柴原廣彌の遺稿 19

 
  
093 マンダレー兵站病院入院

  昭和十九年十二月十四日マンダレー兵站へ行き本隊の動静を調べてもらうように連絡

 をし、兵站宿舎に待機していたところ私はまたマラリヤが再発してしまい直ちにマンダ

 レー兵站病院に入院した。二、三日この病院にいたが敵機の空襲が激しくなり患者は疎

 開させると決まり、私は他の患者と共にトラックに乗せられマンダレー北方のマンダレ

 ーヒル麓の平原地にある木造二階建の病院に移った。病棟は十数棟建っていて構内は随

 分広く、建物の間にはへ形の防空壕がたくさん出来ている。マラリヤの治療はいつもと

 変わらず、毎日キニーネと重曹を時間毎に飲むだけで他に何もする事はなかった。



  マンダレーも益々空襲が激しくなって防空監視が手薄なためか、空襲警報より敵機の

 飛来するほうが早く慌てて戸外に走り出て防空壕へ待避するが、ここでも敵機が飛び去

 ったあと患者は爆風で滅茶苦茶になっている室内へ慌てて戻る。慌てて戻るわけは急い

 で自分の装具を纏めないと他人に盗まれてしまうからである。もうこの頃には夜でも注

 意していないと、寝込んでしまったりすると毛布とか天幕まで盗られてしまう。この病

 院にはわが五中隊の川村昇伍長も入院していて、川村伍長は毛布を盗むのが中々うまく

 馴れていたが一度毛布を盗り逃げる時に彼特有の咳払いをしてしまい、皆の者におおよ

 そ犯人は川村伍長とわかってしまったが相手が下士官であるのであまり責められなかっ

 た。盗み取った毛布等は同じ中隊の衛生兵が他の病棟に入院していたので、私も持って

 行き一旦そこに毛布を預け翌日柵を越えて現地人に売りにいった。



 
  094
 マンダレー大空襲

  昭和二十年一月となり敵爆撃機二十機程の編隊が次々と入れ替わり立ち替わり来襲し、

 碁盤目爆撃を繰り返し我々は無蓋防空壕に飛び込み待避していたが、焼夷弾と爆弾を一

 度に撒き散らされて雨が降るように落下し、真さに死ぬのは今かと思った程の激しい爆

 撃で、隣にいたどこかの兵は南無阿弥陀仏と念仏を唱えつつ手を合わせ祈りつづけてい

 た。爆弾が落ちて炸裂すると伏せている体が一瞬、防空壕から飛び出してしまう程の衝

 撃がある。焼夷弾は投下されると途中で分裂して小さい焼夷弾にばらける親子爆弾で、

 燃料と共に落下して燃え上がり掩蓋壕の入口にも燃料が流れ込み燃え広がる。幸いにし

 て私の入った防空壕は、投下弾が落ちた四隅の真中にあったので爆風のみで助かり、ま

 だまだ運には見放されていないようであったが、バンコック警備隊にいた時も空襲にあ

 ったが、こんな激しい爆撃に遭ったのは初めてである。敵機が去った後、急いで病室に

 戻り自分の装具を纏めて爆撃の状況を見に行ったが、焼夷弾の直撃を受けた患者は焼か

 れ真っ黒焦げになっていた。今回の爆撃の後余りに患者の被害が多かったので、夜間は

 病室にいて静養し動ける患者は日が昇ると飯盒に食事と薬をもらい、各自が安全な所に

 待避をする事になり、夕刻になると三々五々方々から患者は病室に帰ってくる。この待

 避中に近辺の現地人は食物を持って売りに来て私は方々で物々交換をし食物を漁ったが、

 川村伍長と同行しているので交換する品は二人で患者から盗った物ばかりだったので他

 の患者はこれを見て恨んでいた。私は一度敷布一枚を盗りそこなって他の兵に咎められ

 大変困った事があったが、その時もよく覚えてはいないが川村伍長の顔で事なきを得た

 のだったと思う。ビルマにおける戦局が極めて悪くなってきたようで、入院患者もある

 程度動ける者は早く退院させるようになった。





  095
 マンダレー兵站病院退院

  昭和二十年一月十七日川村伍長等と共に兵站病院を退院した。川村伍長が五中隊の上

 官であるので私は伍長に従って行動したが、兵站では永く置いてもらえず少々の糧秣を

 支給され追い出されたため、現地人から色々な方法で米を確保しマンダレー周辺を野営

 してうろついていた。アラカンパゴダに行くと寺院内に大きな市場が開いており、日本

 の門前町のようなにぎわいを呈していた。マンダレー郊外に五中隊の葛西伍長が梱包監

 視をしていると聞き二人で探し当て尋ね、葛西伍長は川村伍長と同年兵であり親しく語

 らい鶏の丸煮を御馳走してもらい、久しぶりの美味さに二人ともおおいに喜んだ。暫く

 はこのようにして遊兵の様に周辺をうろついていたが、しだいに私は良心が咎めてきて

 川村伍長と別れ兵站に行き連絡をして追及の手続きをした。




 
  096
 部隊へ追及・牛車輸送

  兵站で五十一連隊の追及兵が一団となり追及する事になったが、その時に兵站の命令

 で牛車で物資の輸送を兼ねて追及せよとの事で、兵員不足のため追及兵に馭者をさせよ

 うとの事である。自分は淅東作戦で工兵隊の将校の好意で馬に乗せてもらった時以外、

 生まれてこのかた牛馬には触った経験もなく扱い方も全く知らないが軍隊ではそんなこ

 とは言っていられない。牛車は二輪車で日本の大八車の荷台を短くしたような形をして

 いて、人が引くところへ牛二頭を並べて繋ぎ引かせる構造になっている。鉄筋コンクリ

 ート建物の中で飼育し
ている多数の牛の中から牛車一台につき牛二頭宛引き出して繋ぎ、

 これに乗れ
と言われ恐る恐る馭者台に乗ったところ牛は途端に歩き出してしまい、予備

 知識も何もない我々には止める事も出来ず、慌てふためき進み乍「止め方を教えてくれ」

 と大声で叫び係の兵に聞いたくらいである。手綱を右に引けば右、左に引けは左、両方

 同時に引くと止まるの三つだけを教えられ、あとはどうにかなるだろうと覚悟を決めた。


  輜重隊の上等兵が先頭にたち一等兵が二人くらいで我等一団三十車程を引率して北方

 へ向かっての追及である。敵の空襲を警戒して夜間だけの行動であり「ハイノアー、ハ

 イノアー」と大きな声をかけて、牛の尻をムチで叩くのであるが牛は我々素人の指図な

 ど素直には聞いてくれず、一度動きを止めるとムチで叩いても宥めても動こうとせず、

 そのため遅れてしまい隊列は先に行ってしまい離れてしまう。夜の暗闇でも牛は動かな

 くなる事があり、先頭と離れ離れになってしまい行く先が解らず我々を困らす。休憩に

 なると牛に草を食わせ水を飲ますのであるが、その量の見当が解らずあまり多く食わせ

 ると満腹になり牛は参ってしまう。このようにして輸送の途中や待避中に敵機の銃撃等

 で死んだ牛は、牛車を放棄し解体した牛の肉は隊員の食料になる。放棄した牛車に積ん

 であった荷物は他の牛車に分けて積むか、それが無理な場合はこれも放棄してしまう。

 夜間行進中ついうとうとと眠ってしまうと、牛は馭者が眠るとわかるらしく動かなくな

 ってしまい先を行く牛車との連絡が途切れてしまう。暗闇の中行き先がわからなくなり

 迷っていると、輜重隊の一等兵が捜しに来て列の切れた所の者を誰彼なく棒で殴りつけ

 る。かれらは何回となくこの道を往復しているから、夜でも道は自分の家の庭のように

 良く知っている。良い待避場が見付からない内に夜が明けてしまうと、やむおえず広い

 野原で休止する事もあり、こんな時は牛を野原に置き兵は適当に木陰を選んで休息をす

 るが運悪く敵機に見付かってしまうと、牛の何頭かは銃撃で射殺されてしまうので皆の

 食料になる。あれやこれやで一週間程過ぎると、ようやく牛の操作にも馴れて来た頃に

 目的地に着き、兵站に牛車を渡した時には牛の数は既に出発時の三分の二くらいに減っ

 ていたが、時には半分以下に減ってしまう事もあると云う。


  ここで牛車輸送から開放され本隊を行軍で追及する事になりションベンション、ワヨ

 ンゴン等通過した地名を覚えている。行軍している途中新しく十五師団の師団長に着任

 した柴田卯一中将が前線視察をしているのに出会い、一同整列して申告をしたところ

 「元気にやれ」と何とも簡単な一言だけの励ましであった。この時、十五師団の前師団

 長山内中将が解任された事を知らされた。また三十一師団の佐藤師団長、三十三師団の

 柳田師団長も解任されたと聞き、いったい軍はどうなっているのかこれでは負けるのも

 道理だと話し合った。





  097
 連隊本部へ到着

  多分シュエジンという部落だったと思うが漸く連隊本部に到着した。そこでは思いも

 寄らぬ事に同郷の柴原貞男中尉が補充将校の再召集で大隊副官して着任していて、同中

 尉は中々張り切っており聞くところではイラワジ河を単独で泳ぎきり、対岸に布陣して

 いた第一大隊との連絡を取り危機を救ったと聞いた。同じく同郷で七中隊の柴原喜多男

 曹長と三人が久し振りに会し草原に座って柴原中尉から故郷の話を聞き、夕刻になり空

 の月を眺め盆踊りの話しなどをしてしばしの時を語り合った。また柴原曹長には泰国ラ

 ンパンの連絡所で郷里からのたよりが来ていた事を話したが、やはり本人には届いてな

 かったようだ。私の次女弥生がジフテリヤとかのとても重い病気にかかり一時は生命に

 関わるほど危ないところだったが、なんとか持ち直し助かったことを柴原中尉から知ら

 された。この時不意に鹿のような獣が飛び出して来て三人が話し合っている中を走りぬ

 けて行ったのには驚いた。





  098
 中隊本部へ復帰

  昭和二十年二月十日バンコック以来約一年ぶりに五中隊に復帰した。松村中隊長は既

 に戦死されていて現在の中隊長は補充召集の辻中尉になっているだけでなく、上級幹部

 も知らぬ人ばかりであり兵も補充兵が多くいて中支からの戦友は殆ど戦死をしたそうで

 ある。五中隊は総員三十名足らずの人員で一個小隊の人数にも足りず、中支にいた頃と

 は比べ様もなく小数であるが、直ちに間近に迫った敵の進撃を阻止するためイラワジ河

 を渡河し対岸で堤防を遮蔽にして様子を見る事になった。明日の十一日は紀元節の祝日

 であり、下給品として全員に甘いゼリーを一袋宛渡河中の舟艇で配られた。インパール

 作戦失敗により総退却になったため敵の追撃が始まり、遂に戦場はビルマ国内に移りビ

 ルマ防衛戦となっていた。




  099
 イラワジ河畔の作戦

  川渕の崖下で下給品のゼリーを食い乍、暫時待機をしていると遠く下流の方では戦闘

 が始まったのか銃砲声が聞こえてきた。既に敵は下流の方面で渡河を開始し我が部隊の

 後方迄進出してきたらしく、このままでは退路を断たれてしまう恐れが出て来たため急

 に命令が変わって、その夜の内に工兵隊の舟艇で渡河してシュエジン側へ引き返した。

 部隊は南へと行軍を続けたが炎天日中の行軍は中々大変であり、それに敵機を警戒しな

 がらの行動で爆音が聞こえてくれば直ちにジャングルへ待避する。そのうち水筒の水も

 無くなるが乾期なので容易に水を求める手立てもなく疲労がつのる一方であるが、それ

 でも前方に青々とした竹林の堤を見つけると馴れたもので、経験上その下を水が流れて

 いるのを知っていて「あっ水だ」と誰かが叫ぶと、全員が疲れも忘れ我先にと走りだし、

 一同が流れに顔を突っ込み息もつかず水を飲み水筒にも詰めて早い者は顔まで洗ってい

 る。この付近の部落は家の入口に小窓を作り壷に水を入れておき、柄杓まで添えて旅人

 が勝手に何時でも飲める様にしてあるが、戦況を察してか住民は何処かへ避難して誰も

 いない。行軍の途中水の干上がった川床を歩いている時に連隊本部と出会い、新しく着

 任した連隊長折田一雄大佐が真新しい防暑服を着込んで一同に訓示をして立ち去った。

 前任の五十一連隊の尾本連隊長はインパール戦で負傷し、スマトラの旅団へ栄転され代

 わっていたのである。しかし折田連隊長はこの後すぐに戦死されたのである。この付近

 は追及の時に牛車を操って進んだ地域なので、自分や牛車輸送をした者は凡その地勢は

 わかっていた。ションベンションという所では皆名前が面白いと言って小便をする者が

 多くいた。





  100
 克作戦

  昭和二十年二月十八日カンパ付近で連隊本部は敵の集中砲撃を受け、着任したばかり

 の折田連隊長、副官の伊藤了三大尉、旗手の田中進喜少尉及び軍旗護衛兵が一挙に戦死

 し、五十一連隊軍旗は旗竿が折れてしまい連隊本部は全滅したと聞いた。行軍中私は足

 に湿疹ができ、それが化膿して軍靴を履いては痛くて歩行困難となった。三月初めにな

 り後方に廻った敵の陣地を攻撃する事になったが、事故兵は連隊行李の後に付けとの指

 示で私も足の痛みが治らず小林曹長以下数名と共に行李隊長鍋島謹一中尉の指揮下に入

 った。鍋島中尉は郷里の隣村和具の出身で、同郷の大野千代蔵君が伝令をしていて彼と

 はプノンペン以来である。連隊行李は牛車部隊であり(多分自分等が追及の時輸送した

 牛車であろう)数十台が糧秣等を積載して行進をしていた。


  昼過ぎに近くの田園方面から、いきなり立て続けに「パンパーン」と機銃音が聞こえ

 たところ、行李隊長は敵襲と察知し物資を満載した牛車を放棄して早々と遁走してしま

 った。牛車に続き後尾を行軍していた我々は咄嗟の出来事で、敵情も把握しないで逃げ

 てしまった行李隊長の行動に、後に続いていた事故兵皆が唖然としたが機銃音が何を意

 味するのかは判らなかったが敵の攻撃もないようなので、我々は行李隊長が放ったらか

 していった牛車の糧秣の中から砂糖とミルク缶詰を、持てるだけ携行の米と入れ替えて

 背嚢の中に積めこんだ。行李隊長の伝令である大野君も取り残されてしまい困っていて

 仕方なく我々と共に一隊となって行動したが、それにしてもなんとも逃げ足の速い行李

 隊長で、実戦経験のないに等しい将校は機銃音がした途端に敵の攻撃を受けたと判断し

 てしまったのだろう。


  夜行軍を続け一夜明けると前方の竹薮に友軍が待機しているのが見えたので、近寄っ

 てよく見ると昨夜の攻撃で負傷した一隊のようであり竹の担架に負傷兵は乗せられ休憩

 をしていた。そこに七中隊の柴原喜多男曹長が横になっているのを見つけ、私は驚き急

 いで傍に駈けより様態を聞くと、全身九ヶ所の手榴弾傷を受けて身は重体であるが意気

 は軒昂であり、話しを聞くと上官から斥候に行けと命ぜられたので、その心づもりで出

 かけたが谷間を進んでいる時そこは他の部隊が攻撃に失敗した後で敵が布陣していて、

 その敵陣の中へ行かされ不意に高地から攻撃され手榴弾の雨であったとの事で、上官は

 情況も知らさず斥候だと言ったので行ったのに、これでは上官に騙されたも同じだと言

 って大変憤慨していた。傍に初年兵が一名伝令として付き添っていたので、ミルク缶詰

 と砂糖を数個手渡し飲ませてやってくれる様頼み、隊が異なるためそこに留まる訳にい

 かず、気にし乍別れたが柴原曹長はその後四月十二日戦病死されたそうである。付近に

 散らばっていた牛車を捜し集め負傷兵を乗せて一隊となって行軍し、途中衛生隊に出会

 ったので負傷兵を申し送り我等は更に南の方へと進んだ。この七中隊の戦闘は多分パゴ

 ダ高地の攻撃だったと思われる。



  戦場の上空には俗にトンボと称する敵の偵察機が遠目には殆ど静止しているほどの低

 速度で飛んでおり、一日中我等の行動を監視していて少しでも異状を認めると砲兵陣地

 へ連絡し一斉砲撃をしてくる。昼間は部隊全体がジャングルの中に退避し身動きさえ出

 来ない情況で全く行動が出来ず、従って行動するのは夜間に限られ汽車で後送された時

 とおなじである。




父 柴原廣彌の遺稿へ

2011.10.14.