柴原廣彌の遺稿 13

 
  
061 呉淞(ウースン)で出発準備

  八月二十七日部隊は汽車便で上海に移動して呉淞の仮設兵舎らしい数棟の建物に各

 隊が宿営し、ここで輸送船の順番を待つらしく何日とも明確でないので居住に必要な

 一部梱包を開き使用した。ここでは教練をする事もなく南方への準備の使役ばかりで、

 それでも日曜日には外出が許され汽車便で上海市街へ出かけた。小さな駅で下車し近

 くには海軍陸戦隊本部があって、ここから呉淞路や北四川路の日本人街へ兵は散って

 行く。私は前に峯部隊に派遣された時に軍医の伝令で方々を歩いたため、市街の地勢

 はおおよそ知っており戦友の道案内くらいは出来た。山間の辺鄙な所から都会へ出て

 来た兵隊ばかりなので、なにしろ食った事も見た事もないような料理がたくさんある

 のにまず驚き、また内地では食料が欠乏していると噂を聞いているが、ここではなん

 でも有り到る所日本の店が立ち並び邦人も多くいて、懐かしい料理もあり内地と少し

 も変わらぬようである。陸軍の慰安所は朝鮮人か現地人の慰安婦であるが、海軍慰安

 所は日本人慰安婦であり何事にも海軍は陸軍より上級である。日本人街には一般遊郭

 が数軒あるが兵隊どもではとても手が出だせない程の高値との噂で、山から出て来た

 兵隊は何よりも食う方が第一である。



  九月の始め愈愈出発も近くなったのか、九、十、十一月の三ヶ月分の俸給三百七十

 五 .三元を五中隊小林利一郎曹長より一度に支給された。兵は皆喜び最後の外出で

 上海の街へ繰り出し食うわ食うわ、何処の飲食店へ行っても兵隊がすし詰め状態でわ

 き目も振らず食っていて、私も戦友と四名程で一団となり南呉淞路の横道にある邦人

 店などをあちこちと歩いて御馳走を食って廻った。この時私は今までに食った事がな

 かった玉子豆腐を始めて食って、あまりにそれが美味しかったのでおかわりの連発で

 気がついたら食い過ぎて気持ちが悪くなり、表に飛び出して口に指を入れて道路並木

 の根元に「ゲェ ゲェ」と吐き出してしまい、賎しいと云うかあきれる程の無茶をし

 た。しかしこれから先を思うと戦地に着くまでには必ず何処かで金がいるから、そう

 簡単に金を使う訳には いかないと思った。



 
  062
 南方転進 呉淞港出発

  昭和十八年九月十七日、出発を明日に控え各隊共梱包をやり直し積み込みで全員が

 大騒動である。貨物船に乗っていた経験のある木崎松雄上等兵(ビルマで戦死)は船

 艙に積み込む方法をよく知っていて、艙の中央から積み乍四方へ分散して積み込みを

 し、兵はその指示に従い艙に入って積み込みをした。船は余り大きくはなく南方から

 の資源を内地へ輸送した帰り船で約二千屯級かと思う。敵の潜水艦襲撃に備え少しで

 も犠牲を少なくするため小さい船にすると説明されたが、すでに大きな船舶は沈めら

 れて無くなってしまったのか、我々が乗船するのが遅れたのも船腹不足が真相らしい。

 一隻に二、三個中隊程の兵員が乗船し船艙は三階くらいに仕切られていて最下段には

 軍馬を乗せ、その上は上甲板まで吹き抜けであり、兵は艙の周囲に階をなお二段に仕

 切り分隊別に区分して居住し、そこは身動きするにも腰をかがめなければならないほ

 ど狭苦しい状態である。



  九月十八日午後愈愈呉淞港を出港して、これが中支の見納めかと思いつつ皆が甲板

 に出て去り行く呉淞の空を眺めていたが、突然全員船艙に入れとの命令があり何かと

 思いながら船中に入った。近くに入港した外国船が停泊しているので、秘密保持の関

 係で軍の移動を秘するためであった。航行中に船の速度が遅くなり、どうしたのかと

 思っているうちに色々と噂が流れ長崎に一旦寄港するような無責任な話も出た。船団

 は互いにシャッターで通信をし乍続航し、時々友軍航空機が護衛のためなのか移動の

 ためなのか飛来するが、しかし、あっと云う間に船団の上空を飛び去って行く。広い

 海原では唯一飛魚が飛ぶのを見るのが楽しみなだけである。船団は順調に航行を続け

 たが今度は台湾澎湖島近くで進行が停止した。補給のため馬公に入港するのかと思っ

 たが、すぐまた動き出しどんな都合か更に航海を続け結局は高雄港に寄港した。高雄

 港は天然の良港であり入口は極く狭く、湾内はずいぶん広大な港で水深も相当深いよ

 うである。船は埠頭に横付けにし他の僚船も同じく繋船をし、ここで二、三日仮泊を

 するようで、船から南方を眺めると半島の上に外洋を航行している多くの船舶が見え

 た。兵は船から下りても単独では桟橋の周辺を歩く程度で、外に行くことは禁止され

 ていて時々将校の引率で高雄市内を駈足するくらいである。


  高雄港は木造の家が立ち並んでいて、日本人が多くいる様子を見ると内地へ帰った

 ような錯覚をした。埠頭には小さな貨車のような倉庫が長く続いて建っていて、その

 中には砂糖の袋がいっぱい入っていた。私は一人で桟橋を歩いていた時に一人の日本

 人倉庫番に出会い、始めからだめだとは思ったが物はためしと、軍隊生活の馴れの厚

 かましさも手伝い「この砂糖を少し売ってくれないか」と聞いてみたところ、その番

 人は「私は売る事は出来ない。しかしその辺にこぼれている物なら勝手に拾っていき

 なさい」と言った。これを聞けばこちらのもので、こぼれて土混じりの砂糖では食用

 にならないから、番人の言葉の裏を勝手に解釈し「それでは落ちているのをもらいま

 す」と言って番人 が去った後、ポケットからナイフを取り出し南京袋の端に差し込

 むと、切口から白砂糖 がサラサラと出てきたので、その時たまたま持っていた慰問

 袋で素早く受け止め二袋分 積めこみ急いで船内に帰った。皆がその砂糖を見てうら

 やましそうな顔をして、どうし たのかと聞くので事の顛末を話してやると聞き終わ

 るよりも早く、我も我もと手近な袋 を引っさげて飛び出して行き、数刻して皆が砂

 糖を積め込んだ袋を持って帰って来たが 、この話は船内を次から次へと伝わり、あ

 の倉庫からは相当量の砂糖が消えた事だろう。



  高雄港に白塗りの鰹釣型鉄船が一隻停泊していたが、多分あの型の漁船は台湾の水

 産試験調査船であろうと思って職業がら懐かしく見ていた。やがて船団は高雄港を出

 港し一路南方へと航海を続けたのであるが陸地の見えない日が幾日か続き、船内では

 時々非常演習が行われドラの合図で急いで甲板上に飛び出し、兵は敵飛行機を射撃す

 る防空演習を甲板に据え付けられた大隊砲は潜水艦や魚雷を射撃する演習である。航

 海中は衛兵が絶えず対空監視対潜監視をしており、また千屯級の護衛艦が我が船団の

 周囲を廻り乍護衛航海を続けているが、我等の乗船している船に比べてその護衛艦の

 速力の早いのには驚いた。(この護衛の軍艦は旧式の駆逐艦や駆潜艇で速力は二十ノ

 ット近く出たという)また時々友軍機も飛来し船団を確認して早々と飛び去って行く。
 
 船団は各船がジグザグ運航をして敵潜水艦の魚雷攻撃に備えていて、船橋では船員が

 絶えず信号旗やシャッターで僚船と連絡をとっている。


  便所は甲板上に板で囲って造ってあり、一定の時間おきに船員が海水ポンプで一斉

 に海面へ流してしまう。その時は黄金色の航跡を残しながら船が進んで行くのは内地

 から大陸へ渡った時と同じである。


  食器は海水で洗った後に過マンガン酸カリという紫色の薬液で消毒する。船酔いす

 る兵が出るのを予想して毎度の食事の量は少なくしているのは、これも中支に出征時

 の航海時と同じであるが、今回も平穏な航海が続き誰も船酔いする者もなく少ない食

 事に不平が多い。数日して護衛艦が何時の間にか周りからいなくなっていて、どうし

 たのかと思う間もなく陸地が見えて船団はメコン河の河口に着いた。河口に停泊して

 いるパイロット根拠船は、鉄筋コンクリート製の船だと船員から聞いた。この付近は

 サンジャックという地で海浜の景勝地であり、方々に美しい建物が見え佛印(フラン

 ス領印度支那)の別荘地だそうである。河口で一日停船して順番を待ち愈愈メコン河

 を遡行
して行った 。河の両岸には南洋特有の植物で、水中から陸上へ密集している

 マングローブという木 で覆われている。所々で簡素な現地人の家屋が眺められ、今

 迄中支にいて見た事もない バナナやパパイヤの木が繁っていて珍しく眺められた。




  063
 サイゴン到着

  昭和十八年十月二日、佛印サイゴンに到着し船は岸壁に横付けになった。全員が上

 陸し各自が装具の整頓を済ませたあと早速船内の梱包下ろしの作業である。起重機で

 下ろした梱包は直ちに種別ごとに一ヶ所に積載して、その日から貨物監視の衛兵が立

 哨するようになった。部隊は仮設兵舎に向って行軍をし、そこに着いて見ると兵舎は

 竹造りの建物で屋根は椰子の葉で葺いてあり、床は孟宗竹を割り広げて敷いてあった。

 未だ雨季の終わりに近い頃なので時々降る雨で所々雨漏りがし湿気が多くジメジメし

 た生活である。



  既に第一大隊は先に到着しており一中隊の橋爪慶二郎君と久し振りに再会し、彼の

 話では郷里の五十鈴丸船長山本亀次郎様の親戚で、鵜倉村出身の兵が配属されている

 と言っていた。



  ここでは衛兵と梱包監視が主な勤務であるが梱包監視となると各種の梱包があり、

 その中でも糧秣関係の梱包には飲物とか甘み品があるので密かに取り出して飲食をし

 た。その後の空瓶を現地人が欲しがるので果物等と交換をするのが楽しみであり、佛

 印では瓶類が不足していて貴重な物のようで現地人は喜んで交換に応じて来た。この

 地のサイゴン米は大変良い米で炊いた時の香りはまた格別である。今迄軍の保存米と

 麦混じりの食事だったのが、こんな良米の給与にありつけて皆大喜びで、金檀連絡所

 にいた増田幸雄上等兵は農家出身で米に詳しく、この米の質の良さに感心して皆に米

 の説明をしていた。またバナナが特産らしく味も非常に良く内地では黄色いものばか

 り見ていたので、バナナは黄色い物と思い込んでいたが、ここでは緑色のものばかり

 であり未だ熟れていないのかと思ったが食ってみると、これがまた匂いも良く大変う

 まいものである。



  街にはフランス人が多くいて、なかでも半裸体の娘が街中をよく歩いているのには

 驚き、我々は眼の置き場に困ったもので駈足演習で道路を走っている時に、こんな娘

 に出会うと皆の足並みが自然と揃って規律が一段と良くなるのがわれ乍笑えてしまう。

 街路のアスファルト道も綺麗に舗装が出来ており、各家の軒下の人道は広くなってお

 り街路樹も良く繁って、人々は軒端に椅子を持ち出しコーヒーなど飲みながら涼をと

 っている 。日中は非常に暑く直射日光に当たると堪え難いが、木陰に入るとそこは

 涼しい風が流 れて大変良い心持である。



  この兵舎にいる時下士官進級の試験があるとの事で、各兵長は典範本に首っ引きで

 勉強をしていて二、三日後の試験当日は兵舎前の草原で試験をしていた。私は時々炊

 事場の臨時要員として使役に呼ばれたが、炊事場には土で築いた大竈が二十個程並ん

 でおり大鍋を二十個程で約千人余りの炊事を一度にする。地下足袋を履き大きな杓子

 を持って竈の上を駆け回ると、下からの熱気でものすごく暑くなって大変である。料

 理の材料には箱入りの鰹節もあるが削る道具が無く、味噌汁を炊くための出汁として

 前日から鍋に入れてある湯の中に鰹節を一本なり放り込んでおき、朝取り上げて味噌

 汁を炊くが鰹節はふやけてすこしは軟らかくなっているので、包丁で削り炊事係が食

 うより使い道がなかった。炊事場に入ってくる魚類の中に南洋魚で非常の鱗の堅い魚

 があり、その魚の調理方法は厚刃の包丁で皮と肉との間を叩き切って鱗を取り、更に

 骨も切り取って調理をしたが味は非常にうまい魚であった。私はふとした事で背鰭の

 トゲで指を刺してしまい、これが痛みだし何時までも治らなかったので衛生兵に治療

 をしてもらい臨時の炊事係を中止した。


  一度海軍軍楽隊が野外で演奏会を催すなどして時々娯楽も行われた事がある。オラ

 ンダ兵の俘虜が多くいて日本兵と仲良く作業をしていたが、時々炊事場へ来て米篭を

 運ぶのを手伝ってもらったが、彼らは身体が大きく力も強いので重い篭でも軽々と持

 って歩く。殆どの者が身体のあちこちに刺青をしていて、親しくなった一人のオラン

 ダ兵が私に手真似や片言の日本語を交え話しかけてきて「家に子供がいるのか」と聞

 いてきた。私は「三人いる」と答えると彼は更に「ボーイかガールか」と聞いたので、

 私は「ボーイワン、ガールツー」と言ってやった。


  佛印兵舎の前を通ると階上の廊下でフランス兵が裸体で煙草を吸って休んでおり、

 現地人兵の歩哨は銃を肩まで持ち上げながら動哨をしていた。我等の仮設兵舎の前に

 はサイゴン無線局があって、夕方六時には必ず無線局のアンテナに赤白の電光が灯く

 ので時間がよくわかる。内地との時間は約二時間遅れで、もうこの頃には古い兵で時

 計を持っている者は故障で壊したり無くしたりで殆どいなくなっていた。



  大岩大隊長の後任である柳生第二大隊長が病気となり入院したので、松村中隊長は

 大隊の先任将校であったため第二大隊長代理を務めることとなり、五中隊は谷口俊次

 中尉が中隊長代理となった。隣にいる大隊砲兵舎では青山隊長が病気で休養をしてい

 るので余り騒いではならないと注意された。



  サイゴン郊外にはショロンというずいぶん賑やかな街があり下士官以上の者は見物

 に行ったと話していた。佛印ではタクシーの代りに客が前に乗り車夫が後ろでペダル

 を踏む三輪自転車が多く走っていた。


  兵舎には酒保もあり果物や飲物を売っていて、また商店で買物をして支払いに通用

 する軍票を出すと釣銭はその軍票を半分に破って渡されたのには驚ろかされ、この国

 では紙幣を半分に切っても通用する事を知った。市内には佛国統治の名残で方々にプ

 ールがあり、上官に引率されて泳ぎに行き現地人に紛れて泳いだが、日本兵は皆が越

 中褌であるので遠目にもすぐ見分けがつく。繁華街には映画館もあり冷房の効いたき

 れいな劇場で日本の映画を見たが、私は内地に居た時でも冷房の効いた劇場など入っ

 た事がなかった。どこへ行っても町並みはきれいで並木の木陰は非常に涼しく気持ち

 良かった。また小さいながら動物園もあって南洋の猛獣が何種類か飼育されていた。



 
  064
 プノンペン着

  サイゴンには一ヶ月程滞在し更にメコン河を遡航して前進する事になり、埠頭に集

 積してある梱包を再度輸送船へ積込作業をした。船は更に小さくなり五百屯位と思わ

 れ一個中隊位の人員と梱包を収容出来る程度である。十一月一日サイゴンを出港し十

 一月三日にはプノンペンに到着し早速梱包の陸揚げ作業を行い埠頭付近に集積した。



  プノンペンは相当大きな都市で埠頭付近は広くまた道路もサイゴンと同様に広くき

 れいである。鉄筋コンクリートの建物がたくさんあり、繋船の蔭では現地人がのんび

 りと釣りを楽しんでおり、餌はバナナの切れ端を使って川に流し釣りをしているが鯉

 に似た魚が結構釣れていた。



  梱包の荷揚げが終わって監視兵を残し部隊は宿舎に向かって行軍をし、途中王城の

 城壁の側を通って設営場に行った。王城入口から中を眺めると象をかたどった石像が

 向かい合って整列し、その間に道路が続いていた。ここプノンペンでは天幕兵舎であ

 って各一個分隊宛で宿営をし、時々埠頭の監視兵の所に連絡にも行った。その頃ちょ

 うど祭の日に出会いメコン河で現地人の若い衆が十数人細長い船に乗り組み、櫂を揃

 えて漕ぐ競争をしていて河の流れに沿って勢い良く漕いでいたが実に早い船足であっ

 た。



  プノンペンに着いて二、三日後洗濯場へ行ったところ思いもよらず同郷の大野千代

 蔵君に会った。彼は召集となり連隊行李の初年兵として来ているとの事であり、行李

 の古兵に話をつけ自分達の幕舎に連れて来て同郷の者を集め郷里の話を色々と聞いた。
 
 彼は馬部隊であり大変苦労をしているようで古兵を見ると羨ましく思うのか、私に

 「兵隊も古兵になったら軍隊にいるほうが良いだろう。内地は物資欠乏で何も無く困

 っているぞ」と言ったのには正直たまげた。「何が軍隊など良いものか一日でも早く

 帰りたいよ」と私が言うと、笑いながらバナナ等を食って彼は行李隊へ帰っていった。



  果物ではバナナやザボンが大変美味く現地人が毎日兵隊目当てに売りに来る。プノ

 ンペンには約十日間程の滞在で輸送の順番が来たのか、十一月十四日特徴のある円形

 のプノンペン停車場から汽車便で、相変わらず兵は貨車に詰め込まれタイ国に向かっ

 て前進した。進行中鉄道の沿線では至る所に汽車の燃料となる薪が集積してあり、時

 々停車して機関車に燃料の薪を積み各駅に着くと水を補給していた。汽車は薪を焚く

 ため大きな火の粉が降ってきて、暑いため貨車の戸を開けていると火の粉で装具を焼

 いてしまう恐れがあるので注意しなければならない。それかと云って、このうだるよ

 うな暑さの貨車の中で戸を閉め切ってもおけず大変困った。



  昭和十八年十一月十五日佛泰国境を通過したが、この地方では鉄道沿線の方々が延

 々と燃えており、その火が鉄路の枕木近く迄燃え広がっていて我等は皆が山火事かと

 驚いて見ていたが誰も消火しようとする者もなく不思議に思っていたが、この地方で

 は現地人が山を焼いた後に陸稲を植え耕作する焼畑農業のため、一山一山と方々で焼

 いているとの事で、この灰だけで肥料は充分に間に合うとの事である。




父 柴原廣彌の遺稿へ

2011.10.14.