柴原廣彌の遺稿 22

 
  
109 部隊編成替・第三中隊編入

  四月中旬アンバンに到着し、ここで五十一連隊はこれまでの三個大隊から二個大隊

 に編成替となり、我等五中隊は三中隊に合併され新しく第一大隊第三中隊となった。

 兵や下士官は元の三中隊の方が多く我々は大変不利な立場になった。この中隊は昭和

 十七年徴集兵の乙幹伍長が数人おり行軍中は分隊長として張り切っていたが、このあ

 との戦闘には経験不足が災いしてあまり役に立たず困った事が多くあった。中隊長は

 補充将校の東出栄次郎中尉(伊勢市出身)である。




 
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 トングー、モチ道敵進撃阻止

  五月に入って漸くトングー郊外に着きトングー、モチ道五哩地点に陣地構築をする

 事になったが、道路は既に友軍が敵戦車の進撃を妨害するため櫛型に掘り返してあっ

 た。我等は南側の山腹ジャングル内に個人壕を掘って各々が入り防禦についたが敵は

 時間を定めて砲撃を繰り返し、よくもこんなに盲撃ちをするものかと思うほど砲弾が

 飛んで来るが、我等の陣地にはあまり着弾はなく殆どが後方へ飛んで行く。昼間は偵

 察機が飛んでおりこれに発見されると直ぐに猛砲撃されるから少しも油断は出来ず、

 ましてや煙でも出したものなら直ぐに発見されてしまう。これまでも歯がゆく思って

 きたが殆ど止まっているに等しい速度で飛んでいるような敵航空機を打ち落とす対空

 兵器が我が軍にはなかったのである。その内に敵戦車が数台道路に進出して来て、友

 軍が苦労して掘った対戦車防禦壕も敵はブルドーザーを繰り出し僅かの間に埋め戻し

 てしまい、ご丁寧にローラー車でならして平らにしその上に鉄板まで敷いてしまう。

 山から見ていた我等友軍は始めて見る敵の有力な機械力に驚き呆れ唖然とするばかり

 である。戦車は砲と機銃でジャングルに向かって猛烈に撃ちまくってくるが、盲撃ち

 のためあまり犠牲はでない。戦車は我等の陣地の前を通り越し先方の道路上を進んで

 行き、その方面の友軍を散々攻撃し夜になると戻って来て、よりによって我等が布陣

 している陣地の下の道路に車座に戦車で円陣を組み中央で火を焚いて敵兵は休んでい

 る。いくら攻撃をされてもこちらは手出し一つ出来ず下手に発砲でもしようものなら、

 そのお返しはたまったものではなく数倍数十倍になって返ってくる。敵は白兵戦を警

 戒してすぐ近くで対陣していても、我等が居るのを知ってか知らずか山へ登って来る

 ことは絶対になく夜間は尚更の事で彼等は攻撃をしてこない。



  防禦陣地より少し離れた谷間に水の流れる所があって、そこへ行き飯盒炊爨をする

 が煙を出すと敵に知れるので、砲弾の装薬で焚き付け枯れ竹を燃やして焚くのだが雨

 季なので竹も濡れて中々燃えてくれない。一度袋に入れた火薬を火に落としてしまい、

 途端ボーッと火種が燃えあがったが一時的だったので敵に発見されずに済んだ。この

 時は「しまった」と思い慌ててその場を離れる事にした。この辺りは竹がたくさん繁
 っているので、根元を掘って未だ小さい竹の子を掘り出し塩炊きでよくおかずにした。


  元から三中隊の兵であった意地の悪い八月補充兵や召集の補充下士官は、要領良く

 病人となって後方へさがってしまった。この時の小隊長は甲幹の真弓貫之少尉であっ

 たが、新任の少尉で戦場の事はあまりわからない。銃砲撃があってもその方向さえ判

 断がつかず、我等に今のはどちらから撃ってきたのかと聞くくらいで何時も古兵を頼

 りにしている。小隊長は私と森岡淳上等兵(私と同年兵)に「君達は家に妻や子供も

 あるのだから危険な所へは成るべくやらないようにする」と、上手を言っていたが何

 時の間にやら自分がマラリヤにかかって、軍務に堪えられなくなり入院してしまい後

 ちに病院で戦病死となったそうである。



  敵戦車の攻撃が頻繁で対戦車兵器も無くどうにもならず、このため対戦車攻撃班を

 編成する事になり私は中隊から選ばれて、肉攻教育を受けるため一粁程離れているジ

 ャングル内の連隊本部へ行き講習を受けたが、短期教育のため差し当たり必要事項に

 ついて教えられ、ダイナマイトや導爆索の扱い方等ひととおりを習得し中隊に帰った。

 肉攻班はダイナマイトを持って敵戦車の下に飛び込み破壊する攻撃法で、生還は期し

 がたくこれはえらい役が廻ってきたぞと内心危険を感じていた。



  暫時道路を下に眺め山でにらみ合いが続いたが、敵は我等の山に居る兵など気にも

 していないようであった。その内移動命令が来たが本道は既に敵の占領下にあり、そ

 の先まで敵でひしめいているため我々は裏山の谷間を通って漸く後退し、七哩から十

 哩くらいの地点にあるジャングルに再び陣地を構築した。小隊長は松尾柳一少尉(桑

 名方面の人)に替わり、ジャングル内の小山に細長い壕を掘りそこから少し下がった

 斜面に天幕を張り休むようにした。敵の三連砲は一度に三発の弾丸を発射するとの事

 であり敵情偵察に行った時、三連砲と思われる砲の弾薬が薬莢付きで三発が一箱に入

 れて放置してあるのを見た事がある。ある日台風が来襲し砲撃音と雷鳴が交錯し、そ

 れに加え大木の倒れる音等で大変であった。この辺の土地は良く肥えているため樹木

 の根が浅く広く張っていて、深さがないため大風が吹くと大木でもいとも簡単に倒れ

 その後は十坪程になる。敵の砲撃は相変わらず時間を定めたように昼夜を問わず撃っ

 てくる。




 
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 松尾少尉戦死

  夜間に山の斜面に設営した幕舎で仮眠していたとき突然敵の砲撃があり、異様な弾

 着音に皆驚き慌てて我先にと壕へ飛び込んだ。その時は砲弾が木の枝に命中して炸裂

 し物凄い音がして一同待避したところ、小隊長が居ないのに気づき砲撃が止んだ後に

 幕舎へ行ってみたところ、砲弾は松尾小隊長のいた幕舎の直上で炸裂し、その破片は

 小隊長の喉首を直撃していて即死であった。遺体は陣地の少し下がった所の山裾を掘

 って埋葬し、この時小隊長が予備に持っていた近眼鏡は度が合わないが、それでも無

 いよりはマシと私が予備として貰っておいた。




 
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 世木小隊の斥候

  後任小隊長は補充将校の世木少尉(伊勢市外出身)となり、特長として軍刀ではな

 くサーベルを提げていた。本道方面の敵情偵察のため三中隊に出動命令が出て、世木

 小隊は斥候となり中隊本部の前方を行進し途中二中隊の偵察隊と出会い、そこで同郷

 の柴原義廣軍曹(元の第七中隊)が血塗れの姿で草原に仰向けになって休んでいた。

 大分疲れている様子あったが命には別状ないようで、前方の部落の後ろに敵がいると

 敵情を伝えてくれた。柴原軍曹の話しでは駐止斥候に出て敵の待ち伏せにあい、右と

 左の両側から一斉に攻撃されたとの事である。がんばるよう励まして別れ暫時進んで

 行くと、農道の片隅にバナナが一房転がっていて初年兵が駆け寄り拾おうとしたので、

 私は「マテッ」と一喝して止めた。果たしてよく調べてみるとバナナにピアノ線を張

 り、取り上げると手榴弾が爆発するよう仕掛けてあり危ういところであった。


  先方の部落へ行ったところバナナの木に熟した実がたくさん生っていて皆で採って

 食ったが大変美味かった。この部落に後から進んで来た中隊本部は残って待機し、世

 木小隊は斥候として更に前方の帯状のジャングルに進んだ。小隊にはミンゲ橋渡河時

 に一時行方不明になった小山兵長も戻り所属していた。このジャングルは細長く両側

 は広い田園で危険な事は充分承知の上ではあるが余り気持ちの良いものではない。小

 隊はジャングルに入って行ったが敵のいる様子はなく、敵は我が後続の本隊が来るの

 を待ち伏せる作戦だったのか、我等がジャングルの中央付近まで進んだ時に突然機銃

 と迫撃砲で攻撃をしてきた。小隊長は狼狽し適切な指揮をする術もなく、乙幹の分隊

 長はあちらこちらと這いずり廻っているだけで危険だと思ったがもう何とも仕方がな

 い。私は小山兵長と転がっている大木の蔭に身を遮蔽し、前方の様子を見ると敵は遠

 方から撃ってきているようであり、敵影を見ることも出来ない。盲撃ちで弾着はバラ

 バラであるが、集中砲撃を受けているので応戦する事も出来ない情況である。何とか

 して脱出しなければと小山兵長と話し合ったが、ジャングルの外は広々とした田園で

 あり飛び出したら敵の思う壷である。意を決して敵と反対側の田園を突き抜ける事に

 したが、自分等だけ脱出しては帰ってから上官に叱られる事は解り切っているので、

 どうしても小隊長を同行しなければならない。世木小隊長を促して田の畦道を通って

 田園の中を走り続けたが、三人以外についてくる兵はいなく世木小隊長は歳をとって

 おり、直ぐに疲れてしまい「俺はもうだめだ、ここへおいていってくれ」と言い出し、

 私は「何を言っとるか、こんな所で倒れたら敵に殺されてしまうぞ」と怒鳴り乍励ま

 し、後を追いたて追いたてて走り続け、漸く前のジャングルにフラフラの状態で辿り

 ついた。


  疲れ切って三人は田園の水に顔を突っ込みゴクゴク腹一杯飲んで一息つき、三人共

 仰向けにひっくり返り暫く動けなかったが、落ち着きを取り戻して息が整った後よく

 見ると、今飲んだ田の水には小さな虫のようなものがたくさん動ごめいていて、一緒

 に飲み込んだのか何か腹の中で動いているようであるが気持ち悪がっている余裕など

 ない。ジャングル伝いに中隊本部が待機している部落に戻って見ると、なんと先ほど

 の銃砲声で中隊は先の駐止斥候の時と同じで、我等斥候を見捨てて退却をしてしまい

 誰一人いない。こんな所に留まっていては駄目だと思ったが、道路を通っては敵の絶

 好の目標となるので左側のジャングルに入り退こうとすると、やはり中隊もこの進路

 を選んだのか中隊最後尾の兵がジャングルに入って行くところが見えた。右手の麓に

 グルカ兵二名が見えたので「あれは敵だ」と叫ぶと、中隊の兵はその声に慌てて走っ

 て逃げ出した。敵も我等に気づいたが向うも恐ろしいのか慌ててジャングルの中へ逃

 げて行った。ようやく中隊に追いつき陣地に帰ったが、他の部下を見捨てて逃げてき

 た少隊長はどのように報告したか、また、どのように責められたかは知らないが我等

 兵隊には知らぬ事であった。


  夕刻になって二、三名の兵が帰って来て、翌日一名が辿り着いたが分隊長以下数名

 はどうなったかわからず遂に帰って来なかった。部隊では時々決死隊を編成して夜中

 に敵陣地に切込みをかけ、縦横に暴れ廻ったので敵も大変恐れていた。切込隊は出撃

 する毎に敵が逃げ去った後、残していった食料等を奪ってきて皆で分け合った。時に

 は現地人が戦場に出てくるが、これらはもう敵の配下になってスパイに来るので油断

 は出来ず、中には捕虜となり銃殺された現地人もいた。一粁程先に一軒屋があって時

 々そこまで偵察に行ったが、ある日、偵察に行くと敵は日本軍に気づきあわてて退去

 した後で、そこで炊爨をしていたのか玉葱の乾燥品が散らかっていて、それを集めて

 食ったが乾燥野菜としては一番品質の良い物だと思った。この辺りにはマンゴーの木

 がたくさんあり実もまた、たくさん熟していたので石を投げて実を落として食った。


  部隊編成替えとなってから分隊で持ち続けていた日本軍の新式の九六式軽機関銃

 (元の第三中隊が持っていたもの)は今迄射撃をした事がないので私が谷間へもって

 行き、そこで試射をしたところ故障しているのか全く撃てず分解し調べて見ると撃茎

 先端が短く激発不能で撃てないのは当たり前であり、こんな物をよくも今迄後生大事

 に持ち続けて来たものだと呆れ果てた。



  方々の要地には分哨が出ていて監視をしている中、ある日敵が何も知らずに陽気に

 話し合い乍行進をして来たので分哨が不意討ちをかけた事がある。軽機関銃と擲弾筒

 で一斉攻撃をかけ待ち伏せの奇襲であったため敵兵はバタバタと薙ぎ倒され残った者

 は慌てて逃げてしまい、日頃の鬱憤を晴らす事が出来たが分哨も位置を知られてしま

 ったので直ちに移動をしたが数刻の内に敵の集中攻撃が必ず始まる。暫時この陣地で

 防禦をしていたが命令により数哩後退し陣地を構築して防禦についた。この辺の土質

 にも馴れて壕を掘るのも驚く程早くなって、ここでは分隊一同が入れる程の壕を掘り

 帯剣で木を切り掩蓋にして土を盛り葉のついた枝を被せて擬装した。器具はほとんど

 無く大スコップ一本と小スコップが数本だけで掘り、木を切るのは帯剣と現地人が持

 っているダーと云う名の長い刃物だけが頼りである。



  敵の砲撃が始まると光と音で察知し急いで壕に飛び込む。敵の方面を監視している

 とまず発砲の光が見え次に発砲音を聞き、その次に飛弾が空気を切って飛んで来る音

 がし弾丸が落ちてくる。光を見てから間があるので壕に入り砲声の止むのを待って、

 ノソノソと壕から這い出して廻りの情況を確認する。砲撃が済むと代わって敵戦車が

 進撃してきて戦車砲と機銃で攻撃してくる。戦車の後には必ず歩兵が続いているがこ

 の時は友軍も応戦し敵の進出を妨げる。戦闘が始まると敵は後退をするのが常である。



  自分等の隊はインパール戦から戦死者が多く、現在員は極く少数のためか陣地は道

 路から三峯くらい離れた山を指定されたため、余り直接攻撃は受けないが一、二中隊

 は道路に沿った陣地のため相当戦車の攻撃を受け防戦に大変苦労をしていた。砲撃後

 着弾の付近を見て廻ったが着弾すると弾は炸裂して跳弾となり割れた破片は刃のよう

 になり飛び散り、この跳弾でも命中したら身体は削り取られてしまい堪ったものでは

 ない。





父 柴原廣彌の遺稿へ

2011.10.14.