柴原廣彌の遺稿 26

 
  
125 内地帰還バンコック出発

  昭和二十一年五月二十九日夢にまで見た内地帰還が現実となり、米国製のリバティ

 型上陸用舟艇に乗船しメナム河を下って一路帰国の途についた。メナム河の両岸には

 南方特有の川辺に樹木が繁り、その河岸風景を眺めつつ大海に出ていった。途中補給

 のためサイゴンに入港しサンジャックのコンクリート製パイロット船は、中支から転

 戦してきた三年前と変わりなく停止していて、あの時生きて故国に帰れるなどと思っ

 ていた兵は何人いたであろうか、また日本がこの戦争に負けるなどと兵は誰も思って

 いなかったであろう。三年ぶりのサイゴンへの遡航であるがメコン河の両岸は当時と

 一変していて、撃沈された艦船が何隻となく横転したり沈没したりして変わり果てた

 情況である。サイゴン埠頭に繋船し二日程停泊したが、現地人は小舟で帰還船へ寄っ

 て来て果物等を売りに来る。船上から釣瓶に銭や交換物を入れて下ろしてやると、そ

 れに果物等を入れてくれるので引き上げる。売買等は禁じられているが皆なんとかし

 て食い物を求めようとしていた。



  補給も終わりサイゴンを出航し、またメコン河を下って外海に出て一路内地へ向か

 っての航海が始まった。上陸用舟艇と云ってもあまり速力は出なく、乗組員は皆日本

 人であるが上級士官を除くと他は無頼漢のような者ばかりである。ある日一人の兵が

 夜中になって顔から血を流して船室に帰って来たので、どうしたのかと聞いてみると

 船員と賭博をして、そのイザコザから喧嘩となり船員に殴られたらしい。



  途中幾多の日本輸送船が沈められたバシー海峡を通過する時に南方に陸地を見ただ

 けで、その後は点々と名も知らぬ小島を見たほかは広大な海原ばかりである。飛魚の

 群れが燕のように飛び出すのを見るのが、中支から南方へ転戦した時と同様に楽しみ

 であった。航海中は暑くて皆裸のままであり、抑留中に我等紙漉き班が作った紙は数

 十枚宛が各自に分配されて、便所用に使用されて皆喜んでいた。十数日間の航海を経

 た、ある日に甲板にいた兵が突然「陸だ陸地が見えるぞ」と大声で叫ぶのが聞こえた

 ので、皆が一斉に甲板に飛び出してみると波の彼方に微かに陸地が見え隠れし、はじ

 めうっすらと見えていた陸地が段々くっきりとしてきた。あれは九州か四国それとも

 本州かと誰も沖から本土を見た者はいないので、どうにも解らず船員も口止めされて

 いるのか教えてくれず、誰かが「船に乗っていた者はいないのか」と言うと「そんな

 者は皆海軍だろう」などと話し合っているのを聞き乍、ビルマで戦死した船員だった

 里美喜男君や木崎松雄君を思い出した。里美喜男君は三等機関士の免状をもっていて

 船員であったが陸軍に召集されたのだったと思いつつ、近づく陸地を眺めているうち

 に海岸から少し上がった雲間に一本の白い線が見え、あれはいったい何だろうと皆が

 思案しているうち一人の兵が「わかったぞ、あれは滝だ那智の滝だ」と叫んだ。そう

 するとその下に見えるのは新宮の町で、右に続く海岸は七里御浜である。なんと云う

 事か今見えているのは紀州半島(紀伊半島)ではないか。紀州半島ならば東へ木之本、

 尾鷲と続き郷里の浜島のある志摩半島はすぐである。輸送船は志摩半島へ向けて航行

 し英虞湾の入り口にある郷里の浜島や、母の実家がある隣村の和具沖を通過する時は

 殆ど陸地近くを航行したので、ここからならば泳いででも行けると帰心矢の如しで気

 持ちは流行りもどかしい程で、このまま海に飛び込み泳いで帰りたい気持ちに駆られ

 たものである。志摩半島を通過する頃イルカの群れ数十頭が、この太平洋で大戦争が

 あったのを知らぬように伊勢湾方面へ泳いで行くのが見られた。やがて志摩半島が徐

 々に遠ざかり、全身の力が抜けボーとしていると、船は伊勢湾口を横切り渥美半島か

 ら静岡県に進み、富士山の容姿を駿河の沖合いから眺めつつ気をまぎらわせていた。

 相模湾を通過する時には小型の鰹船数隻と行き違い、台湾の高雄港での鰹釣の水産試

 験調査船を思い出した。



 
  126
 浦賀港着

  六月十四日我々の輸送船はついに浦賀に入港した。昭和十五年十一月十八日宇品港

 を出航以来五年半ぶりの内地である。しかし輸送船はすぐには着岸せずしばらく港内

 で待機するらしく、その間全員に葉書を一枚宛配られ郷里の家庭へ帰還の知らせを書

 いて送った。上陸地点を眺めると何か白い煙のようなものがモウモウ立ち込めていて、

 たぶん外地からの帰還兵に対する検疫であろう。浦賀港では何か今まで聞いた事もな

 い童謡のような郷愁を誘う歌が拡声器から流れ続けていた。



  六月十五日、私は船上で陸軍伍長に進級し善行証書も併せて付与された。戦争は終

 わったとはいえ半年で二階級も進級し、兎にも角にも一応下士官となり何か大盤振る

 まいの感である。



  六月十九日浦賀に入港してから五日目にして輸送船からようやく艀に乗り移って、

 相変わらず流れる童謡のような歌を聞き乍浦賀に上陸し米軍の検疫と所持品の検査を

 受けた。その後白い粉のDDTを頭から全身に振りかけられ、粉だらけの真っ白な姿

 になり内地の土を踏みしめた。この時は昭和十五年出征時宇品港の岸壁で、これが内

 地での最後の土かと軍靴で踏みしめていた兵士の姿を思い出された。この後、浦賀の

 復員宿舎に行き被服糧秣の支給を受け郷里までの乗車船券等を貰い、復員証明書を渡

 され復員手続きを終わった。兵の中には「ようするにこれで軍隊とは手切れと云うこ

 とか」と、皮肉交じりに話し合っている者もいた。これにて補充兵召集を受けてから

 六年におよんだ長く辛い日々ばかりが多かった軍隊生活は終了した。それにしても、

 流れ続けていた歌は何だったのだろうか、出征時のあの勇ましい軍歌とはあまりにも

 対照的な歌であった。



  郷里への出発を翌日にひかえた二十日の夜は、なにか不穏な気風が復員宿舎に漂っ

 ていたが、果たしてその夜は日頃から上官に恨みを持った兵が暴発し集団で将校宿舎

 に夜討ちをかけ、日頃威張り散らしていた工兵隊の各将校は踏み込まれ滅茶苦茶に殴

 打された様である。





  127
 復員完結

  六月二十一日、復員完結し馬掘駅から横須賀駅に行き、東海道線の汽車に乗換えて

 帰郷の途についた。汽車は復員列車の夜行であり、その客車の窓はほとんど破れてい

 て車内では席の取り合いで騒然として、彼方此方で争い口論が絶えず足の踏み場も無

 く動く事もままならず果ては荷物棚に上り寝る者もいた。騒然たる一夜を床に座った

 まますごし眠れぬまま汽車は早朝名古屋に到着し、そこで更に汽車でそれぞれの郷里

 へ向かう戦友等と、自分等は旅の安全を祈りつつ互いに手を握りしめ抱き合い「また

 何時か会おう、きっと会おう」「元気でな」「体に気を付けてな」と別れを告げて下

 車をした。名古屋からの乗り継ぎの都合で、電車は発車まで少し時間があったのでホ

 ームを歩いていると、駅売りが甘みを付けた寒天を売っていたので、私は長い軍隊生

 活で久しく食った事がなく懐かしく思い二個買って飯盒に入れた。そこへ時間待ちの

 兵が一度にどっとホームへ入ってきて来て、寒天売りを見つけるなり誰もが同じ思い

 だったのか、我先にと寒天を買おうとするのだが手の方が先になり、ホームは大騒動

 となってしまい売る人も駅員も何とも整理がつかず唯唖然としているのみだった。



  発車の時間が来たので名古屋駅から電車(現在の近鉄)に乗り、車内から次々に変

 る線路沿いの風景を眺めていたが、空襲のため焼け野原になった四日市市や、召集時

 見て廻った津市の変わり様に息を呑み、召集後三ヶ月間一期教育を受けた久居の町や、

 練兵場を車窓の近くに眺め懐かしさに声も出なかった。何度この電車に乗って郷里へ

 逃げ帰りたいと思った事かを回想しつつ、宇治山田駅に昼近く到着し駅前の食堂で外

 食券による大根飯の昼食を取ったが、物足らずもう一杯食いたかったが一人前しか売

 ってくれなかった。その食堂で電話を借りて郷里の家へ伊勢市に着いた事を伝えると、

 家では今朝浦賀からの葉書が届いたところで、いつ帰って来れるのだろうかと母は大

 騒ぎをしていると言って驚いていた。またこれから賢島まで家族皆で迎えに行くと父

 は電話口で話していたので、そのように迎えを頼んで電話を切り時間があったので新

 道迄行って、もう一食外食券弁当を食った。その後、市内を歩いていると偶然にも中

 支からビルマへと一緒に転戦してトングー、モチ道の敵進撃阻止戦で負傷し血塗れに

 なり乍も生還した同郷の柴原義廣君、児玉清二君、大西英夫君それに戦病死した橋爪

 慶二郎君の弟である橋爪三郎君に出会い、五人一緒になり伊勢市から汽車で鳥羽駅に

 着き、鳥羽からは更に乗換え昔懐かしい志摩電(現近鉄)の無座席電車に積め込まれ

 賢島に着いた。同級生の復員者も他に二、三名同乗していたが、一緒に浜島を出征し

 た橋爪慶二郎君の姿は、そこに見る事はなく寂しいかぎりである。また柴原貞男中尉

 をはじめ柴原喜多男曹長、谷口昇兵長、岡野弥比知君、柴原楠成君、柴原章君等戦死

 した方々の事を思うと、諸氏の顔が思い出され胸が詰まる思いである。



  賢島には自分の家のモーター船で父と母、妻子等が大勢で迎えに来ており六年ぶり

 に再会した長女、次女の成長に驚き「これが一宏か」と始めて見る長男に感無量であ

 るが、三人とも抱き上げるには大きく成り過ぎていた。モーター船に乗ってポンポン、

 ポンポンと懐かしく聞き覚えのあるエンジン音の響きを聞き乍、波静かな英虞湾を一

 時間ほどで横切り昭和二十一年六月二十二日午後、郷里浜島の親戚である弥四郎屋の

 近くの港に着き、港の土を踏みしめ無事我家に生存して帰還したのである。思い出せ

 ば出征時、広島県宇品港でこれが故国最後の土かと軍靴で踏みしめていた、あの兵士

 は無事に生還出来たであろうか。おそらく帰れず異国の土となったであろう。思えば

 昭和十五年十一月九日我家を出発してから足掛け六年間中支から佛印、泰国、ビルマ

 と長く辛い戦陣生活であったが、無事生還できたのは人より並外れた幸運と強運に恵

 まれた奇跡とも言えるものである。



 尚、どのような間違いか我等工兵隊の終戦日は、昭和二十年八月十四日となっている。


                 完





父 柴原廣彌の遺稿へ

2011.10.14.