084 小島少尉入院・戦病死
夜が明けて七月三十一日明るくなるのを待って小島少尉を背負って病院へ登って行っ
たところ、病院の入口に衛生曹長が寝転んでおり、いやな予感をし乍も一部始終を話し
たところ、その曹長は「インタンガレー辺りでボラボラ遊んでいてマラリヤに罹り、仕
方なく病院へ来るのだ」と言ってまた大変叱られた。それでも身体が弱っているのに無
理な行軍をして急に倒れたと言っても、軍隊では理由にならず唯叱られていれば良いの
である。これでも未だ少尉が意識のある病人だと、この曹長もへいこらするのであるが
少尉が意識不明のためしかたがなく、叱りたいだけ叱らせておけばよいのである。叱る
衛生曹長は前線の情況などは考えず、室内でゴロゴロして言いたい放題で入院患者の前
で威張り散らしていた。それでも入院させる事が出来て私は一安心であった。
大隊長に渡すためのミカンの缶詰や煙草も何時渡せるか見当もつかないので、缶詰を
開けミカンの汁を少尉の口にしたしてやったが既に意識は無かった。(後にわかった事
で、届け先の武村大隊長は二ヶ月前の五月にすでに戦死されていた)将校入院のため伝
令室があるのでそこへ行くと、三名程の伝令がいたので缶詰の残りを分けてやった。こ
の病院には中支で連隊本部勤務を命ぜられ一緒に金壇へ行った同じ五中隊の鈴木信彦上
等兵が脚気で入院中で、片方の足が非常に悪化し歩く事が出来なくピョンピョンと兎の
ように飛んで動いていた。サガイン兵站病院もそうだったが、この病院も治療するどこ
ろか死を待つだけの所らしいと思われた。
入院の翌日八月一日、小島少尉が死亡したと通知をうけ人事不省の病人だったので止
むお得ないとは思ったが、それでもあまりに早い死亡に驚いた。遺体は病院側が谷間へ
運び火葬にするとの事で私には立ち合せてくれなかった。病院では一度に相当の死亡者
があるので、身体の一部を合同で荼毘にするため誰の遺骨と確定は出来ない。翌八月二
日病院の知らせで遺骨の受領に行き竹の筒に入れた小島少尉の遺骨を受け取り、伝令室
に帰ると前日装具の整理中大森大尉から預かった煙草の箱を他の伝令に見られたらしく
、背嚢の中に入れてあった煙草が八個盗まれていた。他の伝令が盗んだのに間違いはな
いが彼等にも少しは良心の呵責があったのか、否そうとは思えないが二個だけ残してあ
り今更騒いでも仕方がないので装具を纏め、自分の装具の上に小島少尉の装具の内、図
嚢、軍刀、拳銃等を縛り付け、革脚絆は自分の巻脚絆の上に巻き遺骨を入れた竹筒を首
から下げて、八月三日鈴木信彦君にも別れを告げ一人で帰りかけると、鈴木君は不自由
な身体で兎飛びをしながら道迄送ってくれた。(鈴木君もその後戦病死した)
私は再び、おびただしい死体で足の踏み場も無い靖国街道を一人反転行軍を続けたが
、途中で会ったどこかの隊の初年兵は私が大きな荷物を背負ったうえ、余りに元気良く
歩いているのを見て感心したのか「班長殿は元気ですネ」と、私の持っている二人分の
装具を見乍驚いていた。この頃の私はマラリヤの症状も影を潜め大変元気でスタスタ歩
いて行けた。だが歩く先々に靖国街道の惨状がどこまでも限りなく続いていたが、自分
はその光景に完全に馴れてしまっていた。
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