柴原廣彌の遺稿 09

 
  
045 中隊本部復帰 直渓橋分屯警備

  昭和十七年二月二十日薜埠鎮中隊本部に帰隊し、中隊復帰と同時に直渓橋分屯警備隊

 要員を命ぜられた。金壇と薜埠鎮公路中間に珠淋鎮というバスが停車する小さな部落が

 あり、以前は交通警備隊がいたが今は中国警察が警備をしている。この珠淋鎮から北へ

 六粁程のところにクリークに囲まれた街がありそこが直渓橋である。街外れの東側に警

 備隊があり周囲は煉瓦塀を巡らし、南側は直ぐクリークで東および北側は少し離れてク

 リークになっていて、その向うに中国警察隊があり、わが警備隊の分屯地は概ねクリー

 クに囲まれていて、敵は簡単には侵入する事は出来ない構造になっていた。営内は兵の

 居室に続いて数ヶ所の望楼付き陣地になっていて、非常の時は直ちに陣地を守れるよう

 になっている。また陣地は直接兵の居室にもなっていて兵員の多い時は使用出来る。
.

 金壇への道路が東部から細い乍通じていて、またクリークも続いており毎日船の連絡が

 あるので物資は絶えず送られてくる。



  中隊本部との連絡は薜埠鎮と直渓橋の双方から兵が数名出て来て、中間の珠淋鎮を

 連絡地として引き継ぎを行い、大きな荷物のあるときは中隊本部からトラックが出動

 してくるが、直渓橋はクリークで囲まれているのでトラックは中へ入れず、街の入口

 で停車して苦力を集めて運搬をさせる。輸送物資が多い時は街で一輪車を持っている

 苦力が誰彼となく徴用され、そのうえ無賃で働かされるため苦力等こそ迷惑この上な

 い事であろう。連絡道の中間丘陵地は敵共産新四軍の磨盤山を通って南北通路となっ

 ている危険地帯であるため、連絡の時は十分警戒を必要とするが馴れてしまうと案外

 と陽気になってしまい時には二、三名が小銃だけで武装して出かける時もあった。



  直渓橋警備隊長は、昭和十五年から十六年にかけて五中隊で俸給の支給係を担当し

 ていた堀内晃曹長である。炊事係は小俣町出身の中野一等兵で素人炊事のため、これ

 という献立も出来ず苦力を相手に毎日豚のぶった切りと野菜の煮込みか天婦羅ばかり

 の献立である。分屯の付近で四、五十糎も伸びた芹がたくさん採れるので、そのシタ

 シが毎日食事に出た。警備隊の要員は補充兵が多く、その中でも八月補充兵は既に召

 集から三年を経過しているので全員上等兵に進級していて、現役兵も少しは居るが余

 り成績の良い者は来ていない。しかし皆戦争には馴れて要領のよい者ばかりで、警備

 をする以外は割合と陽気な軍務である。慰問袋に入っていた木綿針を蝋燭の火で曲げ

 釣り針を作り、飯粒を付けて前のクリークで釣りをすると鮒に似た魚が簡単に何匹も

 釣れた。警備隊の兵員はわずか十五、六名であり、この陣容では一旦敵の大部隊が急

 襲してきたらどうなる事かと心配である。



  中国王精衛軍が一個中隊約二百名で同居し警備に協力するとの事で、望楼付近の陣

 地に居住する事になった。隊長は馬賊上がりの親分的な男で、何時も用心深く優秀な

 護衛兵二名が常時拳銃を持って武装し随行していた。隊長は警察署付近の民家に居住

 していて昼間は警備隊に出ているが何もする事もなく、唯居るだけで総べて軍務は部

 下の小隊長が取り仕切っている。小隊長はかつて日本の士官学校に留学をしたことが

 ある小柄な軍人であり、一般兵は支那事変開戦当時の元支那軍で日本軍の捕虜になっ

 て帰順した者達で、何時反乱を起こすかも知れないから充分注意をして常に手なずけ

 ておかねばならない。その中に一人老兵がいて親しく話をしたが、彼が開戦当時呉淞

 砲台に在隊していて日本軍艦を砲撃したときの話になり、老人の話によると前々から

 日本のスパイが入り込み、各兵は買収されていて信管を抜いた砲弾を発砲したので、

 日本艦艇に命中しても炸裂せず船が動揺するだけであったと信じられない様な滑稽な

 話をしていた。彼等は悪事を働いても日本軍の様に頭を殴ったりはせず、うつ伏せに

 して棒で胯下裏を殴る。これはもっぱら隊長の役割である。


  わが警備隊では堀内隊長自らが飲んで騒ぐのが大変好きな性格なので、時々宴会を

 催し衛兵以外は全員参加でいつも大騒ぎをし、果ては支那の老酒ばかりでは物足りな

 くて、隊長は出征以来親しくしている連隊酒保の堀内善人准尉(七中隊所属で鼻が悪

 く何時もクンクンと鼻を鳴らしているので別名クンクン大盡と言われ、ビルマで戦死)

 に話をつけて、日本酒二斗樽をクリークの船便で送って貰って、少ない兵員でこの酒

 がある内は毎日の様にドンチャン騒ぎの宴会を続けた。ある日隊長が酒の酔いにまか

 せ上機嫌で誰彼なく酒をあびせたので、私もそれにつられて調子に乗り隊長に一杯か

 けてやったところ、急に隊長の態度が変わり「俺がちょっと酒をかけたところそれを

 恨んでか隊長に向かって酒をかけ返してきた不届きな者がおる」と嫌味を言って怒り

 出した。それを聞いて坪兵長が黙っていられなくなり「隊長に酒をかける奴があるか」

 と大変怒ったが、どの様にその場を収めたのかは私もしたたか酔っていたので覚えて

 いない。堀内隊長は三重県度会郡島津村古和浦(こわうら現南伊勢町)の出身で、自

 分の郷里に近く船員の話等でよく気が合い、常日頃良く可愛がられたので何んとか穏

 便に済んだのだろう。



  金壇方面から日本語の達者な美しい姑娘(クーニャン)がきており、これをヤンク

 イと呼んでいたが隊長はこの娘を手なずけていた。街にソーチョという老人がいて日

 本軍に良く協力していたが、昔支那軍の曹長の位だったとも聞いていた。隊長はこの

 老人の家の一室にその姑娘を連れ込み、私は一人で銃剣を持って護衛のため戸外に立

 つ羽目になり、悔しさもあり中の隊長を慌てさせようと、時々「誰か」と誰何をして

 さも誰かが来た様な情況を装ったが、上陸以来野戦で鍛えられた隊長はこんな事くら

 いでは気にも止めない。寒い夜隊長が中で良い事をしている間、長いこと警戒をさせ

 られたが、後で考えてみると彼等は敵のスパイではなかったかと思われる。



  中国王軍の大隊長が警備視察に直渓橋に来るとの連絡があり、堀内隊長は一応敬意

 を表し宿舎に訪ねることにした。しかし隊長は階級が曹長では中国大隊長に見下げら

 れて駄目だと言って、わざわざ階級章を外して出かける事にした。そんな事をすれば

 かえって相手方に何か後ろめたい事があるのではと勘ぐられるのではないかと自分は

 思ったが、前もって隊長は私にどうせ彼等は日本語などわからないから会見の途中わ

 ざと将校への敬礼捧銃をして、何でもよいから報告をし隊長の階級を将校と思わせる

 ようにと打ち合わせをした。中国軍大隊長といっても元をただせば馬賊の頭目上がり

 のようなものであり、大隊長は何人目かの妻を同行して自警団の二階に居たので、先

 ず堀内隊長が上がって行き暫時間をおいて私が打ち合せ通り慌しく階段を駆け登り、

 捧銃をして「もっか敵情に異状はありません」とのみ報告をした。堀内隊長はさも鷹

 揚に「おお御苦労」と言ったまでは良かったが部屋には大隊長婦人というのが傍にい

 て、なんと流暢な日本語で「兵隊さんご苦労さんそこへお座りなさい」と言ったのに

 は隊長も私も驚き顔を見合わせ言葉も出なかった。隊に帰ってから隊長と「折角あん

 な計画を立てたが、あの女のおかげで見破られえらい赤恥をかいた」と大笑いをした。


  軍の命令で敵性地区との境界を造るため、その材料として竹の収集に中国軍を使っ

 て直渓橋北部方面へ出動させた。初日はよかったが二日目になって中々帰ってこない

 ため分屯では気にしていたが、漸く夕刻になり数名が息を切らせて帰って来て、その

 報告によると敵襲に会い兵のことごとくが捕虜になり連れて行かれたとの事である。

 早速わが大隊本部へ報告をし指示を受けると、帰隊した者は敵に寝返りどんな指示を

 与えられているかわからないから、危険防止のため営内に入れてはならないとの指示

 があった。その後一人二人と帰って来た者もあったが一応営外の警察署に居住をさせ

 る事にした。結局、中国軍出動兵の三割くらいが敵の捕虜になったようである。これ

 も前日来よりスパイによる情報察知をされていたために起こった事だろうと思う。



  堀内曹長は近く准尉に昇進の時期であるので、大隊及び連隊の上官に認められるべ

 く一段と張り切っていた。少ない兵員であるが衛兵のみを残して、分屯兵と中国軍を

 引率し時々は粛正討伐に出た。密偵の情報によると直渓橋西南方向数粁の部落に敵部

 隊がいるとのことで、早速討伐に出ることにし警備隊には一部残留兵を残し、分屯兵

 十名くらいで軽機関銃と擲弾筒をもち、更に中国軍をも率いて隊を編成し夜襲をかけ

 る目的で夕刻から出動した。日本軍の部隊夜襲なら成功もするだろうが、多くの中国

 人を伴った夜襲ではどうも心もとなく心配である。一粁程進んだ時、前方から通行人

 が来たので部落の様子を聞いてみると敵がたくさんいるとの話しである。斥候も出し

 ていない行き当たりばったりの討伐とは無茶な行動で、周りの状況を見ると道路の両

 側はクリークであり、若し敵に包囲でもされたらどうにもならない危険な地勢である

 が、闇夜になお進んで行くと引率の中国軍にザワザワと動揺の兆しが見えてきた。相

 当の敵がいるらしいが我等堀内隊長以下十数名で他は中国兵では当てにならず、隊長

 もどうしたものか暫時考え込んでいたが、ついに「エーイ取ったか見たか一つやるか」

 と訳の解らない事を言い乍進撃を命令した。しばらく行くと前方で数発銃声がし閃光

 が数ヶ所で見えたが弾着は離れており余り心配はない。ところがこの銃声に中国兵が

 狼狽してワイワイ言い出したので必死になだめるも、彼等の動揺は収まらないため堀

 内隊長が「ダマレ」と一喝して中国兵を叱り付けたら漸く静かになった。しかしこん

 な事をしていて敵に気付かれたら大変危険であり、結局これ以上の前進は考えものと

 諦め二班に別れて擲弾筒で数発敵に向かって撃ち込み、急いで帰って来たと言うか逃

 げ帰った次第である。多分敵新四軍の南北通過の宿営だったのだろう。翌日隊長は大

 隊本部へ電話報告をしていたが、さぞ勇ましい戦闘の状況を話したのだろう。



  どこから廻ってきたのか現地人売春婦が数名街に入り込み、多分中国軍が多くいるの

 を目当てに来たのだろう。隊の兵が見に行ったところ手足に点々と赤チンを塗り病気持

 ちらしく、戦場では命知らずの兵が驚いて恐怖に震え上がり逃げ帰って来たとの事であ

 る。また旅回りの京劇というのが劇場に来たので見物に行ったが、日本の舞伎のような

 芝居ではあったが何が何だかさっぱりわからず、厚化粧の白と紅の姿だけが目に残って

 いる。芝居がつまらなかったので我々は楽屋裏に潜り込み、若い女優を後ろから抱きし

 めたりして暴れ回った。女優等は驚いて逃げ回るが、日本軍の威光を恐れて何も言えず

 ただ逃げ惑うだけである。女優の身体を後から抱きしめた時の女の体温を感じた時は、

 荒くれ兵隊でも変な気持ちになったのは確かだが、あまり現地人の批判を受けない内に

 と引き上げた。途中八月補充の間野上等兵と直江保一等兵が何かの間違いからか喧嘩と

 なり、それを止め宥めるのにひと苦労した。(直江一等兵はビルマで戦死した)



  街には中国兵が多く外出をしていて言葉の違いからか、ある日中国隊長の護衛兵と坪

 兵長が諍いを起こし、護衛兵はすぐ拳銃を突き付けてきたので、如何な坪兵長でもこれ

 には慌てたが謝って漸くなだめて事無きを得た。彼等は人数が多いし、どんな事で敵に

 寝返りをするかわからないから常時手なずけておかなければならない。どんなに気に障

 っても我慢をするようきつく上官から言われていた。



  街の中央に公衆浴場があり男女は別湯となっているが、女湯に兵隊がわざと間違えた

 振りをして入って行くと、女は驚き悲鳴を上げ逃げ廻るのが面白くて酒を飲んだ時など

 よく暴れたものである。それでも昼間は警備隊には数名を残し時々街を巡回し宣撫工作

 をしたが、そのうち自警団の団員とも懇意になり色々と情報収集もした。自警団には三

 十歳くらいの団長がいて特に友好的であり、時々立ち寄ると支那料理や老酒を出してく

 れ良く接待をしてくれたが、後で考えるとうわべは日本に協力をしていたが、またその

 半面敵のスパイも兼ねていたのではないかと疑われる。



  街外れのクリークで老人が漁業をしていて内地の延縄漁と同じであるが、その釣元は

 草の藁をを三糎程に切り中央を糸で縛り両端を曲げて合わせ、これに豆や麦を水につけ

 ふやかして先に刺し、魚が食い付くとその藁がはじけて魚の口の中で広がり釣れるとい

 う方法である。松本実上等兵(ビルマで戦死)がこんな幼稚なものでも魚が釣れるのか

 と笑っていた。



  クリークを通る船も風のある日は帆を張って、遠くから眺めると堤防の下に船が隠れ

 て帆だけが動いているような風景が見られた。漁業の閑散期にはクリークに小舟を浮か

 べ河底の泥を一生懸命に船にすくい揚げ、それを田園に入れて肥えた泥を肥料としてお

 り、クリークの傍には藁葺きの小屋があって水牛が一日中周りをグルグルと廻って石臼

 を廻し、脱穀をしたり製粉をするのどかな風景もある。田に水を入れるためクリークに

 何台も水車を仕掛け、数人が並んで足で踏み廻し唄をうたいながら陽気な水取りが方々

 で見られ、また彼らは田植え時には千巻を作り間食にしている。



  陣地の望楼内で手榴弾投擲の実射訓練をしていた時の事で、一人の兵が手榴弾を発

 火させまさに外へ投げる寸前に誤って楼内の床に落していまい、寸時の間の出来事で

 あったが爆発したら全員吹っ飛んでしまう。古兵は狼狽し顔を引きつらせ「早く外へ

 投げよ」と叫び、居合わせた兵は皆驚き慌て頭を抱える者もいたが、その兵は始めオ

 タオタとしていたが意を決っして、シューと煙を吹いている手榴弾を拾い取って、窓

 から外へ放り投げると同時に「ドカーン」と爆発し、ほんの数秒の出来事であったが

 一同安堵の胸を撫で下ろしたが腰を抜かし暫く立てない者もいた。この後当然のよう

 に古兵の気合入れがあった。




 
  046
 金壇東北方面粛正出動

  直渓橋警備勤務を終わり中隊本部へ帰り、三月五日に二月分の俸給八円八十銭を北村

 曹長より支給された。この頃に昭和十五年末入隊した現役兵の甲種幹部候補生が、見習

 士官となって各中隊に配属されて来ていた。見習士官はこの期間中の成績により少尉に

 任官する者と、落ち幹と云って軍曹に下がる者とに別れるので彼等は一生懸命である。

 その張り切りようで一般兵は大変迷惑をする。金壇東北方面に討伐に行った時にはK見

 習士官が小隊長となり、私はその第一分隊の軽機関銃手に編入された。部隊が進行中前

 方で何か騒いでいるらしく、段々近寄ると八中隊のH准尉が俘虜の首を一刀のもとに切

 り落としたところで、首の皮一枚が未だ身体に付いているので刀の先でつつき切り放し

 ていた。切り口は桜色をした随分美しい色であって血がドクドクと噴き出していた。H

 准尉は首切准尉と言われ中国や近隣部落の人々に大変恐れられているとの事で、大陸に

 上陸以来二十の首を切ったとかで自慢をしていると聞かされた。



  中国兵捕虜については次のような事もあった。それは日本軍が駐屯している或る部落

 へ行軍した時の出来事で、その部落に着くと駐屯部隊の隊長がニコニコと機嫌の良さそ

 うな顔をしながら近づいて来て、小隊長の見習士官に「これは遠いところ御苦労さまで

 す。ちょうど良いところに来ましたね。これから歓迎の余興に面白いものをお見せしま

 しょう」と言うので、我ら初年兵は一箇所に寄り集まり何が始まるのかと見ていた。こ

 の部落は東、西、南はクリークに囲まれているが、唯一北側のみ直ぐに畑や田園になっ

 ていて防御の弱点であるため、十名程の中国兵捕虜を使役して約二十米程の横長の塹壕

 を掘らせていた。作業が一段落すると隊長は中国兵捕虜を今まで掘っていた塹壕に沿っ

 て一列に並ばせ、雇っていた苦力に通訳をさせ「お前らに掘らせたのは塹壕ではない。

 これからお前らを処刑した後で埋める墓穴だ」と言った。これを苦力の通訳で聞かされ

 た捕虜たちは、一斉に顔色を変え何か訳の解らぬ事を叫び動揺しだした。隊長は「うる

 さい静かにしろ」と怒鳴り、やっと静かになった捕虜たちを「ジロッ」と睨み付け、更

 に「お前らを処刑するのに一人一発づつ弾丸を使うのはもったいない」と言いながら横

 にいた上等兵に目配せした。すると、その上等兵は小銃を持って捕虜のところへ行き、

 わざと見えるように「カシャン」と弾丸を装填した。更に隊長は「この小銃は強力だか

 ら近くから撃てば十人くらい簡単に撃ち抜くぞ」と言い、苦力からそれを聞かされた中

 国兵捕虜の中からは悲鳴が聞こえ泣き出す者もいる。我ら初年兵はどうなる事かと固唾

 を飲みながら見ていると、銃を持った上等兵は最後列の捕虜の後ろへ廻り、その背中へ

 銃口を押しつけた。その捕虜は「ヒー」と悲鳴を上げ、他の捕虜も口々に叫びガタガタ

 と震え出している。すかさず隊長が「撃てっ」と叫び、それと同じに上等兵は銃口をサ

 ッと空に向け「パーン」と銃を発射した。その発射音と同時に一列に並んだ捕虜は将棋

 を倒すようにバタバタと倒れ、中には今掘った塹壕の中へ転がり落ちて気を失う者もい

 る。これを見て隊長とその部隊の兵は腹を抱え、指をさして大笑いに笑い転げていた。

 我ら初年兵は皆、何が何だか解らずその様子を見ていると、やがて一人二人と捕虜が頭

 を持ち上げ辺りをキョロキョロと見回し自分の胸や腹をさわっている。そのうち彼らは

 自分が生きているのを自覚すると皆、声にならない声を上げて或る者は怒り狂い、また

 或る者は泣き叫んでいた。あいかわらず隊長と兵の笑い転げているのを見て我々も、や

 っと事の次第を飲みこめて互いに初年兵同志が顔を寄せ合い始めて見る光景に、ずいぶ

 んひどい事をするものだと目と目で話し合ったものだった。



  小雨が降る日が続き視界の悪い日であった。部落の中で捜索中に民家の戸棚に角砂糖

 が一包あるのを見付け、以前に古兵に知らせてみな横取りされた苦い思いがあるため他

 の者には内密にして一人で隠れてなめていた。またなぜか日本の三味線と東京の劇場ポ

 スターもあったのには、どう云うことか理解できなかった。小隊は中隊本部と離れて行

 動をした時、小隊長は地図を頼りに行軍を指揮し続けたが中々目的地は見当たらず困惑

 している。古兵の分隊長は今迄この方面には何度も来ているから、熟知しているので

 「一言聞けばよいのに」と小言を言っていた。見習士官は体面上、下士官に聞く訳にも

 いかず、おかげで我々は方々を引き廻され漸くにして某部落付近に来たところ、前方で

 相当な人数と思われる人の声が聞こえてきた。霧がかかって視界は悪く先頭を行く小隊

 長は双眼鏡で眺めていたが突然「敵だ戦闘準備軽機は嚢をとれ」と叫んだ。雨で軽機は

 行軍中嚢をかぶせていたが突然の命令で皆が驚き、後方では安達三郎軍曹(ビルマで戦

 死)が「おいおい良いのかなあ、もう一度よく見てくれよ」と独り事を言っていた。兵

 は土手を背に待機をし自分は軽機の嚢をとり何時でも射撃の出来る準備をしたが、その

 うち霧が薄くなってきたのでよく見ると、なんとそこは友軍も友軍どころの話しではな

 く、わが五中隊本部ではないか安達軍曹は最初から解っていたようであり、我々は笑う

 に笑えず見習士官の未熟さに呆れるばかりである。将校も新米のうちはこのような失敗

 を重ね経験を積んで成長して行くのであろうが、松村中隊長は良く承知していて「大分

 方々を駆回らされたであろう」と言って肩を揺すって笑っていた。



  昼間ある部落を行軍中、軒端の広場では数名の現地人が四角な食卓を囲み食事中だっ

 た。その中の一人がおもむろに食器を持って我等行軍中の傍まで来て、これ見よがしに

 立ち食いをして見せていた。この仕草は自分等の暮らしは貧しくないから、こんなに良

 い食事をしているのだと自慢気に見せるのである。また小店では粉の付いた乾柿を売っ

 ているのも見た。この付近は金壇の東部方面と常州方面等の共産新四軍の通過する重要

 な地点で、常に敵が蠢動しているのであるが住民は敵との中間地域で大変な迷惑をして

 いる。今作戦では敵との戦闘もなく全員無事帰隊をした。三月二十二日に三月分の俸給

 八円八十銭を、北村曹長より支給された。





 047
 作戦出動中止

  昭和十七年四月下旬、近く大作戦が開始となるとの事で編成替えがあり、自分と大隊

 本部の同年兵森本正次君(志摩郡的矢出身、宇治山田商業学校卒業、再召集時代表して

 銃を受けた、ビルマで戦死)は、大隊本部の命令受領者山羽蔦男軍曹(第七中隊)の伝

 令となり、連隊本部と大隊本部間の連絡が任務で苦力(小輩)一名を付けられた。我等

 伝令は常に連隊本部と行動を共にし、食事は四名で別な給与となり自分等で炊爨をする

 のである。毎度の事であるが討伐となると現地人苦力が競って応募をしてきて、彼等は

 討伐になると日本軍の勝利を確信しており、賃金を貰った上に期間中は徴発にて食事を

 賄い、帰りに敵地区で衣類等その他の品を要領良く徴発して持ち帰るので討伐様様の大

 儲けである。何回も討伐に応募していると面白みもでてきて日本軍の戦闘行動を良く見

 覚えて、弾雨の中でも荷物を持って兵と同じように伏せたり早駆けをして敏捷に進撃を

 するのには感心をする。常々顔見知りになって道で会うと討伐はないかと聞いてくる程

 であった。しかし一歩間違えばこの仕事は命と引き換えになり、事実多数の苦力が作戦

 中に命を落としている。四月十九日に四月分と五月分の俸給八円八十銭ずつが長期の作
 戦が開始されるためか一度に支給された。



  四月二十七日だったと思うが、丹陽駅から貨車に詰められて揚子江上流方面へ出発し

 南京を過ぎ蕪湖も通過する。蕪湖では蕪湖米と言って丸い形の良い米の産地であると聞

 かされた。湾止鎮で下車し警備隊付近に野営したが、作戦の準備なのか幕舎がたくさん

 用意されていた。当地部隊では初年兵教育中なのか、若い見習士官が新式の九六式軽機

 関銃の操作を教えていた。自分等は大正十一年制式の十一年式軽機関銃しか扱ったこと

 はなく、未だ九六式軽機関銃は触ったこともなく羨ましい限りである。しかし実際には

 九六式軽機はその時点では新式ではなく、口径七・七㎜の九九式軽機関銃が正式採用さ

 れていて最新式軽機関銃と呼ばれ、自分等の十一年式は完全に旧式機関銃になっていた

 のである。しかし九六式軽機関銃とならば良いが九九式軽機と三八式小銃は口径が異な

 るため、同一部隊での装備としては弾薬の補給上問題があるとの事である。


  四月二十九日は天長節のお祝で酒の配給が全員にあり、夕食時に出陣を前にした祝

 杯を兼ねて私も飯盒の蓋で一杯軽く飲んだ。夜中に小便のため外に出て行った時に久

 し振りに飲んだ酒ではあったが、また疲れていたのも手伝い軽く飲んだつもりが急に

 酔いが廻って来て、加えて眠気もさして来て草原で横になったまま眠り込んでしまっ

 たらしく。気が付いたときは幕舎内にいて訳がわからず戦友森本君の話では、私が草

 原で寝込んでいるのを将校巡察が見つけ注意をしたところ、おそれ多くも文句を言っ

 て手に負えず巡察将校はわざわざ連れてきてくれたので、皆で平謝りに謝まり見逃し

 て貰ったとの事であったそうだが自分は何も覚えていなかった。その後数日間行動開

 始を待っていたところ、急に作戦が中止になり直ちに逆の経路で以って金壇に引き返

 した。




  
  048 
作戦

  薜埠鎮に帰還すると休む暇もなく引き続いてわが五十一連隊も次の作戦に出動する事

 となった。十五師団の編成はそのままであり、噂によると東京初空襲をした米軍機の帰

 り基地が浙贛地方であったので、その方面を攻撃するとの事を聞き五月九日だったと思

 うが丹陽駅を出発する事になった。駅のホームでは邦人の国防婦人会がかいがいしく兵

 達に茶の接待
をしている姿を見た。汽車は上海を過ぎ杭州駅の特別ホーム南星駅に到着

 し、ここで下車し西湖畔の道路を行軍して途中の小休止では西湖の風景を満喫した。銭

 塘江には破壊後一応修理をされたものの、それは人馬がやっと通れる程度の六亜橋があ

 りそこを渡り粛山に到着し、ここで一応戦闘準備を完了し五月十五日頃と思うが部隊は

 行動を開始をした。なお浙贛作戦の浙は浙江省のことで、贛は江西省の別名で浙江省と

 江西省を合わせ浙贛(せっかん)地方と云う。



  命令受領班は常に連隊本部と行動を共にし、命令が発せられると筆記受領をし一名を

 残して大隊本部へ連絡に行くが、必要に応じて六号無線班二名を配属されて無線連絡に

 よる時もある。伝令は命令の受領から炊爨その上食料徴発等殆ど自給自足で行動する。


  五月十七日頃義橋鎮渡った頃から愈愈戦闘開始の感がしてきた。連隊救護班は鎮江陸

 軍病院から軍医大尉以下が配属となっていて、金檀療養所の坂巻軍医も従軍していた。

 各隊は夫々戦闘を続け進撃をして行き、連隊本部も諸曁に入城をしたが思えばこは昨年

 浙東作戦の時、豪雨のため駅前に山積してあった岩塩が溶けて飲料水に困ったところで

 ある。その時、街はいたる所破壊されていたが既に相当復旧され、それほど荒れた模様

 ではない。宿営をし急いで炊爨をするが休む間もなくすぐまた前進命令である。州上埠


 では連隊戦闘指揮所が川岸に薪等を積み上げ防弾材とし、強行渡河の指揮をしていたが

 前線部隊の渡河後、連隊本部も民船に乗って渡河をした。



  五月下旬菊渓付近の戦闘で頑強に抵抗をする敵に対して、友軍は犠牲を少なくするた

 め陸軍航空隊の飛行機による援軍があった。敵はもっか空軍は無き状態で制空権はわが

 ほうにあり、日本航空隊は思いのままに上空を乱舞しての攻撃である。敵陣地一帯全山

 を友軍機は反復爆撃と機銃掃射を加え全山爆煙に包まれ視界もきかない程で、敵は支え

 切れず多数の戦死者を残して退却していった。




父 柴原廣彌の遺稿へ

2011.10.14.