柴原廣彌の遺稿 24


  
117 ケマピュー野戦病院入院

  七月六日ビルマ東部を流れるサルウィン河西岸の街ケマピューに到着し、翌七日龍第

 二野戦病院にマラリヤで入院した。戦況が急に悪化をしていて、この方面も戦場になる

 恐れがでてきたため野戦病院でも歩ける者は次々と後送していて、我々もこの病院には

 二日程入院しただけで後送される事になったのである。その間に福山伍長は足の治療を

 受ける事が出来た。




 
  118
 病院後送兵站線をチェンマイへ行軍

  昭和二十年七月九日、マラリヤの薬であるキニーネ少々と米四合を支給され、病院を

 追い出されるように約二十数名が一隊となり後送の途についたが、誰が指揮者か引率者

 かは指名もなく誰れも知らない。後送先は泰国チェンマイで、そこ迄を行軍するのだが

 途中で糧秣の補給をする兵站が有るのか無いのかそのような指示は一切ない。この分で

 は道中で行き倒れて死ねと言わんばかりであり、これから先が心配だったが同じ中隊の

 小畑順蔵君も一緒に後送となったので、心強い行軍であるが福山健治伍長とはここで別

 れた。サルウィン河を渡辺隊の舟艇で渡河をしたが対岸からの道は予期していた通り、

 防毒緬梱包をトラック輸送で追及した道とは比べようもなく悪路がどこまでも続き、こ

 の道も既に靖国街道が再現されていて先に後送で行軍して行き、力尽きて行き倒れた兵

 があちこちに屍を晒している。当初は一隊二十数名が集団で歩いていたが何時の間にか

 力尽きたり行方不明者が出て、一人減り二人減りして散り散りになってしまったが、私

 は小畑君とは絶対に離れず共に助け合っての行軍を続けた。道々には病に倒れた者や傷

 の悪化で動けなくなった者、食料が無く餓死寸前の者等で果てしなく続いている。あの、

 あけぼの村より前線へ追及した時に見た悲惨を極める地獄の情景が再現していた。



  私の身体はマラリヤの薬を飲んでさえいれば、それが非常によく利き行軍中いたって

 元気を取り戻していて、途中野営をしたり現地人の軒先を借りて休むか、または寺院に

 寝かせてもらう日もあった。地図が有るわけでなく何時になったら目的地のチェンマイ

 に着けるのか、途中の部落の名が判っても見当もつかず、引率者もなく兵站もまったく

 無い後送は、途中どのような部落を通ったか地名も道程もすっかり忘れてしまった。こ

 の頃には他の後送兵とは完全に離れ離れになり、ついに私は小畑君と二人だけになって

 しまった。後送中は如何にして食料を確保するかが最重要で最優先問題であって、軍票

 でも持っていればこの辺りではまだ通用するので現地人から何でも買う事も出来るが、

 病院では薬の支給はあっても軍票の支給はなく、また久しく支給されていない俸給の支

 給も無く、無一文で放り出された身にはどうしようもなく小畑君と相談をして、ある寺

 院の僧に相談を持ちかけ小銃弾を数個売って銭を手に入れた。現地人も戦況をよく知っ

 ていて、これからの事を考え自衛のためにどんな兵器でも欲しがっていた。


  途々軍の糧秣を運ぶ現地人が一隊となって天秤棒を担いで来るのに出会ったが、この

 米は何処へ運んで行くのだろうか、米の補給をしてくれる兵站はどこにも設置されてな

 い。苦力の一人に話しをつけて米の横流しをしてもらいジャングル野菜、バナナの芯、

 蒟蒻芋の茎等を塩焚きにし毎日の副食とした。また、ある時は米を節約するため筍を多

 く入れた飯を炊いて食ったところ二人とも腹を壊し、ひどい下痢になり大変困りその後

 はすこし筍の量を減らし炊爨をした。それでも何処へ行っても筍が多くあったので、こ

 れで食い繋いだと云ってもよいくらいだった。象部隊が糧秣を運んでいるのにも出会っ

 たが、多くの兵が横流しの米を買うので目的地に着く頃には相当減量しているのであろ

 う。象の傍を通る時は恐ろしくて良い気持ちがしなく、また象の皮膚には小さな虫がた

 くさん寄生していて気持ちが悪かった。


  小銃弾を売って銭を稼いだ味をしめ、その後何度となく残りの小銃弾を少しずつ売り

 資金をこしらえた。後送中も私は装具一式と小銃弾薬を携行していたが、小畑君は装具

 だけで兵器を持っていなかったので、私の持っている小銃も売ってしまえと盛んに進め

 てきたが、確かにそうすれば相当の銭が手に入り少しでも良い物が食えるのはわかって

 いたが「若し小銃を売って渡し、その銃をこちらに向けられたら元も子もなくなるでは

 ないか、そんな危険な事は出来ない」と撥ね付けた。すると「ならば弾丸を抜いて渡せ

 はよい」と小畑君は食い下がる。私も負けていず「とんでもない、これまで我々はどう

 して食いつないできたのか忘れたか、弾丸を売ってきたのだぞ相手が誰かから弾丸を買

 っていたらどうする」と言って銃だけは絶対に売らず専ら銃弾を僧や農民、商人と相手

 構わず手持ちの殆どを売り払って財源とした。この一緒に後送行軍をした小畑順蔵上等

 兵は同期の福井政久君と同じ郷里の隣村波切(
なきり現大王町波切)の出身で、同じ五中

 隊所属で昭和十五年末入隊の現役兵であり、二人は何時も喧嘩になっては文句を言い合

 い乍も、直ぐ仲直りして互いに励まし合い助け合って決して離れず行動を共にした。


  昭和二十年七月十四日病院を出発してから五日目に、やっと泰緬国境を通過して泰国

 に入った。思い出せば逆に泰国からビルマに国境を渡ったのは、防毒面梱包輸送のため

 宇佐美中尉等と輜重隊のトラックの荷台で、梱包の荷綱に必死につかまり乍であった。

 チェンマイ道は道と云っても名のみの道で、山を駆け上がり河の中をジャブジャブと歩

 いて渡った。しかし今は敵航空機の攻撃を受ける事はなく、その点だけは安心して昼間

 でも行軍出来ドンドン進めたが、これでは病院後送と云っても何人の患者がチェンマイ

 の病院にたどり着けるかと不安に思った。道は象部隊の道であり、象はどんなところで

 も歩度を変えず平気で歩きつづける事が出来るので、測量の距離を決めるのに都合が良

 いと言われている。とにかく、これではチェンマイにたどり着ける患者は皆元気な兵ば

 かりで、重病の患者は途中で病気と飢えに耐えられず皆死んでしまうだろう。幸いにも

 私はマラリヤの症状も後送中落ち着いていてくれて何日も山間部を歩き続け、やっと平

 地に出る事が出来て畑道を歩いていると、前を現地人農民が長さ一米もある胡瓜を持っ

 て食いながら歩いていた。我等二人はおりからの炎天下疲労で喉は乾き切っており、そ

 れを見て涎が出るほど欲しくなり恥を忍び所望したところ、その現地人は快く食い残し

 を譲ってくれた。未だ五十糎ほど残っていた胡瓜を二人で半分づつ分け、どっちが長い

 か横目で探り乍貪るように食い喉を潤し胃袋を満たした。我々が食っているのを、あき

 れた顔をして見ていた現地人に一息ついてから道を尋ねると、その人の話しではチェン

 マイはすぐ近くであると教えてくれ、やっと辿り着けると感慨無量である。





  119
 チェンマイ兵站病院転院

  ケマピュー野戦病院を後送出発後二十日間歩き続け七月二十九日、やっとの思いでチ

 ェンマイにたどり着き兵站病院に転送入院した。病室には三中隊にいて病気に託けて何

 もせず、兵をいじめてばかりいた意地の悪い召集下士官も、悪運強く途中倒れる事もな

 く早々と入院していた。この下士官は何時も「俺の村は三重県でコンパスを廻すと中心

 になる村だ」と言っていたが村の名前は忘れた。またランパンの連絡所で私と衛生兵の

 山本弥助君が無断外出の事で、大変叱られた田畑曹長も入院しており二人は相変わらず

 意地悪く入院兵をいじめていた。



  たしか転送入院して十日ほど過ぎた終戦の二、三日前だったと思うが、病院は突然入

 院患者全員を集合させ院長の訓示があった。院長の話しは気が動転しているのか何を言

 っているのか意味がよく聞き取れず、結局は敵の謀略により戦争終結の噂が流れている

 が、日本は最後まで戦うから軽々しく信じてはいけないと、何か口ごもったような訓示

 であった。



  この病院では歩ける患者は常に使役に出され、トラックが運んできた重さが五十程の

 砂糖袋を倉庫まで十数米を背負って運ぶ使役は、病気中の患者の身体では大変であった。

 砂糖袋と云えば南方への転戦の途中に台湾の高雄港で砂糖をくすねたのを思いだし、そ

 の報いが今来たのかと想いつつ黙々とふらつく身体を支え乍運んだ。しかし余りの重さ

 に耐え兼ねて途中で腰砕けになり座り込んでしまう者もいた。チェンマイ兵站病院では

 入院中もこれといって治療をしてもらうでもなく、使役に出るか唯食って寝るだけの毎

 日であった。





 120 終戦


  八月十五日になり病院から再度の患者全員に集合がかかり院長から昨日、日本は無条

 件降伏した事を知らされた。長かった戦争は遂に終ったのである。既に泰国軍の情勢が

 不安となっており何時逆襲してくるかわからないため、その対策として患者を狩り出し

 道路の要所に陣地を構築して防禦の準備をした。幸い、そのような泰国軍の行動もなく

 遂に終戦を迎えた。





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2011.10.14.