柴原廣彌の遺稿 20

  
  
101 マンダレー攻防戦

  一週間程行軍し三月十日頃(確実には覚えなし)我々はマンダレーに到着してみると、

 二、三発の銃声で真っ先に遁走した行李隊長は既にいち早く到着しており、従って同行

 してきた大野君は本隊へ帰った。歩行困難で行李隊の後ろに付いたため離れていた五中

 隊は、マンダレー東部のパゴダの傍に陣取っていたので私は再び中隊に戻った。このパ

 ゴダは白色の塔で白壁を張り巡らし、外には白い板柵で周囲を巡らし綺麗な庭が造って

 あった。




 
  102
 メイミョウ街道駐止斥候

  敵がマンダレーとメイミョウ間に進出してきたとの事で、連隊本部の命令でメイミョ

 ウ付近へ駐止斥候を出すことになり、斥候長は木村少尉(四日市市出身と聞いた)以下

 大石清伍長、自分、更屋上等兵、東浦政次上等兵それに初年兵一名の計六名が選ばれ。

 私はまだ足の化膿が治りきっていなかったが命令では致し方ない。出発に際し辻中隊長

 から駐止斥候の注意を詳細に聞かされ、尚、各部落に入る事は絶対に厳禁で炊爨も充分

 注意し、なるべく携帯食料にせよと迄言われた。マンダレーとメイミョウの中間に駐止

 して敵の動静を偵察する任務で、わが軍のマンダレー撤退準備のためである。


  大石伍長は私が昭和十五年末中支へ出征した時の四年兵の下士官で、昭和十六年内地

 帰還し再度の召集で元の五中隊に所属となったのである。マンダレー東部の端に七中隊

 の歩哨が出ていて、その東二百米程にメイミョウに通ずる道路があり既に終日敵の車輛

 が往復していて、この地域は敵の勢力範囲になってしまっている。夕暮れと共に七中隊

 の歩哨線を通過し敵車輛の間隙をぬって道路を横断して前進して行ったが、どうした事

 か斥候長は思いもよらぬ行動を始め、目的地に直行せず中隊長の注意を無視して道路か

 ら東へ二百米程の部落へ入って行った。そこの部落民は戦闘の危険を察し何処かへ避難

 した後らしく、部落は既に無人となっており殆どの家は相当荒らされていて、それでも

 斥候長は何か良い物はないかと方々を漁っていた。補充将校であり多分支那事変当初の

 ことが頭に残っているのか、敵を支那軍と同じ程度と考えているらしく、こんな将校に

 引率されていてはこれからどうなるのか、生命がいくつあっても足りないと皆が顔を見

 合わせ互いが危険を感じた。一晩その部落に留まり夜明け近くになり行動を開始し、斥

 候長は田園を進むように指示したので命令に従い進んで行くと、そこは広々とした田園

 の畦道で日が昇り周りが明るくなってしまった。こんな場所で敵に発見されたら遮蔽す

 るのもままならないので、これでは駄目だと慌てて東方のジャングルに駆け込んだ。斥

 候長は戦地に馴れてないのは致し方ないが、それにしてもあまりに無謀な行動は見てい

 られなく、その命令に従わねばならぬ我々はたまったものではない。


  そうこうしているうちに道路近くまでジャングルが繁っている場所を見つけ、その木

 陰に入って駐止する事になった。ここならメイミョウ方面へ行く敵のトラックをすぐ近

 くで偵察できそうである。しばらくすると敵のトラックがやって来て近くに止まり、よ

 りによって下車したグルカ兵十数名が我々のほうへ歩いて来るではないか。駐止場所が

 近すぎたかと一同緊張し戦闘態勢に入ったが、横にいる斥
候長は震えがきていて全く頼

 りない限りである。こちらはジーッと静粛にしていたところ敵はジャングルには入って

 来ず、途中で引き返して行ったので発見されずに一同安堵の胸を撫でた。夕方になり行

 動を始めたが又もや斥候長は異常な行動を始め、ジャングルの前にある大きな部落の方

 へ進んで行った。その部落の後方のジャングルには英国軍が既に陣地を構築していて、

 絶えずそこから発砲をしているのは判明しており、斥候長はその極めて危険な所へ入っ

 て行こうとしている。我々は正気では考えられない行為で気でも狂ったのかと思うくら

 いであるが、それでも兵は斥候長に従うより仕方がなく細い畦道を通って部落の入口ま

 で来た頃、何と斥候長は部下に前へ進めと言い乍自分は後ろへ後ろへと下がって行く。

 これを見かねた更屋上等兵が遂に「何を言っとるか自分は恐ろしいので後ろへ廻り、兵

 ばかりを前へ進めと言って督戦するのか」とぼやいたところ、当然斥候長に聞こえ「何

 を言うか俺は後方を警戒しているのだ。将校に向かって何を言うか」と言って更屋上等

 兵を殴りつけた。もちろん更屋上等兵は抗議を込めて聞こえるように呟いたのである。


  部落の入口に着いた時は既に夜は明け周りは明るくなっていて、中隊長から部落へは

 絶対に入るなと、あれほど注意されていたのに皆は困った事だと思っていた。早速部落

 前の木陰で装具を解き食事の準備をしていると、住民が戸外に出てきて我等を見乍ザワ

 ザワ何か話し合っていた。すると斥候長は何を思ったか、いきなり服を脱ぎ始め真っ裸

 になり褌一つで武器も持たず部落へ行こうとした。我等は驚きその行動に唖然とし危険

 だからと皆が必死に止めたが聞き分けもせず、多くの現地人が見ている中を悠々と一軒

 の家の中に入ってしまった。我等はあきれて見ていたが仕方なく食事をしようと思った

 ところ、急に部落の南側が騒がしくなってきて「ハッ」と危険を感じ、何事が起きたの

 かと辺りを見廻すと既に敵の姿が見え隠れして自動小銃を発砲し攻撃をしてきた。部落

 民が英国軍に知らせたのであろう。慌てた我等五名は斥候長が部落に入ったままではあ


 るが、もうどうする事も出来ず急いで装具を付け退却にかかった。大石伍長以下半数宛

 で交互に援護射撃をしては走りまた射撃をしては走ったが、もうこうなると盲撃で数多

 く発砲して敵の追撃の足を遅らすしかないが、一発毎に弾を込めなければならない三八

 式小銃ではどれほどの効果もない。背嚢を背負っていては素早い行動が取れずとても逃

 げきれないと、誰かが最初に捨てるのを見て各自が田園の中へ背嚢を一斉に投げ捨て、

 私は飯を未だ食ってなかったので飯盒だけを持って退却をしたが、敵の銃弾は益々激し

 くなりしきりと飛んでくる。この期に及んでも食うことに執着があったようだが、遂に

 その飯盒も走るのに邪魔になり畦道に投げ捨て、軽装となって走って走って走り巻くっ

 て退却をしたが敵は相変わらず発砲し乍追いかけてくる、田園が尽きると次はメイミョ

 ウ街道で道は高い土手の上にあり、これを越えなければならないのがまた一苦労である。

 道路の土手を越えるのは、そこに的を置いて撃ってください言うようなもので、ここま

 での退却に相当疲労も溜まっているうえ、土手を駆け登るには動作が遅くなるから敵に

 はとっては射撃に最良の時である。敵の銃弾は物凄く雨霰の如くで、私は足の横や間を

 何かがピュンピュンと飛び抜けるのを感じたが後で思うにあれは銃弾だったのだのだろ

 う。恐怖から足が萎えそうなのを必死に堪え、夢中で土手の斜面を銃を持ち乍手足全部

 を使って這い上がった。この頃までは確かに大石伍長以下五名が周りにいたのを確認し

 ていたが、漸くにして道路を乗り越えて一安心をして周りを見まわすと、大石伍長と私

 と更屋上等兵の三名だけになっていて東浦上等兵と初年兵が見当たらなかったが、つい

 てこない二人を待っている事も出来ず、五百米程先のジャングルへ向かって大変疲れて

 いたが更に走った。あの敵が撃ってきた猛烈な銃弾が当たらなかったのが今だに信じら

 れないが、我々が死に物狂いで走った程には敵の追跡は急ではなかったので、なんとか

 追い付かれず逃げ切る事が出来た。この時大石伍長は地下足袋を履いており、それが足

 に合わず踵がはみ出ていたため、退却中トゲのある殻が田園の畔に無数に落ちていたの

 で足の裏に刺さって痛くて大変だったと言う。最初に立ち寄った部落にたどり着いた時

 には、さすがに敵も諦めたのかもう追ってこなくなり、東浦上等兵が遅ればせながら追

 及してきているようであったが遂に我々に追いつかずその後は行方不明となった。


  部落の手前の畑にホウズキトマトがたくさん生っていたので、三名はそれを両手で採

 り貪り食って一応水腹だが朝食に替えた。この時になり自分は化膿して歩き辛かった足

 の痛さを思い出したが、退却中はその痛みなどすっかり忘れていた。一息入れてもうど

 うしようもなく斥候長はいないし部隊へ帰ろうと、大石伍長を先頭に街道を歩き出した

 ところ北方より爆音がしてきたので、サッと道から田園へ降りて身を隠し後ろを振り返

 って見ると、なんと敵が戦車を先頭にトラック二十台程に歩兵を満載し、その後尾にも

 戦車がついて驀進して来るのが遠望された。これはえらい事だと三人共肝を潰し近くの

 田園に積んであった藁の中に頭から潜り込み、全身に被って敵の通過するのを身を硬く

 して待ったが、その時間の長かった事には参った。また真近に止まって敵兵が降りてき

 たら万事窮すであったが、暫時して敵は我々に気付かず何事もなく通過していったので

 胸を撫で下ろし乍、道路を横断して七中隊の歩哨線まで引き返し通過した。この時は大

 石伍長と私と更屋上等兵の三名であった(昭和六十一年度護国神社慰霊祭に、はからず

 も東浦上等兵に再会した。彼は生きていたのである。東浦君はあの時敵の捕虜になりニ

 ューデリー迄連れて行かれたとか、彼が言うには「あの弾の中で君達はよく逃げられた

 ものですネ、私はたぶん君等は戦死したものと思っていた」としみじみと話しをしたが

 東浦君が敵の捕虜になった事により、敵は我々の追跡をやめたのかも知れない)


  パゴダのある中隊へ帰ったところ、辻中隊長から「お前らは連隊本部の命令で駐止斥

 候に行ったのだ。その命令も守らず帰って来るやつがあるか、また斥候長を放っておい

 てくるとは何事か」と大変叱られた。また「あれ程部落へ入るなと注意したのに木村少

 尉はどうしたのか」と大変怒っていた。叱られたが大石伍長も予備の召集兵下士官で肝

 が坐っていて大して気にはしていないようである。中隊は今夜夜襲に出動するので準備

 の最中であり、自分等は連隊本部の命令で駐止斥候に出ている(はず)だから、今夜の

 出動には連れて行くことは出来ないから現在地に残って事故兵と共に装具の監視をして

 おれと言われた。軍隊とはおかしなもので変な理屈で我等三名は危険な夜襲に参加せず

 に済んだ。中隊全員は軽装で出動して行ったが全員といっても二十四、五名である。大

 石伍長以下四、五名で警戒を厳重にして監視をしていたが何時敵襲があるかも知れず、

 またパゴダの寺僧を始め現地人はどのような気持ちでいるのかわからず寝返っていれば

 最も危険である。私はパゴダで僧に現地剃刀で頭を剃ってもらったが、石鹸も無く水を

 付けて剃るだけだが結構剃れるものである。その間も敵は時間割をしてあるようにマン

 ダレーヒル方向から何回となく砲撃してくるので、慌てて現地人の防空壕に飛び込んで

 砲撃の止むのを待った。現地人も空襲や砲撃にも馴れて疎開もせず我家を守っていて、

 遠くで砲声を聞く度に壕に待避をしていた。



  夜中に南の方向で銃声や手榴弾の炸裂音がしきりと聞こえ、夜襲が始まったのがわか

 り犠牲者が出なければ良いがと心配になる。翌朝になり部隊は帰ってきたが我が中隊も

 数名の犠牲者があり、この時喜多篤忠曹長が戦死をしたので私は無くした装具の代わり

 に曹長が残して行った装具を譲り受け一応体裁を整えた。



  マンダレーは既に敵の包囲下にあって軍は脱出する準備のため地形調査や敵情を偵察

 すると共に、随時切込隊を編成して夜間敵の陣地を脅かしていた。時計台方面に敵が集

 結しているとの情報により、夜襲をかけるため夕刻を期して出動しマンダレー駅近くま

 で進んだ時、すでにあたりは闇に包まれていたがマンダレーヒルから敵は探照灯を照射

 してきて、あたり一面煌煌となり我々は素早く地に伏せたが敵は我々を発見したのか一

 斉に砲撃を始めた。しかし盲射のためか砲弾は我々の頭上を飛び越して直接被害はなか

 った。更に時計台まで真夜中に行ったが敵に遭遇する事はなく街は静まりかえって野犬

 が遠吼えをしていた。今迄賑やかだった商店街も戸を閉めて皆疎開したのか、人影も無

 く深々として物音ひとつ聞こえなかった。このため止むなく白いパゴダの中隊陣地に帰

 った。




 
  103
マンダレー脱出

  昭和二十年三月十八日、愈愈部隊はマンダレーを脱出することになった。我々が脱出

 最後の部隊で敗戦続きの部隊でも各方面から集まり纏まった部隊となると、その体勢は

 中々整い難く戦傷病者や後方部隊等の収容で手間がかかる。(戦後になって各々戦記を

 書かれている方によると自分等がマンダレー最後の脱出部隊だと云うのが何人も見える)


 夕刻を期っして出発し、この時下給品として乾燥卵黄を甘く味付けしたものが数個宛渡

 され道中食い乍、行軍をしたが確か我が五中隊は尖兵中隊であったと記憶している。予

 定では夜明けまでにミンゲ渡河点まで行かなければならなかったが急いでいても順調に

 は進まず、止まっては進み進んではまた止まりしてイライラし乍行軍を続けた。その内

 に夜が明けてきてミンゲ近くまで来た時は、既に日が高く昇っていて道路は土埃で一杯

 である。辺り一面平野で遮蔽するところもなく、この情況ではすぐ敵の偵察機が来て発

 見され猛攻撃に晒され全滅となるのは必至であるため部隊は急に慌てだし、各々遮二無

 二走り近くの林の中に飛び込んだ。




  
  104
ミンゲ渡河点

  偵察隊の情報によるとミンゲ渡河点は既に敵の先行部隊に占領されている模様で、と

 りあえず後続部隊の追及を待つらしく急いで個人壕を掘り警戒に努めたが、上空には敵

 の偵察機が静止しているが如く眼を光らせているため動くことも出来ない。この頃にな

 ると何処の隊でも兵が数名宛行方不明となり皆が心配していると、やはり疲労のためか

 遅れて迷ってしまうらしく後から追いついてくる。これらの者の中には勤務に付くこと

 もなく陽気な気持ちの者もいるらしい。ミンゲにはマラリヤによる後送、追及のとき汽

 車から降り徒歩で渡った鉄路の吊橋があるが既に敵の手に落ちしまっていたため渡河出

 来ず、三月十九日夜、更なる渡河点を捜して上流へと静かな行軍を続けた。昨日から日

 本軍の大部隊が移動しているのを敵は知らぬ事はないはずだが不思議に総攻撃はして来

 なく、わが軍が最後の捨て身の奮戦をした時の損害を敵は恐れているのか、それとも、

 もう焦る必要もないほど既に戦況の先は見えていると考えているのだろうか。しばらく

 静かな行軍が続き部落を前方に見ながら右に曲がり土手に達し、また右に曲がって逆方

 向に進んだ。(この辺はタモクソ村付近と後で聞く)その土手に添って我が砲兵隊が陣

 地を築いているのに出会ったが、ビルマに来て纏まった砲兵隊を見たのはこれが始めて

 であった。


  わが中隊は尖兵中隊であったため私は路上斥候となり数名で部隊に先行して前方を偵

 察し乍進んだとき、不意に前方より数発の射撃を受けたので直ちに突っ込んだところ、

 それは敵の歩哨らしく既に退却して行った後だった。歩哨壕の傍には英国の女優らしい

 写真や煙草等色々な物が残されていて、その中に白く四角な薄いものがあったので食え

 る物と思い、口に入れたところ臭くて気持ち悪く直ぐ吐き出した。後で知ったところ、

 それはチーズでありそれまでチーズという食べ物を知らなかったので、私は以後十数年

 はこの時の匂いが鼻につきチーズは嫌いで食えなかった。そうこうしている内に夜が明

 けてきて南の方で戦車の轟音が聞こえてきた。我等路上斥候は慌てて引き返したが、な

 んと中隊は移動したのか、そこには影も形もなく進んだ方向もわからなければ位置もわ

 からない。斥候は中隊に掌握もしてもらえずウロウロするばかりであり、そのうち戦車

 は突進してきて攻撃をはじめた。それに対して土手に沿って配置された我が砲兵隊も一

 斉に砲門を開き対戦車砲撃を開始している。北方の山からは敵の迫撃砲や三連砲がしき

 りと砲撃し続けてきて、南と北からの砲弾が交錯して炸裂し暫くは対等に撃ち合ってい

 たが、次第に敵の猛烈な物量攻勢に友軍は崩れだし大混乱となり、怒涛の如く上流方面

 へと雪崩をうって移動を始めた。私は更屋上等兵と共に田園の中を走り部落方面へと進

 んだが途中、人の流れが東の方へと向かって行くので、それに従い墓地のあるところま

 で来た時そこでバンコックでの自動車事故にあった時、兵舎の医務室で治療をしてもら

 った中神右内軍医と、フランスの軍医中尉(氏名不詳)が待機しているのに出会い、わ

 が五中隊の小林曹長と小山兵長もいたのでその中に入り、そこで約三十名が一隊となり

 フランスの中尉が持っていた地図をたよりに、その指揮により部落を左に見て北方のジ

 ャングルへ入って行った。我々は敵の第一線と敵砲兵陣地の中間に入り込んだようで、

 敵に発見されなければ攻撃される事もなく、地図を頼りに上流へと移動し夜になっても

 引き続き行軍をした。


  小休止になると皆ドッと倒れ込んで横になり、疲れているのか知らぬ間に眠ってしま

 い再び行軍を始めても員数確認もなく、隣にいた戦友も他人の事まで気にしてはいられ

 ない程疲れているので眠ってしまうと置き去りになってしまう。何時の間にか小山兵長

 がいなくなってしまい、一同心配しながらも捜しに行くわけにもいかずそのまま行軍を

 続けた。途中広い平地に出てしまい畑の畔に個人壕が掘られていて、どこかの隊の伍長

 が足を負傷し動けなくなって壕の中に待避していた。身体は至って元気で敵のいる方向

 を指差して詳しく教えてくれ「自分はもう動けないので覚悟はできているが、あなた方

 は無事に脱出してください」と言われた時は一同ほろっと涙ぐんでしまったが、彼を助

 ける余裕もなく「頑張れよ」と言うだけでそのまま別れ、またジャングルに入りトンボ

 の友軍弾薬集積所の近くに到着し、ここで渡河するとに決め夜を待った。近くの弾薬集

 積所には各種の弾薬が野積みにされているとの事で私と更屋君が偵察に行ったところ、

 そこは既に敵に占領されているのが見え、更に敵情を探るため少し進んで雑木林の中で

 顔を上げたところ、不意になんとグルカ兵二名と真正面に鉢合わせしてしまった。敵は

 驚き慌てふためき「ギャーッ」と悲鳴をあげて銃まで放りだし逃げ去ったが、こちらも

 同様慌てて遮蔽しつつ早くこの事を知らせなければ大変な事になると逃げ帰り、一同に

 情況を知らせ敵襲に対する準備をしていると敵の迫撃砲による砲撃が始まった。指揮者

 の中神軍医が良く戦場に馴れている中尉だったので、皆を指揮して左に移動すると直ち

 に右に走り、右に移動したらまたすぐ左に戻ってジグザグに走り、敵の照準はその位置

 に迷って弾着は我等が通った後を追いかける様に落ちていたが、そのうち砲撃は止んで

 一安心をした。




父 柴原廣彌の遺稿へ

2011.10.14.