柴原廣彌の遺稿 14

 
  
065 バンコック着

  十一月十五日タイ国バンコック駅に汽車は到着した。停車場から駐屯地までは行軍で

 あったかトラック便であったかは何故か記憶にない。兵舎はタイ国戦捷記念塔の近くに

 俘虜収容所と隣接して建っており、この隣に俘虜収容所があった事が、その後の私の運

 命を変えたと云える。兵舎は南洋産ラワン材の二階建て建築であり、兵室はすべて二階

 で一階には梱包を置き小作業場を兼ねている。営門の近くに炊事場があって、そのすぐ

 前にはシャワー場があり何時でも水浴びが出来るようになっていて、暑い地方での居住

 でもあり兵達は大変喜んでいた。将校集会所も出来ており将校は一日一回全員集まり会

 食をしていた。兵舎の近くには櫛型をした防空待避所を兼ねた射撃場兼運動場が造って

 ある。



  この地では蠍(サソリ)が大変多くいて、その種類も多種にわたり猛毒を持っているも

 のと、毒の少ないもの等様々である。土を掘ると必ず黒色の蠍が数匹出てくるくらいな

 ので、洗濯物を外に干してあると袖等に入り込み、そのまま着ると刺されて激痛でのた

 打ち回り大騒ぎになり、医務室へ運ばれ注射をしてもらうはめになる。そのため洗濯物

 は日干しした後、必ず裏返して蠍のいないのを確認するよう注意があった。十一月二十

 日に十、十一月俸給の追給分二円が支給されたが、印度支那へ来たため再び軍票での支

 給となった。



  昭和十六年末入営兵の幹部候補生が予科士官学校を卒業して見習士官となり、各隊に

 配属され彼等はこれからの成績いかんで、少尉に任官するか下士官になるかの別れ途な

 ので大張り切りで、見る者当る者に気合の入れようであり、兵は時々気合を入れられて

 堪ったものではない。



  土屋准尉は第二大隊行李隊長なので行李を引率して行軍中、見習士官に敬礼を間違っ

 たと難癖をつけられ大分シャクラれていた。今迄上官であったが見習士官には准尉も歯

 が立たないが、しかし少尉に任官する者は良いが成績の悪い者は軍曹となり、また准尉

 の下になり意地悪をした者は仕返しをされ頭が上がらなくなる。


  病気入院の柳生大隊長に替わり武村杢之助大尉が第二大隊長に発令され、命下布達式

 という儀式を櫛型築堤の上で行われた。尾本連隊長と武村大隊長が抜刀して向かい合い

 、 号令と同時に軍刀を交差すると同時に全隊捧銃をしラッパの吹奏をする。このよう

 な儀式には始めての参列であった。これにより松村大尉は大隊長代理の職を解かれ第五

 中隊長に復帰した。



  空襲時に素早く装具や兵器を持って待避する演習は何度も繰り返し行った。十二月に

 なり愈愈連隊は本部や各大隊が逐次ビルマへ進軍をして行ったが、第二大隊は相変わら

 ずタイ国に残留し軍の作戦はどうなっているのか我々にはさっぱり解らない。十二月十

 四日に十二月分の俸給二十三円五十銭を五中隊小林利一郎曹長より支給された。




 
  066
 第二大隊タイ国警備

  タイ国軍隊の情況がややもすれば反軍の兆しがあると云うので、これに備え第二大隊

 は前バンコック駐屯の六十七連隊の後を受け、タイ国駐留軍司令官の指揮下に入り警備

 の任に付く事になった。バンコック繁華街から停車場へは市内電車が運行しており、大

 きな市場もあり日本人の店や大きなホテルもあってホテルは旅行中の将校の宿泊所にな

 っている。不二屋という軍酒保があり、そこのあずき氷が大変うまく代金後払いでいく

 らでも飲めて、それをいいことに只飲みする不届者もあるようだった。軍の慰安所も現

 地人と朝鮮人のが数軒方々にあった。タイ国は佛教国なので至る所に寺院が建っており

 、パゴダという佛塔が金箔を張って燦然と輝いて辺りを圧している。建物の中には釈迦

 の像が祭ってあり、そこへ参る者は土足厳禁で必ず履物を脱いで入る。国民の男子は一

 生に一度は必ず僧籍に身を置き修行をしなければならないそうで、そうしないと結婚は

 出来ない法になっていると聞いた。僧は最高の位であり僧を侮辱するとか、または現地

 人の頭を殴る等は最も禁じられており、幾度となく上官より注意された。



  兵舎と繁華街との間の道路にはトラックを改造したバスが運行しており、僅かの軍票

 で乗車出来るが何時も満員で、現地人は窓にぶら下がって乗っている者もいる。停車場

 には美しいディーゼル機関車があってタイ国自慢の車両であり、子供達は得意になって

 日本にはこんな良い汽車は無いだろうと言って自慢をしていたが、しかしよく見るとそ

 の機関車は日本製を示す名板が付いていた。



  盗人の多いのもこの国の特長であり盗んでも返したら罪にはならない法との事で、盗

 まれないよう自ら注意を必要とした。バンコックでは女性の貞操観念が非常に乏しいと

 ころで、女学生でも売春を常としているとの噂であるが真意のほどは解らない。性病は

 大変蔓延しており一旦罹病すればローソク病と称して、段々と溶け落ちてしまう程の恐

 ろしいものだと、中隊長は訓示の節に言っていたが、これも真意のほどは解らず、兵が

 やたらと遊びに行かないようにとの算段だったのかも知れない。戦友四、五名とバンコ

 ックの食堂に入った時、メニューを見ても泰語と英文ばかりで、さっぱり解らなかった

 ため値段の手頃なところを数品注文したが、どんな料理か食い方も知らぬまま出てくる

 ものを喜んで食った。食堂には切った西瓜が置いてあったが、これは内地の支那料理店

 では蝿を集める物と聞いていたので、食わないように他の者に教えてやった。食後にパ

 パイヤが出たが私は職場の関係で遠洋鮪漁船が南洋出漁の際、土産に持ってきたのを貰

 い食い方を教えられていたので、戦友に「この果物はずいぶん屁臭いから君等食えるか

 なあ」と言ったところ、皆が臭いを嗅ぎ「臭い臭い」と言って、食わないでいるのを良

 い事に私がみな食ってしまった。後日果物に馴れてから、戦友達は「あの時臭いと教え

 られなかったら知らずに食ったものを」と私に全部食われた時の事を悔しがってよく言

 っていた。



  炊事要員が人手不足のため、この地でも臨時要員としてよく使役に呼ばれた。食事給

 与は極く良いもので魚類は車海老に似た大きな海老と、すじ鰹とハマチに似た中振りの

 魚が交互に荷下ろしされた。肉類ではタイ国の牛肉は脂肪質が殆どなく、赤身ばかりで

 極く味が無くあっさりしていて、豚肉は中支のものと余り変わりはない。軍隊の炊事で

 は集団食中毒を警戒し生物は絶対に食べさせなく、必ず煮るか焼くかしなければならな

 い。魚は氷詰にしてくるがスジ鰹の中には時々ヨコワが混ざっており、炊事係の兵は魚

 の種類や鮮度について良く解らないので、私が鮮度の良いのを選んで刺身に料理をして

 炊事要員だけで密かに食べた。刺身料理中に主計将校が見廻りに来ると急いで樽の中に

 隠し、切り板で伏せて立ち去るのを待って料理を続ける。このため炊事係兵には結構重

 宝がられて、何度も臨時要員に指名で呼出された。



  ある夜突然サイレンが鳴り続け非常呼集が発せられ、慌てて外に出ると照明弾があが

 り夜空を煌煌と照らしていた。空襲の経験のない我々は何事かと思い、防空演習で友軍

 が照明弾を打ち上げて敵機を警戒しているのかと思っていたところが、敵機は既に上空

 に飛来しており始めてのバンコック空襲であり、照明弾は敵機から投下されたもので空

 襲警報より速く敵機は来襲していた。巨大な爆撃機が十数機編隊で飛来し轟々と爆音は

 続き方々に爆弾を投下している。地上からは友軍のサーチライトが交差して敵機の飛行

 に従い、次のサーチライトへと送り敵機影の捕捉を続けて、それを目掛けて高射砲は発

 射され曳光弾がサーチライトの光に添って撃ち上げられるが、敵爆撃機の飛行高度が高

 すぎるのか高射砲の性能が悪いのか、弾丸は敵機に届かないようであり、敵機は悠々と

 爆撃を繰り返して飛び去って行った。夜空に照らし出された敵爆撃機の雄大な機影を眺

 めたときは敵の空軍勢力に驚き、まるで空飛ぶ艦隊のようであり我等兵の恐怖よりも、

 指揮者上官共は如何な感じであっただろうか。毎日朝夕の防空対策として模型飛行機を

 糸で引っ張って、軽機関銃や小銃で撃ち落す訓練などは屁にもならないものである。繁

 華街の方面では爆撃で火災を起こしたのか夜空が赤々と照らされていたが、兵舎付近に

 も爆弾は落下したものもあったが不発弾も多かった。隊では空襲を始めて経験し、これ

 では駄目だと早速兵舎の付近に多くの個人防空壕を急いで掘った。




  067
自動車事故

  昭和十九年正月に部隊行軍による外出があった。後で考えると私にとってこの日は人

 生最大の運命の岐路となった日であると思うが、繁華街で自由行動となり皆が方々へと

 散策をした。近く大隊も移動する噂があり、これがバンコック最後の外出となるかも知

 れないと、兵はよく遊びよく食って楽しい休養の日を充分に過ごし、全員集合してまた

 行軍で帰営する事になった。一杯機嫌の者もあり皆雑談をしたり歌ったりする者もあり

 、楽しく行軍を続け兵舎までもうすぐの営門近くの道路がカーブしたところ迄来た時そ

 の事故が起こったのである。隊列の後方からトラックが急カーブの道を高速で突っ走っ

 て来て、そこを曲がり切れなかったのか我等行軍の列に後ろから突入してきた。あっと

 云う間の出来事でキキィーとブレーキの音を聞いただけで、後は何も解らず振りかえる

 間もなく私の後ろを歩いていた中條憲也君がまず跳ねられ、私の背へどんと突き当って

 きたと同時に私もトラックに跳ねられ、身体は空中で一回転して膝から路面に叩きつけ

 られ、激痛のためそのまま動けなくなってしまった。これはその時事故を免れた戦友に

 聞いた事故の情況であるが、突っ込んで来たのは我々の兵舎に隣接した俘虜収容所所属

 のトラックで、幸い事故現場が兵舎の近くだった事もあり、誰かが隊に急報したので皆

 が戸板を持って駈けつけて来て、それに乗せられて医務室に運ばれた。知らせを聞いた

 堀内准尉が血相を変えて医務室へ駆け込んできて、オロオロしているトラックの運転兵

 に「俺の隊の優秀な兵隊を負傷させてどうするのか」と大声で叱りつけているのが、治

 療されている間にもはっきり聞こえたので、自分はまだ生きているのだと確信し安心し

 た。しかし堀内准尉の優秀な兵隊には面はゆく感じた。大隊医務室勤務時竹内軍医に代

 わって着任した中神右内軍医の診断を受け、運が良かったのか自分の負傷は骨折等は無

 く、膝の打撲傷だけで入室治療をする事になった。中條憲也君の負傷は私より相当ひど

 く多分骨折だったようで、直ちに陸軍病院へ入院したようであったが、この自動車事故

 による負傷が後々不幸中の幸いとして今日まで生き延びる遠因になろうとは、その時は

 まだ考えも付かなかった。私と同様に中條君も、この事故が運命の分かれ道になったの

 か生還したとの事である。入室中の治療はイイチョールを塗布し上から湿布をするだけ

 であるが、打撲の程度が強かったのか膝の痛みがひどくて、まともに動くことが出来な

 い。間の悪い事にその夜はバンコック二回目の空襲があって全員防空壕へ待避したが、

 動けない私を連れて行ってくれる者はなく、誰も居なくなった医務室に唯一人取り残さ

 れてドシーン、ドシーンと響く空襲の音を聞き乍、爆弾が落ちてこないのを祈るばかり

 であった。敵機が飛び去るのを待ち続けたがその時間の経つのが遅くて遅くて、とうと

 う辛抱が出来なくなり動かない足を引きずり、汗だくでいざり乍漸く病室の出口まで来

 た頃、敵機も飛び去って行って爆音も遠くなり、爆弾の直撃を受ける事もなく助かった

 と胸を撫で下ろしひと安心であった。



  入室治療中に南方へ来てから、始めての内地の郷里へ通信が出来る事になったので、

 中隊でとり纏めて各人の手紙を発送したと後で聞いたが、自分は入室中のため連絡がな

 く手紙を出す事が出来なかった。このため後日、郷里の家族が他の出征兵士の家には手

 紙が着ているのに、自分の家にだけ来ないと心配をかける原因となった。


  バンコック警備の交替部隊が内地から到着したので、第二大隊は警備を申し送り愈愈

 本隊を追及する事になった。交替部隊は郷土の出身者が多く来ており、七中隊の柴原義

 廣君の話では同郷の佐藤岩雄君が来ているとの事である。



 
  068
 第二大隊追及出発

  第二大隊は自分等入院患者を残して先にビルマへ進軍し、先行していった連隊本部を

 追及する事になった。自分の負傷の経過は相当良くなったが、やっと歩ける程度で部隊

 と行動を共にする事は到底出来ず、ちょうど同中隊の小島耕治少尉が陸軍病院に入院し

 ていたので、その伝令となり付き添い乍、自分も陸軍病院で治療を受けられるよう取り

 計らってもらい、一月七日頃部隊と別れ衛生兵に付き添われてバンコックの陸軍病院へ

 行った。第二大隊は一月九日前進を開始しビルマへと出発して行った。





父 柴原廣彌の遺稿へ

2011.10.14.