柴原廣彌の遺稿 16

 
  
073 メイミョウ着

  三月二十九日メイミョウ駅に到着し梱包を下ろし、兵站に連絡をとり仮宿舎に宿る事

 になった。ここは大きな都市であり各種施設も整っていて、街の建物も色々と色彩を施

 して実際に外国気分になる。現地の子供等がたくさん寄って来て何かくれるかと待って

 いるようであったので、子供等に我々のうちで誰が一番偉いかと身振り手振りを交えて

 尋ねたところ、私を指さして一番偉い人だと言うので、なぜかと聞くと鼻鬚があるから

 だと言ったので一同大笑いをした。


  この街で一夜宿泊したが方々の家の窓とか道行く人の中に日本人女性をよく見かけ、

 こんなところでと皆が不思議に思った。十五軍司令部がこの都市にあるのを、その時ま

 で知らなかったが後で聞いたところでは、最前線で兵達が地獄の戦闘を続け飢えに苛ま

 れていた時、軍の無能揃いの高官が無謀な命令を発するだけでなく、毎夜日本人芸者を

 相手に遊蕩三昧に耽っていたとの事で、街で見かけた日本女性は多分その芸者達だった

 のだろうが、まったく呆れた話しである。



 
  074
 マンダレー着・西野強少尉と邂逅

  翌三月三十日、再び汽車便でメイミョウ駅を出発しこの時はまだ日中運転が出来、午

 後にはマンダレー駅に到着しこれより先はイラワジ河の渡河である。駅の片隅に梱包を

 積み夕食の準備をし、ここが幾度となく話しに聞いていたビルマ進攻作戦で有名なマン

 ダレーかと感無量の思いであり、一月二十六日バンコックを出発してからはや二ヶ月が

 過ぎていた。駅の近くで梱包の整理をしているとき一人の将校が駅前の道路を歩いてい

 るのを見て、その後姿から郷里で同じ職場に勤めていた西野強様に似ていたので、多分

 召集になって来ているのかも知れないと思い、人違いだった時失礼にならぬようにとの

 事を考え、近づきながら横を向いて「西野様」と小声で尋ねてみたところ、こちらを振

 り向いた顔は紛れもなく西野様であった。突然の奇遇に二人は驚き近寄って挨拶を交わ

 し互いの無事を喜びあった。そこで自分は中支から南方へ廻って来た事や、防毒面輸送

 を兼ねて部隊を追及している旨を話した。西野少尉はマンダレーとサガイン間のイラワ

 ジ河渡河輸送船(渡辺隊)の小隊長をしているとの事で、渡河の便については良く取り

 計らってくれる事を約束してくれた。


  マンダレーに小隊長官舎があるので私はその夜官舎に呼ばれ、久し振りに入浴をさせ

 てもらい当番兵が身体を流してくれると言ったが、そればかりは恐縮し遠慮した。夜は

 郷里や中支それにこの地の事など積る話をし乍夕食を御馳走になり、一夜をこの官舎で

 泊まらせてもらい、翌三十一日には西野少尉の計らいにより早々と渡河が出来る事にな

 り、マンダレー駅から渡河点まで梱包を移動して夕刻の渡河時刻を待った。この頃には

 昼間は敵機の空襲が多いので、それを避けるため夕刻から夜にかけて渡河をするのであ

 る。出発をしたところ河の中程まで来た時、不意に飛行機が一機飛来し敵の空襲かと乗

 船中の皆は狼狽したが、それは友軍の哨戒機であった。しかしビルマで友軍航空機を見

 たのはこれが見納めで、その後前線では日本の飛行機を見る事は皆無となった。対岸の

 サガインに到着し兵站に連絡すると、翌日汽車が出るのでそれに乗れるとの事で早速梱

 包を駅に移送し兵站宿舎で一泊した。




  075
 サガイン出発

  四月一日梱包を貨車に積載し夜を待ってサガイン駅を出発した。イラワジ河の渡河時

 と同じく敵機の攻撃を避けるため昼間は各駅に停車して待避し、各自飯盒炊爨で食事を

 し夜間の出発を待ち、夜間だけの運行で途中コーリンやコタンボ等の地名があり、コー

 リンでは内地で使っていた鉛筆名を思い出した。汽車が進む先々には爆弾の落ちた大き

 な痕があり、その大きさは軍馬でも数十頭が一度に埋まってしまう程の大穴が方々に見

 られた。



  四月三日ウントン駅に到着した。驚いた事は街の空襲跡の惨状で、至る所に焼夷弾の

 殻や機銃の薬莢等が無数に散乱していて、また不発爆弾も方々の地面に突き刺さったま

 ま放置されていた。この日は一応兵站の仮設宿舎に宿泊をしたが、そこで夕刻になった

 時に私は急に体調を崩して腹痛を起こし、裏のジャングルに走り込み下痢便を何回とな

 く繰り返したが一向に良くならず、腹痛は一層ひどくなり遂に辛抱が出来なくなり、大

 市軍曹の計らいでウントン兵站病院へ送ってもらい梱包輸送と別れることになった。




 
  076
 ウントン兵站病院入院

  四月四日ウントン兵站病院(林第五二二四部隊)に入院した。ここでの治療により腹

 痛はようやく治まったが、軍医よりこれはマラリヤ三日熱のためであると診断された。

 この病院はウントン郊外のジャングル内にあって、チーク葉で屋根を葺いた竹造り建築

 の病棟が方々に点在していた。ジャングル内と云っても木は切り開いてあり、空からは

 丸見えで何時敵機の攻撃を受けるか判らない危険な場所である。診察は入院した最初に

 受けただけで、あとは投薬だけの治療であり不満と言えばマラリヤ特有の食事が喉を通

 らない事と、三日目くらい毎に繰り返す発熱でマラリヤは中々回復してくれない。


  印度独立国民軍のインド兵も頭にターバンを巻きたくさん入院しており、彼等は主と

 してトマトを使って食事を作っていた。わが中隊で俸給支給を担当していた小林利一郎

 曹長も入院していて、二人で昼間は空襲を避けるため飯盒に食事を貰い、各自は装具を

 持って山中の木陰で待避をし夜になるのを待って病室に帰って来る事の繰り返しで、待

 避には何時も小林曹長と一緒に良い場所を捜して毎日を過ごした。曹長の話しでは第二

 大隊は敵空挺部隊との戦闘により大損害を受け、五中隊も松村中隊長以下多数の戦死者

 があったと聞かされ、バンコックで自動車事故に遭わなければ自分もその戦死者の中に

 名を連ねて居たのではと思い、本隊の情況を知ったときは悄然としてしまい五中隊はそ

 の後どうなったのかと心細くなった。時々兵站病院も空襲に晒され病棟を焼き払われる

 が、動けない重傷患者は病室から避難出来ず寝たまま犠牲となってしまう。


  現地産でセレという煙草の葉と鋸屑を混ぜチーク葉で巻き葉巻のようにしたものを

 二、三本宛支給され吸っていたが、たまたま天幕を敷いたままでその上で煙草を吸っ

 たりすると、うっかりしてその火を落した時には天幕は可燃性の防水剤を塗付してあ

 るため、すぐ燃え広がってしまうので充分注意をして吸わなければならなかった。四

 月二十一日にはこの病院で四月分の俸給を村上主計中尉より支給され、一円昇給し二

 十四円五十銭になったものの、ここでは買うにも売っている物は何もなく唯持ってい

 るだけであったが、貯めておいたお陰で後になり後送された時、僅かな銭でも持って

 いたので有効に使用することが出来た。体調はそう悪い事はないがマラリヤは中々身

 体から出ていってくれず全快しない。




 
  077
 病院後送

  五月初旬になると前線より戦傷病兵が続々と途切れる事なく送られてくる為に、ウン

 トン兵站病院では収容しきれなくなり病院の指定する患者は後送される事になり、私も

 その中の一人となり最初の後送である。どこへ行くのか知らされないまま指揮者の衛生

 兵に引率されて、ウントン駅から汽車便で昼間は待避し夜間のみの運行である。走行中

 不意に敵機の来襲に合うと汽車はギキィーとブレーキの音を軋ませ乍急停車し、兵は慌

 てて装具を持ち出す暇もなく兵器だけを持って汽車から飛び降り、蜘蛛の子を散らす様

 に出来る限り汽車より遠くへ逃げる。敵機は照明弾を投下して爆撃を繰り返し、爆弾の

 直撃により数輌の貨車が焼失した事もあった。敵機が飛び去るのを待って車輛の整備を

 してから出発するが、汽車が走行出来るようになるまでは相当時間がかかってしまう。

 ここでも身動きの不自由な患者は避難が出来ず、誰も助けてくれないため犠牲になって

 しまう。危険が去ると皆われ先にと貨車に戻り自分の装具を纏めるが、これはうっかり

 していると他の兵に装具を盗られてしまうからである。従って逆に我々が早く貨車にた

 どり着くと、他人の物でも素早く盗って知らぬ振りをする。


  爆撃の跡には大きな穴が方々にあき百坪くらいの広さのものもあった。待避している

 と現地人が集まって来て果物とか食物等を危険をおかして商魂逞しく売りに来る。こん

 な時病院で支給された俸給が役に立ったが、また物々交換もしてくれるが特に布類が現

 地人には喜ばれた。数日を要してサガインに到着し昼間の内にサガイン兵站病院に着い

 た。ここでは重病で動けない患者が軒先の一段高い所に、尻を剥き出しにして寝転ろが

 されている。尻から便は垂れ流しで周りは蝿が集り蛆が湧いて身体中を這い回り、見る

 も酷い状態で先ず地獄のようであり、ここが病院かと疑わざるを得ない。病院としても

 後から後から引っ切りなしに後送されて来る患者に、何とも手の施し様がないようで既

 に兵站病院の機能を果たしていない。寝転がされたままの重症患者はロクに治療もして

 貰えぬまま次々と息を引きとってゆき、このようなひどい病院は見たことがない。私と

 同様動ける患者は夜を待って、その日の内にイラワジ河を渡河しマンダレーから汽車便

 で、五月十五日メイミョウに着きメイミョウ兵站病院(毘第二二六五部隊)に転送入院

 できた。ここはまだ兵站病院として充分機能していて、サガイン兵站病院の治療もして

 もらえず放ったらかしの重症患者の惨状を思うと、まさに天国と地獄で自分は運が良か

 ったと思わざるを得ない。五月二十二日および六月二十二日に、五月分と六月分の俸給

 を二十四円五十銭ずつ当メイミョウ兵站病院で支給された。




 
  078
 メイミョウ兵站病院退院

  六月二十五日、一ヶ月余り入院していたメイミョウ兵站病院での治療の甲斐があり、

 マラリヤも漸く全快となり退院兵数名と共に兵站に向かった。兵站では追及の便を待つ

 間メイミョウ市中警備隊に派遣される事になったが、この警備隊は大阪編成の割合と歳

 をとり過ぎ前線では物の役には立ちそうもない兵が主であり、兵舎はジャングルの中に

 遮蔽して建っていたが我々警備に勤務する者は掩蓋壕兵舎であり、土中生活なので湿気

 が多く中支にいた時の直巷陣地によく似た感じである。ここから方々の衛兵所へ勤務に

 出掛けたが、近くには外人収容所があり老若男女の敵国一般人が、色々と色彩のある服

 を着て収容されているのが眼に付いた。  


  六月二十六日、私はラシオに通じる街道の道路衛兵を命ぜられてトラックで現地に配

 置され、立哨中は通行の自動車をはじめ牛車や通行人に至る迄荷物や所持品の検査をし

 た。ここメイミョウはマンダレーとラシオの中間で重要な地点でもあり、通行量も頻繁

 であり時々余禄に食べ物を現地人から貰った。鉄棒を持って荷物を突き刺して調べ所持

 品の中でも特に武器を厳重に調べたが、素人の我々がスパイ等を見分ける事は中々出来

 るものではなく結局形式的な検査に終わってしまった。



  六月二十七日は変電所衛兵勤務であったが、ここは空襲警報と同時に変電装置の全ス

 イッチを切りメイミョウ全域を停電にするのが任務で、スイッチを切ると同時に戸外に

 飛び出して防空壕に待避する。変電所は爆撃の一番目標になる戦略拠点で、ここに勤務

 する衛兵はたまったものではない。変電所は勿論のこと付近の防空壕など大きな爆弾を

 投下されれば、簡単に吹っ飛んでしまう大変危険な所である。空襲警報解除になると衛

 兵は直ちにスイッチを入れに行くのであるが、停電のため真っ暗の中で装置を扱うのは

 感電の危険があり、馴れぬ我々はこればかりは手探りでする訳にはいかず大変困り、肝

 心なとき迷わぬように昼間の内にスイッチの位置を覚えておくように先任の警備隊員か

 ら教えられた。



  警備隊は大阪人が多いためか甘い物が大変好きなようで、朝の味噌汁にまで砂糖を入

 れて甘くするのにはホトホト参った。それでも炊事係の老兵は「近頃は砂糖の在庫が乏

 しいので、これくらいしか入れられない」と言い訳していたのには二度驚き呆れた。同

 じ軍隊でもこんな陽気なところもあるのかと、中支の鎮江陸軍病院の体力鍛錬所で上等

 兵様様の神様扱いを受け、上座に座った時の事を思いだし羨ましいくらいで出来るだけ

 何時までもここに居たいとも思った。




 
 079
小島耕治少尉と共に追及

  バンコックより栗山少尉と二人飛行機便で先に追及して行った、わが五中隊の小島

 少尉が同じくメイミョウ兵站病院に入院していたが、将校病棟に入院していたため全

 く知らなかった。あの時以来小島少尉とは会う事もなく何処に居るかも解らぬままで

 あった。少尉は退院となり兵站に来て私がメイミョウ警備隊に居るのを知り、一緒に

 追及するため兵站に戻るよう連絡があり、もう少しこの居心地の良い警備隊に居たい

 気持ちであったが、命令では致し方なく警備隊一同と別れ後ろ髪を引かれる思いで兵

 站に戻った。



  六月二十八日小島少尉の随行となり兵站を出発したが、これが小島少尉の死を見と

 る縁になろうとは、その時は思いもよらぬ事であった。マンダレーへ行く汽車便が直

 ぐには無いため、ラシオ方面から来た軍用トラックを将校の威光で強引に止めて便乗

 し同日中にマンダレーに到着し、その夜の内にイラワジ河を渡河し六月二十九日サガ

 インに着いた。小島少尉は将校宿舎に宿泊したので、何も世話をしなくてもよく私は

 兵站宿舎で出発の便を待ち、その間街に出てみたが道端にたくさん店が出ており、持

 っていた軍票でマンゴー等甘い果物を買い漁って食った。


  サガインには第二機関銃中隊の大森中隊長がいて、前線の武村大隊長に届けてほし

 いと巻煙草(名称の無い白紙巻の白紙包装のもの)十個入り一包とミカンの缶詰一個

 を預かった。余分な荷物が増したが上官の依頼であり、ましてや大隊長への届け物で

 は断る訳にもいかず致し方ない。



  昭和十九年七月一日小島少尉と汽車便でサガインを出発したが、相変わらず夜間運

 転のみのため汽車は遅れ七月二日イエフに到着し、ここでも小島少尉は将校宿舎に入

 り私は兵站宿舎に宿営し何もする事もなかったが、ここの兵站には五中隊追及兵の掌

 握に務めていた渡辺三朗軍曹以下十数名がいて、小島少尉のもとに集合し少尉指揮で

 イエフからは行軍で部隊追及する事になり出発した。小島少尉がバンコックで入院中

 私が伝令をしていた関係上これからの行軍中も伝令を勤める事になり、伝令となると

 マラリヤが治ったといっても病気上がりの身体で体力も無く、少尉の分も荷物を持た

 なけれはならなくて困ったが、上官の決めた事では従うしかなく二人分の荷物を背負

 って行軍した。



  小島少尉は中支以来身体が弱く合わせて胸部疾患も患っていて、本人は元気よく追

 及を急いでいるが私が見たところではまだ病気は完治には程遠く、この身体で前線へ

 の追及は到底無理なように思えた。おそらく将校は前線の戦況をよく承知しているの

 で、責任を感じて最後の心構えをしており死を急いでいるのではないかとも思われた。

 このため体力の無い少尉のため余計に荷物を軽くしなければならず、その分、私は二

 人分背負わなければならなかった。


  数日行軍し、あけぼの村(曙村、軍の名称)に着いたが、ここの兵站宿舎は河原の

 竹建築で今にも倒れそうな粗末な建物である。各部隊の追及兵が集まっていて、その

 中にわが第二大隊の兵も多く彼等は敵の空挺部隊と交戦した時に大激戦となり、敵は


 装備が極めて優秀で善戦空しく全滅となり、その時負傷して後送され入院し傷が全快

 して追及しているところで、ウントン兵站病院で小林曹長から聞いたはなしよりも詳

 しく色々とその時の戦況を聞かされた。その話しによると昭和十九年三月はじめ、イ

 ンパール作戦発動直前に突如敵空挺部隊がビルマ中西部に降下しモールに飛行場の設

 営をはじめた。これに対して十五軍司令官の牟田口中将は敵を侮り、少数兵力で討伐

 出来ると判断し五十一連隊第二大隊(武村大隊)に出動を命じた。武村大隊は敵航空

 機の爆撃に晒されながらモール方面に進撃し、三月十八日モール飛行場の攻撃を開始

 したのだった。しかし敵はすでにモール飛行場周辺に完璧な防禦線を構築していて、

 前線の実情をまったく理解しない軍参謀の命令により、武村大隊長は五中隊(松村中

 隊)等に攻撃を命じ、各隊は一斉に飛行場めがけて前進を開始したが、敵は無数のト

 ーチカから銃砲撃による猛烈な反撃をわが軍に浴びせ、突撃を繰り返すも死傷者が続

 出し中隊ほとんど全滅の損害を出してしまい、責任を感じた松村中隊長は拳銃で自決

 したとの事である。この戦闘で松村中隊は五十数名の戦死者を出してしまい負傷者も

 数知れず事実上全滅し、同期の長谷川武雄君もこの戦闘で戦死した。自分もバンコッ

 クで自動車事故に遭わず部隊と行動を共にしていたならば、まちがいなくこの戦闘で

 戦死していたであろう。この後牟田口中将は掃討出来ない敵を背後に残したまま、無

 謀にもインパール作戦を発動し結果として、全軍三個師団が大損害を受け、のちの悲

 惨な総退却となったのである。




 
  080
 あけぼの兵站の爆撃

  あけぼの兵站宿舎に柴原楠成君(くすしげ歩兵砲中隊)が先に来ていて、鎮江陸軍病

 院体力鍛錬所以来で久し振りに会い一晩を伴に過ごし色々と話しあったが、話してい

 ると互いに他の兵から仕入れた郷里浜島の事や、いつの間にか食い物の話しになって

 しまう。翌朝各班毎に出発する事になったが、我等の隊は小島少尉が先を急いでいた

 ため他の隊よりも早く出発した。行軍を開始してから約一時間程過ぎた頃、前方が広

 く開け赤錆びた敵の小型戦車が三十輌程放置されていた。昭和十七年のビルマ占領戦

 で我軍により撃破されたものだろう。この戦車に打ち跨り休息をとっていると人の運、

 不運は解らないもので、昨夜宿営したあけぼの村付近に敵の空襲が始まり、爆撃によ

 る集中攻撃をされている模様である。我々は他隊よりも早く出発していたので危うく

 難を逃れる事が出来たが、あの情況では相当犠牲が出た事だろうと思った。これも後

 でわかった事だが、この爆撃で昨夜共に宿営した同郷の柴原楠成君は戦死をしたので

 ある。


  我々は敵の空襲を警戒しながら行軍を続け、途中某部落の宿営地で休んでいたとこ

 ろ、そこに内地から来たばかりと思われる歳をとった補充将校が一人いて、小島少尉

 に色々と戦地の情況を聞いていたが、未だ実戦の経験がないらしく「双眼鏡など持っ

 ていても使用する機会ががありますか」と間の抜けた事を聞いていた。小島少尉は

 「指揮官として双眼鏡はなくては何も出来ないほど重宝なものです」と答えたが補充

 少尉の陽気なことには驚いた。この少尉様も多分戦死されたであろう。


  この時敵機が急に現われ旋回を始めたが木陰にある建物なので大丈夫だと思い、皆

 動くなと注意をしていたが私は咄嗟にこれは危険だと感じ、素早く近くの防空壕に飛

 び込んだと同時に敵機は銃撃を始めた。皆が慌てて我先にと待避をしたが私が入った

 壕は古く小さなもので、そのうえ泥が流れ込んで掩蓋が浅くなっており伏せて潜って

 も窮屈なものであった。そこに後から逃げ遅れた兵が一人飛び込んできたため私は大

 いに迷惑し、敵機が銃撃中ずっと足でその兵を壕から追い出そうと蹴り続けた。この

 部落は既に狙われていたようで敵機が飛び去ったあと、壕の外に出て見ると椰子の木

 が数本倒れて牛も数頭打ち殺されていた。我等は直ちに出発したが部落民が死んだ牛

 の肉を採った後の臓物を二、三名の兵が貰い胃を開いて小川で一生懸命洗っていた。

 現地人の棄てた臓物を貰って食っている日本軍の落ちぶれようには言葉もない。マラ

 リヤで弱った身体には栄養があり大変良いのだと言っていたが、このような二、三名

 宛の兵が方々に見られこれらを遊兵と呼んでいた。





父 柴原廣彌の遺稿へ

2011.10.14.