052 広豊杉渓付近
部隊は広豊県杉渓付近に達し東方の丘地より杉渓へと進んで行った時、突然前方の山か
ら敵がチェッコ機銃で盛んに撃ってきて合わせて迫撃砲も撃ってきた。連隊本部の直轄部
隊は杉渓入口のクリークに架かる石橋を渡るのに大変苦労をしていて、発煙筒を数発投げ
て煙幕を張り巡らし敵の視界を遮り進撃をした。暫時の内に杉渓鎮を占領し六月十六日頃
に連隊本部は杉渓に入った。
五峯山方面の攻撃時は連日大雨が降り続き、加えて雷も鳴り響き大暴風雨となる中で各
隊は五峯山の争奪戦を続けた。連隊本部もその所在を敵に知られたのか、一時は敵迫撃砲
の集中砲撃を受け危険な状況に陥った事もあった。我々の命令受領班は豪雨と迫撃砲弾を
避けて一時農家の小屋の中に避難した。この時に同郷の柴原章君(自家の親戚キンスカの
また親戚)は第三大隊の命令受領に付属され、六号無線機で連隊本部から大隊本部へ通信
連絡中、五峯山で敵の攻撃により迫撃砲弾の直撃を受け六月二十一日無念にも戦死をした。
第一線各中隊は五峯山で激烈な戦闘を繰り返し、わずかの陣地の取り合いで相当な死傷
者もあったが(五一会報第十三号等に坂巻軍医の詳細な治療記録有り)遂に全山占領し各
々部所の守備についた。その後も敵の反撃が何回となく繰り返されて、また夜襲をかけて
来るのでその都度必死に防戦し、敵の攻撃を全て撃退し五峯山は完全に占領したのである。
連隊本部は杉渓鎮に位置し部隊は引き続きこの地方に分散して駐留し警備を続行するよ
うで、既に後方では軍需物資や浙贛鉄道の鉄路を没収し続々と輸送中であると聞くが、わ
が前線部隊への軍需品は一向に届かなく全て現地調達との事らしく、現地住民は既に何処
へ行ったか皆逃げ去り近隣の部落にも住民一人としていない。
杉渓は清津江と云う大きな河(色々と呼び方がある)に沿ったかなり大きな街である。
草煙草等も家の中にたくさん乾燥のため吊り下げ乾してあり、日用器具や炊事道具は置い
たまま住民は逃げ去ったため、炊事の時に道具をそのまま使えたので其の点では多いに助
かった。河向うには数町歩にわたる広い野菜畑があり、ちょうど南瓜、胡瓜、茄子等が豊
作で熟しかけてきたときであった。
街の中央の大きな家屋に連隊本部が入り、その周囲に軍旗中隊と直轄隊が入っている。
我々命令受領班は連隊本部近くの一軒家に各隊が集合して一緒に宿営し、命令があると各
隊受領者は連隊本部の一室に集合し角田副官または連隊付将校の命令発表を受領するが、
何時も口調が早くて筆記をするのに大変困った。下士官でも地方にいる時は農業や漁業ま
たは労働職業の者が多く、筆記には不慣れであるが各自は自分の隊への命令は確実に受け
る様に努力し、後で各隊読み合わせをして清書をし各々大隊に持ち帰る。命令を口達する
と副官は直ちに各受領者にその関係個所を朗読させ、不備な個所があると「之くらい受け
られなくてどうするのか」と大きな声で叱られる。
山羽軍曹不在時は自分も代理で命令受領に行ったが、兵からたたき上げの将校ともなる
と事務的な事はわからず、それに意地悪とくると筆記するのに大変な苦労をする。命令を
受領すると五峯山中腹に駐屯している第二大隊本部へ約四、五粁を徒歩で命令伝達に行く。
始めは森本君と二人で行ったが、次第に馴れて敵の攻撃の心配もなくなり一人で往復する
ようになった。駐留中も敵と対峙している五峯山では、有力な敵部隊が絶えず反撃をして
くるので防禦戦で毎日激戦が続き、味方の戦死傷者も多く出ている模様である。敵には童
子隊という少年部隊が編成されていて、後方で督戦をしているので中々強い部隊であると、
誠かどうか知らないが噂が広まっていた。
時々尾本連隊長が前線巡視をするが、この時は直轄部隊や我々命令受領者も軍旗を先頭
にしてそれに続き連隊長の前を行進する。本部付きの越賀正八少尉(インパール戦線で戦
死)は自分の母の実家がある志摩郡和具町出身で、いつも腰に携行している拳銃は回転式
で、一見旧式のような感じの銃でそれが記憶に残っている。
毎日の豪雨で河も増水して激流となり杉渓東口の石橋は倒壊し、街外れの河渕にある水
車小屋も土砂で埋まっていた。我々命令受領班は作戦開始以来自分で食料を徴発し炊爨も
していたが、宿営をした家には岩塩が残っていたので炊爨には大変役に立った。家の床下
は水路が引き入れられ、常に冷たい清水が流れていて食料を貯蔵するのに好都合である。
方々食料を捜し回っている内に最初杉渓に入る時に敵の射撃にあった山の付近で、あまり
人目にはつかない藪の中に胡瓜と青豆の植えてある畑をを見つけ、これは他の者には秘密
にして我々だけで暫くの間採取をした。街には住民が逃げるときに残していった小麦粉、
豆麦および葛粉等が方々にあり、砂糖は黒の粉だがたくさんあったので饅頭やぜんざい等
を作った。この話しを聞きつけて他の隊の者が葛饅頭の作り方を教えてくれと頼みに来た
事もあった。
連隊経理室では糧秣を募集し各前線へ補給をしているが、駐留の期間が長期化するに従
い現地の食料も底をついてきた。経理室では始め植付けた田園の稲も伸びかけた頃は馬の
飼料等にしていたが、実の付いた頃になると苦力を動員し稲を刈り白米にまで精米した。
また土砂で埋まっていた水車も掘り起こして修理をし、精米等に使ったが直ぐに壊れてし
まい余り長くは利用出来なかったようである。また唐臼を何基か置き苦力が終日、杵を足
で踏み乍精米をしていた。どこかの部隊では鵜を使い近くの河で鵜飼で魚を獲っていると
も聞いた。河向こうの野菜畑も公になり収穫も制限されみだりな採取は禁じられ、経理室
が管理をし清津江の軍橋は昼間なら全通しているが、夜間には対岸側は解纜し杉渓の沿岸
に繋ぎ不通となるので、夜間密かに採りに行けなくなったが経理室が制限する前に三回程
野菜を採りにいった。対岸の野菜畑は部隊により拡大されて収穫が始まり、この地方の野
菜の豊作には驚ろかされた。
民家の小屋で他部隊の初年兵が豚をみつけ、小銃で撃ったりしていたがどうにも仕留め
られないので、私がその銃で一発で射殺したが良く見ると豚ではなく猪であった。肉は取
って帰ったが余りにも年をとった猪だったのか肉は固く食用にはならなかった。また支流
の川では苦力を使って川を堰き止め水を汲み干して魚を獲っているのを見た。街の近くま
で友軍のトラックや戦車が走っているのか、エンジンの音がしきりに聞こえて来て物資の
輸送をしているようである。軍靴の修理班も来ていると聞くが中々行き廻らず、兵は縫糸
が腐ったため糸の切れた破れ靴ばかりを履いている。靴下の予備も無く敵の衣類の袖を切
って足に巻きつけ靴下の代わりとしている。また支那軍の衣服原料と思われる織目が荒い
白い布がたくさんあって、これを徴発し連隊本部では蝿除けに天井から幾条もつるしてい
た。支那軍の国防色シャツも多くあり、わが兵はボロボロになった襦袢を捨てて着ていた。
質は悪いが革製品も多くあり革バンドや腰に付ける図嚢等を器用に造る者もいた。石鹸の
類は全く無く、現地人は大豆の油粕を固めた物を使っている。毎日の日課である命令受領
が済むと一人が大隊本部へ伝令に行き、後はいたって陽気なもので流行歌を歌ったり、大
きな板を敷いてその上で昼寝をしたりした。食料捜しに行く者もあるが、駐留が長引くと
もう捜す食料も底をついて無くなる。いつしか浙贛作戦の歌が部隊内に流行し皆が歌うよ
うになった。(この歌は後に県土木事務所次長をした人で復員時に工兵第四連隊で同じ船
で帰った、池田一道中尉の作詞だと聞いた)
七月十四日は連隊の軍旗祭であったが作戦の関係で繰り延べした日とも思うが、また十
四日は当日であったのか確かな記憶はない。杉渓東部の学校の校庭で軍旗祭を行った。こ
の時七中隊は軍旗中隊であり同郷の柴原義廣上等兵は通常下士官が勤める軍旗護衛を特に
指名され、軍旗の右で直立不動の姿勢で参加した。初年兵の幹部候補生採用試験もこの学
校の教室で行っていたのを、野菜取りに行く道すがら窓越しに覗き見をしたが、受験者は
必死で試験に取り組んでいた。
長い駐留期間もやがて反転する時期が近くなってきた模様だが、何時の作戦時でも反転
する時は敵の追撃が強く思わぬ損害を受けるので、事前から慎重な作戦が必要であると古
兵から教えられた。反転に備えて一ヶ月程前から前線に進出するような行動を繰り返した
り、また永駐留するような気配を作って巾五十糎長さ四米程の板に「大日本帝国陸軍用地」
と大書して、敵との中間地点の河原に立てた事もあった。
作戦中、兵は胃腸を悪くし下痢患者が多かったが前線には下痢薬の補給が全く無く、衛
生兵に薬を貰いに行くと炭を粉にして飲めと言われ、また大菽(おおまめ)が下痢に良く
利くと云うので大菽を焼いて、それに黒砂糖を付けてよく食ったものである。私はマラリ
ヤの薬を時々服用していると良く利き割合と身体も健康であり、昨年のように落伍する心
配もなかった。入隊する以前内地にいた頃は芸能人の慰問団が戦地に慰問に行く記事を新
聞等でよく見たが、この長い大作戦にも関わらずそのような慰問団を見た事もなければ聞
いた事もなかった。
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