柴原廣彌の遺稿 23

 
  
113 柴原貞男中尉戦死

  五月十七日頃と思う朝食準備のため飯盒に米を入れたとき突然敵の砲撃があり慌てて

 壕に待避した。砲撃が止んで壕から出てきたところ、飯盒の米は爆風の土や埃が混ざっ

 てしまい駄目になったので私は改めて他の二、三名の兵と米を持って軽装で一粁程離れ

 た水のある谷間へ飯盒炊爨に行った。そこで竹の枯れ枝を拾い集めて火を起こし飯と湯

 を炊き上げ一休みしていると、わが部隊の布陣している陣地の方向で相当激しい銃砲撃

 の音が聞こえてきて戦闘が始まったようである。今思い出して見ると戦地で一粁も離れ

 たこんな危険な所へ、しかも武器も持たず軽装でよくも炊爨に行ったものだとゾーッと

 する。思えば中支の浙贛作戦でも同じような事をし、それもやはり飯を炊いていた時の

 事で戦場に馴れると野太くなり危険だと感じたものだった。



  休憩も終わり、さて帰ろうかとしていたところ陣地の方向から各中隊全員がこちらへ

 続々移動してきた。どうしたのかと聞くと、戦車を含む敵襲のため最前線の一中隊は持

 ち堪えられず総崩れになり撤退し、それにつられて二中隊やわが三中隊も危険となり陣

 地を捨てて後退して来たのである。そのとき一中隊長の柴原中尉は砲弾で負傷し生死不

 明のまま陣地に置き去りにされたようで、私は柴原中尉の安否を気にし乍も「自分等の

 銃や装具はどうしたのか」と聞いたところ、彼等は「朝から飯を炊きに行ってくれてい

 るのだから、それは持ってきたよ」渡してくれた。三中隊全員がジャングルの谷間深く

 待避し、そこで漸く遅い食事をし暫時様子を見ていた。



  昼近くなり偵察機の音もしなくなったのでボツボツと丘に登っていった。その時擲弾

 筒手が戦死し欠員になっていたので、私と同年兵の森岡淳上等兵の二人で引き受け代わ

 りをする事になった。中支の陣地ではどんな兵器でも使えるように常々訓練されていた

 ので扱いはすぐに馴れたが、十瓩程の擲弾筒を持って更に重い弾嚢を腰に付けての行軍

 には馴れていないため大変である。丘の細い道路に来て土手に背をもたれて休憩してい

 たところ、不意に敵迫撃砲の砲撃を受け慌てて道路を走り逃げたが、敵は精巧な測機を

 使用しているのか弾着は正確で、逃げながら道を曲がっても後から追いかけてくる様に

 弾着する。逃げる事に一生懸命だったが落ちついてみると、持ち馴れぬ擲弾筒を土手の

 上に置きっぱなしにしてきたのに気づき、上官に知れたら大変だと砲撃の止むのを待ち

 かねて森岡上等兵と二人で取りに引返し、幸い擲弾筒は元の位置に置いたままだったの

 で持ち帰った。



  ジャングル内に友軍の糧秣集積所があり精米とか炒り米が袋に入れて山と積んであり、

 炒り米は油で炒ってあり手でつかんで食った。ここでは食う物の心配はないが雨が降り

 しきり、身体を下ろして休む場所もなく仕方なく糧秣の袋を破って、贅沢というか罰当

 たりというか米の上で休んだ。



  大隊本部では一中隊が柴原中尉を置き去りにした事で、熊野大隊長が大変怒って生死

 はわからないが決死隊を出して中尉の収容に向かったとの事であるが、しかし柴原中尉

 が負傷したのを目撃した兵のはなしでは、中尉は敵砲弾を正面に受け顔面を負傷し視力

 を失った状態だったが敵の攻撃が激しく、救出に行く余裕もなかったと言う。また決死

 隊も既に一中隊の布陣していた陣地は敵の手中にあり近寄れないと戻って来て、結局、

 柴原中尉はあの情況から戦死しただろうと云う事になった。この時二中隊の柴原義廣軍

 曹は負傷も癒え、その前方約五百メートルで布陣していたが、柴原中尉が負傷した事に

 は気が付かなかったそうである。柴原貞男中尉は郷里浜島町では軍隊で出世頭と言われ

 ていたものであった。




 
  114
 歩兵第五十一連隊玉砕命令

  糧秣集積所で休憩していると軍(十五師団)の命令が来て、五十一連隊は現在地を死

 守せよとの事で軍旗は師団本部へ返しここで玉砕する事になった。玉砕と云う言葉は何

 度も聞いたが兵一同予期はしていた事ではあるが、その命令を聞いた刹那落胆し皆顔面

 は蒼白となった。古兵の黒沢上等兵(この人と思うが確信はない名簿はすでに戦死とな

 っている)は「柴原よ中支から一緒に今迄生き長らえてきたが、とうとうここで死ぬか

 今迄何のために生きてきたのかわからんのう」と言っていたのが未だに記憶に残ってい

 る。もうすっかりあきらめて積み上げた米袋の上に寝転ぶ者もいた。しかしそうは云っ

 てもいままでの経験から、また何時撤退命令に変わるかもしれぬと僅かな望みを捨てな

 い者もいる。遠くで敵の砲撃音が聞こえるが我々の陣地まで攻撃してくる様子はなくジ

 ーッと待機していたが、その間ほど時間の経つのが長く感じた事はなかった。


  その後ゴムの木の林まで移動したが夕刻になって師団本部から撤退命令が来た。相変

 わらず軍の命令は一貫性がなくクルクル変わってばかりだが、この時は部隊全員それま

 での沈み切った気分が一変して活気付き生き帰った気持ちになり、そこから一気に相当

 の距離を後方へ移動した。途中大きな鉄輪の十五糎榴弾砲の移動に狩り出され、大勢の

 兵が装具を付けたまま綱引きで引っ張り坂道を引き上げさせられた上その後また元の位

 置に戻り、今度は十五糎榴弾を一発宛背中に負わされて数粁の道程を運搬させられたが、

 その砲弾の重量は三十数瓩もあり大変な難業であった。その道の要所には榴弾の安全栓

 を抜いて地中に埋め地雷の代用にし敵の進撃に備えていたが、どれだけの効果があった

 かは自分は見ていないのでわからない。道路の側丘には速射砲隊が砲口を揃えて戦車戦

 の準備をしているが、これまでの戦闘から推察して日本軍の砲が、敵の重戦車に効果的

 な攻撃がどれだけ出来るか疑問であるが、一部高射砲も対戦車戦に使用するとの噂を聞

 いた。


  何哩地点かは記憶が薄いが多分二十五哩ほど行軍し河の合流点で、道路の南側のジャ

 ングル内に陣地を構築する事になった。陣地は個人壕で、その上に竹を切り二つ割りに

 して節を落として表裏を交互にくみ合わせて屋根にし雨露を防いだ。ジャングルの中で

 あり擬装の必要はなく、昼間はやはり偵察機が飛んでいるので煙を出す事は出来ず、炊

 爨は夜間谷間へいって枯れ竹片を燃やして飯を炊いた。ある日どこからか牛肉が少々配

 給され串焼きにしていたところ、小隊長が来て一片を摘み食いをしたので、料理をして

 いた兵がブツブツ文句を言っていた。それでも二、三片宛兵皆に分けられて食ったが久

 し振りに口にした牛肉の味は何とも云えぬ美味さであった。



  砲撃は時間を定めたように何回となく撃ってきて、この陣地にも二回程着弾したが犠

 牲者は無く殆ど飛び越して後方に落ちたようである。上層部から色々と命令が来るが、

 どれも前線の情況を無視したものばかりで、東出中隊長は中々落ち着いており「何を言

 っとるか。前線の事もわからず無理な事ばかりを言ってきて、そんな事いちいち聞いて

 ばかりいられるか」と言って要領良く行動していた。上層部の無知無能を如実に語るの

 に次のような事があった。


  我等一個分隊が道路偵察に行った時の事である。途中で不意にジャングルから師団参

 謀が出てきて、兵の担いでいる軽機関銃を見て「おお君等はここで防禦をし戦車が来た

 らその軽機関銃で撃ちまくってしまえ」と言って、まるで気が狂ったように顔面を上気

 させて喋っていた。命令系統も何もあったものではなく、この参謀は軽機で本当に敵の

 大型戦車に立ち向かえると思っているのか、その認識の低さには呆れてしまい、今だに

 中国軍相手の戦争と混同しているその程度の低さと、参謀としての無能さに驚きを飛び

 越し怒りさえ覚えた。このころの将校連中は狂った様な事を時々口走り、まったく信用

 し難い情況であった。


  この後道路の北側に渡り、河の三叉点で敵情を偵察するよう世木小隊に斥候命令が出

 たため、夕刻を期っして出発をしたが偵察地は深い谷を渡らねば行けない道もない所で、

 上流へ迂回をしジャングルに入り帯剣で道を切り開き乍、数時間かかり漸く命令位置ま

 で進出し偵察をした。砲弾は間断なく上空を飛び越して友軍部隊の方向へ飛んで行くの

 で、我々のところへ落ちる心配はないが、敵が何時侵入してくるかわからないから互い

 に見張りは厳重にした。敵もこんなジャングルに、雨を犯してまで攻撃して来なかった

 ので犠牲者を出さずに済んだ。夜明けになっても雨は降りしきり、もう誰も壕を掘る気

 力を持つ者もなく、指揮官もなす術もなく雨外套を頭から被って木の根元にかがみ込ん

 でいる。各兵も木の枝に天幕を掛けて雨をしのぎ待機をしていたところ、夕刻になり伝

 令が来て撤収命令を伝えたので急ぎ夜行軍をして陣地へ帰った。その後世木少尉は患者

 後送の指揮官となり他部隊へ転属となったが、この時戦死した将校の軍刀を譲り受けて、

 これまでのサーベルと取り替え持って行った。



  飯は夕刻に飯盒一杯を三食分として炊いて翌日一日分とするのだが、夜になって山の

 傾斜地で天幕を張りウトウトしている内に、下の方で誰かがカタカタと飯盒を突ついて

 いる音がしてくると、それに誘われ方々で飯を食い出し始めは少しだけと思っている内

 に、食うことだけしか楽しみがない兵は明日分の飯を殆ど食ってしまいまた炊きに行か

 なければならない。何はなくとも岩塩を振りかけただけの飯だが、空腹のときの美味さ

 はまた格別である。昼間はバナナやパパイヤの木を剥いで取った芯や、青いバナナを切

 り塩汁にしたおかずを随分と食った。





  115
 撤退命令

  我等兵には知らされないが愈愈後方への撤退命令がきたらしい。防禦は損耗が激しい

 祭兵団から龍兵団に交替するとの噂を聞いたが、後退に際し重機関銃の弾薬を運ぶ要員

 が不足しているため、先の重砲弾の運搬と同じように各自数箱宛弾薬箱を背負わさせら

 れて後退する事になった。装具を付け兵器を持っている上に、余分に弾薬を背負っての

 行軍は思った以上に大変である。部隊は曲がりくねった山道を疲れた身体で登り続け曲

 がっては、また曲がりして体力があり早く歩いた者は、すぐ上の曲がり角で「早く来い」

 と呼んでいて「何をしているか」と叱っている上官の声も聞こえる。漸く次の曲がり道

 迄来て足を止め前方を見ると、敵が放置していった自動車の残骸に皆が腰を下ろして休

 んでいて、これは追い着くなり上官に叱られると思い一つふざけてやろうと、傍まで来

 たところで「おーいタクシー銀座までやってくれ」と声をかけた。予期した通り小林准

 尉がうまく合わせてくれて「ハイハイ何処迄ですか、どうぞどうぞ」と言って愛想良く

 迎えてくれた。他の者は一度にどーっと笑い出したので、下士官が「叱ってやろうと思

 っていたが、柴原に先手を打たれた一番参った」と言って大笑いした。



  ランパンから輸送隊のトラックで一緒に防毒面梱包を運び乍追及して、ウントンで私

 を病院へ入院させてくれた大市軍曹は、他の中隊に替わって行軍をしているのに出会っ

 た。食事の事で気まずい仲になった福山健治伍長は、行軍中片足の甲に腫れ物ができ化

 膿しかかって、歩行も困難なように見えたが途中ついに我慢ができず、背負っていた重

 機関銃の弾薬を「ああーっもう駄目だ」と道端に投げ捨ててしまった。夜は四、五名宛

 道端に天幕を張り休んだが、銃の手入れをするにもスピンドル油も無く所々に錆が出て

 いる。大きな孟宗竹が繁っており、その竹の子は直径が四十糎ほどもあり一個を採れば

 何人分も副食として食える。また蒟蒻芋もたくさんあり茎を取って湯がき塩炊きにして

 食った。



 
  116
 モチ鉱山

  重機関銃の弾薬箱を担ぎ乍行軍をし漸く目的地のモチ鉱山に着いた。この鉱山はタン

 グステン鉱石を産すると云う。背負ってきた重機関銃の弾薬を機関銃中隊に渡し一安堵

 をしたが、福山伍長は途中弾薬を捨てたので東出中隊長から「下士官がこんな事でどう

 するか」と言われて鬢太を貰った。彼は足の腫れが悪化し大変弱っていたが、その事が

 弾薬を捨てた理由に出来る軍隊ではないのである。モチ鉱山で大休止となり休息後一応

 態勢を整え、以後ビルマ南部のモールメン方面へ行軍する事になった。出発し下り坂を

 行軍していた頃に私は再びマラリヤが再発し発熱で身体が弱ってきて行軍も苦しくなっ

 てきたので、衛生兵に申し出て小畑順蔵上等兵、福山健治伍長と共にケマピュー野戦病

 院へ入院するため部隊と別れた。





父 柴原廣彌の遺稿へ

2011.10.14.