柴原廣彌の遺稿 12

 
  
057 体力鍛錬所

  退院した兵は皆この体力鍛錬所に入所し毎日鍛錬のため体操、駈足、行軍及び色々

 な作業を行って体力の回復に努めるのである。我々病院を退院した兵は二班に分かれ

 て鍛錬に努め、揚子江沿岸の山上にある甘露寺には数回行軍をして行き、昔この寺で

 安部仲麻呂が修行をし有名な歌(天の原)を詠んだところと聞かされ、軍票十銭を出

 し寺僧に頼むと大きな石碑の拓本を採ってくれる。この寺から揚子江を見下ろすと眼
 
 下には海軍警備隊があって、砲艦や掃海艇等の小型艦が数隻停泊していた。また数粁

 を行軍して金山寺へも行き、ここが金山寺味噌の発祥地とかで門前に軒を並べてその
 
 味噌を売っていた。昔、弘法大師が修行したという洞窟もあり、講堂を覗いてみると

 十数名の修行僧が二列に並んで修行をしており、高僧なのか一人の老僧が棒を持って

 絶えず見廻っていて 不届きな者を見つけるとすかさず肩の方をピシリと叩く。その

 うちに鍮ったのか静かに退室していった僧がいた。



  一班には下士官が居たが私の属した二班には下士官は居なく、私が上等兵の最古参

 であったので点呼の時は班長代理を努めた。歳のいった初年兵は要領を稼ぐため私に

 色々と追従をしてきて、食事の時になると古参の者は特別上段に祭り上げられ、そこ

 で食事をとり真に上等兵様様で軍隊に入隊以来、こんなに神様扱いをされたのは後に

 も先にもこれが始めてで、何時までもここに居られたらと誰でも思うだろうし自分も

 そう思った。二月二十二日、二月分俸給二十二円五十銭が当病院で支給された。


  私は、ある日突然左腹の腹痛を起こして自分で内証に持っていた六神丸を飲んだと

 ころ、余計に症状が悪くなり数回嘔吐し仕方なく軍医に申し出て、診断をした担当の

 軍医大尉は嘔吐もあり白血球も多いから盲腸炎だと診断し、左腹が痛いのは特異体質

 で盲腸が左にあるからと屁理屈をつけ結局手術をすると決められてしまった。私は盲

 腸炎ではなく嘔吐したのは六神丸を飲んだためと思うが、それを言えば病院以外の薬

 を飲んだと余計ひどく叱られるに決まっているので困ってしまった。やむおえぬ事だ

 が手術を受けるしかなく、しかし手術をすれば臭いで六神丸を飲んだのがすぐわかっ

 てしまう。進退極まるとはこの事でホトホト困ってしまったところ、どうした事か院

 が特別診察をすると言い出し「今晩まで手術は待て、そのあと様子を見てから手術だ」

 と言った。私はこれでとりあえず一安心し、すると夕刻までにはあのひどい腹痛が嘘

 のようにすっかり治ってしまった。軍医大尉の藪医者にはまったく呆れたもので、あ

 やうく腹を切られるところであった。

  三月七日、柴原楠成君と共に上等兵様様の神様扱いに未練を残し鍛錬所を退所とな

 りその晩は柴原楠成君が所属する歩兵砲中隊へ行って曹長殿に宿泊を御願いし、翌日

 汽車で丹陽駅に着きバスの発車時刻の関係で少し時間があったので、今は第一大隊に

 勤務している竹内軍医をたずね挨拶をした。


  バスで金壇に帰り連絡所で中隊本部への便を待っていたところが、薜埠鎮警備隊か

 ら自分の私物を全部送って来て、第二大隊本部勤務に就くため金壇へ行くようにとの

 命令であった。





  058
 大隊本部医務室勤務

  大隊本部へ出頭したところ二度目の軍医伝令勤務を命ぜられ、担当軍医は伊勢市の

 畑病院の畑幾穂見習士官である。畑軍医は日本酒の大変好きな人で、ほとんどアル中

 と云ても良いほどよく飲んでいたが、煙草は全く吸わず前回の竹内軍医とはまるで逆

 のような人であった。軍医の居室は大隊本部の二階にあり、始め酒は伝令室に置いて

 あったのだが軍医は「酒は俺の部屋へ置いておけ」と言ったので、この人は伝令が飲

 んでしまうのが心配で居室に置けと言うのかと私は思い、嫌な奴だなあとその時は感

 じたが実際はそうではなく、診察の途中でも何回も居室に来てコップで酒を一息に飲

 んでは医務室へ行ってまた診察を続け、要するに飲みたい時すぐ飲めるように手元に

 置いておきたかっただけだった。そのため私には「絶対に酒を切らせるな。その代わ

 り俺は煙草を吸わないから君は俺の名前で好きなだけ買って吸っても良い」と言って

 いたが、私はあまり煙草を好きではなかったので軍医の名前で買うことはなかった。

 そのため酒保の堀内准尉(クンクン大盡)に事情を話し、頼み込んで何回も日本酒を

 買い持ち運んだものであった。畑軍医は郷里で奥さんがもうすぐ出産の時期がきてお

 り、心配なのか私が既に三人の子持ちであるためか、変な話だが医者が素人の私に出

 産時の様子等をよく聞いてきた。また自分が大変酒が好きな関係で、生まれる子供に

 何か影響があるのではと真剣に心配していたが、僅かの期間で第一大隊へ転属となり

 後に少尉に進級した竹内司郎軍医が再び第二大隊勤務となって着任した。(畑軍医に

 関しては後に兄上様であられる畑実軍医にビルマのサガインで会い、弟はインパール

 撤退時トーパル河で戦死したと告げられた)



  竹内軍医の伝令には自分が以前伝令をして馴れているからと再度命ぜられた。竹内

 軍医は二度も同じ当番兵で、その上、自分の伝令が上等兵なので大変喜んでいた。宿

 舎は移動し本部から数十米離れた民家の一部で、この家は金壇でも相当良い暮らしを

 していたようで、家屋も数棟あって電気も配線されていた。将校宿舎は三棟を使用し

 大隊本部付きの斎藤中尉、副官伊藤信少尉、竹内軍医少尉の三名が別棟に居住し、朝

 晩の食事は大隊本部の炊事場から糧秣を受けて伝令が賄い、時には街で買ってきた材

 料で特別料理も用意をした。



 宿舎の離れに東屋があって麻雀室になっており常に数名の客が出入りしていて、警察

 署長の妻という綺麗な女性が時々来ていた。この表向いに戒煙所という阿片屋があり、

 家の中に入ると数人の男が膏薬のような黒い練り物を火であぶり軟らかく揉んで、煙

 管のような物の先に詰めて火を付け吸い乍何をするでもなくゴロンと横になって寝転

 んでいる。私も好奇心から「一度吸わせてくれ」と頼んでみたところ、その男は「先

 生これを吸うと人間が駄目になるからやめておけ」と言われ恐ろしくなり吸うのを思

 い留まった。この忠告がなかったら麻薬中毒になっていたかもしれない。


  一度現地人の家の電灯が消えてしまいガヤガヤ騒いでいたので、私が調べてあげた

 ところ開閉器のヒューズが切れていただけだったが、如何にも勿体ぶって色々と難し

 い故障のような素振りを見せ乍、修理してやったところ家人は大変喜んで、後になっ

 て御馳走を持ってお礼を言いにきた。この話しを聞いて六中隊から来ていた伝令が、

 昼間密かにその家のヒューズを抜いて来て知らぬ振りをしていたところ案の定、夜に

 なって電灯がつかないと修理を依頼に来た。早速前と同じようにして修理してやった

 ところ、また同じように御馳走を持ってお礼に来て伝令達でうまくいったと皆でご馳

 走になった。その家には女学校に通学している十六、七歳の可愛らしい姑娘がいた。



  ある夜どこからか使者の兵が来て竹内軍医を起こせと言い早速軍医を起こしたとこ

 ろ、使者から何か話しを聞き深夜に密かに出掛けていった。後で聞いたところでは迎

 賓館で将校の宴会があり、酒に酔った少壮の将校があばれて現地人接待婦を日本刀で

 切りつけ怪我をさせ、その接待婦の傷の手当てを高級医官がしたが敏捷な処置が出来

 なく、結局竹内軍医の呼出しとなり軍医は処置を完了してから帰ってきた。現役の上

 級医官でも予備役軍医の医療技術には、遠く及ばないのを見せ付けられた思いがした。

 当時将校も酒を飲むと兵に解らない所で相当無茶をしていたものである。


  新しく軍医に大橋博喜中尉、中神右内見習士官が着任し、竹内軍医は南京の部隊へ

 転属することになった。大隊副官の伊藤少尉は私に新任地まで送って行くようにと言

 われたが、竹内軍医は後任軍医に伝令が居ないと困るからと新任地まで来なくても良

 いと見送りを拒んだので、丹陽まで送って丹陽駅で竹内軍医と別れて帰ってきたとこ

 ろ、伊藤副官から「何で南京まで行かなんだのか」と小言を言われた。学閥上官等の

 関係系統など将校等にも色々あるらしく、竹内軍医は南方へは行かないようになった

 のではと思われた。三月二十二日には三月分の俸給が支給されたが、今迄俸給はすべ

 て軍票で貰っていて上等兵は二十二円五十銭支給されていたが、昭和十八年四月二十

 二日の四月分から俸給は中国儲備紙幣で支給されることになり、百二十五元余りとな

 り少額紙幣ばかりで銭入れが膨らむだけで困った。



 
  059 
師団改編 中隊本部復帰

  五月になり軍の編成替えがあり、あまり詳しい事は我等兵にはわからないが、師団

 は大本営直轄部隊となったので警備は後続の部隊に引継ぎ、第二大隊の全中隊が金壇

 新兵舎に集結し同時に自分は五中隊本部に復帰し、暫時新兵舎で陽気な待機生活が始

 まった。古兵達は夜中に抜け出て麻雀店に行く者もあり、兵舎では上官に隠れて花札

 賭博がよく開かれた。直渓橋の自警団長が部隊の移動が近いのを何所からか聞きつけ

 別れの挨拶にきてくれ、直渓橋に分屯していた時には皆色々と親切にされ時々御馳走

 までいただいた親切な人であった。



  師団の改編により連隊および各大隊は新しく行李隊が編成され、各馬部隊の中隊か

 ら行李隊へ転出する者が出た。五中隊からは土屋准尉が第二大隊行李隊長に転出し、

 更に行李要員に転出の不足を補うため補充の召集兵も来るとの噂がある。部隊は南方

 作戦に転出するとか今待機しているのは目下輸送船の不足で海上輸送の順番待ちをし

 ているとか、まだ行き先が決まっていないとか隊の中では色々噂が渦巻いて我々兵隊

 を不安にしている。



 
  060
 筧橋教育訓練

  昭和十八年五月十三日愈愈移動が決まり丹陽駅より汽車便により貨車に詰められ、

 兵達は何処へ行くのか知らされずに出発したが上海をとおり過ぎて筧橋駅で下車した。

 駅から数粁のところに煉瓦造り二階建ての兵舎が数棟並んでいて、ここに駐留する事

 になったが隣接して筧橋飛行場があり内地と南方戦場との往復中継地のため、我等兵

 舎の上空は一日中大型飛行機の発着で絶えずゴウゴウと耳をつんざくような爆音が続

 いてやむ事がなかった。



  筧橋は上海と杭州の中間にある街で自分等は兵舎の二階に居住する事になった。軍

 の情況はどのようなのか我等にはわからないが、これから毎日初年兵と一緒に一期間

 と同じ教育訓練が行われるとの事である。第五一連隊は筧橋に連隊本部および直轄隊

 と第二大隊が駐屯し、第一大隊は蘇州に第三大隊は杭州で同じように教育訓練をする

 との事である。この訓練は内地の一期間教育以上の激しいもので、野戦場においての

 再教育であり教練はきびしいが、実戦を経験した者にとっては弾丸に当る心配がない

 だけでも安心である。衛兵勤務、演習,各個教練、射撃、銃剣術、内務班と相当きび

 しいものである。


  演習も実戦そのもので汚水のクリークでも中隊長自らが飛び込んで突進するので、

 後に続く隊員は全員が飛び込み汚水でずぶ濡れとなる。その後始末に将校当番等は自

 分の物だけでなく、将校の分まで処理しなければならずたまったものでは無い。また

 擬装についてもこれで戦闘が出来るのかと思う程に草木を身体中に覆って、その格好

 のままで舟艇に乗り敵前上陸演習をするが、これでは動きは鈍くなるし余計に目立つ

 と思った。対空射撃の訓練は兵舎の屋根から針金を張り模型飛行機を吊り下げて引っ

 張り、それを軽機関銃や小銃で射撃する練習を毎日朝夕行った。どこかの部隊では小

 銃で敵戦闘機を撃ち落としたので、殊勲甲を貰った兵がいると上官は説明していたが、

 今になって思うとこんな練習は笑い話のようなもので、軽機や小銃で立ち向かえるよ

 うな弱い飛行機は、敵には一機も無かっただろうし殊勲甲もはなはだ疑わしい。各上

 官は敵の装備の強さを知らなかったのか、それとも知っていても上からの命令に従っ

 ていただけだったのか疑念に思う。 


  衛兵勤務となると服装検査、兵器検査、特に銃口検査は入念にし週番将校の検査を

 受け、衛兵交替はラッパの吹奏の上内地と同じようにした。また巡察将校の意地悪質

 問の対応や歩哨守則を覚えるのにひと苦労である。営門歩哨に立哨ともなれば武装部

 隊や将官の出入りには特に気をもんだもので、衛兵所に連絡し衛兵は整列し官位相当

 のラッパ吹奏をする。また自動車には将官は黄旗、佐官は赤旗、尉官は青旗を標示し

 ているので通過するとき、立哨兵はよく注意をし欠礼のないようにしなければならな

 い。意地の悪い将校、特に見習士官等は営門のすぐ近くまで来ていきなり抜刀する。

 抜刀するだけで武装部隊と認められるので、歩哨は慌てて衛兵所に知らせるやらで出

 迎えの準備で大変困ったものである。また軍旗歩哨や立哨将校の出入りが多いので一

 日中捧げ銃ばかりである。


  日曜には外出許可がおり、兵舎と駅の中間にある一軒の飲食店が当日には兵で満員

 になり物凄いにぎわいである。汽車に乗り杭州に行く者も多く浙東、浙贛両作戦の往

 復で良く知ったところでもあり、西湖東岸方面の商店街には日本人店もあり日本料理

 が食えるので皆に喜ばれよく行った。大和屋の大きな大福餅は兵隊中で有名であり、

 慰安所も朝鮮人と現地人(通称ピー屋)のが数軒あった。


  七月十四日に軍旗祭が催されるので、連隊全員に鯛の尾頭付焼きが御馳走される事

 になり、私は前日臨時に炊事要員に動員され鯛の料理をする事になったが、肝心の鯛

 が凍結品で急いで水に漬けて解凍するが季節がら暑い時でもあり、こんな事をしても

 表面だけ焼けて中身まで火が通らないから、食う頃には腐ってしまうだろうから駄目

 だと言ってみたが、炊事の者は皆納得してくれても一兵卒である私の言う意見など上

 からの命令にはどうにも致し方ない。これが中隊程度の炊事であれば私の意見は入れ

 られるが、なにしろ連隊本部と大隊合わせて約二千人分の炊事となれば、その場の話

 題くらいにしかならず、煉瓦で焼竈を急造して焼くのに一生懸命で炊事要員は全員キ

 リキリ舞いの忙しさであった。



  翌七月十四日の軍旗祭には、儀式巻きにした背嚢を背負って分列行進に出場した。

 近くの街にいる邦人慰問団も来て余興もあり大変賑わい、食事の時は例の鯛の塩焼き

 が給与となったが、予想通り中身は腐敗してしまったものばかりで、とても食えたも

 のではなく私が言った通りとなった。


  実弾射撃演習のために数粁離れた郊外の谷間を利用して射撃場が造ってあり、各中

 隊が交替で訓練に使用していたが、私は何時も射撃の命中率が悪いので射撃演習は嫌

 で仕方なかった。ある日、射撃演習で松村中隊長がうしろで双眼鏡により弾の流れを

 観察していた時、突然非常召集のラッパが響き渡り全員何事かとオットリ刀で集合す

 ると、馬部隊の数名が馬草を刈りに郊外に出て行ったところ敵の急襲にあい、一名が

 連れ去られ残り数名が逃げ帰り急報したとの事で、我々は集合と同時に準備の出来た

 隊から軽装で順次急進した。現地には既に敵の影は無く通行中の現地人の話によれば、

 中国軍が南京袋に入れたものを担いで行くのを見たと言っていた。演習のために兵舎

 から持ってきた弁当で急いで腹を満たし、あと幾日に渡るか解らぬが敵を急追するの

 で久し振りの討伐であり皆勇んでいた。その後必要な装具をトラックで運んできたの

 で準備を完了して更に進撃を続けたが、三粁程先にある一軒家のその軒先に何か立っ

 ているのが遠望出来るとの報告があり、各将校は双眼鏡で見ているがどうもよくわか

 らないらしい。多分の歩哨が立っているのではないかと推察し、そこに敵がいるに違

 いないと云う結論になり各中隊は散開し勇躍進撃をした。機関銃中隊は現在地に残り

 援護し攻撃態勢に移り進んだが、第一機関銃中隊の大森正道大尉は「俺も連れて行け

 よ」と言っていたが、わが五中隊の松村保大尉は「機関銃は残って援護の準備をせよ」

 と言って笑っていた。この頃松村中隊長は大尉に昇進していた。敵前の進撃であり充

 分用心をして進んで行ったが一軒家の近くに進んでよく見ると、歩哨と思ったのは一

 枚の板で家の軒下に立てかけてあっただけで、一部の兵がその一軒家まで行って敵が

 居ないのを確かめた。その後も近辺を捜索したが遂に草刈兵は見付からず行方不明の

 ままとなってしまった。多くの将校が双眼鏡で見てい乍、これくらい確認出来なかっ

 たのかと兵達は心の中で笑わざるをえなかった。



  昭和十八年八月一日付けで私は精勤章を下付され左袖に赤い山形の章を付けた。筧

 橋では相変わらず飛行機の発着時に兵舎の真上を通過するので、物凄い爆音が毎日引

 っ切りなしに続き少々の声では話をする事も出来ない。入隊以来自分等が日毎に気合

 を入れられた昭和十五年五月および、八月召集の古兵が五月二十三日内地帰還が決ま

 り兵舎の前に残りの兵は整列して見送った。五月召集の兵は皆恐ろしい者が多くいた

 がその内、坪兵長は分屯勤務時、私が酔った勢いで堀内隊長に酒をかけて怒らせた時

 に取り成してくれたりして、大変親切にしてもらった上官の一人であった。八月召集

 の関東の兵で割合と成績の良い人達は残されてしまい、残った人は大河原五平、増田

 幸雄、杉本国三、黒沢雪光、浅野公孝、小山兵長等で、これら殆どの人がビルマで戦

 死したのである。内地帰還した人達は約四ヵ年の兵役を経過したが、これから南方へ

 転戦する残された方々の内地帰還が何年先になるか見当もつかない。無論我々の帰還

 などは到底考えることは出来ない話であり、我々十一月補充兵も私が入院中また上海

 派遣等、中隊にいない間に約半数が他部隊に転属していた。


  八月中旬に愈愈南方へ転戦するから不必要な物はすべて軍用便で郷里に送れと命ぜ

 られたが、徴発品で内地の人が見て不快に感じるような物は送れず、営庭に各々広げ

 て中隊長の検査を受け改めて毛髪と爪を形見とし、各自、慰問袋一個程度の量にして

 中隊で纏めて送ることになった。苦力からとりあげた一円銀貨も、この時まで持って

 いたが惜しみながら処分をし、浙贛作戦時連隊の写真班が撮影し各自に配布された写

 真も一緒に入れた(ここに掲載した浙贛作戦時の写真は、この時送り返したので今日

 まで残す事が出来た)この荷物が郷里に着く頃には、すでに南方戦場に転戦している

 だろう。また郷里の家でも転戦したと察する事だろう。ある日ビルマ語の辞典が各自

 に渡されたので、転戦先はビルマへ行く事は間違いないとわかった。


  食事の飯上げ、食器洗い、食器返し等は初年兵の仕事であり私が週番当番のとき、

 班の初年兵が食器洗い場で食器を数十枚他の隊の者に盗られてしまった。軍隊では盗

 られるのは自分が疎いので理由にならず、これ等は員数を付けると云って盗ったり、

 盗られたりするが必ず総数は営内のどこかにあるのだが、このままでは上官から徹底

 的に気合を入れられるのは間違いなく、大分困っていたので私は何とかしてやろうと

 思い、その初年兵二名について来いと言って食器洗い場へ行くと、ちょうど他の隊の

 初年兵が食器洗いもせず、食器を置いたままで残飯を手掴みで食っていた。これはシ

 メタと思い私は上官としてそれを咎め少し離れた所へ連れていって、不動の姿勢をと

 らせ衛生上悪いとかあれこれ注意をする。そのあいだに連れてきた初年兵二名は置い

 たままの食器をかっぱらい、見付からないように素早く帰って員数を合わせた。かわ

 いそうなのはつまみ食いしていた他の隊の初年兵である。気合を入れられると震えて

 いたが注意だけで済みホッとしていた。この後に食器を盗られた事で古兵の気合入れ

 が待っていただろうが、こちらも背に腹は替えられぬ事である。



  内務班では、自分等より上の昭和十四年末入隊による現役兵が多く一番勢力をきか

 せていた。自分等補充兵等と昭和十五年末現役兵が初年兵と古参兵の中間にいて、初

 年兵に気合を入れるように古参兵から強要され責められる。これは軍隊のしきたりで

 致し方なく、中間にいる兵は心ならずも初年兵に気合を入れ鬢太をとる。初年兵でM

 というおとなしい少しとんぼりした兵がいて方々からよく注意ばかりされていて、あ

 る日その兵がまた失敗をしでかし、私は上級兵から言われて気合を入れ鬢太をした事

 がある。その兵もビルマで戦死したが未だに、その時の事が気に掛かって仕方がない。


  兵舎の便所の壁が大変汚れており、また落書きも多く書いてあり、私が週番上等兵

 勤務の時それが松村中隊長の知るところとなり、中隊長が「週番上等兵ついてこい」

 と言って各便所の戸を全て開けさせ中隊長が自ら検査をした。その晩、点呼が済んで

 廊下中央に全員が集合した時、中隊長の訓示があり「今日中隊長は週番の柴原上等兵

 をつれて便所を見て廻ったところ非常に汚れていた」と言い、中隊長は初年兵の舘好
 
 一等兵に「お前は便所へ行ったら何で拭くか」と聞いた。舘一等兵は「はい紙で拭き

 ます」と答え、中隊長は更に「紙が無かったらどうするか」と聞くと「はい手で拭き

 ます」と答えた。皆がクスクスと笑っていたが、なお中隊長は「その手はどうするか」

 と聞くと「はい壁に塗り付けます」と答えたので皆がどっと笑った。中隊長は「笑い

 事ではない全員がよく注意をして便所を汚さぬようにせよ」と言って注意した。この

 舘一等兵もビルマで戦死をしている。



  八月の中旬頃、私は身体の具合がどうも悪く教練にも耐えられなくなり、仕方なく

 人事の堀内准尉に申し出たところ「精勤章を貰ったばかりなのに弛るんでいるぞ、も

 っとしっかりやれ」と叱られた。医務室で診断を受けたところ軍医は、胸膜炎の疑い

 があるから杭州の陸軍病院へ行くよう指示された。軍隊で胸膜炎とは地方で云うとこ

 ろの肋膜炎のことで肺結核の初期症状とも云われる。私は色々考え悩み胸膜炎となる

 と当然入院だし何れ内地送還となり、そうなれば南方へ転戦しなくともよいので不安

 と一面うれしさが混在した思いである。翌日衛生兵に付き添われて入院となるのを予

 想して杭州陸軍病院へ行き、診断を受けレントゲン検査の結果は胸膜炎ではなく、こ

 れはマラリヤだと言われガッカリし入院どころか即日帰され残念に思った。帰途杭州

 の街で付き添いの衛生兵に世話になった礼にと、自分が奢って二人で御馳走を食い帰

 隊した。医務室で治療を受け数日練兵休となり内務で静かに療養していたが、私はマ

 ラリヤの薬さえ飲んでいれば身体は快くなり、数日で教練にも出られるようになった。

 教育訓練も終わりに近くなったのか大隊の演習があり、杭州近くまでの山岳戦と行軍

 を合わせ実施したが、初年兵はあまり鍛錬されていないので途中落伍する者も結構多

 く、大変苦しそうであり顎を突き出して行軍していて、私等の元気の良いのを見て感

 心しているようであったが、その姿は一期教育で久居から松坂への行軍時の帰途、自

 分等初年兵の姿を思い出させるものであった。



  部隊では新しく自転車隊も編成されたようだが当時の自転車は故障が多く、道端に

 壊れた自転車が何台も放置してあるのを見た。約三ヶ月あまりの筧橋駐屯の間ほとん

 ど再教育と新戦場に向かう訓練に励んだが、愈愈部隊の移動が決定し各隊は居住用品

 をはじめ、予備品や野戦用品を規定の梱包箱(杉板造り五十糎角の長さ二米程)に入

 れ、藁縄をかけて運搬のし易いように荷造りをした。荷造りに当り、辻次郎古参兵は

 「俺は名古屋の呉服店に勤めていて荷造りは馴れたものだ」と自慢していた。





父 柴原廣彌の遺稿へ

2011.10.14.