柴原廣彌の遺稿 21

  
  
105 トンボ付近で渡河

  敵の砲撃を逃れ河の近くで丸木舟を見つけ夜を待って渡河する事にし、泳げる者は

 装具を丸木舟に積み泳いで渡り泳げない者は丸木舟に乗せて渡すことになった。私は

 人より泳げたので何回となく舟を押して往復し装具を運んだが、最後に自分の装具を

 運ぶ時になり残っていた更屋上等兵は良く泳げると言うので一緒に舟を押して泳ぎ出

 したが、実際はあまり泳げず河の中程まできた時に遂に力尽きて丸木舟にすがり付い

 てしまった。そのため舟はクルッとひっくり返りアッと言う間に私の装具は兵器と共

 に流れに沈んでしまった。対岸に泳ぎ着いた時に私には肩にかけていた雑嚢一個だけ

 が残り、まさに褌ひとつの丸裸であり、こんな事になるのなら一番始めに自分の装具

 を運んでおけば良かったと後で悔やんだ。このため中支から持ってきた物では雑嚢に

 入れてあった伊勢市で買ったビーズの御守袋と、入隊後各自に渡された俸給支払證票

 以外は全て失った。堤の上に登って辺りを見ると友軍が少数のかたまりで方々にいる。


  我々は一軒の民家で炊爨をし食事をしたが、私はすべて流してしまったため皆から

 少しずつ分けてもらい食った。それから急いで行軍を続けたが私は裸、跣足で途中、

 戦死し倒れている兵の被服や装具等を譲り受け乍歩き続けたが、その途中一人の倒れ

 ている兵に近寄り丁度合いそうな軍靴を履いていたので、それを貰おうと手をかけた

 ところ死んでいるとばかり思っていたのに、その兵はムクッと顔だけを上げ「俺はま

 だ生きとるぞ」と、か細い声でつぶやくように言い私を非難するような眼で見つめ、

 かすかに生命を保っていたので私は驚き慌てて手を引いた。またある時は戦死してい

 る兵が程度の良い軍靴を履いていたのでこれはと思い貰おうと脱がしにかかったが、

 その兵の足は腫れあがっていて遂に脱がす事が出来ず貰うのはあきらめた。そのため

 しばらくは跣足で歩いていたが、そのうち戦死者のちょうど良い軍靴を見つけそれを

 いただいた。また落ちている銃や水筒なども拾い集め、少しづつ装備を整えるのには

 戦死者が多いためそう時間はかからなかった。



  この付近でもすでに道端には戦死者が溢れており、傷病兵も多く行き倒れていて白

 骨街道の惨状を呈している。木陰に倒れている兵が話しかけてきて「自決しようと思

 うが自分の手榴弾が何度叩いても不発弾で爆発しないから、すまないが良いのと替え

 てくれ」と言う。また「俺の物で必要なものがあれば何でも遠慮せず持って行ってく

 れ」とも言うので、よく見たところその手榴弾は不発弾ではなく、その兵は身体が衰

 弱していて信管を叩く力さえなく爆発させる事が出来ないのである。こんな時はどう

 言って慰めたらよいやら唯、出来る限り生き延びよと励ますだけであり、さすがに

 「持って行け」と言ったが彼の装具に手を付けることは出来なかった。こんな惨状を

 幾度となく見ているとこれが普通の世の中と馴れてしまい、そのうちに涙も出なくな

 ってしまうのは靖国街道の時と同じである。黙々と歩いていると先方で中神軍医が

 「柴原、剣が落ちているぞ」と教えてくれたのでその銃剣を拾い、このようにして途

 中で兵器も装具も一揃え手にいれる事が出来、やっと一人前の兵の姿に戻ったが、戦

 争に馴れてしまい死者の持っていた物という感覚は少しもなく、これが平和な時の事

 だったとしたらとても手にしたり身に付けたりなど出来なかっただろう。




  
  106
 本隊へ復帰

  しばらく行軍を続け行き交う他部隊の兵からの情報により、わが部隊が近くにいる

 と知らされ中神軍医以下はすぐに追及するかと思ったが、一向にその様子がないので

 私と更屋上等兵の二人だけで先行し部隊を追及した。大隊本部へ行くと部落の家屋に

 いた将校にいきなり大変罵倒され、自分等の事情を聞こうともせず「貴様等は敵前逃

 亡だぞ」と言って怒り続けた。こんな事なら馬鹿正直に先に帰らず、遅くなっても皆

 と一緒に帰ったほうが良かったと思った。この将校は生存して帰還しているので名前

 はあえて言わないが、このような全体の情況を判断出来ず唯、部下を怒るだけの無能

 の将校がこの頃増えていて軍の資質の低下は目を蔽う程であり、いまだに会ったら殴

 りつけてやりたい気持ちである。


  中隊に帰ると皆は渡河後の負傷者担送とかの勤務で相当苦労したようで、戦友が

 「お前等はうまく逃れたなあ」と言っていたが、我等とて好き好んで別れ別れになっ

 たのではなく、中隊は斥候に出した我等を掌握もせず退却してしまい我々は中隊の所

 在もわからず捜していた時、上級者の中神右内軍医等に出会い引率されて行動したの

 であるが、軍隊ではそのような言い訳は通らないのである。途中で行方不明になった

 小林利一郎曹長は、数日して現地人の服装で椰子の葉の帽子を被り刀を隠し持って追

 及してきた。同じように迷って行動し乍後から追及してきた小林曹長はまるで英雄の

 ような待遇であった。その後私は指揮班に所属されたが軍隊に入隊以来今まで指揮班

 なんて一度も経験した事がなく、何か勝手がわからずウロウロするばかりであった。

 このミンゲ渡河作戦で新しく五十一連隊長になったばかりの上田孝中佐は戦死をされ

 た。



  マンダレーからミンゲへと部隊は敗走を続け戦場はビルマ東部に移り、我々はシャ

 ン高原に進み南へと行軍を続けた。この頃私は久々に軽機関銃班に戻り相変わらず旧

 式になった十一年式軽機関銃を担いで行軍中、同郷の柴原貞男中尉が第一大隊の第一

 中隊長となっていて、休憩中に裸になって濡れタオルで身体を拭いていたところに出

 会ったので傍に寄って挨拶をした。



 
  107
 シャン高原を南下行軍

  シャンの部落は山の中腹に点在しており大出水があっても安全な場所に居住をして

 いる。水を汲むには竹を斜めに切った筒を持って谷間迄降りて行き、岩場の出水に筒

 の切り口を当て水を入れ担いで坂を登り自分の家まで持ってくる。この竹筒もこの地

 方は竹の生育が良いので節間の長さが二米程あって一杯入れると相当の水量になる。

 部落では食料の貯蔵庫は住居とは別棟で立っていて日本古代の建物によく似た床の高

 い建て方である。そこには米が籾の状態で貯蔵してあって精米にする二種の唐臼を備

 えており、必要に応じて精米し白米にしていて陸稲でも中々美味い飯が出来る。山を

 毎年次々と焼き払ってその後に陸稲を植えて、肥料の必要もなく至って陽気な農業を

 している。またところによっては馬鈴薯を主食としている部落もあり、貯蔵庫には馬

 鈴薯と生姜が一杯詰まっていたので、ここでは馬鈴薯ばかり焼いたり煮たりして食っ

 た。またカレーの元と生姜とを間違えた事があった。川魚の塩辛が保存食として置い

 てあり、現地人が食う時は鉄器で叩いて粉々にしニンニク等を混ぜて練り物にしてい

 る。これらの塩辛には殆ど何かの虫がわいているが、虫がいるのは毒の無い証拠だと

 現地人は平気で食っている。自分等はこの塩辛を食う時はトタン板に乗せ、焼きなが

 ら虫を除いて食った。



  現地人は日本軍の形勢が不利になったと察し、敵に寝返りをする者が多く部落には

 人影が殆どなく、尚、先に進んで行った部隊がしたのか、それとも現地の盗賊の仕業

 かわからぬが家の中はめちゃくちゃに壊されていた。またある家の中に狩猟用の洋弓

 が置いてあったが、これは手元に定規のような物が付いていて台の上に弓を乗せ照準

 を定めて射るようになっていた。



  行軍中時々二、三発の銃声を聞くが敵なのか土匪かはわからない。各中隊は少人数

 になっているが部隊が集まっていると非戦闘員もかなりいて全員が敗戦の怖気もあっ

 たので注意が肝心であるため、部隊は一時停止して偵察隊を出し危険のないのを確か

 めてから軍を進めた。敵にわが部隊の進行方向を秘匿するため一部兵を出して反対方

 向の山へ喚声を上げ、疑突撃なる戦術を実行するなど子供騙しのような事もした。柴

 原中尉はこの様子を見て「こんな戦争は始めてだ。疑突撃なんて聞いた事もなければ

 した事もない」とあきれたように苦笑し乍私に話していた。



  この頃には指揮する将校も、打ち続く敗戦に気持ちが変になっていたりして、連隊

 長代理は中支より連隊副官だった角田寅吉少佐で第一大隊長は熊野弘大尉であったが、

 夜行軍中に熊野大尉は虎より熊のほうが強いのだと、冗談を言い乍酒にでも酔ったよ

 うな話し振りで皆を笑わせていた。行軍中衰弱兵は後尾を歩く事になっていて疲れき

 って遂に部隊から遅れてしまうと、直ぐに現地人が何処からともなく現れて連れ去ら

 れてしまい、いなくなったのに気づき捜しにいっても全くわからなく見つからないの

 である。




   
  108
 マラリヤ再発

  シャンの部落には竹筒に仕込んだ赤飯の現地酒があり、甘口で非常に飲み良い酒で

 あったので昼食後の休憩時に私はその酒を少し飲んだところ、どうもそれが悪かった

 のかマラリヤが再発してしまい、発熱はするし気分が悪く頭痛もしてきて歩くのも困

 難になって来た。このため私は再び指揮班に戻ったが隊にはマラリヤの薬もなく衰弱

 するばかりであるが、部隊に取り残されたらそれこそ大変である。私は発熱と疲労と

 で段々と歩行が困難になり部隊と同じ早さで進むことが出来なくなってきた。ここで

 遅れ落伍でもしたら最後で土民に嬲り殺しにされると思い、十五分間の休憩でも休ま

 ず一人先へ先へトボトボと進み尖兵中隊の位置まで先行し行軍が始まると、また段々

 と遅れて後へ下がってしまい後尾の方になってしまう。また遅れては最後だと思いが

 んばって歩き小休止にも休まず杖をつきながら先行をする。


  尖兵中隊のところ迄歩いて行くと私の姿を見て柴原中尉が「頑張れよ」と励まして

 くださった。この頃一中隊は尖兵中隊で、柴原貞男中尉は連隊でも有名な張りきり将

 校だったので「柴原中尉が尖兵中隊長だから強行軍になるぞ」と、兵の間では憂慮す

 る声が出るくらいであった。それでもこの歩きを繰り返しがんばったので、落伍する

 事もなく二日程して漸く熱も下がり、遅れる事なく行軍できるようになった。しかし、

 この頃には皆が疲れきっていて、他人の事に情けをかけている余裕もなく自分の事だ

 けで精一杯である。発熱してから三日目くらいで症状も相当良くなり中隊の位置に戻

 った時、中隊ではちょうど食事時で肉の菜を作っていたが、指揮班では既に食事が終

 わっていてマラリヤで遅れた私は食事を貰えなかった。そこで中支より懇意にしても

 らっていた福山健治伍長に頼んだところ「お前は指揮班だからそちらで貰え」と素っ

 気なく断られた。この時は今迄親しくしていたのに病人になったため今日の無情さに

 むしろ反感をいだいてしまい、それ以後二人の中は疎遠となってしまった。



 


父 柴原廣彌の遺稿へ

2011.10.14.