柴原廣彌の遺稿 15

 
  
069 バンコック陸軍病院(義第一〇四九八部隊)

  後になり思ったがこの負傷が原因となり大隊の追及に同行出来ず、わが第二大隊が

 南方へ来て最初の戦闘で敵空挺部隊との戦闘が激戦となり大損害を受け、松村中隊長

 以下多数の戦死傷者が続出し私は命拾いしたのだった。たぶん事故に遭わずそのまま

 部隊と一緒に追及して、この戦闘に参戦していたら確実に戦死していただろうと思う。



  バンコック陸軍病院での入院将校の伝令は八名いたが自分はその内の最上級兵で、

 将校も召集の予備少尉が多く後方勤務の将校ばかりらしい。その伝令は皆一等兵であ

 り、その中に鉄道隊の将校伝令として朝鮮人の兵がいて、この伝令がよくしゃべり調

 子に乗って看護婦にからんで困るので、或る時私は怒って「日本語も良く喋れないの

 に余り騒ぐな」と叱ったところ「何を言うか天皇陛下は一人ではないか」と意味不明

 なことを言って猛り出した。余り朝鮮人を刺激しては行けないと思い気合入れも出来

 ず持て余した。他の伝令も本科の教育を受けた兵は少なく特科の初年兵ばかりで、そ

 れに本隊と離れて病院生活の気ままに馴れ恐ろしいものはなくあまり厳格なところが

 ない。伝令には公用証が一枚渡されていて、何時でも街に出て将校の好物を買いに行

 く事が出来る。それに便乗して入院兵から時々買物を頼まれるが、それを皆引き受け

 ていては自分が持てる限度もあり、また病院衛兵所の通過にも困るから、そうそう要

 望を聞き入れる事は出来ず断る時もあり、このため入院兵からは羨望され従って仲が

 悪くなる。



  ある日伝令が二、三名で食器洗いに行き、油断して全部の食器を他の兵に掻っ攫わ

 れてしまい、伝令室でその伝令達がどうしたものかと大変困っていたところ、他の病

 室から「食器を拾ったからほしい者は取りに来い」と言って来たので、私は直ぐに日

 頃伝令がだらけているので、他の古兵が気合を入れるための算段での事と察して「お

 前達が無くしたのだから行って貰ってこい」と言ってやると、彼等は恐る恐る受取り

 に行ったところ相当気合を入れられたらしく、その上「このままでは渡せない伝令の

 上級兵を連れて来い」と言われたと、伝令達は自分に頼むから行って欲しいと泣きつ

 いてきた。上級兵は私だけなので仕方なく自分がその病室に行ったところ、以外にも

 私の同年兵や後年度の兵隊がそこにはたくさんいて私を見るなり「おお柴原」と驚き、

 彼等が言うには「初年兵か二年兵が来ると思っていた」と言い、ところが来たのは私

 だったので笑って食器を返してくれ、そこで色々と雑談をし近頃伝令は大分弛んでい

 るから少々気合を入れてやれと言っていた。私が事もなく食器を持って帰ってきたの

 で他の伝令達は信じられないような顔をしていた。少しは私に対して尊敬の念が出来

 ただろうかと思う。



  バンコックの空襲も一層ひどくなって何回となく爆撃され、友軍の高射砲は旧式の

 ため敵爆撃機の高度迄届かず何の役にも立たない。夜の空襲では外の防空壕に入り夜

 空を見ていると、サーチライトに照らされた敵重爆撃機から落とされる爆弾は、全て

 が自分等の頭上に落ちてくるように見えて、ヒヤヒヤしながら無事を祈りつつ早く飛

 び去ってくれと思うだけである。



  空襲が頻繁になるにつれ軍の高射砲による防空が敵爆撃機に余りにも無力なため、

 今度某方面から優秀な最新式の高射砲が到着したとの噂を、本当か嘘かは解らないが

 伝わった。ところがその後数日空襲はピタッとなくなったので敵の密偵がはびこって

 いて、素早く最新式の高射砲到着の情報を連絡した為だろうと噂しあった。



  一月二十二日は病院(義一〇四九八部隊)で一月分俸給二十三円五十銭を小林主計

 少尉より支給された。軍隊では俸給支払證票を持っていると支払日には何処でも俸給

 を支給される。



  空襲になれば素早く戸外に飛び出して、へ形の防空壕に数名宛待避するが、重病患

 者の担送避難には衛生兵や看護婦は大変な苦労をする。空襲警報が出たときは既に敵

 機が頭上に来ていて数個の爆弾は投下されているので、どの辺に落ちるのかと不安で

 あるが数秒して方々で爆弾が炸裂して自分等の所でないとわかると、やれ助かったと

 安心する。相当の高度からの盲爆をしているためかあまり人員の犠牲は出ない。空襲

 にも馴れてくると銃撃でもない限り、飛行機の方向が自分等の方より外れておれば一

 応安心で、早く飛び去ってくれるよう祈るばかりであるが、夜空を眺め月光に浮かぶ

 大型爆撃機隊の脅威は目に焼き付き忘れることは出来ない。友軍航空隊の戦闘機が迎

 撃に飛び上がっていくのを見た事が無く、敵機は意のまま縦横に飛び廻っていてバン

 コックの空は敵のなすがままである。



  ある日公用外出した時、王城の白い垣の横道を通って繁華街の市場に行き、あれこ

 れと物色し乍老婆が売っているパパイヤを見ようとして手を触れた途端、パパイヤが

 台からコロコロと転げ落ちてしまった。すると老婆は自分の商品が傷つけられたと思

 ったのか、途端に怒りだして喚き散らし手が付けられない程で、現地人を刺激しては

 いけないと常々注意されていたので、これは困ったと思い急いで市場の裏口から飛び

 出して、裏通りから市電に乗り停車場の方にホウホウの態で逃げて帰った。もうこの

 頃には走る事が出来る程に足の怪我は回復していた。



  新しいバンコック警備部隊所属の入院患者がいたので、色々と内地の様子を聞きい

 て廻ったが郷土の兵隊が多くいるようで、これら部隊の装備は極めて貧弱なもので銃

 も充分に行き渡らなく、水筒は竹筒を代用しているとの事には呆れるとともに驚いた。



  最前線の噂は何処からともなく伝わってきて、十五軍に属する三十三(烈)、十五

 (祭)、三十一(弓)の各師団は既にインドのインパール付近に到達し、陥落も数日

 のうちに迫っているとの情報が流れていた。小島少尉の病気は全快とは見受けられな

 いが、前線の話しを聞くにつけ将校という責任上早く本隊を追及したいようである。

 私は治療と云ってもイイチョールを塗って湿布をするだけで完治はしないが、伝令と

 なっているから小島少尉が退院すれば私も従い退院しなければならず、六中隊の栗山

 少尉と共に昭和十九年一月二十五日に退院した。その日は両少尉と伝令二人の四名が

 街に出て、大きな食堂で支那料理の一卓を囲みご馳走になった。両少尉は飛行機で追

 及するので、自分等は兵站に行き追及の手続きをし便があるまで待機することになっ

 た。




 
  070
 バンコック出発・ランパン待機

  昭和十九年一月二十六日兵站に集まった連隊の追及兵が一団となり、汽車便でバン

 コック駅を出発しランパンに向かった。ランパン連絡所には宇佐美実中尉(のち第八

 中隊長となりビルマで戦死)が隊長となり、歩兵砲中隊の田畑曹長以下十数名が寺院

 の一隅で連隊の梱包監視を兼ねて追及兵の掌握をしていて、わが五中隊の大市清軍曹

 もいたので心強く思った。ここで暫時追及の便を待つことになった。この寺院には釈

 迦の坐像が祭ってあり、そこは垣根で仕切られて前の広場に我々は居住をしていた。

 中尉と曹長は幕を張って別室としていて、始めはその垣根に銃を立て掛けていたとこ

 ろ、釈迦に銃口を向けると悪い事があると寺僧からの苦情で銃架の位置を替えること

 にしたそうである。



  ランパンの後方司令部に部隊への書簡が届いているとの事で、それを受け取りに行

 って自分の隊のものを選別していた時、葉書の中に七中隊の柴原喜多男曹長宛て自家

 発送のものがあり悪いと思いつつも読んでみると、その葉書には私の実家では他の人

 は皆南方から便りが来たが、自分の家にだけは来ないので、どうしたのかと母が心配

 しているから事情がわかったら知らせてほしいと書いてあった。私が自動車事故で手

 紙を出すことが出来なかったためであり、これら各手紙等を纏めて連絡所に持ち返っ

 たが当時の戦況から、後日迄に各々本人の手には殆ど渡らなかったと思われる。柴原

 曹長には後日ビルマで会った時この手紙の話をしたが、その後克作戦で上官の非常識

 な命令で敵中に行かされ重傷を負いのち戦病死された。



  或る日八中隊の山本弥助衛生兵と私が夜間密かに外へ遊びに行こうと話し合い、裏

 門歩哨にその旨言って歩哨交替をした時は次の兵に申し送っておいてくれと頼んで二

 人で出かけたが、この日はたまたま休日だったのか、どこの店も開店してなく早々に

 帰って来たところ翌日になり田畑曹長から二人に呼出しがあり、幕室の中で「貴様等

 昨夜何処へ行ったか誰も知らぬと思ったら大間違いだぞ、どんな事でも皆解っている

 のだ貴様等は脱柵の罪だ直ちに中隊に返すぞ」と、何処か方言混じりの大声で叱られ

 た。その揚句宇佐美中尉にも大変叱られ、後でその時の歩哨に聞いたところ立哨近く

 の便所に田畑曹長が入っていて、私等の話していた事を全部聞かれていたのだった。

 その歩哨も交替して立哨したばかりで、田畑曹長が便所に入っているのを出てくる迄

 知らなかったと言っていた。このときに田畑曹長が「中隊に返すぞ」言ったが、我々

 は中隊への追及の便を待っている身であり、どういう事か理解に困った。



  裏の倉庫には各隊の梱包の他に火焔放射器が山積みしてあったが、しかし日本の火

 焔放射器は性能が悪く遠方まで火焔が届かないため効果がない物との事である。他に

 ビールの空瓶もたくさん箱に入れ山積みされていて、これは中にガソリンを入れて対

 戦車戦時に火を付けて投げつける火炎ビンのためのものである。




  071
 ランパン出発・追及

  ランパンには追及の便がないため約一ヶ月近く待機していた。ある日インパールを

 攻撃している前線の部隊から防毒面梱包を至急持参せよとの連絡があり、他の梱包監

 視に数名を残し宇佐美中尉以下が梱包を運搬して追及する事になり、大市軍曹と私も

 その中の一人であった。但し運搬のための輜重隊は各部隊からの要請で手一杯であり、

 順番の関係で簡単には動いてはくれない。輜重隊が使用しているトラックはシンガポ

 ールで戦利品として押収した乗用車を改造したもので、積載量は約一屯位の小さなも

 のである。防毒面梱包を全部積むには五輌程が必要であり、予め輸送隊へ申し込み順

 番を待って必要数のトラックが揃ってからでないと出発出来ない。


  数日待ってやっと順番が回ってきて防毒面梱包を積み込み出発したが、輜重隊の輸

 送も各々その隊の受け持ち区域が決まっていて、各隊毎の連絡所では梱包を全部下ろ

 して次の隊の便を待ち二、三日して便の都合がつくとまたトラックに積載して前進を

 するが、運が悪いと何日間も便が無くその地で宿営する事もある。ある日
輸送中休憩

 をしていると近辺の部落の子供等がめずらしそうに集まって来て、トラックに触るの

 で木崎松雄上等兵(中支呉淞港より南方へ転進時、輸送船への梱包積
みを指導した。

 ビルマで戦死)が「触ってはだめだ」と追
っ払っていた。木崎上等兵の言うには敵の

 スパイはタイヤの摩擦熱を見て取って、どのくらいの距離から走って来たのか知る事

 が出来るから、子供といえども近づけてはならないと、さも知った様に説明していた。


  輸送中のトラックは猛スピード走るため、梱包の上で荷縄を懸命に握り締めしがみ

 ついて乗っている我々兵は、振り落とされる危険があり恐ろしいくらいである。ジャ

 ングルの木や枝が出ているところを通過するときは、何回も枝に跳ねられ振り落とさ

 れそうになった事があり非常に危険である。輸送隊の中継所を数回中継して、ある日

 狭い道路を走っていると突然敵戦闘機が一機上空に現れたため、梱包上の我々は多い

 に驚き運転席の屋根を必死で叩いて運転手に知らせるが、運転中でありトラックの騒

 音のためか中々運転手は気付いてくれ
ず、更に必死で屋根を叩き続け漸く停車すると

 同時に車より飛び降りて、近くのジャングルへ走って逃げ込み敵機の様子を見守って

 いたが、ちょうど木の枝が道路に出っ張っていて、幸運にもトラックの車体を隠して

 くれていたので発見されずに済み、銃撃は免れ敵機は飛び去っていった。トラックが

 走行中敵機に発見されると、荷台に乗っている我々は何処にも逃げる場所も無く、ま

 してや飛び降りる訳にもいかず銃撃を受けたらたまったものではない。




 
  072
 泰緬国境通過とケンタン温泉

  三月十七日に泰緬国境を通過しビルマ国の地に入り、数日輸送の後この辺りでは大

 きな街であるケンタンに到着した。街外れに自動車隊があり一旦ここに梱包を下ろし

 宿営したが、この地方の気候を知らなかったため仮兵舎に毛布一枚で寝たが、宵の内

 は暑くて困ったのに夜中になると大陸の気候で寒さが募り、夜明け頃には到底その寒

 さには我慢が出来なくなった。この辺の山は相当標高が高く昼間は熱帯の暑さでも、

 真夜中になると寒気が降りてきて大変寒くなる。そのため近くにあるという温泉に入

 りに行ったが、そこは山あいから流れてくる清水を田の畔を流れる小川に引き入れ、

 そこで温泉の熱湯と落ち合って入浴に適した良い暖かさの湯となる。しかし温泉は日

 光が高くなって十時過ぎとなると炎天のため、山あいから流れてくる清水の水温が高

 くなって温泉との合流点では温度が調節出来なく、熱くて入れなくなってしまい朝方

 か夕方でないと適温の湯にはならない。


  そこは仮兵舎より二粁程離れた所にあり四、五名宛が入浴に行った。ゆっくりと入

 浴のつもりで遊んでいると、湯元はどこかと誰もが疑問に思い知りたがるらしく、私

 も川上へ見に行きかけたが人の話では田園の中に湯元があり、それを見に行った者の

 中に足元が判らないまま熱湯へ踏み込んで、全身火傷で死んだと聞いたので怖気づき

 危険でもあり見に行くのは中止した。一度入浴中に不意に爆音がして敵機かと思う間

 もなく、操縦士の顔がわかるほど直ぐ近く迄敵戦闘機が飛来して旋回を初め、我々は

 いきなりの事で丸裸のままで隠れる場所も無く右往左往し乍、皆が小川の岸辺に辺張

 り付いて伏せていた。敵機は知ってか知らずか我々が裸のために、現地人と見間違え

 たのか襲撃もせず飛び去って行った。



  ケンタンには大きな寺院があって、そこには我が五十一連隊の連絡所があり早くか

 ら来ている兵が数名いた。その中に同郷で一緒に出征した同年兵の橋爪慶二郎君もい

 て久し振りに会い話しをしたが、彼は以前病気に罹り症状が重くなって一時は眼も見

 えなくなったが、今はもう大分良くなったとのことである(橋爪君は後に戦病死した

 のをマンダレー郊外ミョウハン連絡所で聞き、彼に会ったのはこれが最後だった)こ

 こに梱包を運び込み暫時輸送の便を待つことになるが容易に輸送の便が無く、宇佐美

 中尉は何回も輸送隊へ交渉のために足を運んでいた。



  寺院の天井の梁にはカメレオンが住みついていて赤青紫緑黄等の保護色に変色させ、

 異様な体で走りながら「トッケー」と鳴き、始めの内は気持ち悪く感じたが馴れてく

 ると、人間に害を及ぼすわけでもなく中々かわいいものである。輸送の便が無いため

 何をする事もなく毎日を無駄にして待っていたが、宇佐美中尉も暇を持て余し「柴原

 サノサ節を教えてくれよ」と言って、ランパンで自分等が夜抜け出した事で散々叱っ

 た時の事は忘れたかのように親しく歌っていた。



  パゴダ(寺院)には方々から多くの信者が食物等の供物を持って参拝に来て、寺内

 に入る時は必ず履物を脱ぎ素足になってお参りをするのは泰国と同じで、供物は高僧

 が最初に箸を付け順次下僧に廻して戴いていた。高僧は供物を小さい器に分け入れて

 自分の前に扇形に全部置きひとつづつ箸を付けていた。



  敵飛行機の飛来も多くなって入浴の帰り道でも遠くの方では銃爆撃の音がよく聞こ

 え、敵機の飛び去るのが遠くかすかに見えた。我々は追及すると云うだけでなく、防

 毒面を前線へ輸送する大任があるのにトラック便が中々廻って来なくて、宇佐美中尉

 の心中もイライラして穏やかでなく、輸送隊へ何回となく交渉に行くも埒があかない。

 なんとかして出発したいと思いランパンに駐留している泰軍の警備隊がトラックを持

 っているのを知り、輸送の便を頼みに行ったが肝心の言葉が通じなく、彼等はイング

 リッシュで話せと言うが英語を話せる者はいない。宇佐美中尉は私が官庁勤めをして

 いたから英語を話せると単純に思ったのかパゴダにいる私を呼びに来た。私は何事か

 と行ってみると泰国軍警備隊と英語で話せというが、判任官末席の自分が英語など話

 せる訳もなく、そこで身振り手振り等で苦心をして交渉をしたが結局は駄目だった。


  永年英国の支配下であった関係上、老人、子供に至る迄英語は話せるのである。ま

 たそれがため英国人との混血児も多く見られた。また内地では英語を敵性国語として

 厳しく禁じられていたそうだが、戦地では意思が通じなけれは話しにならず敵性国語

 であろうと何であろうと使えるものは使った。また使わなければ何も出来なかった。

  漸くにして輸送隊トラックの都合が付き出発する事となったが、車輛は今迄より数

 が減り従って人員も宇佐美中尉は残り、大市軍曹以下数名に減じ私もその中に入り出

 発をした。途中輸送隊の連絡地で中継をしながら西へ西へと前進を続けたが、もうこ

 の地域では空襲がしきりと続くので昼間の走行は出来なくなり、もっぱら夜間にそれ

 もライトを減光しての走行である。荷物の上に乗っている我々は梱包の荷縄をしっか

 りと握り締め、振り落とされないよう梱包にしがみついている。このような状況下数

 日してサルウィン河東岸に到着し、ここで梱包を下ろし今度は工兵隊の渡河の便を待

 つため河岸に野営をした。ここの野営地に決めた場所はブトの多い所で、夜になると

 猛烈な襲撃を受け睫に一杯クッ付き眼を開ける事も出来なくなるのには驚いた。早速

 南京袋を燃やして煙を出し追いやってみたが中々効果がなく困ったが、夜が明けて来

 ると共にブトの被害も一応なくなった。工兵隊は陽気なもので河にダイナマイトを投

 げ込み、その爆発の衝撃で気を失い浮かんでくる魚を採って食事のおかずにしていた。

 翌日には渡河が出来て対岸のタカウに着き、ここでも数日車輛の便を待った後に更に

 前進を続け、ケシマンサン方面を通過した時には現地人のミカン売りが多くいて、そ

 れを買おうとトラックを降りた二人の兵が前と後ろに立ち、前の者が数えながら後の

 者の足元に転がすと素早く数個を隠して、その間に前の者はサバ読みをして誤魔化し

 て買った。売っているのは殆どが老婆で数を誤魔化されているのを知ってか知らずか、

 面白がって商いをして売れたことを喜んでいるようであった。この辺の山には日本と

 変わりなく青々と松が繁っており、桜によく似た木の花も満開であちこちの山あいに

 点々と咲き日本の春山の風情である。私は伸びたままだった鬚を剃ったが鼻鬚だけは

 残して東條鬚のようにしたが、このような鬚をしている兵が結構多くいた。漸くにし

 て梱包はシボーに到着し、この街はラシオからマンダレーへ続く鉄道が通っていて、

 これより汽車便にて出発したが連絡の都合で途中のメイミョウという街で下車し、軍

 司令部の指示を受けることになった。





父 柴原廣彌の遺稿へ

2011.10.14.