柴原廣彌の遺稿 10


  
049 金華蘭渓の会戦

  百米程の河を徴発民船で渡河をし蘭渓の城外を行進中、七中隊の柴原喜多男軍曹の分隊

 に出会った。軍曹は何処で手に入れたのかナツメの砂糖乾をたくさん持っていて、少々分

 けてもらって食ったが甘く大変美味いものであった。進行中どう状況が変わったのか、部

 隊は進撃を中止し元来た方向へ逆戻りする事になった。



  渡河点に着くと工兵隊が舟艇を門橋に連結し、馬部隊をしきりに渡河させている。その

 帰り船で我々部隊は急いで元の対岸に順次渡河をした。金華方面の敵に先回りして退路を

 断ち撃滅せんと敵の後方へ急ぐとの事である。雨は降りしきり夜行軍となったが前方にい

 る馬部隊を追い越す時、馬のいない町で育った自分は傍を通るのが怖くてしかたがなかっ

 たが、そんな事を云っている場合ではなく遅れると大変で先がわからなくなってしまうた

 め、恐る恐る馬の横をすり抜ける様に小走りで通って早足で行軍をした。その馬の尾には

 目印の白い布が付けてあった。行軍中、我等命令受領班の後ろにいた尾本連隊長が突然大

 きな声で「歩度六粁」と命令し、まるで皆が闇夜を駈足で走るくらいの行軍である。先を

 行く兵や苦力を目当てに走るが、苦力も重い荷物を天秤棒で担ぎながら急行軍を続けてい

 る。人馬の通った泥の細道は泥濘と化し、滑って崖下にころげ落ちる者もいるが他人の事

 を気の毒と気を使う余裕もない。



  酒井直次師団長が蘭渓で敵の敷設した地雷のため戦死をされたと我々は後になってから

 聞いて驚き、師団長が戦死をするなど俄かには信じられなかった。各中隊は第一戦で激戦

 を展開しているらしいが、連隊本部にいる我々兵には詳細な状況は知らされるわけもなく

 全くわからない。



  愈愈敵も退却を始めたらしく我部隊は金華に入城し、我々伝令も尾本連隊長の前方を歩

 いて入城をしたが、ここは相当大きな都市であり色彩を施した店舗が軒を連ねダンスホー

 ルもあるとの噂である。街は既に先行した隊があらかた徴発をした後で、連隊本部にいる

 我々はあまり無茶な事など出来ず街の端の方で宿営するため民家に入った。入口の軒が高

 いので随分戸板が縦長の戸であり、住民は逃げる時に何もかも皆持ち出したのか家の中は

 ガランとしていた。夕刻、私は戸を開けてふと外を見ると逃げ遅れたのか、それとも道に

 迷ったのか中国兵が一人数十米先で雨衣を背にしてウロウロしていた。咄嗟のことで私は

 慌てて小銃で一発撃ったが当らず、直ぐどこからか数名の日本兵が飛び出してきて中国兵

 を捕らえ連れて行った。急いで炊爨をし早く就寝しようと思ったところが直ちに出撃との

 命令が出て慌てて出発し、街外れの大きな河を渡って進み山岳地帯を行軍した。浙贛の地

 方は水清く各家屋の床下に迄水路を引き入れ、飲料水や用水としては溜池も造ってあり大

 きな鯉に似た魚をたくさん飼育していて、魚を採る方法は広口の竹篭に餌を入れて池に沈

 めておき、しばらくすると魚が入っているので静かに篭を引き上げ
る。



  緑茶も上質のものが方々の家屋にたくさん貯蔵してあり錫の茶器に入れて置いてある。

 牛、豚、鶏、野菜等も多く物資の豊富なところで食料には事欠かない。煙草の葉も方々で

 栽培をしていて竹の枠に挟んでぶら下げて乾燥をさせており、その中から良さそうな葉を

 取って刻んで紙に巻いて吸った。部隊は南下を続け相当熱帯に近づいているのか砂糖黍の

 栽培が多い地方に入り、どの家にも粉の黒砂糖が大きな甕(かめ)に入れてあった。どこ

 の畑にも砂糖黍の苗が植え付けてあり、未だ植えて間の無いもので若芽が出かけているの

 を引き抜いて汁を吸った。この地域はどんな高い山路でも石を敷き詰めてあり一輪車が通

 り良いように舗装されているが、我等鋲を打ってある軍靴で歩くのには滑りやすく用心し

 ないと大変危険である。道路の所々には屋根付きの休憩所すなわち亭(あずまや)がある。

 敵が逃げるときに放火したのか一線友軍が通り過がりに放火したのか、道端の家屋や亭が

 燃え盛っているため後から通る者は火の中を走って通り抜ける。行軍中に通ったこの地方

 の石橋は橋柱が無く、両方から石を積み重ね上げて頂点で合わせて上手に造ってあり、大

 きな橋には要所に亭が設けられていた。



  どこであったか覚えはないが山の傾斜畑で小休止をしている間に炊爨を始めたのである

 が、敵の攻勢が激しくなり部隊は急に移動する事になったらしく、とうとう移動命令が出

 てしまい飯はブツブツ煮え出したところで未だ炊き上がってなく、仕方なく山羽軍曹と森

 本一等兵は先に出発して、自分と苦力で飯が炊けるまでがんばり後を追いかける事にし木

 をどんどん燃やしていたが、こんな時に限り中々飯は炊けず銃声が段々と近く聞こえ出し、

 敵弾がピュンピュンと音を立てて近くに着弾し、土煙を上げだし「ヒィー」と悲鳴を上げ

 逃げ出そうとする苦力の袖を掴み、なだめたり怒ったりし背を低くして早く炊けよ炊けよ

 とイライラし乍がんばっていると、そこへ連隊本部付きの情報将校古田中勝彦中尉が廻っ

 て来て、我々を見つけ「お前達何をしているか早く行かないと敵はそこまで来ているぞ。

 こんな時飯を炊いているなどとんでもないやつらだ」と叱られた。致し方なく煮えかけた

 鍋を竹篭に入れて苦力に担がせ、急いで友軍の後を追い次の休憩地で火をおこし炊き直し

 てどうにか飯にした。戦場に馴れてくると野太くなってくるので、非常に危険であると自

 分ながら後になって思った。



  畑に里芋の若葉がたくさん出ていたので芋があるだろうと掘ってみると、まだ芋になり

 かけの粒芋が大きな種芋の下に付いていた。こんな状態で見るのは始めてであるが、とに

 かくその小さな芋を集めて塩と黒砂糖で煮付けた。粉味噌や粉醤油が給与になるときは皆

 喜んでいるが、今は現地徴発給与となっているので主として岩塩と黒砂糖が調味料である。

 山羽軍曹は農村の出身であるので農産物について詳しく知っており、小芋を食うと云うこ

 とは昔から庄屋でもしないという諺があると言って、大変贅沢な食べ方だそうである。ま

 た近くの畑には甘藷が植えてあり葉が良く茂っていたので、私はその葉の茎をたくさん採

 り皮をむいていたところ、森本君は半信半疑で「そんな物が食えるのか」と言ったので

 「君等がいらないのなら俺一人で食うから見ておれ」と言いつつ、岩塩と黒砂糖で味付け

 して煮付け私が美味そうに食い始めると、傍にいる者も美味そうな匂いに誘われゾロゾロ

 寄ってきて、少し食ってみて「これは美味い」と皆群がってきて美味そうに食ったので、

 私は「それ見た事か」と得意げに言ってやった。道端に九年母のような大きな木があり枝

 に熟した実がたくさんなっていたので、早速これを採り果汁を絞って鶏の肉を味付けの種

 にし鮨を作った。



  進撃中、或る高原地帯にでると罌粟(けし)の花があたり一面満開に咲いていて、これ

 が麻薬の原料の阿片になるのだと聞かされた。またこの高原は遠くまで先が見えないほど

 続く大草原であり、ここならば天然の飛行場のようなもので、東京空襲の敵機が何時でも

 帰路不意に不時着するのは簡単な事であると思った。



  友軍の後方部隊の追及も早く、一線部隊が戦闘を終わり次の前線へ移動する頃には、ク

 リークを連絡路としてどんな山岳にでもヤンマー船で遡航して来て、軍需品の輸送をする

 と共に鹵獲品の後送も始めているのには驚いた。



  夜明け方、某部落へ入ったところ入口には大きな看板が立ててあり、支那軍の規則を何

 ヶ条か書かれていて、国軍に対する接待方法や感謝に至るまで詳細を住民に浸透させてい

 て、また東京へ行く道とも書いてある。この村では住民の殆どが我々を大歓迎で出迎え茶

 等を接待して下さったので、これは早々と日本軍に取り入ろうとの考えで愛想良く迎えて

 くれるのかと思い、上官からくれぐれも住民に無茶な事をせぬようにとの達しがあった。

 ところが日が高くなった頃になると何時の間にか住民は一人も居なくなってしまい、これ

 はどうしたのかと一同不思議に思っていたが、どうも住民は我々を味方の支那軍と間違え

 たらしく、接待をしているのが日本軍であるのに気が付き慌てて逃げ去ったのが真実のよ

 うである。街の中程まで行ったところ四方を白壁に塗った大きな邸宅があったので、どの

 ような家だろうと中へ入って行くと、奥の一室に老婆が二人いて、間に篭に入れた生まれ

 て何程もたたない子供を囲んで静かに佇んでいた。一見何か変な感じがしたので、よく見

 ると子供は高価そうな服を着せられ帽子や靴は赤と金糸を使った綺麗なものであった。片

 言ながら尋ねると子供は死亡したばかりで供養をしている最中らしいので、慌てて手を合

 わせ拝んでやったら二人とも大変喜んで何度も何度も礼を言っていた。



  村外れには共同便所があり、それは半円形の傾斜をつけた板張りで尻を置く所は穴が開

 いていて、幾人もの人が腰を下ろし世間話をし乍用便をする様になっていて、大陸の陽気

 な気風の表れかとも思い、この様な形の便所が方々にあった。




 
  050
 烏渓江敵前渡河

  六月四日頃、部隊は烏渓江河岸に到着し渡河の準備で近くに各隊が宿営した。しかし渡

 河のための船は一隻も無く、敵は退却時に船を全て対岸に持ち去ってしまっていた。よく

 見ると敵陣地付近に船が多数繋留してあり、その船を取ってこなければ渡河は出来ない。

 おりから先日来の豪雨で河は増水し激流となっている上、敵は対岸にトーチカを築き銃眼

 から威嚇射撃を続けている。敵は退却を既に予定しているようだが、対岸の川岸に頑丈な

 陣地を構築し守りを固めているのには感心した。船を取りに行く決死隊が出る事になり人

 数は工兵隊とわが連隊から選出した七、八名だったと思う。自分等は連隊本部が指揮をし

 ている丘地にいて、その一部始終の情況を一望に眺める事が出来た。


  決死隊を守るため重火器や自動火器を丘地に一列に配置し、全火器一斉射撃をもって援

 護をするのである。決死隊は褌ひとつの裸になって渡河点に集合し出動の機会を待ってい

 る。愈愈彼等が泳ぎ始めると同時に号令一下、友軍の全火器が一斉に銃砲撃を開始し、そ

 の万雷響く銃砲声には思わず耳を押さえる程驚いた。それでも敵が執拗に反撃して来る中

 を、決死隊は河の流れを横切るように進み中程からは斜めに泳いで行った。田中捨太郎通

 信中隊長が「持っている火器は全部撃て」と大声で叫んでいて、苦力の荷物の篭に入って

 いた敵から鹵獲したチェッコ機銃を目敏く見つけ、銃弾が無いのに「その銃はどうしたの

 か早く撃て」とまた叫んでいた。丘陵で眺めている者は皆手に汗を握り早く渡ってくれ、

 どうか成功してくれと心から祈っている。決死隊は弾雨で水飛沫の上がる中を漸く全員向

 う岸に泳ぎ着き、繋がれていた船を確保し急いで竿を操りながら反転を始めた。援護射撃

 は一層激しく撃ち続けている内に、敵は船を奪われたのに気づき愈愈退却を始めたらしい。

  決死隊は船の徴発に成功し戻ってきて、その船で次々と部隊は渡河を開始し、続く馬部

 隊も決死隊となり濁流をものともせず馬と共に渡河をするのを見乍、我々命令受領班も連

 隊本部と共に渡河をした。対岸の各部落にも支那軍の上層部からの通知を看板にし軍に対

 する接待等が詳細に掲示してあり、また面白い事に日本の戦陣訓と殆ど同じ様な文句を列

 記して、日本軍を東洋鬼(
トンヤンキ)と呼び東京への公路と云う文字も方々で見た。




  051 
衢州攻略戦

  毎日降りしきる雨の中を河を渡り山を越え進撃を続け各隊は六月五日頃より敵の拠点衢

 州城を包囲し、愈愈始まる総攻撃の準備に大変であり、前線では城壁を登るための梯子を

 造っているとも聞いた。友軍の航空機は城内の爆撃を連日続け敵に相当の損害を与えてい

 るようで、連隊本部は衢州飛行場方面から進撃を開始した。飛行場に近づいた時に突然墓

 地の方向から機銃の掃射を受け、近くにいた軍に随行している日映ニュース班員と憲兵が

 慌てて遮蔽をしているのが見えた。敵は支那特有の三角墓の中を削り抜き銃眼を造って擬

 装しトーチカにしていた。我が速射砲は直ちに銃眼を攻撃して敵機銃を沈黙させ、友軍飛

 行機も地上軍の進撃に呼応して連絡を取り乍激しく銃爆撃を繰り返している。我軍の空陸

 一体の激しい攻撃に敵はなす術もなく総崩れとなり、ある者は退却し逃げ遅れた兵は降伏

 して城門から両手を上げて続々と出てきて、捕虜の群れは後から後からその数も知れない

 ほどの大群である。



  数日来の雨で池の様に水浸しになっている衢州飛行場を進み、六月七日頃城内に入った

 が大きな家の中には敵の戦死者が山に積まれていて、未だ命のある者もいるらしく唸る声

 が其処彼処から聞こえていた。各隊も続々と入城してきて三日間戦い続けた部隊も久しぶ

 りに大休止となり城内外に宿営をする。行李隊宿営地の前に並べられた敵の速射砲、迫撃

 砲、重機関銃を始めチェッコ機銃、小銃、手榴弾等の鹵獲兵器は数え切れないくらい道路

 に溢れている。降り続いた大雨も止み一面溜まった水も次第に流れ去って久し振りの良い

 日和となった。衢州城は城壁に囲まれた大きな都市であり、私は苦力を連れて食料捜しに

 街の中を回り城外にまで足を伸ばし、大出水のため泥を被っている畑で胡瓜や茄子の畑を

 見つけたくさん採ってきた。



  馬部隊の宿営地では、早くも馬の蹄鉄を打つ鍛冶の音がしきりと聞こえて来る。支那で

 は何処も同じであるが醤油店は醤園と看板が出ていて、建物は皆大きな建築で裕福そうな

 構えであり庭内には大きな甕が幾つも並べられていて、その中に醤油をたくさん仕込んで

 あり、古い物から新しい物へと順を追って整理をして並べられていて、その中から質の良

 さそうな醤油を取り、また甕底に溜まった豆の部分で味噌をとって調味料とした。蕎麦店

 では逃げる時に持ちきれなかったのか、打ったばかりの麺が残っていたので早速中華そば

 や焼そばを作って食った。大休止もあっという間に終わり衢州を後に進撃を続け、江山を

 過ぎ玉山を遠く右に見て南下して行軍する。道路に沿った家屋や亭は敵が退却時に、我軍

 の進撃を阻止するためか放火をし炎々と燃えている。その中を走りながら通過をするが、

 夜間には何軒もの家屋が炎に包まれて燃え盛る光景は凄いものである。付近は油桐の栽培

 が盛んで部落には生産した桐油が保管されいて、他の部隊ではそれを食用油と間違えて天

 婦羅を作るのに使用し多くの兵が下痢をしたと聞いた。また石炭の生産地でもあって、そ

 れは地面に露出していて道路の側を直接露天掘りして石炭を採り自家用燃料としている。

 そのため民家の竈(
かまど)は二段式としてあり、上下の間に細い間隔を開けて石炭を燃や

 せる構造であった。



  私はこの頃何時の間にか左足首に腫れ物が出来て、次第に患部が痛みだし歩行に支障を

 きたすようになり、困った事になったと思っていたところ運良く何時であったか某部落で

 大休止となり、部隊救護班で診察してもらったところ患部は既に化膿していたので切開す

 ることになった。軍医は金檀療養所から配属になっている坂巻軍医大尉で噂によると、も

 のすごく恐ろしい軍医との評判で治療方法は麻酔薬など使用せず、氷酢酸を降りかけると

 皮膚が氷結し痺れて麻酔の代わりになると荒っぽい事を言って、氷醋酸を患部に降りかけ

 衛生兵に身体を押さえさせて動けぬようにし、メスで患部を切開し膿を掻き出した。それ

 でも二、三日の大休止の内に痛みも無くなり治癒し行軍する事が出来た。(五一会報第十

 三号坂巻軍医記載の入室治療者名に、五中補一柴原廣彌と私の名前がありこの治療の事と

 思う)



 
  052
 広豊杉渓付近

  部隊は広豊県杉渓付近に達し東方の丘地より杉渓へと進んで行った時、突然前方の山か

 ら敵がチェッコ機銃で盛んに撃ってきて合わせて迫撃砲も撃ってきた。連隊本部の直轄部

 隊は杉渓入口のクリークに架かる石橋を渡るのに大変苦労をしていて、発煙筒を数発投げ

 て煙幕を張り巡らし敵の視界を遮り進撃をした。暫時の内に杉渓鎮を占領し六月十六日頃

 に連隊本部は杉渓に入った。



  五峯山方面の攻撃時は連日大雨が降り続き、加えて雷も鳴り響き大暴風雨となる中で各

 隊は五峯山の争奪戦を続けた。連隊本部もその所在を敵に知られたのか、一時は敵迫撃砲

 の集中砲撃を受け危険な状況に陥った事もあった。我々の命令受領班は豪雨と迫撃砲弾を

 避けて一時農家の小屋の中に避難した。この時に同郷の柴原章君(自家の親戚キンスカの

 また親戚)は第三大隊の命令受領に付属され、六号無線機で連隊本部から大隊本部へ通信

 連絡中、五峯山で敵の攻撃により迫撃砲弾の直撃を受け六月二十一日無念にも戦死をした。

  第一線各中隊は五峯山で激烈な戦闘を繰り返し、わずかの陣地の取り合いで相当な死傷

 者もあったが(五一会報第十三号等に坂巻軍医の詳細な治療記録有り)遂に全山占領し各

 々部所の守備についた。その後も敵の反撃が何回となく繰り返されて、また夜襲をかけて

 来るのでその都度必死に防戦し、敵の攻撃を全て撃退し五峯山は完全に占領したのである。

  連隊本部は杉渓鎮に位置し部隊は引き続きこの地方に分散して駐留し警備を続行するよ

 うで、既に後方では軍需物資や浙贛鉄道の鉄路を没収し続々と輸送中であると聞くが、わ

 が前線部隊への軍需品は一向に届かなく全て現地調達との事らしく、現地住民は既に何処

 へ行ったか皆逃げ去り近隣の部落にも住民一人としていない。



  杉渓は清津江と云う大きな河(色々と呼び方がある)に沿ったかなり大きな街である。

 草煙草等も家の中にたくさん乾燥のため吊り下げ乾してあり、日用器具や炊事道具は置い

 たまま住民は逃げ去ったため、炊事の時に道具をそのまま使えたので其の点では多いに助

 かった。河向うには数町歩にわたる広い野菜畑があり、ちょうど南瓜、胡瓜、茄子等が豊

 作で熟しかけてきたときであった。



  街の中央の大きな家屋に連隊本部が入り、その周囲に軍旗中隊と直轄隊が入っている。

 我々命令受領班は連隊本部近くの一軒家に各隊が集合して一緒に宿営し、命令があると各

 隊受領者は連隊本部の一室に集合し角田副官または連隊付将校の命令発表を受領するが、

 何時も口調が早くて筆記をするのに大変困った。下士官でも地方にいる時は農業や漁業ま

 たは労働職業の者が多く、筆記には不慣れであるが各自は自分の隊への命令は確実に受け

 る様に努力し、後で各隊読み合わせをして清書をし各々大隊に持ち帰る。命令を口達する

 と副官は直ちに各受領者にその関係個所を朗読させ、不備な個所があると「之くらい受け

 られなくてどうするのか」と大きな声で叱られる。


  山羽軍曹不在時は自分も代理で命令受領に行ったが、兵からたたき上げの将校ともなる

 と事務的な事はわからず、それに意地悪とくると筆記するのに大変な苦労をする。命令を

 受領すると五峯山中腹に駐屯している第二大隊本部へ約四、五粁を徒歩で命令伝達に行く。

 始めは森本君と二人で行ったが、次第に馴れて敵の攻撃の心配もなくなり一人で往復する

 ようになった。駐留中も敵と対峙している五峯山では、有力な敵部隊が絶えず反撃をして

 くるので防禦戦で毎日激戦が続き、味方の戦死傷者も多く出ている模様である。敵には童

 子隊という少年部隊が編成されていて、後方で督戦をしているので中々強い部隊であると、

 誠かどうか知らないが噂が広まっていた。



  時々尾本連隊長が前線巡視をするが、この時は直轄部隊や我々命令受領者も軍旗を先頭

 にしてそれに続き連隊長の前を行進する。本部付きの越賀正八少尉(インパール戦線で戦

 死)は自分の母の実家がある志摩郡和具町出身で、いつも腰に携行している拳銃は回転式

 で、一見旧式のような感じの銃でそれが記憶に残っている。



  毎日の豪雨で河も増水して激流となり杉渓東口の石橋は倒壊し、街外れの河渕にある

 車小屋
も土砂で埋まっていた。我々命令受領班は作戦開始以来自分で食料を徴発し炊爨も

 していたが、宿営をした家には岩塩が残っていたので炊爨には大変役に立った。家の床下

 は水路が引き入れられ、常に冷たい清水が流れていて食料を貯蔵するのに好都合である。

 方々食料を捜し回っている内に最初杉渓に入る時に敵の射撃にあった山の付近で、あまり

 人目にはつかない藪の中に胡瓜と青豆の植えてある畑をを見つけ、これは他の者には秘密

 にして我々だけで暫くの間採取をした。街には住民が逃げるときに残していった小麦粉、

 豆麦および葛粉等が方々にあり、砂糖は黒の粉だがたくさんあったので饅頭やぜんざい等

 を作った。この話しを聞きつけて他の隊の者が葛饅頭の作り方を教えてくれと頼みに来た

 事もあった。



  連隊経理室では糧秣を募集し各前線へ補給をしているが、駐留の期間が長期化するに従

 い現地の食料も底をついてきた。経理室では始め植付けた田園の稲も伸びかけた頃は馬の

 飼料等にしていたが、実の付いた頃になると苦力を動員し稲を刈り白米にまで精米した。

 また土砂で埋まっていた水車も掘り起こして修理をし、精米等に使ったが直ぐに壊れてし

 まい余り長くは利用出来なかったようである。また唐臼を何基か置き苦力が終日、杵を足

 で踏み乍精米をしていた。どこかの部隊では鵜を使い近くの河で鵜飼で魚を獲っていると

 も聞いた。河向こうの野菜畑も公になり収穫も制限されみだりな採取は禁じられ、経理室

 が管理をし清津江の軍橋は昼間なら全通しているが、夜間には対岸側は解纜し杉渓の沿岸

 に繋ぎ不通となるので、夜間密かに採りに行けなくなったが経理室が制限する前に三回程

 野菜を採りにいった。対岸の野菜畑は部隊により拡大されて収穫が始まり、この地方の野

 菜の豊作には驚ろかされた。 


  民家の小屋で他部隊の初年兵が豚をみつけ、小銃で撃ったりしていたがどうにも仕留め

 られないので、私がその銃で一発で射殺したが良く見ると豚ではなく猪であった。肉は取

 って帰ったが余りにも年をとった猪だったのか肉は固く食用にはならなかった。また支流

 の川では苦力を使って川を堰き止め水を汲み干して魚を獲っているのを見た。街の近くま

 で友軍のトラックや戦車が走っているのか、エンジンの音がしきりに聞こえて来て物資の

 輸送をしているようである。軍靴の修理班も来ていると聞くが中々行き廻らず、兵は縫糸

 が腐ったため糸の切れた破れ靴ばかりを履いている。靴下の予備も無く敵の衣類の袖を切

 って足に巻きつけ靴下の代わりとしている。また支那軍の衣服原料と思われる織目が荒い

 白い布がたくさんあって、これを徴発し連隊本部では蝿除けに天井から幾条もつるしてい

 た。支那軍の国防色シャツも多くあり、わが兵はボロボロになった襦袢を捨てて着ていた。

 質は悪いが革製品も多くあり革バンドや腰に付ける図嚢等を器用に造る者もいた。石鹸の

 類は全く無く、現地人は大豆の油粕を固めた物を使っている。毎日の日課である命令受領

 が済むと一人が大隊本部へ伝令に行き、後はいたって陽気なもので流行歌を歌ったり、大

 きな板を敷いてその上で昼
寝をしたりした。食料捜しに行く者もあるが、駐留が長引くと

 もう捜す食料も底をついて無くなる。いつしか浙贛作戦の歌が部隊内に流行し皆が歌うよ

 うになった。(この歌は後に県土木事務所次長をした人で復員時に工兵第四連隊で同じ船

 で帰った、池田一道中尉の作詞だと聞いた)



  七月十四日は連隊の軍旗祭であったが作戦の関係で繰り延べした日とも思うが、また十

 四日は当日であったのか確かな記憶はない。杉渓東部の学校の校庭で軍旗祭を行った。こ

 の時七中隊は軍旗中隊であり同郷の柴原義廣上等兵は通常下士官が勤める軍旗護衛を特に

 指名され、軍旗の右で直立不動の姿勢で参加した。初年兵の幹部候補生採用試験もこの学

 校の教室で行っていたのを、野菜取りに行く道すがら窓越しに覗き見をしたが、受験者は

 必死で試験に取り組んでいた。



  長い駐留期間もやがて反転する時期が近くなってきた模様だが、何時の作戦時でも反転

 する時は敵の追撃が強く思わぬ損害を受けるので、事前から慎重な作戦が必要であると古

 兵から教えられた。反転に備えて一ヶ月程前から前線に進出するような行動を繰り返した

 り、また永駐留するような気配を作って巾五十糎長さ四米程の板に「大日本帝国陸軍用地

 と大書して、敵との中間地点の河原に立てた事もあった。



  作戦中、兵は胃腸を悪くし下痢患者が多かったが前線には下痢薬の補給が全く無く、衛

 生兵に薬を貰いに行くと炭を粉にして飲めと言われ、また大菽(おおまめ)が下痢に良く

 利くと云うので大菽を焼いて、それに黒砂糖を付けてよく食ったものである。私はマラリ

 ヤの薬を時々服用していると良く利き割合と身体も健康であり、昨年のように落伍する心

 配もなかった。入隊する以前内地にいた頃は芸能人の慰問団が戦地に慰問に行く記事を新

 聞等でよく見たが、この長い大作戦にも関わらずそのような慰問団を見た事もなければ聞

 いた事もなかった。





父 柴原廣彌の遺稿へ

2011.10.14.