような物でピンピンと音を立て古綿の打ち直しをしていた。煙草屋では煙草葉を厚く重

 ね鉋で削って刻煙草を造っていて、巻煙草は一本宛でも売っており小輩も喫煙をしてい

 る。魚屋に並んでいるのは殆どが淡水魚であり黒色のと茶色の鰻が眼に付いた。クリー

 クは重要な交通路であり、中国ではどこまでもどんな山奥迄でも連絡がついており、商

 品は船便で運搬しクリークから直接商家の倉庫に入る様になっている。クリークに懸か

 る橋もほとんど舟が通れるように脚無しで高い石積み橋となっている。また住民は良民

 証という厚紙の身分証明証を首から下げている。中支に来て知ったが内地の手提げ電灯

 はきまって角型で自転車に付けたりしていたが、こちらでは丸型で乾電池を数本も入れ

 た極、明るく照らす電灯が殆どで、これらは日本製の輸入品が多くを占め討伐で敵性区

 に行くと便利なので、この電灯を特に捜して徴発してきたものである。




 
 039
 粛正討伐

  いざ出動となると将校当番は衣類の替えや糧秣等を将校の分まで合わせて二人分持

 ち、その上将校飯盒まで持たなければならず中々体力が必要である。竹内軍医は職業

 上特に清潔と云うか潔癖な人で、衛生には十分過ぎるほど注意していて生物は絶対に

 食わず、出動中当番兵は食事に大変気をつかった。粛正討伐で長蕩湖西南方面へ出動

 した時は敵に会うこともなく某部落に宿営し、このとき炊爨は大隊本部の炊事係がし

 た。炊事は後の休憩時間を少しでも多く取れるように、中国鍋で手早く行い何事も急

 いで要領良くする。中国では竈に鍋を固定して据え付けてあり炊事係は飯を炊きその

 後鍋を急いで洗い、すぐ翌日水筒へ入れるための湯を沸かすが据え付け鍋のため急い

 でいると、あまりきれいに洗えないので鍋の残り物が紛れてしまうのである。翌日行

 軍中小休止となり竹内軍医が水筒の湯を飲もうとした時、中に白い粉が浮いていたの

 で、直ぐ自分に「之はなんだ何か汚い物が浮いている」と言って湯を捨ててしまった。

 自分は「討伐の時は炊事係が急炊事をするため飯を炊いた後に、同じ鍋ですぐ湯を沸

 かすので飯の粉が付いたのです」と説明したが、出動に馴れていない竹内軍医は納得

 がいかないようで、遂に水筒の湯は飲まずにすませた。大隊本部の三年兵のしている

 炊事に苦情を持って行くわけにもいかず、この時は当番兵として板挟みで大変困った。

 出動の時は大隊長、大隊副官、大隊付き将校と同じく軍医も乗馬であるため当番兵の

 他に馬取り兵が一人付く事になっている。




 
 040
 函山陣地巡回診療

  第七中隊が駐留している函山は金壇より南方に遠く長蕩湖を過ぎ、敵軍の基地漂陽に

 近い山岳にある。巡回診療のため竹内軍医が出張するので同行し、金壇の南水門から大

 隊のヤンマー船に乗って出掛けクリークを通ればすぐ長蕩湖で、ここは海と変わらない

 くらい大きな湖であるが、水深は二米くらいで浅く水路を航行して行く。湖は一面に水

 草が繁茂していて途中六中隊が駐留している下新河を経て行くが、この時は我々を護衛

 の兵がクリークの両岸に分かれて水路付近の警戒をし乍徒歩警備をするため、船に乗っ

 ている者は良いが護衛兵は中々大変である。橋の下を通過する時は部落の小輩等が集ま

 って来て橋上より軍に愛嬌を振り撒いているが、こんな時は便衣隊が混じっている事が

 あるので警備は特に気を付けねばならない。七中隊に到着すると遠来の軍医を招待し将

 校会食があり、また新しく兵科見習士官も着任していて大変なにぎわいである。伝令の

 私は何もすることがなく、通信中隊から派遣されている無線班の岡沢一等兵と懇意にな

 り卓球をしたりして過した。彼は伊勢市の豆腐店の子息で自身は鳥羽の神鋼電機に勤め

 ていたそうである。

  山岳の各陣地ではマラリヤ等で闘病している兵がいるので、軍医は徒歩で廻り患者を

 診察し投薬をし、自分は軍医の鞄を持って同行し投薬の手伝いをした。中隊の営外には

 現地人慰安婦がいるので、軍医は彼女等の検診も兼ねて診療を行っている。七中隊には

 同郷の柴原喜多男軍曹(ビルマで戦病死)と柴原義廣上等兵(生還)がいて、この陣地

 は度々敵襲があり連隊の中でも特に危険な所である。軍医の診察が終わるとヤンマー船

 便で同じ航路を一日がかりで帰隊した。



  竹内軍医はたいへんな読書家で、たくさんの書籍が居室の書棚に並んでいた。また書

 棚の下には慰問の品々がたくさんあり、羊羹や缶詰等食品が積まれていたが一向に食べ

 る様ではなく、何時迄置いたままにしておくのかと少々気にかかった。



  軍医から研究のために使うから野犬を一匹連れて来るよう言われたが、常々兵隊か

 らいたずらをされている野犬は兵を見るとすぐ逃げるので、中々捕まえられず酒保で

 饅頭を買い、それを餌に犬にやっても自分が近づくとすぐ逃げてしまう。色々と考え

 あぐねた末、医務室で飼育している子犬を囮にして餌をやり、寄ってきた野犬なのか

 飼い犬なのかわからないが、やっと一匹捕まえ縄をかけて連れて行こうとしたが、犬

 はいやがり中々思うように歩いてくれない。これを見ていた現地人は何が面白いのか

 手をたたき声を立てて笑っていた。犬取りだけで終わった訳でなく日曜は休日で衛生

 兵は居ないので、私が手伝いをし四角な支那机に犬の手足を針金で縛り付け、動かぬ

 様にして頭の毛を剃り頭蓋骨を割って、何か脳の手術らしい事をしたが無論犬は麻酔

 をしてある。手術後傷口は縫合して犬はそのままにしておき、軍医は「この犬は傷が

 治ってもばかになってしまう」と言っていた。翌朝早く見に行くと、どうやって針金

 を抜けたのか犬は逃げてしまっていなく、どんな研究をしたのか私にはわからないが

 周りは何か大変くさい臭いがしていた。竹内軍医は「もし内地帰還する事になったら

 良く新聞に気を付けてくれ、医学界で発表することがあるから」と言っていたので、

 脳の研究をしていたと思われ
る。


  昭和十六年末も近くなり七中隊の柴原喜多男軍曹が初年兵受領のため、内地に帰るか

 ら一度会いに来いと伝言があった。七中隊の連絡所は医務室の傍なので、その夜尋ね色

 々と話をし私は今迄保管していた恩賜煙草一個を自宅に届けてくれるよう依頼をした。


  大隊本部の一階に無線班の部屋があり、そこにいた古兵が「君は五中隊か名は何とい

 うのか」と聞いてきた。そのあと俺も五中隊の者だと言って、どうやら挨拶に来ないの

 が不満の様であった。この人は十四年末入隊した現役の福山健治一等兵であったが、ビ

 ルマ戦の時モチ鉱山で私と一緒にケマピュー野戦病院への入院や、食事のこと等かかわ

 りがあったが何処まで引き返したか判らない。(後の五一会報によると昭和二十年八月

 二十一日病死となっている)



  私は腕時計が故障し金檀の現地人時計店で修理をしたが、当座は良く動いていたが

 何時の間にかまた駄目になってしまった。古兵の話では支那人は手が器用なので、時

 計の石を抜いてしまって知らぬ顔をしていると聞いた。まさか隊の前の店でそんなこ

 とをと思ったが、実際駄目になってしまったから止むおえず以後自分は時計無しの生

 活となった。





 父 柴原廣彌の遺稿へ

2011.10.14.