069 バンコック陸軍病院(義第一〇四九八部隊)
後になり思ったがこの負傷が原因となり大隊の追及に同行出来ず、わが第二大隊が
南方へ来て最初の戦闘で敵空挺部隊との戦闘が激戦となり大損害を受け、松村中隊長
以下多数の戦死傷者が続出し私は命拾いしたのだった。たぶん事故に遭わずそのまま
部隊と一緒に追及して、この戦闘に参戦していたら確実に戦死していただろうと思う。
バンコック陸軍病院での入院将校の伝令は八名いたが自分はその内の最上級兵で、
将校も召集の予備少尉が多く後方勤務の将校ばかりらしい。その伝令は皆一等兵であ
り、その中に鉄道隊の将校伝令として朝鮮人の兵がいて、この伝令がよくしゃべり調
子に乗って看護婦にからんで困るので、或る時私は怒って「日本語も良く喋れないの
に余り騒ぐな」と叱ったところ「何を言うか天皇陛下は一人ではないか」と意味不明
なことを言って猛り出した。余り朝鮮人を刺激しては行けないと思い気合入れも出来
ず持て余した。他の伝令も本科の教育を受けた兵は少なく特科の初年兵ばかりで、そ
れに本隊と離れて病院生活の気ままに馴れ恐ろしいものはなくあまり厳格なところが
ない。伝令には公用証が一枚渡されていて、何時でも街に出て将校の好物を買いに行
く事が出来る。それに便乗して入院兵から時々買物を頼まれるが、それを皆引き受け
ていては自分が持てる限度もあり、また病院衛兵所の通過にも困るから、そうそう要
望を聞き入れる事は出来ず断る時もあり、このため入院兵からは羨望され従って仲が
悪くなる。
ある日伝令が二、三名で食器洗いに行き、油断して全部の食器を他の兵に掻っ攫わ
れてしまい、伝令室でその伝令達がどうしたものかと大変困っていたところ、他の病
室から「食器を拾ったからほしい者は取りに来い」と言って来たので、私は直ぐに日
頃伝令がだらけているので、他の古兵が気合を入れるための算段での事と察して「お
前達が無くしたのだから行って貰ってこい」と言ってやると、彼等は恐る恐る受取り
に行ったところ相当気合を入れられたらしく、その上「このままでは渡せない伝令の
上級兵を連れて来い」と言われたと、伝令達は自分に頼むから行って欲しいと泣きつ
いてきた。上級兵は私だけなので仕方なく自分がその病室に行ったところ、以外にも
私の同年兵や後年度の兵隊がそこにはたくさんいて私を見るなり「おお柴原」と驚き、
彼等が言うには「初年兵か二年兵が来ると思っていた」と言い、ところが来たのは私
だったので笑って食器を返してくれ、そこで色々と雑談をし近頃伝令は大分弛んでい
るから少々気合を入れてやれと言っていた。私が事もなく食器を持って帰ってきたの
で他の伝令達は信じられないような顔をしていた。少しは私に対して尊敬の念が出来
ただろうかと思う。
バンコックの空襲も一層ひどくなって何回となく爆撃され、友軍の高射砲は旧式の
ため敵爆撃機の高度迄届かず何の役にも立たない。夜の空襲では外の防空壕に入り夜
空を見ていると、サーチライトに照らされた敵重爆撃機から落とされる爆弾は、全て
が自分等の頭上に落ちてくるように見えて、ヒヤヒヤしながら無事を祈りつつ早く飛
び去ってくれと思うだけである。
空襲が頻繁になるにつれ軍の高射砲による防空が敵爆撃機に余りにも無力なため、
今度某方面から優秀な最新式の高射砲が到着したとの噂を、本当か嘘かは解らないが
伝わった。ところがその後数日空襲はピタッとなくなったので敵の密偵がはびこって
いて、素早く最新式の高射砲到着の情報を連絡した為だろうと噂しあった。
一月二十二日は病院(義一〇四九八部隊)で一月分俸給二十三円五十銭を小林主計
少尉より支給された。軍隊では俸給支払證票を持っていると支払日には何処でも俸給
を支給される。
空襲になれば素早く戸外に飛び出して、へ形の防空壕に数名宛待避するが、重病患
者の担送避難には衛生兵や看護婦は大変な苦労をする。空襲警報が出たときは既に敵
機が頭上に来ていて数個の爆弾は投下されているので、どの辺に落ちるのかと不安で
あるが数秒して方々で爆弾が炸裂して自分等の所でないとわかると、やれ助かったと
安心する。相当の高度からの盲爆をしているためかあまり人員の犠牲は出ない。空襲
にも馴れてくると銃撃でもない限り、飛行機の方向が自分等の方より外れておれば一
応安心で、早く飛び去ってくれるよう祈るばかりであるが、夜空を眺め月光に浮かぶ
大型爆撃機隊の脅威は目に焼き付き忘れることは出来ない。友軍航空隊の戦闘機が迎
撃に飛び上がっていくのを見た事が無く、敵機は意のまま縦横に飛び廻っていてバン
コックの空は敵のなすがままである。
ある日公用外出した時、王城の白い垣の横道を通って繁華街の市場に行き、あれこ
れと物色し乍老婆が売っているパパイヤを見ようとして手を触れた途端、パパイヤが
台からコロコロと転げ落ちてしまった。すると老婆は自分の商品が傷つけられたと思
ったのか、途端に怒りだして喚き散らし手が付けられない程で、現地人を刺激しては
いけないと常々注意されていたので、これは困ったと思い急いで市場の裏口から飛び
出して、裏通りから市電に乗り停車場の方にホウホウの態で逃げて帰った。もうこの
頃には走る事が出来る程に足の怪我は回復していた。
新しいバンコック警備部隊所属の入院患者がいたので、色々と内地の様子を聞きい
て廻ったが郷土の兵隊が多くいるようで、これら部隊の装備は極めて貧弱なもので銃
も充分に行き渡らなく、水筒は竹筒を代用しているとの事には呆れるとともに驚いた。
最前線の噂は何処からともなく伝わってきて、十五軍に属する三十三(烈)、十五
(祭)、三十一(弓)の各師団は既にインドのインパール付近に到達し、陥落も数日
のうちに迫っているとの情報が流れていた。小島少尉の病気は全快とは見受けられな
いが、前線の話しを聞くにつけ将校という責任上早く本隊を追及したいようである。
私は治療と云ってもイイチョールを塗って湿布をするだけで完治はしないが、伝令と
なっているから小島少尉が退院すれば私も従い退院しなければならず、六中隊の栗山
少尉と共に昭和十九年一月二十五日に退院した。その日は両少尉と伝令二人の四名が
街に出て、大きな食堂で支那料理の一卓を囲みご馳走になった。両少尉は飛行機で追
及するので、自分等は兵站に行き追及の手続きをし便があるまで待機することになっ
た。
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