柴原廣彌の遺稿 11

 
  
053 反転作戦

  愈愈、部隊の反転する時が来て後方では逐次準備をしているらしく、杉渓でも街中に

 あるあらゆる器具類を広場に山積みして火を放って焼きはらっていた。今迄は反転の時

 期を秘してあらゆる擬作戦を行ってきたのに、こんなに焼き煙を高く上げては敵に察知

 されるだろうと、部隊のする事は我々には理解できず不思議に思われたくらいである。


  記憶は薄いが多分八月二十日頃と思う夕刻を期して杉渓鎮を後にし、後備中隊に護ら

 れ乍夜間急行軍で反転を開始した。夜明けまでに敵との距離を出来る限りあけるための

 急行軍であるが、永い駐留中ほとんどの兵は疲労が甚だしく、其の上腹を悪くしてアメ

 ーバ赤痢を患っていた。行軍中でも我慢が出来ずに道路脇に入ってズボンを下ろして大

 至急用便している者もある。朝方近くになり未だ暗い内に小休止となり、その間に道路

 端で我々は朝食を済ませ夜が明けてまわりが見える頃になって周りを良く見ると、その

 辺一帯下痢患者の便の乾いた物が一面に広がっており、その上に我等は腰を下ろし休み

 朝食をしていたのだった。先に反転していった部隊の便の跡だった。



  暫時休憩のあと出発行軍を続けたが、まもなく敵は追撃を開始したらしく後方で銃声

 が聞こえ始め、途中からは小型戦車が後備護衛に配属された。敵が接近する度に後備の

 隊が反撃をし乍敵を追い払い行軍を続行し、玉山近くを通過する頃になると部隊は道路

 の両側に二列となって進み、兵の衣服は破れて作戦当初の物の面影もなく、敵から奪っ

 た黒や緑色の種々雑多な衣服を着ていて敵か味方かわからぬくらいであるが、それでも

 整然とした行軍を続けた。時々鶴のような大きな野鳥が野原に止まって餌をあさってい

 るのを見て、試射のつもりで小銃で撃ってみるが中々当らず、尾本連隊長が馬から降り

 て試射をしたが流石に大したもので一発で仕留めた。



  苦力は軍の荷物を持つかたわら徴発した衣服を着て、袖を折り曲げその中に各々徴

 発品を隠して持っていて、これが彼等の余禄であり進んで討伐に応募するのもこれが

 あるためである。私も苦力が捜し当てた一円銀貨一個その上前を跳ね取り上げた事が

 あった。



  鉄路は既に取り外し輸送され路面に枕木の痕が段々と長く続き、それに平行した公

 路を部隊は行軍を続け、工兵が苦労して架設した軍橋も友軍後備部隊が通過を終わる

 と、直ちに爆破をして
敵の追跡阻止に備えた。江山付近には未だレールが積み重ねて

 あったが、この付近では我々が反転後も他の部隊が未だいるのか、レールの運搬を急

 いでいるようであったが敵は近く迄迫って来ているようで、わが後備の部隊は反撃を
 
 して追い払っている。進撃時大激戦で多大の戦果を上げた衢州の郊外を通過した時、

 レンガ造りの大きな建物(衢州飛行場の格納庫らしい)が爆撃のため、見るも無残な

 姿を晒し破壊され側面だけが残っているのを見た。



  軍橋を渡り金華の近くに着いた時、河原の砂原に四、五名の西洋人が見るも哀れな

 格好で寝転んでいた。外国からの軍事指導の援軍だったのか、それとも大陸を食潰し

 ている浙贛浪人なのかは定かでない。



  八月中旬、某部落で大休止があり五中隊本部より連絡があり、私は八月一日付けで

 上等兵に進級したことを知らされ、中隊が近くにいるので早速出かけ各上官に進級の

 申告をした。



  渡河点では河に竹棒を打ち込み浅瀬を目印にして渡河を便利にしてある。部隊は九

 月二十一日頃に渡河をして、諸曁の街に入って大休止となり二日程の休養である。昨

 年の浙東作戦で相当荒らしていった街であるが、各隊は設営者の指示により無人の民
 
 家を振り分けられ宿営をしたが、夜は暑くて眠れず家の外板囲いを次々と破り涼を求

 め風を入れた。また炊爨の燃料には家を破って炊いたので、街は殆ど全壊ほどの荒れ
 
 様である。二、三日当地で休養の後、更に行軍を続け紹興警備隊に到着し検疫を受け、

 蘭山を経て銭塘江の六亜橋を渡り杭州西湖の西岸付近の民家に宿営をした。また西湖

 は有名な景勝地で、西岸から杭州を眺めた西湖の景観はまた格別である。この地方は

 素麺の産地として有名であり、長く幾条も延ばした麺を屋根からたくさん吊るして乾
 
 燥させていた。尾本連隊長は長期の作戦で鬚を永く伸ばし、浴衣に着替えて本部宿舎

 で休養していた。



  九月二十九日杭州南星橋駅から汽車便で、例により馬糞の転がっている貨車に詰め

 られて出発し、九月三十日丹陽駅を経て五ヶ月ぶりに金壇に帰った。




 
  054
 薜埠鎮警備隊

  浙贛作戦が終了し金檀で新品の被服を支給され薜埠鎮警備隊勤務となった。警備地の

 移動で第五中隊本部は南へ数粁ほど離れた志村に駐屯となり、中隊本部への連絡はトラ

 ック便となったため現地人を動員して自動車道路を急造し、古瓦や石を敷き詰めトラッ

 クの通行が容易に出来るようにした。中隊本部へ連絡に行くと時には一泊する場合もあ

 り、何時であったか内地から慰問演芸団が志村に来て、皆大喜びしたと連絡にきた兵が

 話していた。十月十日に浙贛作戦のため支給が滞っていた六月、七月、八月、九月の四

 ヶ月分の俸給計五十七円三十銭が北村勇曹長より纏めて支給され、更に十月二十二日に

 は十月分の俸給を十七円ちょうど支給を受け、上等兵に進級したので俸給も昇給してい

 た。また十一月十日に八、九、十月分俸給の追給が十六円五十銭五中隊北村利一郎曹長

 より支給された。



  今まで中隊本部があった薜埠鎮は分屯警備隊となり、隊長は直渓橋警備隊長だった

 例の堀内晃准尉で隊長はめでたく准尉に昇進していて、隊員は古参兵が多く約二十名

 程である。ここの勤務は割合と陽気なもので古年兵といえども皆気持ちの良い人達ば

 かりで、この陣地は初年兵当時からの古里のようなところで隅々まで良く知っている。

 勤務は今までとあまり変わりはなく、時々警備要員を残して炊事用と暖房用の薪切り

 に近くの部落方面に出かけたが、立木の少ない中支では遠くから運んで来る茅も燃料

 にしている。部落付近にあるクリークの堤には柳の類であるかなり大きな保護木が所

 々に繁っていて、現地人の鋸や青竜刀で切り倒しその場で小切りにし薪を作る。昼食

 には米と調味料のみを持って行き、部落の犬をけしかけ飼っている鶏を追い回させる。

 鶏は逃げ惑い畠の柵に首を突っ込んで動けなくなり、もがいているのを捕らえ軍靴で

 首を踏みつけて、グッと胴体を引き上げると「ポツン」と音を立て首は千切れてしま

 い、すぐ胴体を手放すと首なしのままトコトコと数歩走って「パタッ」と行き倒れる。

 小林富次古年兵等は掛け声も勇ましく料理をし、鶏をぶった切って煮込みをしたり肉

 を種にして鮨を作り御馳走する。帰りは苦力を使って一輪車に薪を積ませて持ち帰る

 ので、部落民は何時も「メーハーズ」である。十一月二十二日には十一月分の俸給が

 支給されたが二十二円五十銭に昇給していた。



  運動場には、何時何処から連れてきたのか騾馬が一頭飼われいて、兵等は時々ふざけ

 鞍の無い背に跨り乗馬の真似をして駆るが、馬部隊でない悲しさで扱い難く直ぐに振り

 落とされる。



  宣撫のため現地小学校の児童を隊内運動場に集めて兵と合同で運動会を開催したが、

 若い先生と高坂軍曹が競争した時はどちらも互角であり、大変賑わい子供達も大喜びだ

 った。



  日曜の休みともなると街へ出て商店の物を買ったり麻雀屋へ行き遊んでくる者もある

 が、麻雀屋では初めは兵にドンドン勝たせて喜ばせておき、最後にはしっかりと現地人

 が勝っている。日本円と中国元との貨幣価値の違いから、兵は大負けしても大した損に

 はならない。兵の俸給は少ないが中国人から見ると金持ちであり恰好のカモでもある。



  街ではメリケン粉を練って甕の内側に張り付けて、下から火で焼いたソーピンと云う

 煎餅のようなものに水飴を塗って売っている。茶店の机では木の腰掛けに腰を下ろした

 数人の現地人が何を話すともなく唯、黙々として時々通る人を見ては、ニターッと不気

 味な笑いを浮かべ陽気な日々をおくっている。また部落外れの畠の畔にある大きな甕

 (径二米あまり)の周りには、数人がうずくまって尻を並べて長時間用便をし乍、世間

 話や雑談をしている風景がよく見られる。彼等は何時も陽気と云うか、悠長で鷹揚な人

 達ばかりである。


  大隊長の地区内巡視があり隊内に宿泊した事があり、その日、自分等は衛兵勤務に就

 いていて生憎寒い日であったので古兵ばかりの分屯勤務の気安さから、仮眠室の毛布を

 持ちだし衛兵所の入口に掛けて風を防いだ。堀内隊長は大隊長が宿泊しているので緊張

 し夜中に特に陣地を見廻りに来たところ、衛兵所の入口に毛布が掛けてあるのを見て、

 おおいに驚き「お前達は何事だ常にはこんな事はしないのに、大隊長が見たら何時もこ

 の様にしているのかと思うではないか早く取りなさい」と隊長は特に気を利かせて注意

 をした。堀内隊長はこんなところを大隊長に見られたら、唯では済まぬと肝を冷やした

 事であろう。


  軍靴の程度が悪く雪降りには冷たい水がしみて足は凍りつき、一時間の立哨には常に

 動いていないとたまらず、立哨が済んで衛兵所に帰るとドラム缶を切って造ったストー

 ブに薪を焚き、冷え切った足を暖めるので一時的に生き返った思いがする。濡れた破れ

 靴をストーブの鉄板に押しつけるとジューッと音がして足の底が暖かくなり、靴の為に

 は良くないが古狸兵の殆どは同じようにしているが、そんな事をしていると縫糸が弱り

 切れて軍靴のつま先も踵も口を開いてしまうのである。



  陣地の前のクリークを民船が通過する時は、危険物が無いか歩哨は船内を調べる事に

 なっている。方法は荷物の中を長い鉄棒で突いて調べるが、時々南京豆をたくさん積ん

 でいる船が通るので少々徴発をする。民船は殆どが燃料にする茅を山のように積み、遠

 くの地方から舟竿を突いて船を操り通過して行く。また陸上では苦力が茅の束をたくさ

 ん天秤棒で担ぎ数名が一団となって、先頭の者が音頭をとり掛声をあげて運んで来るの

 が毎日見られる。



  十二月になって寒さも一段と厳しくなり以前から痔疾の兆候があったが、寒さととも

 に更に痛みの症状が悪化してきた。ある日衛兵勤務で東陣地を動哨していた時、大便が

 近くなり交替の時まで我慢が出来なくなり仕方なく城壁から下に飛び下りて、軍装のま

 まズボンを下ろして大至急用便を済ました。城壁は余り高く無かったのが幸いで攀じ登

 れたが、この時痔の症状を余計に悪くしたようで、衛兵交替して衛兵所に帰ると早速火

 に温まり痛みも我慢が出来たが、交替時間が来て再び立哨に立つ頃には、同じように痛

 みがぶり返し一晩中この繰り返しであった。十二月二十二日、十二月分俸給二十二円五

 十銭の支給があった。





  055
 金壇療養所入院

  十二月三十日堀内隊長に申し出て金壇へ行き大隊医務室で診察を受け、浙贛作戦時左

 足首に出来た腫れ物の切開をしてもらった坂巻軍医の診断で、完全痔瘻により即日金壇

 療養所
入院し手術を受ける事になった。病院の外科軍医が出張不在だったので、手術

 は坂巻軍医の厚意で執刀をしてもらうことになった。普通軍隊での痔瘻手術は局部麻酔

 だけで行うが、まさかまた氷醋酸ではたまらないと思っていたが、私が以前医務室勤務

 だった関係もあり、好意的に坂巻軍医は腰から下の半身麻酔で手術をしてくださり、何

 針か傷口を縫って「このくらいで良いだろう」と言って手術を終了した。軍隊という観

 念からか、手術後も大して痛みも感じなく翌日には歩いて便所へ行けた。便所で底口に

 手を添えて確かめてみると傷口を縫った糸が集まって、まるで旗の房の様に垂れ下がっ

 ており、こんなにたくさん縫ったのかと改めて驚いた。


  金壇療養所の外科病棟は鉄製寝台を並べて間隔を広く取り回診に便利なようにしてあ

 り、紐を付けたガラス瓶が寝台に吊るしてあって、小便がしたくなると紐を引き上げて

 用をたし終わると下に降ろしておく。同郷で昭和十五年末入隊の柴原楠成君(ビルマあ

 けぼの村で戦死)も痔疾で入院していて、痔の患者は以外と多く包帯交換となると各自

 が桶を持って湯を貰い、尻をまくって腰湯で患部を清潔にした後で軍医の診察を受ける

 のだが、実際は殆ど古兵の衛生兵が治療をしていた。



  上海駐留当時に将校室にいた気持ちの良い人の田中主計少尉も入院しており、退屈

 しのぎに毎日自分等の病室に来て遊んでいた。七中隊の昭和十五年末入隊のM一等兵

 も痔疾で入院しており、彼は事前の腰湯を丁寧にしないまま治療を受け、仰向けに寝

 転がって両足を両手で支え尻を上に持ちあげ軍医の診察を受けようとした時、思わず

 「プゥーッ、ブチブチ」と放屁してしまったため肛門周囲が汚物で泡だち周りに臭気

 がたちこめ、軍医は顔を背け古参の衛生兵は「馬鹿野郎」と顔を真っ赤にして怒鳴り、

 おもいきりM一等兵の尻を引っぱたいた。周りでそれを見ていた我々はおかしくても

 笑うに笑えず堪えるのに困ったものであった。またこの療養所で日赤から派遣されて

 いる看護婦が一人、盲腸炎となり手術をうけたと聞いた。



  外科に入院していた一人の患者が喘息を併発し時々苦しんでいたが、或る日症状が

 ひどくなり咳が止まらず呼吸も困難となって苦しみに耐えられなくってきた。折り悪

 く外科の軍医は出張不在のため内科医の指示を受け、古参衛生兵が執刀して喉の気管

 の一部を切開し苦しみから救おうとし、その後その患者は呼吸の都度ゴロゴロと音を

 発っするようになったが、手当ての甲斐もなくその夜半ついに死亡した。


  入院患者には給料日から二、三日すると連絡所を通して俸給を持って来てくれるの

 で、外出をする看護婦に依頼して酒保の品を買って来てもらったりした。近く連隊の

 配備変更がある予定で診療所も縮小することになり、患者は逐次鎮江陸軍病院へ転送

 されると決まったのである。




 
  056
 鎮江陸軍病院転送

  昭和十八年一月十八日、金檀療養所の患者十八名は最古参の看護婦と衛生兵一名が付

 き添って、白衣姿のままゾロゾロと金檀の街を引率され北門(丹陽門)まで行きバス停

 より軍用トラックで丹陽駅へ着き、汽車に乗り換えて鎮江駅で下車し鎮江陸軍病院に転

 送された。この病院には浙贛作戦で、わが連隊に配属されていた軍医大尉がいた。また

 作戦中に命令受領に来ていた衛生兵もいて彼とは顔見知りのため何かと便利な事があっ

 た。



  陸軍病院長は年をとった軍医中佐で、これまた中々はりきっておりウッカリしてい

 ると患者は院長に鬢太を食うと云う、軍隊意外では考えられない暴力沙汰が起こるの

 である。 また訓示の時になると「お前等は軍隊で胸膜炎などと聞こえは良いが皆肺

 病患者だ」と、今度は言葉の暴力を言って叱りつけるとんでもない院長だった。ここ

 でも毎日金桶に湯を貰って尻を清潔にし外科治療を受けるが、私は身体のほうは何処

 といって悪い事はなく、治療を受けるだけで大変気楽なものである。病院には中支に

 駐留している方々の部隊から病気の兵が入院していて、どこかの初年兵で歌を上手に

 歌うのがいて消灯後、私が歌えと進めるとちょうど愛染かづらの流行している時であ

 り「旅の夜風」を歌っていたところ、不寝番の衛生兵が廻ってきて「今歌ったのは誰

 か」と言って「何がホロホロ鳥か」とその初年兵は叱られた。ところがその兵は「柴

 原上等兵が歌えと言ったのです」と言い訳をしたので、これは困った事になったと私

 は思ったが、その衛生兵は一等兵で私が上等兵だったためか何も言わずに立ち去った。

 もしもこれが兵営内で起 こった事だったならば、この初年兵は上官に罪を押し付け

 たと徹底的に気合を入れられただろう。数日してまた金檀から転送患者が数名入院し

 てきて、金檀療養所には患者は殆ど居なくなったと言っていた。一月二十二日、一月

 分俸給二十二円五十銭の支給あり。



  一月初旬の内に、金檀の連隊本部は直轄隊と共に鎮江に移転したそうである。私は手

 術後の傷も殆ど良くなっているが軍医の回診では未だ創が残っているからと、退院は延

 びていたので内心では喜んでいた。二月中旬となり不運にも院長の回診があり「こんな

 創くらい大丈夫だすぐ退院せよ」と言われ、仕方なく退院のうえ病院内にある体力鍛錬

 所に入所した。





父 柴原廣彌の遺稿へ

2011.10.14.