柴原廣彌の遺稿 17

 
  
081 靖国街道地獄の一丁目

  あけぼの村から西方へ向かうこの付近は前々から聞いてはいたが通称(靖国街道)、

 白骨街道とか地獄の一丁目と言われていて、道端には到る所に友軍の戦傷病兵が後

 送途中に病状が悪化し、歩けなくなり行き倒れたまま放置されていて死を待つだけ

 の者や無数の死体があちこちに無残な姿を晒していて、道路といわず草叢といわず

 足の踏み場もない惨状である。前線から下がってくるすれ違う兵は背嚢も無ければ

 銃も剣も無く、破れ軍服に破れ靴で雨外套を着ている者は良いほうで、肩から水筒

 と飯盒だけをぶら下げて糧秣も無く唯、痩せ衰えて眼ばかりギョロギョロとして一

 人、二人と幽霊のように木の枝を杖代わりにトボトボと、あるいはヨボヨボと歩い

 ているその姿はまるで乞食同様である。その人数たるやおびただしく後から後から

 切れ目がなく、食う物を持たない兵は米のある兵に頼み貰って食いつないでいるが、

 それとて限りがあり生きているのが不思議なくらいである。戦傷兵、戦病兵共に粗

 末な杖を頼りに歩く者、共に病人の戦友の肩につかまり合い乍二人ヨロヨロと歩く

 者、発熱しながらも黙々とがんばる者やマラリヤ、アメーバ赤痢等で遂に精根尽き

 て崩れ落ちるように死んで行く者、息絶えた後の死体は直ぐ体内にガスが発生し紫

 色に丸膨れになり、その死体には必ず蝿がたかり蛆がわき腐敗して溶けだし、その

 液が流れ出てその周りに広がっている。勿論その匂いたるや鼻が曲がる程で吐き気

 をもよおし、すでに溶けて白骨化した死体は周りの地面に茶色のヒトガタの跡を残

 していて、誰が言うともなく白骨街道とも言うようになったのである。これらの兵

 は傷を負い病に罹ったばかりに見捨てられたも同じで、日本陸軍が組織的に戦傷病

 兵を救おうとする気配はまったく見られず、軍はいったい何をしているのだろうか。

 近くの堤の上には何羽もの禿鷹が飛び廻っていて、近寄ってみるとその下には必ず

 友軍兵の死体があり、禿鷹は腐肉を食い争っているその光景を見るたびに追い払い

 たい衝動に駆られるが、いくら追い払ってもきりがなく我等は追及に専念しなけれ

 ばならない。だけれども、これが明日の自分の姿ではないかと背筋に冷たいものが

 走る思いがする。しかしこの悲惨な現実も幾日か見馴れてしまうと死というものに

 何も感じなくなってしまい、多くの死体が転がっていてもそれが普通と思うように

 なる。あれほど吐き気をもよおしタオルで鼻を覆わなければ傍も通れなかった腐臭

 も何時か慣れてしまい、神や仏の存在やそれを敬う気持ちは全く無くなる。宗教や

 道徳等はあったものではなく、こ情況に堪えられる体力や精神力の無い者は死を待

 つだけであり、我々はその死体
を右に左に避けて誰も無言で助ける事も出来ず唯歩

 いて行くだけである。



  七月になり、この頃季節はすでに雨季に入っており毎日毎日雨が降り続き、数日後チ

 ンドウィン河畔に辿り着いたが、どうした事か渡河のための船便が無く上流へ遡り漸く

 渡河をしてカレワに達した。この時、河をどのようにして渡ったか覚えてなく、カレワ

 では兵站が活動していたので糧秣の補給を受け更に追及行軍を続けた。インタンギンを

 過ぎ次のインタンガレーでは、数え切れないほどの戦病兵や追及兵で充満していて、彼

 等は我々が通って来たあの白骨街道へ向かって歩いて行くのか、悲惨なあの情況を知っ

 ているのだろうか、しかしそれを教えてやる気には誰もならない。その中にはこれ幸い

 とブラブラしている遊兵も多くいた。西にアラカンの山系を見て、その向こうはインパ

 ールであるが、既に毎日の降雨で道は何処まで行っても泥道となり中央を歩くとズブズ

 ブと脛まで沈んでゆく。道の両端に草の生えている所を選んで、草の上を歩き続けるの

 で一日中歩いても何程も進めない。途中野営をする時は谷間へ降りて行き、綺麗な水を

 探して炊爨し幕舎露営をする。バナナの木の芯やパパイヤの芯を採り塩汁を炊き、また

 現地人から茎葉に鬚の無い雑草はジャングル野菜と云って、殆ど食べられる雑草である

 と教えてもらいそれを採って副食にした。ある日小休止の時、谷間に小屋があるのを見

 付け、そこから煙が上がっていたので降りて行ってみると現地人が豌豆を炒っていた。

 私は少しくれと頼んだが駄目だと言われたので煙草を二本やったところ、相手は途端に

 機嫌が良くなり、喜んで炒り豆を分けてくれたので、皆で少ない量を分け合って食った

 が堅い豆ではあったが大変美味く感じた。



  七月二十日雨の中、漸くにしてガンジーという名の小さな部落に着いた。遠くに相

 当大きなパゴダが見えたのでそこで休むために向かったが、道路からパゴダ迄は田園

 の畦道を通って行かなければならず雨は降りしきり、いたる所どこも出水で水に浸か

 っていた。どこが道やら見当もつかず私は足を踏み外してザンブと全身水の中に落ち

 てしまい、浙東作戦の時と同じように背嚢の浮力で浮いていた位で、もがいているの

 を戦友にその背嚢を掴んで引き上げてもらい、漸く寺の一隅にたどり着き濡れネズミ

 だったので乾かそうと衣服を脱いでみたところ、十糎程の蛭が胸と腹の二箇所に食い

 付いており慌てて無理やり手で取り除いたところ、食い付いた痕からの出血がしばら

 く止まらなくて困った。




 
  082
 ガンジーより反転

  しばらくパゴダで休んでいると先に前線へ追及して行ったと思われる兵が一斉に引き

 返して来るので、何事かと尋ねると雨季による出水が激しいため、この道はとても先へ

 は進むことは出来ず引き返すようにとの軍の命令が出たとの事である。また前線の作戦

 部隊も一斉に反転移動をしているとの事であり、この情況では我々は本隊の動静を把握

 する事は到底不可能なので、致し方なく七月二十二日この地より引き返す事になった。

 後でわかった事だが軍の云う反転移動とはインパール作戦失敗による総撤退で、既に七

 月四日にはインパール作戦の中止は決定されていたのであった。ガンジーの村は私が行

 った最西端の地である。





  083
 小島少尉発病

  小島少尉は追及に未練が残っているようであるが仕方なく反転行軍をはじめて一日

 後、追及のため張り詰めていた精神力が反転により崩れたのか、体調が急に悪くなり

 到底行軍を続ける事は出来ない状態になった。結局伝令の私が少尉に付き添い一時こ

 こに残り体調の回復を待つ事になり、渡辺軍曹以下の十数名はそのまま反転行軍を続

 ける事になった。かれらが出発した後、私はもう二、三人残して欲しかったと思い乍、

 小川の傍 に天幕一枚を張り少尉を休養させ夕食の用意をしたが、これといって副食

 があるでもなく粉味噌を入れた味飯を炊き食べさせようとしたが、小島少尉は味飯を

 嫌いだと言うので仕方なく再度お粥を炊いてとらせ夕食を済ませた。一枚の天幕の中

 で二人が寄り添うように野宿をし雨の降り続く中寝ていたところ、夜中に異様な気配

 にふと眼が覚め辺りを見まわすと、雨で増水した小川の水が既に寝ていたところまで

 押し寄せてきて、身体の一部を濡らし始めていた。慌てて少尉を起こし天幕を撤去し

 丘の上の方へ移動し一晩を明かした。翌日小島少尉は体調が少々快方に向かっていた

 と思われたので二人で休み休み行軍を続け、七月二十六日インタンガレーにたどり着

 き民家の軒を借りて休養をした。ここで一晩休んで行軍を続ける心積もりでいたとこ

 ろ、小島少尉の体調が急に悪化し身動きさえ出来ない程の極めて悪い状態に陥ってし

 まった。以前よりの胸部疾患にマラリヤを併発し、重ねて入院治療をしても完治しな

 いまま退院して無理な行軍をしたため、こんな所で重病人になってしまい自分はどう

 してよいやら全く困ってしまい、やはりもう二、三人残してもらうのだったと、この

 時は先に反転して行った人々を恨みに思ったが、この行動が幸いと云うか私が現在生

 き残った幾つかの要因のひとつではないかと思う。動けない病人なので何とも施しよ

 うがなく、軒先を貸してくれた家の現地人も同情してくれて何かと心配して何度も見

 に来てくれ、前々から仏教国であるビルマ人の親切さは感じていたが、この時は本当

 にありがたく思った。



  七月三十日軍医二人が、この地方を巡察していると通りすがりの兵に教えられ、追い

 かけて行き軍医に事情を話したところ連れて来いと言うので急いで戻り小島少尉を背負

 い連れて行こうとしたが、途中で少尉は意識が無くなり私の背中に大便をしてしまい、

 便だらけになった少尉も私も、このままでは軍医の前に行けないので急いで小川に降り

 て汚れを洗って、また少尉を背負ってようやく軍医の所へ行き診察してもらった。軍医

 は「こんなになるまでこんな所でブラブラしているから駄目なのだ。将校をこんなにな

 るまで放っておいてどうするのか」と私は大変叱られた。少尉は身体が弱いのに無理な

 行軍で発病して、ここまで来るだけでも容易ではなく、やっとの事でここに着いたので

 すと言ってやりたい事は山ほどあった。私の苦労は筆舌に尽くし難いが、軍隊ではそん

 な言い訳は一切通らないので何時も叱られっぱなしである。軍医はインタンギンの山中

 に病院があるから早く連れて行けと言うだけで、結局これといって何も治療をしてくれ

 なかった。インタンギンまで連れて行くにしても私一人ではどうにもならず、現地人に

 頼んだが銭がないから聞いてもらえず、しかたなく軍靴下を料金代わりとして渡し、や

 っと牛車を出してもらう事ができた。牛車に小島少尉の身体を支えて私も一緒に乗り、

 インタンギン病院のあるジャングルの麓まで来た時は既に夜になっていて、辺りは暗く

 そこに竹造りの小屋が一軒あり、兵が一名いたのでとにかくそこに少尉を寝かせた。と

 ころがこの時少尉の装具の一部を野宿した所に忘れてきたのに気づき、取りに行こうと

 したが既に牛車は帰ってしまっていて、仕方なく約六粁ほどの道程をインタンガレーま

 で歩いて引き返し、忘れ物を持ってまた少尉の元へ引き返した。そこの小屋で夜が明け

 たら病院へ少尉を連れて行こうと、私も横になって休んでいると部屋の片隅で休んでに

 いた一人の兵が突然変な事を喋り出し、「あのたくさんのネオンサインを見て下さい。

 あれが東京なんですよ東京ですよ」とか「多くの人が居るたくさんの人が歩いて来る」

 とか言い続け、この兵はマラリヤ熱帯熱に罹り既に脳症を起こし精神異常の状態になっ

 ていて、以前に行った東京の情景が頭の中をクルクル回っているのだろうか。私も疲れ

 ているのに一晩中脳症患者の相手をさせられ、段々と気持ちが悪くなってきてしまい、

 辺りは真っ暗で雨は降りしきり少尉の意識は無く、とうとう一睡も出来ずに一夜を明か

 した。




 
  084
 小島少尉入院・戦病死

  夜が明けて七月三十一日明るくなるのを待って小島少尉を背負って病院へ登って行っ

 たところ、病院の入口に衛生曹長が寝転んでおり、いやな予感をし乍も一部始終を話し

 たところ、その曹長は「インタンガレー辺りでボラボラ遊んでいてマラリヤに罹り、仕

 方なく病院へ来るのだ」と言ってまた大変叱られた。それでも身体が弱っているのに無

 理な行軍をして急に倒れたと言っても、軍隊では理由にならず唯叱られていれば良いの

 である。これでも未だ少尉が意識のある病人だと、この曹長もへいこらするのであるが

 少尉が意識不明のためしかたがなく、叱りたいだけ叱らせておけばよいのである。叱る

 衛生曹長は前線の情況などは考えず、室内でゴロゴロして言いたい放題で入院患者の前

 で威張り散らしていた。それでも入院させる事が出来て私は一安心であった。

  大隊長に渡すためのミカンの缶詰や煙草も何時渡せるか見当もつかないので、缶詰を

 開けミカンの汁を少尉の口にしたしてやったが既に意識は無かった。(後にわかった事

 で、届け先の武村大隊長は二ヶ月前の五月にすでに戦死されていた)将校入院のため伝

 令室があるのでそこへ行くと、三名程の伝令がいたので缶詰の残りを分けてやった。こ

 の病院には中支で連隊本部勤務を命ぜられ一緒に金壇へ行った同じ五中隊の鈴木信彦上

 等兵が脚気で入院中で、片方の足が非常に悪化し歩く事が出来なくピョンピョンと兎の

 ように飛んで動いていた。サガイン兵站病院もそうだったが、この病院も治療するどこ

 ろか死を待つだけの所らしいと思われた。



  入院の翌日八月一日、小島少尉が死亡したと通知をうけ人事不省の病人だったので止

 むお得ないとは思ったが、それでもあまりに早い死亡に驚いた。遺体は病院側が谷間へ

 運び火葬にするとの事で私には立ち合せてくれなかった。病院では一度に相当の死亡者

 があるので、身体の一部を合同で荼毘にするため誰の遺骨と確定は出来ない。翌八月二

 日病院の知らせで遺骨の受領に行き竹の筒に入れた小島少尉の遺骨を受け取り、伝令室

 に帰ると前日装具の整理中大森大尉から預かった煙草の箱を他の伝令に見られたらしく

 、背嚢の中に入れてあった煙草が八個盗まれていた。他の伝令が盗んだのに間違いはな

 いが彼等にも少しは良心の呵責があったのか、否そうとは思えないが二個だけ残してあ

 り今更騒いでも仕方がないので装具を纏め、自分の装具の上に小島少尉の装具の内、図

 嚢、軍刀、拳銃等を縛り付け、革脚絆は自分の巻脚絆の上に巻き遺骨を入れた竹筒を首

 から下げて、八月三日鈴木信彦君にも別れを告げ一人で帰りかけると、鈴木君は不自由

 な身体で兎飛びをしながら道迄送ってくれた。(鈴木君もその後戦病死した)



  私は再び、おびただしい死体で足の踏み場も無い靖国街道を一人反転行軍を続けたが

 、途中で会ったどこかの隊の初年兵は私が大きな荷物を背負ったうえ、余りに元気良く

 歩いているのを見て感心したのか「班長殿は元気ですネ」と、私の持っている二人分の

 装具を見乍驚いていた。この頃の私はマラリヤの症状も影を潜め大変元気でスタスタ歩

 いて行けた。だが歩く先々に靖国街道の惨状がどこまでも限りなく続いていたが、自分

 はその光景に完全に馴れてしまっていた。




父 柴原廣彌の遺稿へ

2011.10.14.