柴原廣彌の遺稿 08

 
 
041 上海進駐

  昭和十六年十一月の半ばを過ぎた頃に某方面に出動するとの事で、青木五三郎大尉

 が部隊長となり医官は竹内見習士官であり従って自分も随行する事になり、各中隊か

 ら一個小隊くらいの兵員が駐出された。十一月二十日夕刻、丹陽駅から鉄道便で何処

 へ行くのかわからないが出発をした。汽車は上海方面への下りであり将校は客車に乗

 り、下士官以下はやはり貨車に詰められ色々と噂話をしながらの夜行列車の旅である。

 どうも米の収集作戦に出動するのではないかとの噂も流れ夜明け近くになって、誰か

 が線路の向こうに上海とネオンサインが輝いて見えるのをすぐ見つけ叫んだので、一

 同行き先は上海だったのかと一時大変喜んだが、本当は何処へ行くのかとまた思案で

 ある。上海北詰で下車しトラック便で共同疎開を迂回して、疎開の更に向う側にある

 以前某大学の官舎であった建物を兵舎として駐留する事になった。ここで上海警備隊

 となり名称は峯第十五部隊と称し上海警備司令官の配下となり、各中隊から駐出され

 た小隊は方々の要地の警備に分散して、これまでの警備隊と交替して駐留をした。部

 隊本部には副官斎藤中尉、田中主計少尉の他に将校二名、竹内軍医、町田准尉がいた。

 町田准尉の当番兵は私と同郷で一緒に召集された橋爪慶二郎君だった。十一月二十二

 日に十一月分の俸給八円八十銭が支給された。ここでは将校の食事は伝令が用意をし、

 将校用として特別材料が交付され当番兵もそのご相伴にあずかり良い給与にありつい

 た。


  在留邦人や中国人有力者等が絶えず酒類、煙草、果物、コーヒー、紅茶、食料品を贈

 り物として持って来るが、これは疎開への物資の搬入出を制限しているから目こぼしを

 願うためである。これら食品等は伝令室に保管するので何時も御馳走がたくさん置いて

 あり、田中主計少尉は特に気持ちの良い人で度々伝令室に来て保管品を取り出し、コー

 ヒー等を飲みながら当番兵と雑談をしていた。さすが上海の部隊だけのことはあり一般

 の給与にしても糧秣は肉、野菜、魚類等豊富で山間の部隊とは格段の相違である。田舎

 の警備地区から新米の少尉が御機嫌伺いに本部に来ると、地方の産物などを土産として

 持ってくるが、この時は臨時に食事をする者が多くなり伝令は苦労するのに、新米少尉

 は威張りちらして玉子焼は何を混ぜられるか解らないから目玉焼きにせよと言い、前に

 玉子焼の中に何か入れられた覚えがあるのだろう。炊事の経験を積んでゆくと悪知恵も

 ついてきて、豆腐を永く煮続けるとふやけて大きくかさが増えるのを覚え、湯豆腐をす

 る時は増えた将校用豆腐の一部を削って当番兵で頂戴したものである。前駐屯部隊から

 雇われていた苦力一名を、引き続いて将校居室用苦力として雑用をさせていたが、その

 苦力の話では南京方面と上海方面とでは同じ中支でも相当言葉に違いがあり、例えばカ

 イカイディーはオーソオーソ、マンマンディはメンメンチョと言うようで色々違うがこ

 れらは方言のようである。



  暖房の燃料には石炭を使用した。循環式のスチーム暖房が各室に設備されているが、

 燃料が粉炭ばかりで燃えにくいので水で練り固めてから乾燥させ焚いている。水道は一

 旦屋上の水槽に貯水して使用するが、水圧が弱く常時水は出にくく必要な水量も無いた

 め、伝令室では洋式風呂を洗って清潔にし貯水し使用した。橋爪慶二郎君は町田准尉の

 当番兵であるが、まるで同輩のような話振りで極親しくしているので不思議に思い、そ

 の訳を聞くと常々将棋をさし合っていた町田准尉は橋爪君に将棋の指し方を習い、腕を

 上げ他の将校と対局して勝ったためらしい。竹内軍医が慰安婦の検診に行く時など、橋

 爪君は軍医に頼んで衛生兵のように振舞って同行していた。


  部隊外に駐屯している隊の診察のため方々に巡回をし、その都度自分は医薬品を携行

 して軍医に随行した。クリークでは内火艇といって木炭自動車のエンジンを据えた船が

 運行していて、この船は薪を焚いて手回し送風器でガスを送り燃料として運転をしてい

 る。軍医はこの船に乗り方々の隊を廻り患者の診察をしたが、清保の矢島隊に行った時

 は隊長をはじめ皆同じ五中隊の兵でありとても懐かしく思った。矢島少尉は大変宴会の

 好きな人で、軍医の歓迎会を催し現地の珍品をたくさん盛り合わせて、隊員一同と共に

 歌ったり踊ったりの大騒ぎをした。八中隊より駐出している隊へ行った時は、自分は衛

 兵所で歩哨に捧銃の動作をして見せ将校が来たと知らせたが、歩哨は良く理解が出来な

 かったようで曹長と思ったのか敬礼を間違えた。軍医は見習い士官の座金を一組しか持

 っていないので、上衣に付けていても外套には付けてなく、外套を着用していると将

 と解らず見間違えるのである。このため軍医が外出する時は、座金を上衣よりはずして

 外套に付けるようにと言われている。



  八中隊では伊勢市の井上速算学校同窓で鳥羽出身の楠井栄九郎君(インパール作戦で

 戦死)に久し振りに会い彼はここでは炊事係をしていた。楠井君は中隊にいる時は堀田

 准尉の伝令で、ずいぶん受けが良く時計までも貰ったそうである。地方診療には方々廻

 ったが日時や地名はすっかり忘れてしまった。



  上海共同疎開では如何に日本軍といえども武装しては疎開内に入ることは出来ず、武

 装をしている時は疎開外を大廻りして日本人疎開の方面へ行くのである。市内での単独

 行動は危険であり一切出来なく、必ず二人以上でなければ通行できない。軍医の公用私

 用を問わず外出する時は、自分は何時も拳銃を携行して随行した。北四川路、呉淞路と

 日本租界での街の様子は内地と少しも変わらず、たくさんの日本料理店や食料品店があ

 って、住民も日本人が大変多く居住し中支にいる事を忘れてしまうくらいであり十五、

 六歳の日本娘が現地人の人力車を乗り廻して、下車の時は十銭幣を渡し車夫は少ないと

 更に要求をすると、娘は「ブヨチンブヨチンマーラカピー」と言って平然と立ち去って

 行くが現地人は文句も言えない。軍の威光で在留邦人の行動も若い娘達まで威張り散ら

 しているのには驚いた。



  呉淞路を通り過ぎた端に白木屋百貨店が進出しており、そこにはチョコレートやキャ

 ンディーなどが何でもたくさん売っていて、内地では物資が乏しいと聞いているが、こ

 こでは何でもあり出来る事なら我家の子供達に送ってやりたい気持ちである。この近く

 に月逎(つきじゅ)家という割烹料理店があり将校の宴会は殆どここを利用し、伝令は

 随行すると宴会が済むまで入口で待っているのが何時もの事である。この付近から虹口

 の街へは大きな建物はあまり見当たらないが、近くの埠頭には三井、三菱等日本の大商

 社専用桟橋がある。



  読書家の竹内軍医は私用外出には必ず書籍店廻りをし、書棚を見て廻っていると何

 時の間にか数時間も過ぎてしまうが何冊か購入し、その都度私は拳銃を携行し軍医の

 後を護衛してついて廻る。何時か外出の時、白木屋の食堂に入り昼食を御馳走しても

 らったが、その時食った海老フライが悪かったのか軍医は夜中に腹を痛め下痢をして、

 室内および廊下板に点々と便をもらしてしまった。朝になり軍医はもう消毒してある

 から何も汚なくないので後の処理しておけと言った。医師となると職業柄実質的に消

 毒をすれば、もう汚く無いという習慣があるのかと感心したが、汚物を処理する当番

 兵はたまったものではない。しかし同じように食った私は何とも無かったのが不思議

 でならなかった。



  呉淞路から呉淞行き列車の停車場の近くには日本海軍陸戦隊本部の建物があり、一階

 正面には戦車が何時でも出動出来るように並んでいた。海軍の権威は相当なもので陸軍

 より給与や衣服まで優遇されていて、慰安所も日本人慰安婦を揃えて別にある。


  呉淞路付近の路地には魔窟地帯があり、竹内軍医が物好きにも見に行くと言うので一

 度その路地へ行った。私は外套のポケットに拳銃を忍ばせ、何時でも対応出来るように

 していたが之ということもなく引き上げた。



  日本租界と外国疎開の間に流れる蘇州河に架かる橋を、内地ではガーデンブリッジと

 呼んで大変有名な風に聞いていたが、実際に見ると黒塗装の極く普通の鉄橋であり特に

 どうと云う感慨は無かった。橋のたもと付近に建っている大きな建物には英文の看板が

 出ており、自分にはよく解らなかったが、これを見た竹内軍医によると大きな病院であ

 ると言っていた。




 
 042 大東亜戦争勃発

  昭和十六年十二月八日、起床と同時に上海警備司令官が部隊本部に到着し、部隊全体

 が異様な雰囲気の中で隊内将校は全員正装して出迎えた。英米との戦争が勃発し部隊本

 部は戦闘指令所となったのである。上海市街での直轄部隊による直接戦闘はなかったが

 交戦国設備、建物等の接収を出先の隊で迅速に行っているとの情況である。後で聞いた

 ところでは開戦時に呉淞沖で、停泊していた英米の軍船との間に戦闘が少しあったが直

 ぐに収まったようである。今まで武装しては通過出来なかった外国租界も、開戦と同時

 に武装した軍用車の通行が頻繁となり、これ迄のような遠慮は無用になった。



  英米との戦争が始まっても南京路の午前中の市場付近は、まるでお祭のような賑わい

 で道路は立錐の余地の無いほどの人出で、我々戦時体制の車輛はその雑踏の中を問答無

 用で突っ走り、中には車に跳ねられる現地人もあるが、そんなことはいちいち構ってい

 られず無視する。この状況では敵施設の接収に行っている部隊は何をしているかわかっ

 たものではない。疎開内の物資は欠乏してきているので疎開の出入り口を守っている警

 備隊では物資の密輸を監視していて、押収物で兵は喜んでいるとの噂を聞いた。また着

 膨れした中国婦人を捕らえて調べてみると、衣類の裏にたくさんポケットが作ってあり

 煙草や酒類を隠し持っていたと云う。また電気の通じている鉄条網を二本の青竹で広げ

 て、疎開内へ潜入しようとする者が後を絶たなかったそうである。夜間になると時々爆

 発音があり鉄道破壊のゲリラが出没しているらしく、その都度直ちに討伐に出動してい

 たが大した戦闘もなく割合と楽な警備である。上海警備隊では人員不足の都合で我々将

 校伝令にも衛兵勤務が廻ってくるようになり、ある日表門歩哨に立哨していた時に友邦

 ドイツの国旗を掲げた車が来たので、敬意を表して敬礼をしたところ彼等は大変喜んで

 片腕を上げてナチスの答礼をして通過して行った。夜明け方になると十数名の現地人苦

 力が、その日の職を求めるのか衛兵所前をぞろぞろと無言のまま通り過ぎて行った。


  昭和十七年正月二日には、本部員一同揃って外出し上海神社に参拝し記念撮影をし

 た。正月の祝に隊内で橋爪慶二郎君が雑煮を炊いたところ、彼は大阪市に永く居住し

 ていた関係で味噌で味付けをした。ところが町田准尉が「これは何だ伊勢乞食等はこ

 んな貧弱な雑煮しかよう作らないのか」と怒りだした。青木部隊長は三重県人であり

 「それは関東と関西の違いだ。関西では味噌と野菜であっさり味付けするのだ」と説

 明したので、町田准尉は「始めて聞いた」と小声で言いつつ部隊長が三重県出身であ

 るのを思い出し、伊勢乞食などと言ってしまった手前心の中でさぞ冷や汗を掻いた事

 だろう。



  竹内軍医は少尉任官の時期も近くなっていて任官の発令があった場合は、自分に金壇

 へ行って将校衣服を取って来て欲しいと言っていた。軍医でもやはり進級の事は気にな

 るらしい。



  部隊長室では洋式便所を使用していたが水圧が弱くて水洗に苦労をした。伝令は常

 に便所を清潔にする事に気を配っていたが、将校の中には尻癖の悪いのが何人かいて

 時々便器に汚物を付けて汚していくのがいて、青木部隊長はその都度「しょうのない

 奴らだ」と怒っていた。



  一月中旬になり駐出部隊に一部移動があって、軍医には第一大隊の行岡朗見習士官が

 交替として赴任してきた。竹内軍医とは同じ時期の召集らしく極く親しく言葉を交わし

 ていたが、揃って市街に出た時は伝令も随行し途中呉淞路の日本店でうどんを御馳走に

 なった。この時テーブルに置いてあった薬味の唐辛子が少なかったので、行岡軍医は大

 きな声で「何をケチケチしとるか、もっと持って来い」と怒鳴っていた。(行岡軍医は

 ビルマのインパール撤退時トーパル河の戦闘で戦死した)


  竹内軍医は上海警備司令部へ申告をするため公用外出をし、司令部はどの辺りだった

 か覚えはないが大きな中国特有の官庁にあった。軍医が申告をする間「事務室で待って

 おれ」と言われたが、事務室では将校や准士官ばかりで私は何となく居づらくて廊下に

 出て待っていたところ、軍医が帰って来て私が事務室に居なかったので連絡を取るため

 随分捜したと文句を言われた。



  一月二十日竹内軍医に随行し上海北站から汽車で丹陽へ向かったが、この時だけは大

 陸に渡って始めて客車に乗せてもらったが、むろん軍医は将校用上級車輛である。丹陽

 駅に着き金壇行きの便を待つ間、駅前の日本人食堂に入り、そこの主人と色々雑談をし

 たが彼は三重県北勢方面の出身で、軍から表彰状を貰ったと食堂に掲げていた。主人の

 話しによると日本兵と現地婦人との混血児も相当居るとのことである。



 
 043
 金壇帰還

  竹内軍医と金壇連隊本部に着いてからは、割合と陽気な医務室の生活が続いた。もう

 嫌な
副官は転出して居なく変わって中村中尉が大隊副官として着任していた。一月二

 十二日五中隊北村勇曹長より一月分俸給八円八十銭の支給を受けた。




 
 044
 医務室勤務と南京出張

  竹内軍医の腕時計の調子が悪くなり金壇の時計店での修理は信用出来なく、南京の

 日本人時計店で修理をするため自分は南京出張を命ぜられたが、軍医は私を一度南京

 へ行かせてやろうとの親切心であったようである。その話を聞き付けて六中隊の衛生

 兵杉浦利雄上等兵から実家へ小包を送るため、南京の日本人陶器店へ持っていって依

 頼してくれるよう頼まれた。多くの古兵はこの陶器店を利用し、また出張の際には宿

 泊もさせてもらうようである。自分は大隊本部で旅券を貰い丹陽駅から客車に乗り南

 京へ行き、まず時計店を捜し修理を依頼し、その後陶器店に行き杉浦上等兵の小包を

 送ってくれるよう依頼した。主人に泊まっていけと進められたので兵站宿舎には行か

 ずその店に泊めてもらった。山間部から出てきた兵はよく宿泊していくと言っていて、

 この時始めて陶器枕を使用したが大変寝心地の良い物であった。翌日南京の写真館で

 記念写真を写した後、時計店へ行き修理の終わった軍医の時計を受け取り、帰途南京

 駅までバスに乗ったが大変混雑しており、衛兵所の前を通過のとき現地人は皆下車を

 して検閲を受けたが、自分は車内で待っていたところ歩哨が乗り込んで来て、衛兵所

 に欠礼したとか何だかんだ言って大変怒っていた。それでも難無く通過する事ができ

 無事金壇へ帰隊した。



  医務室の裏側には石を丸く削り抜いた井戸があって、自分が毎日洗濯をするときは

 ここで水を汲む。その奥に小さな廟があり住民はよく参拝をしていて、廟の横から抜

 け道があり外に出て行くと金壇の貧民窟と云うか小さな藁葺小屋の集合地帯がある。

 時々医務室勤務中暇を見ては街を歩き廻り、炊事苦力の家にもよく遊びに行った。慰

 問袋の品々を持って行き小輩に進上したが余り喜ばれはせず、また内地からの煙草は

 品質が悪いと苦力でも受け取らない。中国煙草は割合と質の良いものが多く英国煙草

 等も上海工場で生産をしていて一本、二本とバラ売りをしている。商店街の煙草屋で

 は茶色をした圧縮物を鉋で削っていて、これは刻み煙草で水冷煙管に詰めて吸う。ま

 た質の悪い紙を捻じりあげ火種を付け、息を吹きかけ焔を出して煙草に火を付けて吸

 っている。



  シンガポール陥落の時は事務室のラジオに皆がくぎ付けでその実況放送を聞き、陥

 落を知らせる信号弾が上がったのを聞き喚声を挙げ喜んだ。また現地人は祝として蛇

 竜列で路地を練り廻り、米国英国打倒を叫んで日本軍に協力を示していた。



  将校室では、坂巻軍医が暇な時にはハーモニカを吹いたり中国の胡弓を弾いたりし

 ていた。いつか西浦衛生兵がその胡弓を弾いていて壊してしまった事があった。坂巻

 軍医は休日になると裏の広場で剣道の練習に励んでいて、また竹内軍医は時々乗馬の

 練習に馬場に行っていた。



  医務室勤務も無事に勤め上げ、次の交替の森下一等兵に自分が前任者に教えられた

 通り申し送って伝令を下番した。





父 柴原廣彌の遺稿へ

2011.10.14.