柴原廣彌の遺稿 25

 
  
121 退院教育隊入隊

  八月二十一日マラリヤも何とか治癒して病院を退院し即日、体力回復のためチェン

 マイ第二教育隊に入隊をした。同日退院した兵が一団となり徒歩で移動し入隊したが、

 中支以来のマラリヤとの付き合いもこれが最後となった。途中、第二機関銃中隊長の

 大森正道大尉が通って行くのを遠目に見たが、武村大隊長への預かり物の煙草とミカ

 ンの缶詰を届けられなかった事を移動中のため伝える閑もなかった。この教育隊はラ

 ングーン体力鍛錬所と同じく退院兵の体力鍛錬をする所で、毎日駈足や体操で激しく

 鍛えられ、指揮官は退院の将校が交替で当たり酷しい事はこの上もない。



  海軍の福留中将が内地へ連絡に行って来てその情報が印刷物にして貼り出されてお

 り、広島と長崎に原子爆弾が投下され廃墟となり、国内の主要都市の殆どは爆撃され

 た等の掲示であった。




 
  122
 部隊追及

  八月二十五日、健康を取り戻し教育隊を退所し、祭部隊関係の将兵約三十名程が一

 隊となり部隊集合地に向かって出発をした。上官は三中隊長の池田一道中尉、一機の

 平元直一郎准尉、強田中尉、畑実軍医少尉、工兵隊の山田少尉がいた。中でも畑実軍

 医とは追及途中サガインの現地人床屋で会って以来である。チェンマイ駅から鉄道沿

 いを歩いて南方へと行軍を続け、途中、山間の駅では駅長が一人何をするでもなく、

 米粉を練って油で揚げ砂糖をまぶして甘みをつけ売っているのを見た。軍票を持って

 いる者は殆どいなく、それぞれが少々の物と物々交換して食った。何日歩いたか覚え

 はないがやがて隊はランパンに着き、そこは未だ兵站が活動していてこの地で待機す

 る事になり、兵舎は竹造りで屋根は葦やチーク葉で作ったテッケと云うもので葺いて

 あり、未だ雨季のため所々で雨水が漏れ室内はジメジメとして湿気が多く住み心地は

 良くなかった。



  この兵舎に住み始めてから私は歯痛で頬が腫れ兵站の歯科へ水筒をさげて二、三日

 程治療に通ったが、この歯科では歯科医と経験のある衛生兵が早急治療で次々と治療

 を行っていた。治療の帰り道に現地人の露店でコーヒーや米粉のうどんを売っていた

 ので食ったが、肉汁に牛乳を入れたうどんは大変美味かった。現地人がコーヒーを飲

 む時は、コップから一旦皿に入れ替えて皿で飲むのが習慣の様である。宿舎の傍へ現

 地人が果物を売りに来るが銭が無いから物々交換をする。他の部隊の兵が拳銃を売っ

 たところ銭を受け取らないうちに拳銃を渡したため、逆にその拳銃を突き付けられ結

 局は銭を貰えず、えらい目に会ったとの噂が伝わってきて、この話しを聞き私は小畑

 君とチェンマイへ後送の時に銃を売らなかったのは間違いでなかったと確信した。



  数日ランパンで過ごし、ここからメナム河を民船で下り途中で夜になると要所の河

 港で停泊し、昼間だけの運行であり戦争中とは全く逆であり益々終戦を実感した。夜

 はそのまま船中で泊まったり陸上に仮設宿舎のある所ではそこに上陸して泊った。一

 行の中には将校、下士官、兵等色々おり酒の好きな者も多くいて、何処で交換して来

 るのか現地酒を求めて来て毎晩のように酒宴を開いていた。船の都合で同じ港に二、

 三日逗留する事もあり、雨季で河は増水していて川幅も随分広くなっており、陸地は

 徐々に水に浸かって来て上陸出来ないと、水上バザールが小舟で多くの果物等を売り

 に来る。これらの者は大抵が華僑であり、言葉がわからぬ時は筆談で意思の疎通をは

 かる。夜になると方々の民家で吹奏楽か打楽器かわからぬような良い音色の音楽が聞

 こえてくるので、それを聞くのが日課となった。



  ある日、歳をとった華僑が我等の乗船に寄って来て「今、日本は戦に負けたが、こ

 れからの日本は中国と手を携えて共存していくので益々繁栄するであろう。兵隊さん

 はこれからもがんばってください」と流暢な日本語で語っていた。この人は以前名古

 屋市に行った事があるそうで、バンコックよりも良い都市であるとも言っていた。こ

 れは支那人特有の上手を言ったのか、それとも昔から智徳の優れた中国人なのか判ら

 ないが、敗者の日本人には誠に嬉しい慰めと励ましを言ってくれた。また現地人は歌

 や踊りが大変好きで、何でもよいから船の舳で歌って踊ると老婆等は大変喜んで果物

 や食物をくれるのである。何処の兵站宿舎であったか記憶はないが十数日逗留した宿

 舎は、テッケ葺きの竹造りで雨漏りのひどい建物であった。この地までは各自それぞ

 れの兵器を携えていたが、ここで武装解除となり兵器と称する物はすべて返上した。

 現地人は危険な世情のため、どんな武器でも欲しがって拳銃等を内密に購入しようと

 していた。食べ物の財源として売り飛ばす者もいて、それでも何とかして逗留中に酒

 や果物を求めてくる。ここを出発してからも航行しては逗留と繰り返し乍、メナム河

 を下る旅を約二ヶ月程も続けた。





  123
 ナコンサワン着・工兵第四連隊へ転属

  十一月十二日ナコンサワンと言う町に船は到着し、ここで軍命令により全員が歩兵

 第五十一連隊から工兵第四連隊に転属となった。この部隊は大阪編成であり第一、二、

 三中隊と器材小隊の編成のところへ、我等転属兵は器材小隊と併せて特設第四中隊と

 なった。連隊長は平松順一大佐で第四中隊長は中村中尉である。部隊編成替後ナコン

 サワンに駐留する事になったが、これから先はどうなるのか全くわからないが、皆は、

 いずれ内地に帰れる希望を持って毎日を過ごした。ナコンサワンには他の部隊も多く

 居るようであり、噂によると内地は悉く爆撃を受けて見る影もないとか、また男子の

 すべては米国軍によって睾丸を抜き取られ、子孫の絶滅を計られるのだとか色々とデ

 マが流れた。我々はまず兵舎造りをする事になったが、工兵隊は建築ならお手のもの

 で器材も揃っており、建築材の孟宗竹を切ってきて縄で組み合わせ、合掌組みに屋根

 を造り竹の柱に竹の床の兵舎を建てた。それぞれが作業を分担し、我々散兵の素人は

 茅を切ってきて屋根用のテッケ造りを分担した。始めはいかにも一見素人造りの変な

 出来上がりだったが、段々と馴れて上手に造れるようになり数日の間に四棟程を完成

 させた。



  この辺の土地もビルマと似ていて良く肥えており、木の根は横に浅く這っていて枝

 は良く伸びて大木が多いが粗材である。強い風が吹くと大木でも簡単に倒れてしまい

 根の跡は十坪程になり、大木が倒れて枯れ朽ちると跡形も無くなる。そこに多くの茸

 が生えるが、内地の茸とは種類も違い気候の暑さで一年中生えている。始めは毒茸か

 と思い誰も食わなかったが、誰が始めに食ったか知らないが、勇気のある者が居たの

 か腹がへって我慢が出来なかったのか、食えるとわかると皆が一斉に競って食い出し

 た。また食べる事ではこんな出来事があった。ある夜一人の兵が河岸で涼んでいたと

 ころ、大蛇と出くわして慌てて逃げたが蛇は兵舎まで追いかけて来て、兵舎の床下に

 潜り込んだので皆が出てきて大騒ぎとなり、煙で燻し出して出てきたところを叩き殺

 して、幾切れかにぶつ切りにし皆に分配して焼いて食ってしまった。蛇にとっては腹

 をすかせた人間がたくさん居るとんでもない所へ迷い込み、えらい災難だったのであ

 る。



  ナコンサワンには後続の諸部隊も続々と集結して来て各々兵舎造りに一生懸命であ

 る。はからずもマンダレーとサガイン間のイラワジ河渡河に従事していた渡辺部隊の

 西野少尉も到着し、その奇遇に驚きお互いの無事を喜び合った。各部隊とも落ち着い

 てくるとお国自慢の演芸会が催され、我が工兵隊は大阪の部隊なので芸人や職人も多

 く、他の部隊と違って大規模な装置から小道具まで造り素人離れした優れたものだっ

 た。



  兵舎の営門には衛兵所があり歩哨は表と裏に棒を持って立哨していて、私は裏門に

 立哨中ふざけて棒を振り回していたのを折悪く平元准尉に見つかり叱られた事があっ

 た。



  十二月一日付けで私は工兵隊において終戦後の兵長に進級し、マラリヤによる入退

 院の繰り返しのための万年上等兵から漸く脱する事ができた。





  124
 ナコンナヨーク抑留

  ある日突然移動命令が出て、十二月九日連隊全員が民船に分乗してナコンサワンを

 出発し、何処へ行くのか知らされないため全く行き先はわからなかったが、河やクリ

 ークを航行しその間の食事等はどのようにしたのか全く覚えはないが、十二月十四日

 ナコンナヨークという所に到着した。ここが抑留地で一応兵舎は竹造りで数棟あった

 が、これだけでは部隊全員が入るには不足だったので早速兵舎の増築に取りかかった。

 この辺は三方を山に囲まれた平地ではあるが、雑木が繁っており建築場所の伐採に相

 当手間がかかった。雑木を切り広げると木陰に蝙蝠が群れをなしていて、逆さにぶら

 下がっているのを見てびっくりしたり、また麝香猫を捕らえて飼育している者もいた。

 山に入り孟宗竹を切ってくる者、チークの葉を集める者、バナナの繊維を取って縄を

 作る者、竹を細く切りチーク葉を巻いて屋根用のテッケを作る者等、全員が分担して

 建築材料を造り孟宗竹で合掌造りの棟上をした。次は竹を割って広げ床を造り側面の

 囲いをして兵舎が出来上がった。兵舎が一応完成すると次は将校宿舎の建築に取りか

 かり、特に連隊長宿舎は純日本式にして襖まで入れ囲炉裏を切り贅沢な造りであり、

 兵は嫌々ながら不平を言いつつ建築をした。次に構内の整理をし道路や公園等の工事

 を行ったのは、兵の体力鍛錬を目的としているとの事である。



  連合軍からはあまり指示された作業はないが、時には道路補修や宿舎建築等で使役

 として徴用されたが、工兵隊は本職の者が多いので作業は順調に完成した。抑留地で

 の娯楽のため演芸館を造ることになり、全員が工事に係わり舞台と楽屋だけの大きな

 劇場が完成した。見物席は野外で音楽、芝居等の希望者を募り毎日練習をし、時々公

 開演芸をして全員の楽しみとした。ギターやバイオリン等、楽器までも器材で自家製

 を作り背景や襖等もそれぞれの職人がいて、それに植物の繊維を取って鬚を作り木綿

 で仕立て屋が着物を作る等、果ては三味線まで作っていた。大阪部隊の特長というか

 芸能人が多く芝居にしろ落語、講談、漫才等には素人でも熟練した者がおり練習を重

 ねて劇団を組んでいた。また時には小唄や漫才の講習会等も開かれた。このような演

 芸館は各地の抑留地でも、幾つも造られたそうである。



  構内中央にロータリーが完成した記念演芸会では、畑実軍医が伊勢のお家芸である

 伊勢音頭を、歯が抜けた口をパクパクさせ乍披露をしていた。また野球、相撲等も盛

 んに開催され他の部隊との対抗試合を何度も実施された。



  諸材料にする木材は方々に大風で倒れ転がって枯れた大木がたくさんあるので、大

 鋸で製材するため木挽き班が出来て作業をした。木挽きと相撲選手は体力を他より使

 うとの事で、特に食料が一般より多く支給されたので、飯食いたさに木挽きに志願し

 た者もいた。私は県の職員としての官職が農林主事補だった関係で農業方面の作業が

 適当と見なされ、それこそ畑違いではあるが紙製造班に廻された。紙製造班では大和

 方面出身の大江伍長が長となり、もう一人、工兵隊ではお虎様と言われて皆より親し

 まれ、応召前は新宮駅に勤めていたと云う極おとなしい女性的な人との三名で紙作り

 をした。我々が作った紙は芝居の背景や襖等に使用されたが、主な目的は内地帰還時

 の船中で使用する紙を貯蔵するためである。ジャングルを駆け廻ってミツマタの木を

 探し切り出してきて、ドラム缶で煮沸し皮を剥いで小川で洗い木槌で叩いて紙漉き作

 業をする。原木採集のためジャングルに入ると、現地人が米粉の押し菓子を作って売

 りに来ており、物々交換をして買うが交換をする品物も無くなってくると皆は色々と

 考え、ズボンの紐をほどいて糸巻きに巻き付けたり、または防蚊香の表面にメンソレ

 ータムを薄く乗せるとか、洗濯石鹸の表面にラックス石鹸を溶いて塗り偽物を作って

 交換に行ったりする者がいた。



  工兵隊は軍隊の中でも余り柄が良くないが、この第四連隊ともなると特に質が悪く

 賭博や盗難は常のことで、わずかに残された被服補修用のミシンも知らぬ間に盗まれ

 消えてしまった。時々各部隊の兵が行方不明となり、捜索隊が出動するが結局わから

 ずじまいになる。私等紙製造班がミツマタの木を探して山中を歩いている時、不明者

 の捜索をしている憲兵に出会い色々と話しをしたが、泰国人が日本人の優秀さを見込

 んで日本人系の子孫を望むため、自分の娘との結婚を目的として逃亡を進めていると

 の噂があると聞き、その憲兵は伊勢市出身と言っていた。連合軍将兵が巡察にくると

 一斉に敬礼をして迎えなければならず、若し欠礼でもしたらえらい事になる。グルカ

 兵や黒人兵は敬礼をされると勝ち誇った喜びで得意になっている。一人でも失態があ

 ると、全員の内地帰還が延期されるとかの噂で部隊全員が恐々としていた。



  戦犯容疑者を捜していて氏名を公表するが、そういう者は既に変名を使用するとか

 色々な方法で隠れてしまうと聞いている。またその反面俘虜当時日本兵に親切にして

 もらったので、礼をするため氏名を発表して探しているのもあった。何時帰還が出来

 るか解らないが帰れる見込みが有りそうなので、掲示板に出された福留中将の内地の

 情況を見ては、自分の郷里は大丈夫だろうかと皆が心配していた。



  平松連隊長は随分恐ろしい人で何時も杖を持っていて機嫌が悪いと、それで兵を殴

 り飛ばすと云う無茶苦茶な大佐であり、連隊長の姿が見えると始めに見つけた者はピ

 カドン(原子爆弾の俗名)が来たぞとささやいて、その声が次第に伝わり兵は警戒を

 する。しかし花柳病の罹病者で毎日医務室に通って治療をしていた。部隊全員を集め

 て訓示をした時は、天皇陛下が終戦に際し自分は現ツ神ではなく人であると言った事

 につき、幼少から軍人精神を叩き込まれて軍隊生活一途で来た連隊長としては、どう

 しても納得のいかないようで繰り返し話すが、聞かされる我々兵は連隊長の話す意味

 がさっぱり理解できなかった。



  この地方には蝋石と言って質が軟らかくて、磨くと良い光沢の出る石が産出するの

 で使役に出た時は、その破片を拾ってきてパイプや印材を作る者もいた。こうして毎

 日を送っていても井の中の蛙で、今居るナコンナヨークという所は泰国のどの辺か位

 置もわからない。



  五月になると愈愈内地帰還の日が近くなって来たのか、今迄自分等で建てた兵舎や

 演芸場、公園等も皆順次取り壊し焼却するよう命ぜられた。五月二十六日には連合軍

 による所持品の検査を受け帰還の準備が始まった。検査をするのは印度兵で欲しい物

 があると、あらかじめ目をつけておき没収してしまう。連隊長が腕時計を取られたと

 言っていたが、将官等は連合軍に話しを付けて返してもらったようである。検査が終

 わるとナコンナヨークを行軍で出発し、五月二十七日プラチャンブリに到着した。こ

 こで一泊して五月二十八日汽車便で出発し、夜半にバンコック集結地に着いた。舎外

 には連合軍歩哨が着剣をして警備をしているが、彼等は日本軍を恐る恐る監視をして

 いた。バンコックは忘れもしない二年前自動車事故に遭った地である。



父 柴原廣彌の遺稿へ

2011.10.14
.