柴原廣彌の遺稿 18

 
  
085 カレワ渡河

  八月四日、往路来た時は船便の無かったチンドウィン河のカレワ渡河点に到着したが、

 輸送船は連日満員で空襲を避けるために夜間のみの輸送であり渡河の順番が簡単には廻

 ってこないので、とにかく渡河申請書に氏名を記入し兵站で待つ事になった。他の部隊

 の兵とも懇意になりどこかの衛生兵とも親しくなり残った煙草を二本あげたところ大変

 喜び、自分がマラリヤ持ちである事を話すと代りにビタカン注射液を一筒渡してくれて、

 その衛生兵は「身体が弱った時に良く効くからその時に注射してもらえ」と言っていた。


  空襲が多いので昼間は皆ジャングルに待避をして夜にならないと各施設は活動をしな

 い。私はカレワにある貨物廠の倉庫は昼間誰もいない事を人づてに知り、他の部隊の初

 年兵をそそのかし仲間に引き入れ何か食料品を盗んでくる計画を立て、三人軽装で野戦

 倉庫へ出かけたが途中敵機の空襲に会い到る所で機銃掃射を受け、パチパチと豆を炒る

 ような音が止むことがなく撃ちまくってくる。戦場に馴れていない初年兵は怖気づいて

 しまうばかりで、前へ進めないため私が先頭にたち彼等を誘導し岩陰を右や左にと身を

 遮蔽し乍、機銃弾から逃れてやっとの思いで目的の野戦倉庫にたどり着いた。思ったと

 おり見張りの番兵は誰もいないので中に入ると、倉庫内には木箱が山積みされていたの

 で何をおいても副食品をと思い、缶詰の木箱を一箱初年兵二人に持たせ素早く引き返し

 途中で箱を開けたところ、それは郷里の隣村である越賀村の井上太一さま製造の鯵とヒ

 ジキの煮込み缶詰が入っており、ずいぶん懐かしい思いであったが何時までも郷愁に耽

 っている訳にもいかず各自二、三個宛を持って残りは勿体ないとも思ったが箱なり谷間

 へ投げ捨て帰った。この一緒に行った初年兵もおそらくは生きて故郷へは帰れなかった

 のではないかと思う。預かった煙草がまだ二個程残っていたので、これが人を引き付け

 る恰好の材料となり知り合った人に一、二本宛与えると皆大変よろこんだ。渡河の順番


 を待つ兵站で他部隊の乙幹伍長とも親しくなり、この乙幹伍長にも二本与えて喜ばれた。


  八月十日待ちに待った乗船の順番が来て、夜のカレワを舟艇でチンドウィン河を渡り

 乙幹伍長と一緒に行軍を続けたが、このころから私は体調が悪くなり今までの経験から

 またマラリヤが再発したと思われ、極力がんばって歩き続けたが苦しくなるばかりで、

 そのうち足が動きにくくなってきてため道連れで行軍していた乙幹伍長の世話になり、

 あけぼの村の兵站病院に連れていってもらった。




 
  086
 あけぼの兵站病院入院

  昭和十九年八月十九日あけぼの兵站病院に入院した。その日はこれまでよりも大変

 身体が弱っていて夜中に便所に出たところ病室の入口で途端に意識を失い、そこで倒

 れていたところを衛生兵に発見され助けられて寝台に寝かされ、先日カレワの渡船場

 で煙草の礼に衛生兵から譲られたビタカン液の注射をしてもらった。兵站病院には三

 日程入院していたが続々と前線から送られて来る患者で満員となり、どういう選定か

 は解らないが私は後送と決められトラック便で他の患者一行と共にイエフに向かった。

 途中敵機の空襲も何回かありその都度ジャングル内に避難した。しかし、あけぼの村

 までトラックが来れるのならば、軍は何故あの靖国街道の傷病兵に救いの手をさしの

 べないのか。そうすればあの地獄の惨状を少しでも回避出来たのではないかと腹立し

 さを覚えた。またトラックに乗れた自分の幸運を思わずにはいられなかった。





  087
 イエフ連隊連絡所

  トラックはイエフ自動車隊に到着しそこから駅迄は行軍で、途中にわが連隊の連絡

 所があったので立ち寄ってみると、そこには小島少尉が発病した時に先に反転して行

 った、渡辺軍曹一行が留まっていたので別れてからの経緯をひと通り話し、小島少尉

 の遺骨と装具全部を軍曹に渡した。渡辺軍曹は「えらい苦労をしたネ」と労ってくれ

 たが、その時は思わず涙の流れるのを止める事が出来なかった。入院後送中のため永

 く話しをしている暇もなく一行に別れを告げ、急いで後送隊列を追って停車場に行っ

 た。イエフから汽車便でサガインまで行きイラワジ河を渡河する時、渡船場で再び西

 野強少尉に出会ったが、少尉はやつれた私の様子を見て「大分弱っているようだが大

 丈夫か」と心配して労って下さった。



  イラワジ河を渡河しマンダレーより更に汽車便で一気に南下し、何とラングーン迄

 後送される事がマンダレー駅で汽車を待つ間にわかり、まだ時間があったので駅付近

 を見て歩いたが、南京袋に入れた粉土が貨車に積み込まれラングーンへと輸送されて

 いた。ビルマ北方ではアルミニューム原料のボーキサイト鉱石が産出するので、南京

 袋の中身はおそらくその鉱石と思う。汽車でマンダレー駅出発後数刻してイラワジ河

 支流のミンゲ河に着き、この河の橋は大きなワイヤーの吊橋に鉄路を敷設してあり、

 汽車が橋を渡る時は強度の関係か乗客は全員下車し先に徒歩で橋を渡り、空列車が吊

 橋を渡ってから再び汽車に乗り出発した。このミンゲ渡河点が後日わが五十一連隊が

 退却の際、敵がいち早く占領してしまい大激戦となり、上田連隊長をはじめ部隊が全

 滅に瀕する事になろうとはこの時は夢にも思わなかった。


  サジ、ヤメセン、ピンマナ、トングー、ぺグーと、シッタン河の沿岸に沿った鉄路

 を昼間は各駅に停車して、我々は近くの木陰に待避し夜間のみの運行で汽車は南下を

 続けていった。この地域の主要な停車駅にはまだ兵站がしっかり活動していて糧秣の

 補給を受けることが出来、待避中は現地人の街や部落の生活を見て廻ることが出来た。

 この地方ではビルマヘンといって鶏や豚をたたき切ってカレーまたはトマトで味付け

 をし、それに唐辛子を入れて極く辛いおかずを作り、皿に盛った飯に混ぜて現地人は

 右手指で上手に口に放り込んでいた。また飯を炊くのも現地米は餅米に似た粘りの多

 い米で、土鍋に水を一杯にして炊き煮え上がると上の重湯を棄ててしまい、その後火

 の上に乗せて蒸し上げるので非常にうまく炊き上がるのである。この辺ではまだ軍票

 が通用していて、それでビルマヘンを買ったが軍票が無い者は衣類等と交換して食っ

 ていた。始めてビルマヘンを食った時は、その辛さに涙が出るくらいであったが段々

 と馴れると結構うまいものであった。現地人は軍隊の往来するのを当て込んでビルマ

 ヘンやマンゴー、ドリアン、バナナ、パパイヤなどの果物を、また米粉で作った菓子

 や椰子から採った黒砂糖を何処の待避所へも商魂逞しく売りに来ていた。そのため日

 が経過するに従い兵の装具盗難が多くなり、すべて物々交換のための品物となってし

 まう。病弱で動きの悪い者やぼんやりしている者は装具をポツポツと盗まれてしまう

 のである。トングーやぺグーでは大きな釈迦の寝像があって野天で横たわっており、

 方々の部落にもトタン屋根の寺院内に釈迦の像を祭ってあり、何処でも仏教信仰が盛

 んで肩から黄色い布を掛けた僧が悠々と街を闊歩していた。兵の身体も病人のため日

 々不潔になり手足の湿疹に罹っている者が多く、私の身体はマラリヤの薬を飲んでい

 れば発熱はしないので、ラングーンまで何日かかるかわからないが装具盗難の心配以

 外は陽気な汽車の旅であった。



 
  088
 ラングーン兵站病院へ転送

  昭和十九年八月二十七日汽車はラングーンに到着し、兵站病院(森第七〇〇五部隊)

 に転送され診断の結果マラリヤ熱帯熱であり、病院にはマラリヤの患者が多いのに驚

 いた。私はもう発熱はしないのだが食欲は依然としてなく、それに副食は毎日毎日冬

 瓜の塩汁ばかりで見ただけで胸がつかえてくる。マラリヤ患者にはもともと無理な食

 事であるが、それより他に何も無く仕方がないのだろう。それよりもよくもまあこん

 なに大量の冬瓜があったものだと毎日の冬瓜攻めに感心をしてしまうが、さすが米の

 国だけはあり米飯だけは不自由なく食う事が出来た。私は毎日定時間にキニーネと重

 曹を飲んでいるので、薬が身体に合うのか体調も相当良くなってきた。



  インパール作戦の戦況も誰からともなく伝わってきて日本軍の敗戦、総退却の情報

 も後送の
戦傷兵から教えられた。既にラングーンも敵の空襲が頻繁となり、これを迎

 え撃つ日本軍の飛行機は信じられない事だが複葉の旧式機ばかりで、地上からその空

 中戦を見ていても敵機に追いつく事も出来ない状況で、全く歯が立たなく撃ち落され

 るのが関の山である。九月十日過ぎになってマラリヤもほとんど治癒し、体調もすこ

 ぶる良くなってきて何時退院となるかも知れず、退院するとまた鉄道便で長い追及と

 なるから、その時、兵站が活動している保障はなく、その間の現地人との物々交換の

 品も準備しておかなければならない。あらゆる方法を考え他人の物でも遠慮会釈もな

 く盗って、衣類等の確保をするのは誰もが皆考える事である。被服庫の使役には進ん

 で行き作業中に係の衛生兵の眼をかすめて、綿腹巻を素早く自分の腹に巻き素知らぬ

 振りをして帰った事が何度もあった。事情を知った患者は退院間際になってくると大

 なり小なり皆同じような事をしていて、これが追及時の食料に変わるのである。



 
  089
 ラングーン体力鍛錬所

  九月十五日退院となり即日森集団ラングーン体力鍛錬所に入隊をした。毎日裸、裸

 足の鉢巻姿で体操や駈足をして体力の回復に励むのである。日本全国方々からビルマ

 に出兵している部隊から集まってくる患者で、退院した者が鍛錬を兼ねて休養をして

 いる。入所者の中で時々お国自慢の隠し芸が披露され、安部隊の滋賀県人で江州音頭

 をよく歌う宮大工の兵がいて、それに同県人の囃子でよくにぎわった。初年兵でまだ

 一般気分が抜け切れず京都弁丸出しで話しをして、同部隊の上級兵に気合を入れられ

 ている兵もいた。使役の中でもで豆腐製造の臼回しというのがあり、この使役に行く

 と作業の後で豆腐を半丁食わせてくれるので皆が進んで申し出た。しかし病気上がり

 の身体で臼回しは大変な重労働で、長く回していると疲労のため豆を臼に入れる役と

 の呼吸が合わず、うっかりして臼回しの手で入れる役の豆を跳ねて折角曳いた中へ落

 としてしまい、乳豆に流れ込むので係の衛生一等兵に棒でコツンと頭をやられる。毎

 日冬瓜とモヤシの塩汁ばかりであるが何日目かには豆腐が入っている時があり、また

 オカラの煮込みが出る日もあった。



  ある日豆腐使役が済んでの帰り途にジャングルの細い道を急いで宿舎へ歩いていた

 時、不意に道の下の方で「バーン」と爆発音がして肝を潰し、すぐそこへ降りて行っ

 てみると軍隊生活に耐えられなかったのか、まだ若い初年兵が手榴弾を抱いて自爆を

 していた。その惨状たるや特に腹部から下が飛び散り血のしたたる肉片が周囲に骨片

 と共に散らかっていて、付近は血の匂いが漂い近寄るのも躊躇するほどで眼も当てら

 れなかった。こうして何日かおきに現在の情況に絶えきれず将来に絶望し自らの生命

 を絶っていく兵士が絶えなかった。



  ラングーンは道路の舗装が良く出来ていて、我々が跣足でアスファルト道を歩くと

 足の裏が焼け付いて我慢が出来ないが、両側の未舗装路を歩くと足は熱くはないので、

 なるべく道の両側に生えている草の上を選んで歩くようにした。現地人は跣足でアス

 ファルト道だろうが、山でもどこでも駆け回るのが不思議なくらいである。英国が植

 民地として支配していた当時、道路の中央をアスファルト舗装し英国人のみが通行し、

 両側の未舗装道路を現地人に歩くように強制し、特に牛車は舗装道路が汚れるのを理

 由に絶対入れなかったそうである。九月二十日当兵站病院(森第七〇〇五部隊)にて

 相良主計少尉より七、八、九月分の俸給七十三円五十銭を纏めて支給された。軍発行

 の俸給支払證票さえ持っていれば何時何月分の俸給が支払われたか一目瞭然で、組織

 が正常に活動していれば何処でも支給された。約一ヶ月間の鍛錬も終わり十月十四日

 には森集団体力鍛錬所の畝為助主計中尉より、十月分俸給二十四円五十銭の支給を受

 け十月十六日退所した。これが軍隊において私が支給を受けた最後の俸給となり、打

 ち続く負け戦で軍の組織が麻痺してしまい俸給の支給が無くなってしまったのである。

 数名が一団となり先任兵の引率によりラングーンの街を歩き、途中大きな金色燦然と

 輝くパゴダを左に見て追及のため兵站に向かった。




 
  090
 ラングーン発・追及

  昭和十九年十月十八日ラングーン停車場よりマンダレー行きの汽車便により追及の

 途についた。汽車はすべて軍用列車で座席は巾を広くしてあり、座席を持ち上げると

 中へ銃やその他の兵器を入れられるようになっていて、通路は車輛の片側だけに細く

 造ってある。停車場にはビルマ国軍の将校が日本軍から譲られたらしい軍刀を腰に吊

 って警備をしていたが、彼等ビルマ国軍でもインパールで日本軍が敗走している事は

 薄々知っていただろう。ぺグー、トングーと後送で来た道を逆行しての追及であるが、

 相変わらず昼間は敵機の爆撃を避けて各駅で待避をし夜間のみの運行である。この頃

 になると空襲はますます烈しくなり列車の運行も段々と遅れがちで、これでは何時マ

 ンダレーに着くか見当も付かない。ぺグーでは釈迦の寝像があるパゴダ付近で休養を

 し乍待避をし各自が方々へ散って行き、この間に体力を養うため現地人の料理を買っ

 て食べた。この頃になると、もうビルマヘンの辛さにも馴れて好んで食べる事が出来

 るようになった。ピンマナ、ヤメセンと日が経つにしたがい貯めておいた俸給の軍票

 も底を尽き食料を求めるために物々交換が始まる。当初はあらかじめ用意しておいた

 使役でかすめ取った綿腹巻などの布地等を使ったが、それらの現物も無くなってくる

 と誰もが戦友の装具を狙い出し、盗み取った物を売り飛ばし食料を買う事が多くなっ

 てくる。待避中木陰などで気持ちが良いからとうっかり寝入ってしまうと何を盗られ

 るかわからない。どこでの待避中だったか覚えていないが私も散策をしながら待避中、

 一人の兵が木陰で装具を解き毛布を敷いて気持ち良く眠っているのに出会った。良く

 見ると寝ている頭の先にもう一枚毛布が巻いて置いてあり、一人の兵が二枚も毛布を

 持っているはずがなく、多分他人の物を失敬した品であろうと思い、それなら一枚盗

 ってやろうと素早くその毛布を失敬して急いで逃げた。その毛布をどのように処分し

 たかは記憶にないが多分急いで食料との物々交換に充てたと思う。ミンゲ河の渡河は

 やはり吊橋を徒歩で渡り、列車が対岸に着くのを待って再び乗車した。ここを過ぎれ

 ばもうマンダレーはすぐである。マンダレーに到着するとすぐイラワジ河を渡河しサ

 ガインに帰り着いた。日時は覚えがないがイラワジ河原で西野少尉に再び会い、少尉

 は私にまた「えらくやつれているようだが大丈夫か」と心配をして声をかけてくださ

 った。私はラングーン陸軍病院まで後送され治療の甲斐があって体力も回復し追及す

 る事になったと話した。



  サガイン兵站で追及の便を待つことになり暇にまかせて街を見て歩いたが、たくさ

 ん露店が出ていてマンゴーやスイカ等果物がたくさん売られていたので、その中から

 マンゴーを一個十銭軍票で買って食べた。



  現地人床屋が営業していたので久し振りに散髪をしようと入ったところ、見習士官

 の先客があり話しをすると、なんと、その人は伊勢市の畑病院の畑実軍医であった。

 私が中支で伝令をしていた畑幾穂見習士官(あの診察中も酒を飲んでいて、自分が大

 酒飲みのため生まれてくる子供に影響はないかと心配していた軍医)の実の兄上で、

 その事を話すとその軍医は懐かしそうにして「そうか弟が世話になったようだね、あ

 りがとう。だが弟はインパールで戦死したよ」と寂しそうに言ったので驚き次の声が

 でなかった。(畑幾穂軍医はインパールより撤退時、行岡軍医と同様トーパル河にて

 戦死)



  サガイン北部郊外のパゴダに五十一連隊の追及者が集まっていると聞き、そこへ行

 って追及の便を待つ事にした。この頃には前線から戦傷病兵が続々反転して来たので、

 部隊の動静を聞くが良く知っている兵は殆どいなく、彼等はインパール戦失敗で九死

 に一生を得て退却してきて、彼等一人一人が敵軍の追撃から逃れるのに精一杯で、部

 隊の動静など考える余裕もなかったのであろう。自分等は何処へ行ってよいかわから

 ず兵站に連絡して捜さなければならない。




 
  091
 シェッポ着・本隊捜し

  昭和十九年十二月七日、サガイン駅を第二大隊所属の兵四名と共に汽車便で出発し、

 翌八日シェッポに着き本隊が反転してくる情況を兵站で尋ねたが、兵站でも部隊行動

 が一向にわからず五名の兵は野営をし、副食が無かったので可愛そうとは思ったが背

 に腹は変えられず、近くにいた野犬を一匹射殺し夕食の副食にしたが日本兵に不用意

 に近寄った不運な犬である。




 
  092
 シェッポより反転

  色々な情報を集め推察するに本隊の反転してくる方向が違うらしく、このままでは

 情況も解らず時が過ぎるばかりなので、一旦マンダレー兵站で連絡を取ったほうが良

 いとの結論になり、十二月十日シェッポ駅から反転してサガインで何度目かのイラワ

 ジ河の渡河をし十三日にマンダレー郊外に到着した。ミョウハンのパゴダ内に五十一

 連隊の連絡所があると聞いたので捜しあて尋ねると、そこで顔見知りの連絡員が私を

 見るなり驚いた顔をして「柴原じゃないか生きていたのか。お前の遺骨が届いている

 ぞ」と言われ今度は私が驚いた。並べてある戦死者の遺骨の中に、確かに私の名前が

 書かれた名札の付いた遺骨があったが、これは推測するに、あけぼの村空襲時に戦死

 した歩兵砲中隊の柴原楠成君との間違いだからと訂正してもらった。その時一中隊の

 兵に会ったので郷里を一緒に出征した橋爪慶二郎君の事を尋ねたところ、橋爪君は追

 及の途中で病気が重くなり苦しみ乍、最後に酒が飲みたいと言うので戦友達もこの病

 状ではとても回復の見こみはなく、もう最後だろうと思い隣部落まで行って現地酒を

 買い求め飲ませてやったが、遂に昭和十九年七月三日戦病死したそうである。三月に

 ケンタンの連絡所で会った時は一時眼が見えなくなる程病状が悪かったが、持ち直し

 て良くなってきたと言っていたのに残念である。



  連絡所でも本隊の動静が判らず、マンダレー兵站で調べてもらえば判るかも知れな

 いと言うのでマンダレー兵站へ行ってみる事にした。この頃軍は撤退作戦中で日々移

 動しているので、どの部隊も中々所在がわからないようである。





父 柴原廣彌の遺稿へ

2011.10.14.