042 大東亜戦争勃発
昭和十六年十二月八日、起床と同時に上海警備司令官が部隊本部に到着し、部隊全体
が異様な雰囲気の中で隊内将校は全員正装して出迎えた。英米との戦争が勃発し部隊本
部は戦闘指令所となったのである。上海市街での直轄部隊による直接戦闘はなかったが
交戦国設備、建物等の接収を出先の隊で迅速に行っているとの情況である。後で聞いた
ところでは開戦時に呉淞沖で、停泊していた英米の軍船との間に戦闘が少しあったが直
ぐに収まったようである。今まで武装しては通過出来なかった外国租界も、開戦と同時
に武装した軍用車の通行が頻繁となり、これ迄のような遠慮は無用になった。
英米との戦争が始まっても南京路の午前中の市場付近は、まるでお祭のような賑わい
で道路は立錐の余地の無いほどの人出で、我々戦時体制の車輛はその雑踏の中を問答無
用で突っ走り、中には車に跳ねられる現地人もあるが、そんなことはいちいち構ってい
られず無視する。この状況では敵施設の接収に行っている部隊は何をしているかわかっ
たものではない。疎開内の物資は欠乏してきているので疎開の出入り口を守っている警
備隊では物資の密輸を監視していて、押収物で兵は喜んでいるとの噂を聞いた。また着
膨れした中国婦人を捕らえて調べてみると、衣類の裏にたくさんポケットが作ってあり
煙草や酒類を隠し持っていたと云う。また電気の通じている鉄条網を二本の青竹で広げ
て、疎開内へ潜入しようとする者が後を絶たなかったそうである。夜間になると時々爆
発音があり鉄道破壊のゲリラが出没しているらしく、その都度直ちに討伐に出動してい
たが大した戦闘もなく割合と楽な警備である。上海警備隊では人員不足の都合で我々将
校伝令にも衛兵勤務が廻ってくるようになり、ある日表門歩哨に立哨していた時に友邦
ドイツの国旗を掲げた車が来たので、敬意を表して敬礼をしたところ彼等は大変喜んで
片腕を上げてナチスの答礼をして通過して行った。夜明け方になると十数名の現地人苦
力が、その日の職を求めるのか衛兵所前をぞろぞろと無言のまま通り過ぎて行った。
昭和十七年正月二日には、本部員一同揃って外出し上海神社に参拝し記念撮影をし
た。正月の祝に隊内で橋爪慶二郎君が雑煮を炊いたところ、彼は大阪市に永く居住し
ていた関係で味噌で味付けをした。ところが町田准尉が「これは何だ伊勢乞食等はこ
んな貧弱な雑煮しかよう作らないのか」と怒りだした。青木部隊長は三重県人であり
「それは関東と関西の違いだ。関西では味噌と野菜であっさり味付けするのだ」と説
明したので、町田准尉は「始めて聞いた」と小声で言いつつ部隊長が三重県出身であ
るのを思い出し、伊勢乞食などと言ってしまった手前心の中でさぞ冷や汗を掻いた事
だろう。
竹内軍医は少尉任官の時期も近くなっていて任官の発令があった場合は、自分に金壇
へ行って将校衣服を取って来て欲しいと言っていた。軍医でもやはり進級の事は気にな
るらしい。
部隊長室では洋式便所を使用していたが水圧が弱くて水洗に苦労をした。伝令は常
に便所を清潔にする事に気を配っていたが、将校の中には尻癖の悪いのが何人かいて
時々便器に汚物を付けて汚していくのがいて、青木部隊長はその都度「しょうのない
奴らだ」と怒っていた。
一月中旬になり駐出部隊に一部移動があって、軍医には第一大隊の行岡朗見習士官が
交替として赴任してきた。竹内軍医とは同じ時期の召集らしく極く親しく言葉を交わし
ていたが、揃って市街に出た時は伝令も随行し途中呉淞路の日本店でうどんを御馳走に
なった。この時テーブルに置いてあった薬味の唐辛子が少なかったので、行岡軍医は大
きな声で「何をケチケチしとるか、もっと持って来い」と怒鳴っていた。(行岡軍医は
ビルマのインパール撤退時トーパル河の戦闘で戦死した)
竹内軍医は上海警備司令部へ申告をするため公用外出をし、司令部はどの辺りだった
か覚えはないが大きな中国特有の官庁にあった。軍医が申告をする間「事務室で待って
おれ」と言われたが、事務室では将校や准士官ばかりで私は何となく居づらくて廊下に
出て待っていたところ、軍医が帰って来て私が事務室に居なかったので連絡を取るため
随分捜したと文句を言われた。
一月二十日竹内軍医に随行し上海北站から汽車で丹陽へ向かったが、この時だけは大
陸に渡って始めて客車に乗せてもらったが、むろん軍医は将校用上級車輛である。丹陽
駅に着き金壇行きの便を待つ間、駅前の日本人食堂に入り、そこの主人と色々雑談をし
たが彼は三重県北勢方面の出身で、軍から表彰状を貰ったと食堂に掲げていた。主人の
話しによると日本兵と現地婦人との混血児も相当居るとのことである。
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